黒バス(2012.10~2017.12)
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風に吹かれて前髪が揺れる。
今までならばさばさと顔に被さったものが、今では額を触るだけ。
大家族の長男であるらしい水戸部にお世話になって短くなった髪は、部内にもクラスにも大爆笑をもたらした。
「…そんなに変かな」
「いえ、変じゃないですよ。少しボクの小さい頃を思い出します」
「もーどういう意味だよ、皆して幼くなったって言う!」
「そのままの意味かと」
持っていた小さいお弁当を地面に置いて、黒子が真司の額に手を伸ばす。
ひらひらと指先で弄られ、真司は頬を膨らませてその手をパチンと叩いた。
「馬鹿にしてる!」
「してませんよ」
「してる!てゆか思い出したよ、テツ君中一の時前髪短くて可愛かったよね」
「君の可愛さには敵わないです」
「や、俺褒め言葉として使ってないからね!?」
いつもよりもニコニコと笑っている黒子に、ちょっと頬を赤らめて顔を逸らす。
「可愛い」だなんて聞き慣れた。今更嬉しくない、はずなのに。
「テツ君は、この髪型のが良いの?」
「いえ、そういうわけでは…どちらも君であることに変わりはないですし」
「…そ…」
そりゃそうだけど。きゅっと結んだ口元が緩む。
なんだか照れくさくて、真司はそっと手に持っていたパンを口に運んだ。
そして視線を上げると、対角線上に座っていた火神と目が合って。そしてあからさまに逸らされた。
「何、火神君」
「…お前等、場所と状況をだな」
「え?」
火神の意味深な発言にきょとんとすれば、その隣にいた日向が盛大な溜め息を吐き出した。
じとっとした目は火神に向けられ、腕は火神の肩に回される。
「今日は何だか空気がピンクだなぁ、おい」
「何でオレに言うんだよ!ですか!」
「テメェ同期で黒子の相棒だろが、何とかしろ」
何やら黒子と真司とは遮断されているかのような空気が辺りに充満しているような。
様々なことあって少し“鈍感さ”を失った真司は、さりげなく肩が触れそうな程近くにいた黒子から離れた。
「あーはいはい、そんなことより今日集まってもらったのは、次の休日に温泉に行かないかっていうことをね」
「温泉!?」
そんな空気を察してか、一人立ち上がったリコの言葉には、部員全員同様な反応を示した。
まさかリコの口から“温泉”なんて聞かされるとは。
「クラスメイトで親戚が旅館をやってる子がいてね、今はシーズンじゃないし格安でいいんだって」
「でも、ウィンターカップに向けての練習はいいんですか?」
「それを烏羽君に言われるとはねぇ」
「あ…」
自分のせいでこの前の週末も練習出来なかったのに。
という思いから口走ってしまい、真司は咄嗟に口を手のひらで覆った。
「烏羽君はともかく、他皆はその後ビシビシ行くからね!」
でも休日は楽しみましょう。
裏のない笑顔でそう言うリコに、皆嬉しそうに頷く。
けれど真司は、一人口を押さえたまま自分の迂闊さに目を閉じた。
心配かけたくないと思いながら自ら掘り起こしてしまうなんて。
「…はぁ」
「烏羽君?温泉は嫌いですか?」
「え?いやそんなんじゃないけど…」
黒子の何気ない問いに、びくりと肩を震わせたのは、日向と伊月だった。
「なんだ?烏羽はもしかして人と風呂とか苦手なタイプなのか?」
「いえそんなことは」
「だよな!良かった、伊月が一緒に入ったことあるって言ってたから羨ましいなーと思ってたんだよ」
「ちょ!木吉!」
何故かしーっと人差し指を立てて言う伊月に、黒子が目を開いた。
「いやでも、烏羽、オレ別に一緒に入った時に何もしてないよな!」
「は?」
「ほら、オレじゃないぞ!」
良く分からないことを叫ぶ伊月に、更に日向が頭を下げる。
そして、今度こそ何か本気で察したのだろうリコの拳がわなわなと震えだした。
「いざとなったら…烏羽君は女湯に入れるからね」
「え!?俺そこまで女の子ですか!?」
若干かみ合わないやり取りを交わして時が流れていく。
そしてそんな休日はあっという間にやってきた。
・・・
ちゃぷんと湯気を漂わせる水面が音を立てる。
ずるずると地面につけた尻を滑らせて、真司はそれでなくとも他のメンバーより埋まっている体を更に沈めさせた。
「あー…きもちいー」
ぐぐっと手を前に伸ばして、大げさにお湯の底に引き込む。
大人数入る、温泉ってやつは初めてだった。だからということもないが、何だかとても気分が高揚している。
「本当に女湯の方に連れてかれなくて良かったな」
「えー、ないでしょうさすがに…」
ニコニコと笑いながらそう言う木吉も、真司の隣で腕を縁に乗せてくつろいでいる。
似合う。というか、かなり馴染んでいるように見えるのは、彼の独特な“おっさん”っぽさ故か。
「なんか、な。ドキドキしてくるな」
「え?ドキドキですか?」
「だって今、お前も全裸なんだろ?」
そう言って、木吉が少し前かがみになって覗き込んでくる。
じっと、どこを見ているのだろう、目の悪さと湯気と相まって良く見えない。
「あの、俺、先輩みたいに良い体してないんで…」
「ん?そんなことはないぞ。細いけど、今までのトレーニングの成果は出てる」
ぺたぺたと木吉の手が真司の腹に触っている。
その手はするりと足の方へ降りて行って、真司の横から伸びてきた手に掴まれていた。
「木吉。さすがにそれ以上はセクハラだな」
「おいおい、男同士だぞ、なぁ?」
伊月の片手がぺしんと木吉の頭を叩く。
木吉の言う事はもっともだが、今更真司が“男同士”云々を気にするのもおかしな話だ。
というか木吉はこの前真司を「好きだ」とか言ったが、あれは完全に友情の意志だったと思って良いということか。
「烏羽、お前な。嫌なら嫌って言えよ?」
「え?あ、いえ別に嫌ってわけでは」
「そうなのか!?」
伊月の声が少し嬉しそうに上擦る。
それはさておき、さすがに挟まれると恥ずかしい。
「そっか、そうだよな、嫌ってことはないか」
「伊月ー。お前こそなんか、やましい事考えてそうな顔してるぞ?」
「いや別にオレは」
「分かるぞ。烏羽は綺麗な肌してるしな」
そして会話も良くない方向に言っている気がする。
真司はいそいそと二人の間を抜け、向こうに浸かっていた黒子の横に移動した。
「テツ君、隣いい?」
「どうぞ」
