黒バス(2012.10~2017.12)
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目を開けて、一番に飛び込んできたのは白い天井だった。
ぼーっとする頭がずきりと痛んで、少しずつ頭が冴えてくる。
自分は上手くやれただろうか。あの後…誰も怪我せずに済んだだろうか。
「ん…っ」
狭い視界を不思議に感じつつ、真司は体を起こそうとシーツをかいた。
「お、目が覚めたか」
その声が聞こえなければ、真司はそのまま辺りを見渡して一息ついたはずだった。
ぴたっと手が止まり、言葉が出てこない。
「心配、したんだぞ」
すとんと耳に落ちた声は、酷くかすれていた。
笑っているのか泣いているのか、それとも怒っているのか。
「き…木吉先輩…」
「烏羽…」
木吉は真司の頭を撫でようとした手を途中で止め、シーツを掴んだままの真司の手に重ねた。
「いろいろ言いたいことはあるけど…とりあえず、無事で良かったよ」
「あ…はい、すみません…」
「…謝るなよ…謝らなきゃいけないのは、オレの方だろ」
きゅっと握られた手から痛い程伝わってくる。
木吉は自分を責めている。決して、木吉は悪くないのに。
「あ、あの、試合は」
「ん?勝ったよ。それに、あの後誰も怪我をしてない」
「…そうですか…良かった…」
それでも真司が望んだ最善に終えたらしい。
ほっと息を吐くと、木吉ががたんと椅子から立ち上った。
「全然良くないだろ!お前は…っ」
突然声を荒げた木吉に思わず驚いて目を見張る。
けれど、木吉も今更何を言っても仕方ないことが分かっているのだろう。
静かに首を振って笑みを作った。
「…大変だったんだぞ。あの試合…隣にゃ緑間君がいたし、桐皇の青峰君も観に来てたみたいでな」
「え…!?」
「試合を終えてオレ達がここに来るまで、青峰君が烏羽についていてくれたよ」
真司は思わず扉の方へ目を向けていた。
青峰がここにいた、近くにいたというのか。いやそんなことよりも、試合を観に来てくれていたなんて。
「…青峰君」
「烏羽の無事を確認してさっき出てったけど…呼んでくるか?今ならまだ…」
「…、いえ、いいです。それより、皆に、話したいことがあります」
会いたいけれど。
真司は迷いを残しつつ首を振った。
今はチームメイトに話すべきことがあるから。
「分かった。皆を、呼んでくるよ」
がららっと白い扉を開いて木吉が外に出て行く。
それを見送った真司は改めて上半身をしっかりと起こし、自分の体を見下ろした。
「…どうなったんだっけ…」
咄嗟だったから、ほとんど覚えていない。
視界がぐるりと回って、酷い痛みを覚えて。
恐らく強く打ったのだろう頭に片手で触れて、そして視界が覆われた右目に触れる。
「痛っ…」
布、包帯だろうか。ぐるりと巻かれた目がその布越しに痛む。
包帯の下がどうなっているのか怖い。
でも、どうなろうとこの道を選んだのは自分だ。
ネガティブな思考にきゅっと左右の手を絡めて目を閉じる。
暫くしてがらら、という音が聞こえて、狭い視界を開いた。
「烏羽君…!」
真っ先にそう名を呼んだのは黒子だった。
続いてぞろぞろと皆入ってくる。どれほどの間意識を手放していたか知れないが、皆待っていてくれたようだ。
「良かった、烏羽君…!」
たたた、と駆け足で真司の横まで来たリコが眉を下げて微笑む。
リコにまでこんな顔をさせてしまうなんて。罪悪感にズキッと胸が痛む…なんて思うのは早かった。
「こんの…大馬鹿者っ!!」
そう叫ぶが早いかリコが拳を振り上げる。
あ、これはやばい。過去の経験から察して強く目を瞑る。
けれど、痛みはやってこなかった。
「…?か、監督?」
「ほんっとうに…心配したんだから…っ」
目を開く前にやってきたのは真司を包む柔い感触。
こうして女性に抱き締められるのは少し緊張する。