いつもよりぽわんと緩んだ顔をした黒子の肩に肩がぶつかる。
やっぱりここが安心するな、なんて。
真司は再び手と足を伸ばし、黒子の方に体を傾けた。
「君はモテモテですね」
「なんてこと言うんだよテツ君まで…」
はーっと息を吐き出して、視線を遠くに持っていく。
隣の女湯の方から高い女性の声が聞こえてきて、でも大した興味もわかずに聞き流した。
洗い場ですくっと立ち上がり境目の板に顔を寄せる小金井の行動は、恐らく至極当然のものなのだろう。
…いや、どうかとは思うが。
「俺、考えたんだ。この先…俺に出来る事はなんだろうって」
「なんですか?ネガティブなことならやめて下さい」
「違う違う。すっごく前向きなこと」
黒子に言われて、思わずふふっと笑う。
確かに最近、自分はかなりネガティブだった。
「視界が狭くなったおかげで、ディフェンスに恐れることなく走れるのかなーとか思ったんだけど、でもそれは、皆にもっと心配かけちゃうでしょ?」
「…はい」
「そもそもそこまで試合に出たいとか、そういう風には考えてなくて」
少し前。自分の思い通りのプレイが出来た時は、本当に楽しくて。
それこそ、ずっと試合に出して欲しいくらいだったけれど、でも今は違う。
「練習には勿論参加するよ?でも、やっぱりどうしても心配かけちゃうと思うんだだから…」
「…」
「俺、リコ先輩に負けないくらい、皆のサポート出来るようになる。そう、決めた」
誠凛に、真司のような一人突っ走るプレイは向かない。
それが分かっているからこその決断でもあった。
選手としてではなく、自分に出来る事を。
「テツ君…どう思う?」
無言で話しを聞いてくれていた黒子に、その時初めて目を向ける。
しかし、真横にいたはずの黒子の姿はない。
「…え、…え!?」
小さく、ポコッという気泡が湯の中から湧き出た。
「テツ君!?」
「…逆上せちゃいました」
腕を掴んで引き上げると、真っ赤になった黒子がでろんと力なく顔を出す。
そのまま外に引き出そうとするが、真司の力では黒子一人持ち上げられない。
「か、火神君!手伝って!」
黒子一人持ち上げられない自分の筋力と。それから一人悠々と語っていた自分への羞恥心と。
そんなどうしようもない気持ちから、黒子を火神に運ばせながらも、真司はその後に続いて風呂場を後にした。
他に誰もついてこなかったのは、境目の向こうにいるらしい女子大生に夢中だったからだろう。
覗き見することに精を出している先輩達を、真司は若干安心するような気持ちで、でも絶対に関わりたくないという気持ちで見て見ぬふりをした。
「テツ君、大丈夫?」
とりあえず体を拭いて服を着て。
それからロビーに設置されていたベンチに黒子を寝かせた。
返事は小さく「はい」とだけ。脱力しきった黒子は部活後、激しい運動の後かのように呼吸を繰り返している。
「黒子、何か飲むか?」
「…じゃあ、ポカリを」
ベンチの真横にある自販機を前に火神が言う。
さりげない優しさを見せる火神だが、早々に温泉から出ることになってしまったことに対して少し不服そうだ。
「あ、売り切れか。しゃーねぇ、外の自販機で買ってくるわ」
「わー、火神君優しいね」
「うっせぇ。真司も何か飲むか?」
「え?じゃー…俺はお茶がいいな」
あいよと返事をして、火神が背中を向ける。
それを何気なく見送って、真司はくるりと黒子の方へ向き直った。
「テツ君、バテる前に声かけてよね」
「君の声…とても心地が良くて」
「はぁ?なんだよそれ、馬鹿かよ」
「馬鹿じゃないです…」
照れ隠しついでにぺしんとタオルを黒子の顔にかける。
ぐったりとしたままの黒子は抵抗せず、静かに息を吐き出した。
「テツ君のその、バスケ部とは思えない体の弱さ、なんなの」
「どこが弱いんですか」
「今の状況分かってないのかね、この人は」
けらけらと笑いながら仰向けになる黒子の腹に手を乗せる。
細くて弱弱しく見える黒子だけれど、筋肉だけはしっかりとついている。
しなやかな腹筋をちょいちょいと触りながら、黒子の腹に頭を乗せる。
くすぐったそうに揺れた黒子が面白くて、暫くこうしてやろうと真司は目を閉じた。
「ホラよ」
その声は当然のように上から降り注いだ。
とんと黒子の頭の近くに飲み物が置かれる。
火神と同じくらい低い声。けれど火神よりも少し掠れた甘い声。
「あ…青峰君?」
「よう、久しぶりだな、テツ、真司」
閉じた目は一気に開かれた。
ばっと顔を上げると、相変わらずの褐色肌に悪い目つきがそこにある。
「な、なんでここに!?」
「あ?いちゃ悪ィかよ」
「わ、悪かないけど…っ、」
突然のことで頭が全く回らなかった。
何か言いたい事が。何か、あるはずだ。
口をぱくぱくと動かして、床に膝をつく。そこから見上げると、しなやかな体は更に大きく見えた。
「…、あ、試合、見に来てたんだって、ね」
「あ?ああ…ったく、妙な無茶の仕方しやがって。怪我は」
「え!?あ、だ、大丈夫…」
「なかなか心配性ですね、君も」
「うっせ、テメェも相当だったろうが」
木吉にも聞いていたが、彼等に心配をかけ“大変だった”というのは本当なのだろう。
もしかして、心配して客席から降りてきてくれたりしたのかな、なんて他人事ではないがクスッと笑みが零れる。
「つか真司、お前最近ベンチばっかだろ。ウィンターカップまでにスタメン獲得しろよ」
「え、なんでよ」
「抜かれたの、かなりむかついたんだよ。次はさせねぇ」
次は、なんて言葉を今聞きたくはなかった。
浮かべた笑みを崩しそうになって、青峰からは見えないだろう角度へ俯く。
桐皇との試合、青峰を辛うじて抜けた最後。あれで救われたと言ったリコ。
思い出すと吹っ切れたとはいえ悲しくなってしまう。もう後戻りはできないし、思い返したところでどうしようも無いことだって分かっているのに。
「あ?なんだよ、怪我の具合良くねぇのか?」
「いや、えっと…」
真司の反応に青峰が怪訝そうに声を漏らす。
言うべきか、言わざるべきか。
迷いながら顔を上げると、それまで横になっていた黒子がベンチに腰掛ける形に体勢を変えていた。
「烏羽君、少し外してもらっていいですか」
「え?」
「ちょっと、青峰君に宣戦布告をしたいので」
真剣な目は青峰に向けられたまま。
真司はおずおずと立ち上がり、一歩下がった。
「ああ、テツ、お前の新技も見たぜ」
「はい。君達を倒すための技です」
「…、…」
話しを始めた二人に、その場にいるのが何故だか申し訳なくなって、真司はその場をそそくさと立ち去った。
やっぱり、言えない。もう公式の試合には出れないかもしれないだなんて。
自分が少しでも青峰に火を灯せたことが嬉しかった。黒子もそれに気が付いたのだろう。
「…はぁ…」
「…真司、お前なんつー顔してんだよ」
「うわ!?」
ぴとっと頬に触れた冷たさに、俯いていた顔をがばっと上げる。
両手にペットボトルを持った火神が、呆れた顔して真司を見ていた。
「火神君…」
「ほら、飲みモン。オレも挨拶してくっから、大人しく待ってろよ」
「え…」
「青峰、来てんだろ」
がしがしと乱暴に頭を撫でた火神が躊躇うことなく足を進める。
真司はそれを気にしながらも、これ以上に自分の状態を知られたくなくて一人外へ出た。
健康状態はむしろ良好だ。なのに、まともに試合は出来ない。
「…、なんで、今なんだよ…」
ずっと会いたいと思っている。けれど、今は会いたくなかった。
ぎゅっと冷え切ったペットボトルを抱き寄せてずるずるとしゃがみ込む。
「…」
「あれ?烏羽君?」
そんな真司を覗き込み、隣に来たのは桃井だった。
まさか青峰と二人で来たんじゃなかろうなとお門違いな事を考えながら顔を上げる。
「桃井さん。さっき青峰君にも会ったけど」
「あ、丁度この辺で練習試合があってね、誠凛がいるって聞いて来ちゃった」
「あー、そうだったんだ」
自然の流れでスカートを押さえながら桃井が真司の横に座る。
そしてごそごそと横を向いて取り出した一枚の紙をこちらへ向けた。
「何これ?…ウィンターカップの、トーナメント?」
「そう。ここが誠凛で…ここが、桐皇」
「…嘘…」
桃井の細くて白い指がなぞる字を追って、ぽつりと漏らしたのは驚愕の一言だった。
「誠凛と桐皇って同じ東京じゃん、なんで」
「桐皇は特別枠だから、ちょっと例外なの」
「だからってー…」
桃井の手から紙を受け取って、じっと眺める。
どれだけ見ても変わらない。そこに記されているのは、誠凛の初戦の相手が桐皇だという事実。
「…烏羽君にとって、これが良いのか悪いのかは分からないけど」
「うーん…。俺はともかく…多分、テツ君と火神君は喜ぶんじゃないかな」
「そっか。そうかもね」
ふふっと桃井が笑う。
ウィンターカップ、最初に青峰と出来る。それは余りにも高い壁だけど、一番超えたい壁でもあるわけで。
真司は意味も無くじっと桐皇の文字を見つめて目を細めた。
「ねぇ烏羽君。今私が何してるか、気付かないの?」
「え?」
桃井の声に再び目を紙から逸らして桃井へ向ける。
すぐに視界に入ったのは、人差し指と小指だけを立てて、キツネだがネコだかをかたどる桃井の手。
「烏羽君、右目…見えてないんだ」
その手の向こうで桃井が悲しそうに顔を歪ませていた。
気付いた時にはもう遅い、桃井は初めから何となく気付いていて真司の隣に座ったのだろう。
ほとんど見えていない、右側に。
「…見えてない、っていう程じゃないけど…」
「でも、バスケは出来ないよね」
「うん…まあ、そういうことになる、かな」
「青峰君には?」
「い…言ってない…ていうか、言わないで欲しい…」
桃井の立場的に、相手校の戦力の情報を黙っていてもらうというのは難しいと分かっていながら、祈るように両手を交差させる。
桃井はどう思ったのか、視線を降ろして小さく息を吐き出した。
「…いくら鈍感な青峰君でも、隠し通せるものじゃないと思うけど」
「そうなんだけど…でも、気付かれるまでは…。青峰君の期待、裏切るの、ヤで…」
腕に裏切ってるのだけれど。
ウィンターカップ初戦でぶつかるというなら尚更、それまで、その時まで。
「…まぁ、それはともかく!いろんな人に言われてると思うけど、もう無茶しちゃ駄目だよ」
「え、あ、うん…ごめん…」
「あんな大ちゃん久しぶりに見たもん。あんな大きな声で…あんな切羽詰まった顔して」
思い出すように今度は視線を上げて言う、その桃井の横顔を見つめる。
綺麗な横顔、女性特有の顔のラインと睫毛の長さ。
そんな彼女を見て抱くのが、彼と近い存在である彼女への嫉妬心だなんて。
「大ちゃん、烏羽君が思っている以上に烏羽君の事すごく大事に思ってるんだからね」
「そう、かな」
「うん!だから…信じてあげてね」
さすが女の子、ポンポンと言葉が出てくる。
ころころと表情を変えて話す桃井に、いくら嫉妬心があろうとも真司の頬が緩んだ時、はっと桃井が目を開いた。
「って、私今、青峰君のこと大ちゃんって言ってた!?」
「え?うん」
「違うよ、普段そんな風に呼んだりしてないからね!」
ばっと立ち上がって恥ずかしそうに頬を赤らめる。
スカートが揺れて、ひらりと白い肌が見えて、思わず視線を逸らしたのは当然の反応で。
けれどどこかで女性にしかない武器を持つ彼女を羨ましく思う自分が嫌だった。
・・・
・・
真司が何を考えて試合に出ているのかなんて、考えもしなかった。
当然のようにバスケに向かって、自分に向かってくるものだと思っていたから。
『…真司!』
ばたんと床に倒れたまま起き上らない真司に、その声は自然と大きくなっていた。
自分の声がまだ反響している中、段差を駆け降りてコートへ足を着く。
後ろで自分を呼び止めようとする高い声など聞く耳を持たず。
状況が状況なだけに、普段なら違反であるこの行動に咎めるものは誰もいなかった。
『…っ』
皆が蒼白としている。それは自分も同じだった。
真司のキラキラと光る髪に赤が流れている。
あれは、なんだ。真司の晒された顔を伝う赤は。
『…真司』
何度目になるか、彼の名前を呼ぶ。
その声にこちらを向いた黒子の目も、いつもより見開かれ、顔も酷く歪んでいた。
『あ、青峰、くん…』
『何してんだよ…おい、担架早く持って来い!!』
倒れたままの真司に近付いて膝を折る。
その青峰の行動に、ようやく黒子の時間も動き出したようで、青峰の横に膝をついた。
『っ…ボク…気付いていたのに…、烏羽君が、何か、危ないことに…』
ぐしゃぐしゃになった顔で真司を見下ろす黒子に、熱くなっていた顔が冷えていく。
冷静になった頭で真司を見れば、その状況の悪さに気付くだけ。
『テツ、テメェは試合に集中してろ』
『…ボクは…』
『オレが、真司を見てっから』
担架に乗せられた真司の赤い顔を見下ろし、その動きに合わせて立ち上がる。