あまり肉付きのよくないリコの体からは女性特有のあれやそれを感じることは出来なかったが。
「監督…俺は、別に怪我しようがバスケが出来なくなろうが、構わなかったんです」
話さなきゃいけないこと。
もしかしたら皆に嫌われてしまうかもしれない。でも、もう隠してはいられないと考えていたことだ。
「何言ってるの、烏羽君?」
「俺は皆と違う。バスケなんて…全然好きじゃなかったんです」
リコの体がするりと離れた。
自分を見下ろすいくつもの顔を見る勇気はなくて、視線を落して真っ白なシ―ツを見下ろす。
「ウィンターカップに行けるかもしれない。そうなった時…俺は、やっと…赤司君に会えるって思ったんです」
本心だ、間違いなく自分でも感じた違和感。
自分はたぶん皆と違う喜びを感じていた。
「俺は、愛されたくてバスケをしていたんです。だから…彼らの手から離れたら、どうでもよくなったのかもしれません」
バスケは好きだ。けれど、試合に出る喜びは薄くなっていたのだと思う。
圧倒的な存在が、目の前にちらついてしまったから。
「だから俺は、木吉先輩がこれ以上酷くなるより、こうなった方が良いと思って…」
「はぁ…。烏羽君…あなた、どこまで馬鹿なの」
初めから分かってもらえるとは思っていなかったけれど、はっきりとした否定に真司の瞳が揺れた。
嫌われるのは怖い。追い出されるのは、居場所がなくなるのだけは。
「あのね、そもそも烏羽君は間違ってるのよ」
「…はい」
「バスケが出来るか出来ないか?そんなのどうでも良いのよ、いや良くはないけど…」
「?」
呆れきったリコの声、けれどそれはいつもの声だ。
恐る恐る顔を上げると、リコの手は真司の右側の頬を撫でた。
「ま、彼等に会った方が分かるかしらね」
「え?」
優しく微笑んだリコにきょとんと目を丸くする。
その時、タイミングよく病室の扉ががんっと開け放たれた。
「真司っち…!」
「おい病院で騒ぐな、黄瀬!」
だだっと駆けこんできたのは黄瀬。そしてその後ろから緑間が続いて入って来る。
「オレ、ほんっとにどうしようって…あああ、無事で良かったっス…っ!!」
「き、黄瀬君…どうして」
「緑間っちが連絡くれたんスよ、真司っちがやばいって…オレもう仕事途中で抜けだして来たっスよ!」
ぎゅっと手を握られ、その勢いに茫然とした。
「烏羽、頭を打っただろう。体に異常はないか?」
「え…あ…わ、かんない。たぶん大丈夫、かな」
「馬鹿が。オレの忠告を聞いておきながらお前は…」
いつも通りに辛辣な言葉を並べながらも、緑間の声色はどこか落ち込んでいる。
打ったのは頭。下手したら、今ここでこうして彼等と話すことさえ叶わなかったのかもしれない。
そう考えた瞬間、リコの言ったことを理解した。
「…ご、めんなさい…俺…自分のことしか、考えてなかった」
「真司っち…」
「心配かけて、ごめんなさい…」
きつく手を握り締める。
慰めようと黄瀬の手が背中を撫でるのも、今は酷く胸を痛めつけた。
自分は馬鹿だった、緑間の言う通りに。
「すみません、少し時間をもらってもいいですか」
ふと、そう言ったのは黒子だった。
その言葉は真司ではなくリコや日向…他の部員達に向けられている。
「どうした黒子?」
「烏羽君と話がしたいんです」
黒子の顔は真司から見えないが、どうやら何か深刻だったのか。
空気を察したように、全員部屋を出て行った。火神だけは不服そうだったが。
そうして振り返った黒子は、やはり真剣な顔つきをしていた。
「ボクからも、君に話すことがあります」
「…何?」
何となく病室の独特なニオイと相まって、不安が胸に渦巻く。
黄瀬と緑間も眉間にシワを寄せ、黒子の言葉を静かに待っていた。
「君は赤司君に会いたいと、そう言いましたね」
「え…あ、うん…ごめん」