オレ達も、と言わんばかりにベンチにいた誠凛のメンバーが足を進めたけれど、青峰の眼力に負けたのかついて来ることは無かった。
『青峰君、貴方は客席に戻って…こんな事まで他校の人に任せるわけには』
『うるせぇ』
監督の言葉をも遮って真司についていく。
いつだって真司の一番は自分だった。
真司の傍にいるのは自分であって当然だと、本当は今でも頭の隅にある。
『アンタ等は試合に勝つことに集中してればいいんだよ』
『っ、でも』
『いーから、真司はオレに任せろ』
本当は今でも真司の隣にいるのは自分のはずで。
きっと、自分が隣にいればこんなことにはならなかった。
『他の奴になんか…』
芽生えた思いが加速する。
吐き捨てるように呟いて、青峰は真司と共に姿を消した。
・・・
・・
「おー、こんなとこに居ったか」
桃井を見送って何となくその場に残っていると、上からひょうひょうとした声が聞こえて顔を上げた。
「…今吉さん…こんにちは」
「何やその顔。嫌われたもんやなぁ」
すらりとした身体に、細い目。
海常と桐皇の試合の時にはお世話になったというか、なんというか。
真司はおずおずと立ち上がり、小さく頭を下げた。
「嫌われ…って、そうなるようなことをしたのは、誰ですか」
「ん?ワシかいな」
「そうでしょうよ…」
しらばっくれながらも、ニヤニヤとする今吉は、やはり嫌な事を考えていそうだ。
警戒して一歩下がるが、目の前に迫る彼から逃れる術が見つけられない。
「あの…」
「ん?どないしたん」
「いえ、近いんですけど…」
見覚えのある展開だ。
と気付いたのに既に遅く、とん、と今吉の手が真司の横の壁に伸ばされた。
「怪我の方は大丈夫そうやな」
「は…」
「花宮の奴に狙われたんやろ?いやぁ、気持ちは分からんでもないけどやりすぎは良くないわ」
何をどこまで知っているのか、もう片方の今吉の手が真司の右目辺りに触れる。
びくりと体が震えたのは、その怪我の記憶とぼやける視界による情報のなさ故の恐怖のせいだろう。
「あーあ。体震わせて…小動物みたいで可愛ぇのう」
「い、いい加減にして下さいっ」
いちいち癇に障る人だ。というかどこまで本気なのかも良く分からない。
今吉の腕の隙間の抜けて出ようとすると、もう一度どんっと腕が目の前の壁を叩き行く道を塞いだ。
「いーこと教えたろか」
「…?」
「お前さんの好きな青峰のことや」
しかし行動と言葉との一致のしなさは何なのだろう。
真司は警戒しながらも、目を丸くして今吉を見上げた。
「青峰君とはさっき会いましたよ」
「そら話早いわ。なんや青峰がお前さんの事をかなり気にしとってなぁ」
「え…」
やはり話しの流れが読めない。
困惑に身を固めていると、その固くなった肩に今吉の手がとんと乗せられた。
「青峰の為に桐皇に来るってのはどうかと思ってな」
「はあ…?」
「どうやら青峰はお前さんが気になってしゃーないらしい。ウチならあんな無茶させへんしな」
ここに来て黄瀬みたいな事を言う人が増えてしまった、と思えば可愛いものだが、この男は何とも扱い辛い。
首を縦に振る可能性の無さをどう伝えたら良いか、真司は視線を泳がせながら口を開いた。
「…そういう無茶、言う人だと思いませんでした」
「いやぁ、無茶言いたなるほど欲しいんやって」
怪我の事実を知らないからか、本当に実力を認めてくれているのか。
いや、多分そういう事を言う人ではない。
真司は今吉の手をペチンと叩き、きっと睨みつけた。
「貴方は俺が欲しいんじゃなくて、更に実力を発揮する青峰君が欲しいだけじゃないんですか」
「ほー?自分がいることで青峰がもっと強くなる、分かっとるんやないか」
「青峰君はそんな簡単な人じゃないと思いますけど」
青峰は中学の時、どんなに説得しても駄目だったのだ。
今更変化を望むなど、自分の存在で青峰に変化が起こるなど有り得ない。
けれど、どこかでその事実を望んでいたのだろう。
「そないに悲しい顔するくらいなら…ウチに来い」
な?ともう一度念を押すように言われる。
迷いなんてあるわけがない。今誠凛の役に立つと決めたばかりだ。
たとえ青峰がいようとなんだろうと、自分には関係のない話。
「…ほんまに可愛いなぁ…そないに青峰が好きか?」
「ちが、います。そんなんじゃないです」
「ん?」
青峰が自分を心配してくれていて、看ていてくれて。その事実がどれ程嬉しかったか。
そしてそんな事実に揺れ動く自分の思いに嫌気がさす。
そしてそれが事実だと、信じたい自分にも。
「…勘違いしてるんですよ、貴方は」
「お、急にどないしたん」
「青峰君が、俺の事なんて気にしてるわけがないんです、俺のことなんて…!!」
いつから青峰の心が自分に向いているのだと思うようになったのか、自分でも覚えていない。
いつか気付いてくれると信じて追いかけることを止めたけれど、そんな事実を証明するものは何もなかった。
「青峰君は…いなくなったんだ、俺の前から…」
いなくならないでと言ったのに。
「青峰君は俺のことなんか好きじゃなかった、気にしてなんかいなかったんだ…!」
そう叫んでしまえば、それが事実になる。
結局何もなかったのに、勝手に疑うことを止めていただけだったのだ。
きょとんとしている今吉の緩んだ腕を押しのけて、真司はその場から逃げ出した。
「真司」
「…!」
いつからそこにいたのか、狭い入口で大きな体とすれ違った。
名前を呼んだのは、低く掠れた大好きな声。
真司はそれに気付かないフリをして、息を吸い込んだまま来た道を戻って行った。
「うお!?」
どんっと顔からぶつかって、けれど声を上げたのは自分ではなくその壁の方だった。
「っと、真司。今呼びに行こうと…どうしたんだよ」
支えるように真司の両肩を掴んだその壁…火神が不思議そうに真司を覗き込む。
俯いたまま顔が上げられないのは、情けない顔をしている自信があったからだ。
「もしかして、青峰になんか言われたのか」
「…火神君、ごめん」
静かに謝罪をしてから、その大きな体に腕を回す。
やっぱり良く似ている。そう思った自分にまた嫌気がさした。
「お前…なんで青峰の事になっとそう、奥手なんだよ」
「そんなんじゃない…」
「嘘つくんじゃねーよ、つか…黒子がスゲェ目してこっち見てっから、怖ぇ、怖!んだよその目オイ!」
火神の声を聞きながら目を閉じる。
どんな目をしているのか知れないが、黒子の小さな掌が背中に添えられたのが分かった。
今までならばさばさと顔に被さったものが、今では額を触るだけ。
大家族の長男であるらしい水戸部にお世話になって短くなった髪は、部内にもクラスにも大爆笑をもたらした。
「…そんなに変かな」
「いえ、変じゃないですよ。少しボクの小さい頃を思い出します」
「もーどういう意味だよ、皆して幼くなったって言う!」
「そのままの意味かと」
持っていた小さいお弁当を地面に置いて、黒子が真司の額に手を伸ばす。
ひらひらと指先で弄られ、真司は頬を膨らませてその手をパチンと叩いた。
「馬鹿にしてる!」
「してませんよ」
「してる!てゆか思い出したよ、テツ君中一の時前髪短くて可愛かったよね」
「君の可愛さには敵わないです」
「や、俺褒め言葉として使ってないからね!?」
いつもよりもニコニコと笑っている黒子に、ちょっと頬を赤らめて顔を逸らす。
「可愛い」だなんて聞き慣れた。今更嬉しくない、はずなのに。
「テツ君は、この髪型のが良いの?」
「いえ、そういうわけでは…どちらも君であることに変わりはないですし」
「…そ…」
そりゃそうだけど。きゅっと結んだ口元が緩む。
なんだか照れくさくて、真司はそっと手に持っていたパンを口に運んだ。
そして視線を上げると、対角線上に座っていた火神と目が合って。そしてあからさまに逸らされた。
「何、火神君」
「…お前等、場所と状況をだな」
「え?」
火神の意味深な発言にきょとんとすれば、その隣にいた日向が盛大な溜め息を吐き出した。
じとっとした目は火神に向けられ、腕は火神の肩に回される。
「今日は何だか空気がピンクだなぁ、おい」
「何でオレに言うんだよ!ですか!」
「テメェ同期で黒子の相棒だろが、何とかしろ」
何やら黒子と真司とは遮断されているかのような空気が辺りに充満しているような。
様々なことあって少し“鈍感さ”を失った真司は、さりげなく肩が触れそうな程近くにいた黒子から離れた。
「あーはいはい、そんなことより今日集まってもらったのは、次の休日に温泉に行かないかっていうことをね」
「温泉!?」
そんな空気を察してか、一人立ち上がったリコの言葉には、部員全員同様な反応を示した。
まさかリコの口から“温泉”なんて聞かされるとは。
「クラスメイトで親戚が旅館をやってる子がいてね、今はシーズンじゃないし格安でいいんだって」
「でも、ウィンターカップに向けての練習はいいんですか?」
「それを烏羽君に言われるとはねぇ」
「あ…」
自分のせいでこの前の週末も練習出来なかったのに。
という思いから口走ってしまい、真司は咄嗟に口を手のひらで覆った。
「烏羽君はともかく、他皆はその後ビシビシ行くからね!」
でも休日は楽しみましょう。
裏のない笑顔でそう言うリコに、皆嬉しそうに頷く。
けれど真司は、一人口を押さえたまま自分の迂闊さに目を閉じた。
心配かけたくないと思いながら自ら掘り起こしてしまうなんて。
「…はぁ」
「烏羽君?温泉は嫌いですか?」
「え?いやそんなんじゃないけど…」
黒子の何気ない問いに、びくりと肩を震わせたのは、日向と伊月だった。
「なんだ?烏羽はもしかして人と風呂とか苦手なタイプなのか?」
「いえそんなことは」
「だよな!良かった、伊月が一緒に入ったことあるって言ってたから羨ましいなーと思ってたんだよ」
「ちょ!木吉!」
何故かしーっと人差し指を立てて言う伊月に、黒子が目を開いた。
「いやでも、烏羽、オレ別に一緒に入った時に何もしてないよな!」
「は?」
「ほら、オレじゃないぞ!」
良く分からないことを叫ぶ伊月に、更に日向が頭を下げる。
そして、今度こそ何か本気で察したのだろうリコの拳がわなわなと震えだした。
「いざとなったら…烏羽君は女湯に入れるからね」
「え!?俺そこまで女の子ですか!?」
若干かみ合わないやり取りを交わして時が流れていく。
そしてそんな休日はあっという間にやってきた。
・・・
ちゃぷんと湯気を漂わせる水面が音を立てる。
ずるずると地面につけた尻を滑らせて、真司はそれでなくとも他のメンバーより埋まっている体を更に沈めさせた。
「あー…きもちいー」
ぐぐっと手を前に伸ばして、大げさにお湯の底に引き込む。
大人数入る、温泉ってやつは初めてだった。だからということもないが、何だかとても気分が高揚している。
「本当に女湯の方に連れてかれなくて良かったな」
「えー、ないでしょうさすがに…」
ニコニコと笑いながらそう言う木吉も、真司の隣で腕を縁に乗せてくつろいでいる。
似合う。というか、かなり馴染んでいるように見えるのは、彼の独特な“おっさん”っぽさ故か。
「なんか、な。ドキドキしてくるな」
「え?ドキドキですか?」
「だって今、お前も全裸なんだろ?」
そう言って、木吉が少し前かがみになって覗き込んでくる。
じっと、どこを見ているのだろう、目の悪さと湯気と相まって良く見えない。
「あの、俺、先輩みたいに良い体してないんで…」
「ん?そんなことはないぞ。細いけど、今までのトレーニングの成果は出てる」
ぺたぺたと木吉の手が真司の腹に触っている。
その手はするりと足の方へ降りて行って、真司の横から伸びてきた手に掴まれていた。
「木吉。さすがにそれ以上はセクハラだな」
「おいおい、男同士だぞ、なぁ?」
伊月の片手がぺしんと木吉の頭を叩く。
木吉の言う事はもっともだが、今更真司が“男同士”云々を気にするのもおかしな話だ。
というか木吉はこの前真司を「好きだ」とか言ったが、あれは完全に友情の意志だったと思って良いということか。
「烏羽、お前な。嫌なら嫌って言えよ?」
「え?あ、いえ別に嫌ってわけでは」
「そうなのか!?」
伊月の声が少し嬉しそうに上擦る。
それはさておき、さすがに挟まれると恥ずかしい。
「そっか、そうだよな、嫌ってことはないか」
「伊月ー。お前こそなんか、やましい事考えてそうな顔してるぞ?」
「いや別にオレは」
「分かるぞ。烏羽は綺麗な肌してるしな」
そして会話も良くない方向に言っている気がする。
真司はいそいそと二人の間を抜け、向こうに浸かっていた黒子の横に移動した。
「テツ君、隣いい?」
「どうぞ」
いつもよりぽわんと緩んだ顔をした黒子の肩に肩がぶつかる。
やっぱりここが安心するな、なんて。
真司は再び手と足を伸ばし、黒子の方に体を傾けた。
「君はモテモテですね」
「なんてこと言うんだよテツ君まで…」
はーっと息を吐き出して、視線を遠くに持っていく。
隣の女湯の方から高い女性の声が聞こえてきて、でも大した興味もわかずに聞き流した。
洗い場ですくっと立ち上がり境目の板に顔を寄せる小金井の行動は、恐らく至極当然のものなのだろう。
…いや、どうかとは思うが。
「俺、考えたんだ。この先…俺に出来る事はなんだろうって」
「なんですか?ネガティブなことならやめて下さい」
「違う違う。すっごく前向きなこと」
黒子に言われて、思わずふふっと笑う。
確かに最近、自分はかなりネガティブだった。
「視界が狭くなったおかげで、ディフェンスに恐れることなく走れるのかなーとか思ったんだけど、でもそれは、皆にもっと心配かけちゃうでしょ?」
「…はい」
「そもそもそこまで試合に出たいとか、そういう風には考えてなくて」
少し前。自分の思い通りのプレイが出来た時は、本当に楽しくて。
それこそ、ずっと試合に出して欲しいくらいだったけれど、でも今は違う。
「練習には勿論参加するよ?でも、やっぱりどうしても心配かけちゃうと思うんだだから…」
「…」
「俺、リコ先輩に負けないくらい、皆のサポート出来るようになる。そう、決めた」
誠凛に、真司のような一人突っ走るプレイは向かない。
それが分かっているからこその決断でもあった。
選手としてではなく、自分に出来る事を。
「テツ君…どう思う?」
無言で話しを聞いてくれていた黒子に、その時初めて目を向ける。
しかし、真横にいたはずの黒子の姿はない。
「…え、…え!?」
小さく、ポコッという気泡が湯の中から湧き出た。
「テツ君!?」
「…逆上せちゃいました」
腕を掴んで引き上げると、真っ赤になった黒子がでろんと力なく顔を出す。
そのまま外に引き出そうとするが、真司の力では黒子一人持ち上げられない。
「か、火神君!手伝って!」
黒子一人持ち上げられない自分の筋力と。それから一人悠々と語っていた自分への羞恥心と。
そんなどうしようもない気持ちから、黒子を火神に運ばせながらも、真司はその後に続いて風呂場を後にした。
他に誰もついてこなかったのは、境目の向こうにいるらしい女子大生に夢中だったからだろう。
覗き見することに精を出している先輩達を、真司は若干安心するような気持ちで、でも絶対に関わりたくないという気持ちで見て見ぬふりをした。
「テツ君、大丈夫?」
とりあえず体を拭いて服を着て。
それからロビーに設置されていたベンチに黒子を寝かせた。
返事は小さく「はい」とだけ。脱力しきった黒子は部活後、激しい運動の後かのように呼吸を繰り返している。
「黒子、何か飲むか?」
「…じゃあ、ポカリを」
ベンチの真横にある自販機を前に火神が言う。
さりげない優しさを見せる火神だが、早々に温泉から出ることになってしまったことに対して少し不服そうだ。
「あ、売り切れか。しゃーねぇ、外の自販機で買ってくるわ」
「わー、火神君優しいね」
「うっせぇ。真司も何か飲むか?」
「え?じゃー…俺はお茶がいいな」
あいよと返事をして、火神が背中を向ける。
それを何気なく見送って、真司はくるりと黒子の方へ向き直った。
「テツ君、バテる前に声かけてよね」
「君の声…とても心地が良くて」
「はぁ?なんだよそれ、馬鹿かよ」
「馬鹿じゃないです…」
照れ隠しついでにぺしんとタオルを黒子の顔にかける。
ぐったりとしたままの黒子は抵抗せず、静かに息を吐き出した。
「テツ君のその、バスケ部とは思えない体の弱さ、なんなの」
「どこが弱いんですか」
「今の状況分かってないのかね、この人は」
けらけらと笑いながら仰向けになる黒子の腹に手を乗せる。
細くて弱弱しく見える黒子だけれど、筋肉だけはしっかりとついている。
しなやかな腹筋をちょいちょいと触りながら、黒子の腹に頭を乗せる。
くすぐったそうに揺れた黒子が面白くて、暫くこうしてやろうと真司は目を閉じた。
「ホラよ」
その声は当然のように上から降り注いだ。
とんと黒子の頭の近くに飲み物が置かれる。
火神と同じくらい低い声。けれど火神よりも少し掠れた甘い声。
「あ…青峰君?」
「よう、久しぶりだな、テツ、真司」
閉じた目は一気に開かれた。
ばっと顔を上げると、相変わらずの褐色肌に悪い目つきがそこにある。
「な、なんでここに!?」
「あ?いちゃ悪ィかよ」
「わ、悪かないけど…っ、」
突然のことで頭が全く回らなかった。
何か言いたい事が。何か、あるはずだ。
口をぱくぱくと動かして、床に膝をつく。そこから見上げると、しなやかな体は更に大きく見えた。
「…、あ、試合、見に来てたんだって、ね」
「あ?ああ…ったく、妙な無茶の仕方しやがって。怪我は」
「え!?あ、だ、大丈夫…」
「なかなか心配性ですね、君も」
「うっせ、テメェも相当だったろうが」
木吉にも聞いていたが、彼等に心配をかけ“大変だった”というのは本当なのだろう。
もしかして、心配して客席から降りてきてくれたりしたのかな、なんて他人事ではないがクスッと笑みが零れる。
「つか真司、お前最近ベンチばっかだろ。ウィンターカップまでにスタメン獲得しろよ」
「え、なんでよ」
「抜かれたの、かなりむかついたんだよ。次はさせねぇ」
次は、なんて言葉を今聞きたくはなかった。
浮かべた笑みを崩しそうになって、青峰からは見えないだろう角度へ俯く。
桐皇との試合、青峰を辛うじて抜けた最後。あれで救われたと言ったリコ。
思い出すと吹っ切れたとはいえ悲しくなってしまう。もう後戻りはできないし、思い返したところでどうしようも無いことだって分かっているのに。
「あ?なんだよ、怪我の具合良くねぇのか?」
「いや、えっと…」
真司の反応に青峰が怪訝そうに声を漏らす。
言うべきか、言わざるべきか。
迷いながら顔を上げると、それまで横になっていた黒子がベンチに腰掛ける形に体勢を変えていた。
「烏羽君、少し外してもらっていいですか」
「え?」
「ちょっと、青峰君に宣戦布告をしたいので」
真剣な目は青峰に向けられたまま。
真司はおずおずと立ち上がり、一歩下がった。
「ああ、テツ、お前の新技も見たぜ」
「はい。君達を倒すための技です」
「…、…」
話しを始めた二人に、その場にいるのが何故だか申し訳なくなって、真司はその場をそそくさと立ち去った。
やっぱり、言えない。もう公式の試合には出れないかもしれないだなんて。
自分が少しでも青峰に火を灯せたことが嬉しかった。黒子もそれに気が付いたのだろう。
「…はぁ…」
「…真司、お前なんつー顔してんだよ」
「うわ!?」
ぴとっと頬に触れた冷たさに、俯いていた顔をがばっと上げる。
両手にペットボトルを持った火神が、呆れた顔して真司を見ていた。
「火神君…」
「ほら、飲みモン。オレも挨拶してくっから、大人しく待ってろよ」
「え…」
「青峰、来てんだろ」
がしがしと乱暴に頭を撫でた火神が躊躇うことなく足を進める。
真司はそれを気にしながらも、これ以上に自分の状態を知られたくなくて一人外へ出た。
健康状態はむしろ良好だ。なのに、まともに試合は出来ない。
「…、なんで、今なんだよ…」
ずっと会いたいと思っている。けれど、今は会いたくなかった。
ぎゅっと冷え切ったペットボトルを抱き寄せてずるずるとしゃがみ込む。
「…」
「あれ?烏羽君?」
そんな真司を覗き込み、隣に来たのは桃井だった。
まさか青峰と二人で来たんじゃなかろうなとお門違いな事を考えながら顔を上げる。
「桃井さん。さっき青峰君にも会ったけど」
「あ、丁度この辺で練習試合があってね、誠凛がいるって聞いて来ちゃった」
「あー、そうだったんだ」
自然の流れでスカートを押さえながら桃井が真司の横に座る。
そしてごそごそと横を向いて取り出した一枚の紙をこちらへ向けた。
「何これ?…ウィンターカップの、トーナメント?」
「そう。ここが誠凛で…ここが、桐皇」
「…嘘…」
桃井の細くて白い指がなぞる字を追って、ぽつりと漏らしたのは驚愕の一言だった。
「誠凛と桐皇って同じ東京じゃん、なんで」
「桐皇は特別枠だから、ちょっと例外なの」
「だからってー…」
桃井の手から紙を受け取って、じっと眺める。
どれだけ見ても変わらない。そこに記されているのは、誠凛の初戦の相手が桐皇だという事実。
「…烏羽君にとって、これが良いのか悪いのかは分からないけど」
「うーん…。俺はともかく…多分、テツ君と火神君は喜ぶんじゃないかな」
「そっか。そうかもね」
ふふっと桃井が笑う。
ウィンターカップ、最初に青峰と出来る。それは余りにも高い壁だけど、一番超えたい壁でもあるわけで。
真司は意味も無くじっと桐皇の文字を見つめて目を細めた。
「ねぇ烏羽君。今私が何してるか、気付かないの?」
「え?」
桃井の声に再び目を紙から逸らして桃井へ向ける。
すぐに視界に入ったのは、人差し指と小指だけを立てて、キツネだがネコだかをかたどる桃井の手。
「烏羽君、右目…見えてないんだ」
その手の向こうで桃井が悲しそうに顔を歪ませていた。
気付いた時にはもう遅い、桃井は初めから何となく気付いていて真司の隣に座ったのだろう。
ほとんど見えていない、右側に。
「…見えてない、っていう程じゃないけど…」
「でも、バスケは出来ないよね」
「うん…まあ、そういうことになる、かな」
「青峰君には?」
「い…言ってない…ていうか、言わないで欲しい…」
桃井の立場的に、相手校の戦力の情報を黙っていてもらうというのは難しいと分かっていながら、祈るように両手を交差させる。
桃井はどう思ったのか、視線を降ろして小さく息を吐き出した。
「…いくら鈍感な青峰君でも、隠し通せるものじゃないと思うけど」
「そうなんだけど…でも、気付かれるまでは…。青峰君の期待、裏切るの、ヤで…」
腕に裏切ってるのだけれど。
ウィンターカップ初戦でぶつかるというなら尚更、それまで、その時まで。
「…まぁ、それはともかく!いろんな人に言われてると思うけど、もう無茶しちゃ駄目だよ」
「え、あ、うん…ごめん…」
「あんな大ちゃん久しぶりに見たもん。あんな大きな声で…あんな切羽詰まった顔して」
思い出すように今度は視線を上げて言う、その桃井の横顔を見つめる。
綺麗な横顔、女性特有の顔のラインと睫毛の長さ。
そんな彼女を見て抱くのが、彼と近い存在である彼女への嫉妬心だなんて。
「大ちゃん、烏羽君が思っている以上に烏羽君の事すごく大事に思ってるんだからね」
「そう、かな」
「うん!だから…信じてあげてね」
さすが女の子、ポンポンと言葉が出てくる。
ころころと表情を変えて話す桃井に、いくら嫉妬心があろうとも真司の頬が緩んだ時、はっと桃井が目を開いた。
「って、私今、青峰君のこと大ちゃんって言ってた!?」
「え?うん」
「違うよ、普段そんな風に呼んだりしてないからね!」
ばっと立ち上がって恥ずかしそうに頬を赤らめる。
スカートが揺れて、ひらりと白い肌が見えて、思わず視線を逸らしたのは当然の反応で。
けれどどこかで女性にしかない武器を持つ彼女を羨ましく思う自分が嫌だった。
・・・
・・
真司が何を考えて試合に出ているのかなんて、考えもしなかった。
当然のようにバスケに向かって、自分に向かってくるものだと思っていたから。
『…真司!』
ばたんと床に倒れたまま起き上らない真司に、その声は自然と大きくなっていた。
自分の声がまだ反響している中、段差を駆け降りてコートへ足を着く。
後ろで自分を呼び止めようとする高い声など聞く耳を持たず。
状況が状況なだけに、普段なら違反であるこの行動に咎めるものは誰もいなかった。
『…っ』
皆が蒼白としている。それは自分も同じだった。
真司のキラキラと光る髪に赤が流れている。
あれは、なんだ。真司の晒された顔を伝う赤は。
『…真司』
何度目になるか、彼の名前を呼ぶ。
その声にこちらを向いた黒子の目も、いつもより見開かれ、顔も酷く歪んでいた。
『あ、青峰、くん…』
『何してんだよ…おい、担架早く持って来い!!』
倒れたままの真司に近付いて膝を折る。
その青峰の行動に、ようやく黒子の時間も動き出したようで、青峰の横に膝をついた。
『っ…ボク…気付いていたのに…、烏羽君が、何か、危ないことに…』
ぐしゃぐしゃになった顔で真司を見下ろす黒子に、熱くなっていた顔が冷えていく。
冷静になった頭で真司を見れば、その状況の悪さに気付くだけ。
『テツ、テメェは試合に集中してろ』
『…ボクは…』
『オレが、真司を見てっから』
担架に乗せられた真司の赤い顔を見下ろし、その動きに合わせて立ち上がる。
オレ達も、と言わんばかりにベンチにいた誠凛のメンバーが足を進めたけれど、青峰の眼力に負けたのかついて来ることは無かった。
『青峰君、貴方は客席に戻って…こんな事まで他校の人に任せるわけには』
『うるせぇ』
監督の言葉をも遮って真司についていく。
いつだって真司の一番は自分だった。
真司の傍にいるのは自分であって当然だと、本当は今でも頭の隅にある。
『アンタ等は試合に勝つことに集中してればいいんだよ』
『っ、でも』
『いーから、真司はオレに任せろ』
本当は今でも真司の隣にいるのは自分のはずで。
きっと、自分が隣にいればこんなことにはならなかった。
『他の奴になんか…』
芽生えた思いが加速する。
吐き捨てるように呟いて、青峰は真司と共に姿を消した。
・・・
・・
「おー、こんなとこに居ったか」
桃井を見送って何となくその場に残っていると、上からひょうひょうとした声が聞こえて顔を上げた。
「…今吉さん…こんにちは」
「何やその顔。嫌われたもんやなぁ」
すらりとした身体に、細い目。
海常と桐皇の試合の時にはお世話になったというか、なんというか。
真司はおずおずと立ち上がり、小さく頭を下げた。
「嫌われ…って、そうなるようなことをしたのは、誰ですか」
「ん?ワシかいな」
「そうでしょうよ…」
しらばっくれながらも、ニヤニヤとする今吉は、やはり嫌な事を考えていそうだ。
警戒して一歩下がるが、目の前に迫る彼から逃れる術が見つけられない。
「あの…」
「ん?どないしたん」
「いえ、近いんですけど…」
見覚えのある展開だ。
と気付いたのに既に遅く、とん、と今吉の手が真司の横の壁に伸ばされた。
「怪我の方は大丈夫そうやな」
「は…」
「花宮の奴に狙われたんやろ?いやぁ、気持ちは分からんでもないけどやりすぎは良くないわ」
何をどこまで知っているのか、もう片方の今吉の手が真司の右目辺りに触れる。
びくりと体が震えたのは、その怪我の記憶とぼやける視界による情報のなさ故の恐怖のせいだろう。
「あーあ。体震わせて…小動物みたいで可愛ぇのう」
「い、いい加減にして下さいっ」
いちいち癇に障る人だ。というかどこまで本気なのかも良く分からない。
今吉の腕の隙間の抜けて出ようとすると、もう一度どんっと腕が目の前の壁を叩き行く道を塞いだ。
「いーこと教えたろか」
「…?」
「お前さんの好きな青峰のことや」
しかし行動と言葉との一致のしなさは何なのだろう。
真司は警戒しながらも、目を丸くして今吉を見上げた。
「青峰君とはさっき会いましたよ」
「そら話早いわ。なんや青峰がお前さんの事をかなり気にしとってなぁ」
「え…」
やはり話しの流れが読めない。
困惑に身を固めていると、その固くなった肩に今吉の手がとんと乗せられた。
「青峰の為に桐皇に来るってのはどうかと思ってな」
「はあ…?」
「どうやら青峰はお前さんが気になってしゃーないらしい。ウチならあんな無茶させへんしな」
ここに来て黄瀬みたいな事を言う人が増えてしまった、と思えば可愛いものだが、この男は何とも扱い辛い。
首を縦に振る可能性の無さをどう伝えたら良いか、真司は視線を泳がせながら口を開いた。
「…そういう無茶、言う人だと思いませんでした」
「いやぁ、無茶言いたなるほど欲しいんやって」
怪我の事実を知らないからか、本当に実力を認めてくれているのか。
いや、多分そういう事を言う人ではない。
真司は今吉の手をペチンと叩き、きっと睨みつけた。
「貴方は俺が欲しいんじゃなくて、更に実力を発揮する青峰君が欲しいだけじゃないんですか」
「ほー?自分がいることで青峰がもっと強くなる、分かっとるんやないか」
「青峰君はそんな簡単な人じゃないと思いますけど」
青峰は中学の時、どんなに説得しても駄目だったのだ。
今更変化を望むなど、自分の存在で青峰に変化が起こるなど有り得ない。
けれど、どこかでその事実を望んでいたのだろう。
「そないに悲しい顔するくらいなら…ウチに来い」
な?ともう一度念を押すように言われる。
迷いなんてあるわけがない。今誠凛の役に立つと決めたばかりだ。
たとえ青峰がいようとなんだろうと、自分には関係のない話。
「…ほんまに可愛いなぁ…そないに青峰が好きか?」
「ちが、います。そんなんじゃないです」
「ん?」
青峰が自分を心配してくれていて、看ていてくれて。その事実がどれ程嬉しかったか。
そしてそんな事実に揺れ動く自分の思いに嫌気がさす。
そしてそれが事実だと、信じたい自分にも。
「…勘違いしてるんですよ、貴方は」
「お、急にどないしたん」
「青峰君が、俺の事なんて気にしてるわけがないんです、俺のことなんて…!!」
いつから青峰の心が自分に向いているのだと思うようになったのか、自分でも覚えていない。
いつか気付いてくれると信じて追いかけることを止めたけれど、そんな事実を証明するものは何もなかった。
「青峰君は…いなくなったんだ、俺の前から…」
いなくならないでと言ったのに。
「青峰君は俺のことなんか好きじゃなかった、気にしてなんかいなかったんだ…!」
そう叫んでしまえば、それが事実になる。
結局何もなかったのに、勝手に疑うことを止めていただけだったのだ。
きょとんとしている今吉の緩んだ腕を押しのけて、真司はその場から逃げ出した。
「真司」
「…!」
いつからそこにいたのか、狭い入口で大きな体とすれ違った。
名前を呼んだのは、低く掠れた大好きな声。
真司はそれに気付かないフリをして、息を吸い込んだまま来た道を戻って行った。
「うお!?」
どんっと顔からぶつかって、けれど声を上げたのは自分ではなくその壁の方だった。
「っと、真司。今呼びに行こうと…どうしたんだよ」
支えるように真司の両肩を掴んだその壁…火神が不思議そうに真司を覗き込む。
俯いたまま顔が上げられないのは、情けない顔をしている自信があったからだ。
「もしかして、青峰になんか言われたのか」
「…火神君、ごめん」
静かに謝罪をしてから、その大きな体に腕を回す。
やっぱり良く似ている。そう思った自分にまた嫌気がさした。
「お前…なんで青峰の事になっとそう、奥手なんだよ」
「そんなんじゃない…」
「嘘つくんじゃねーよ、つか…黒子がスゲェ目してこっち見てっから、怖ぇ、怖!んだよその目オイ!」
火神の声を聞きながら目を閉じる。
どんな目をしているのか知れないが、黒子の小さな掌が背中に添えられたのが分かった。