「その件ですが、ウィンターカップに行っても叶わないかもしれません」
「…え?」
至って真面目な顔をした黒子が真司に近付いてくる。
黄瀬と緑間の顔色は、急に変わったように見えた。
「でも、洛山はウィンターカップ出場決まってるよね?赤司君はレギュラーに間違いないし」
「そうですね、赤司君は来るでしょう」
「テツ君?何が言いたいのかよく…」
少なくとも赤司はこちらに来る。
たとえ洛山と誠凛があたらずとも、物理的に会う事は可能のはずだ。
しかし、黒子の言葉を理解しているのだろう二人が口を開いた。
「真司っちは、知らなかったんスか」
「赤司は…烏羽の前でだけは変わらずいたのだよ」
「ああ…確かに、そうだったかもっスね」
真司だけ何も分かっていない状況に不安が大きくなる。
つまり、どういうことなのか。
揺れる瞳で黒子を見上げると、その小さな口が動いた。
「恐らくもう、君の知っている赤司君はいません」
聞いたところで、やはり真司には分からなかった。
「えっと…?」
「赤司君には二つの人格がありました。君はその片方しか知らないんです」
ぽかんと開いた口が塞がらなかった。
そんな現実味のない話を、どう信じろというのだろう。
何それ、と思わず笑いそうになる。けれど黒子も黄瀬も緑間も、表情は真剣だった。
「…じゃあ、もしそうだったとして…今赤司君に会っても、俺の知らない赤司君しかいないってこと…?」
「恐らくですが」
「皆知ってたの?何で…?俺が、一番赤司君の傍にいたと…思ってたのに…」
自然と声が震えた。
自分が誰よりも赤司の近くにいた、そう疑わなかったから。
「俺が、頼りなかったから…?俺には、教えてくれなかったってこと…?」
「烏羽君、それは違います」
「でも、俺だけが知らないなんて…そんな…」
慰めるように、しゃがんだ黒子の手が真司の手を握り締める。
上からはテーピングの巻かれた手が頭に乗せられ、優しく髪の毛を梳き取った。
「赤司がそう望んだからなのだよ」
「え…?」
「お前にだけは知られまいと足掻いていた。赤司は本当にお前を好いていた、ということだ」
慣れない事を言って少し頬を赤くした緑間の言葉に茫然とする。
喜んで良いのか、それは。だってその“赤司”はもういないという話なのに。
「…赤司君に会いたいよ…」
本当にいないのだと、信じたわけでは無いけれど。
「テツ君のせいで…、もっと赤司君に会いたくなった…」
溢れる思いが素直に口から零れてしまう。
本当は離れたくなかった、ずっと一緒にいたかった彼。
ようやく手が届くところに辿り着いたと思ったのに。
「ごめんなさい。言い出すタイミングが、分からなくて」
「…っ、ううん。でも、有難う、テツ君」
話しだけでは実感がないけれど、知らずに会うことになるよりは良かったのだろう。
よく分からないけれど、“赤司征十郎”には会えるのだから。
小さく頭を下げて、そして低い位置にある黒子の顔を見る。
しかし、黒子の表情はまだ硬かった。
「烏羽君、もう一つ言わせて下さい」
「え…な、何?」
そして再び開かれた口から発せられた声は、思いの外重くて。
まだ何かあるのだろうかと恐怖にごくりと唾を飲み込んだ真司は、続く黒子の声に言葉を失った。
「もう絶対に無茶はしないで下さい…!」
「…!」
滅多に声を荒げない黒子の声にびくりと震える。
真司だけじゃない、黄瀬と緑間も目を丸くしていた。
「あの後、冷静ではいられませんでした。君が…あんな風に倒れてボクは…!」
「て、テツ君…」
「君を大事に思っている人がいることを、絶対に忘れないで下さい。一人で何とかしようなんて思わないで下さい…!」
真司の手を握る黒子の手がきつく食い込んでくる。悲痛に歪んだ顔が、擦れた声が実感させる。
愛してくれる人はここにもいたのに。忠告は何度もされていたのに。
「…黒子の言う通りなのだよ」
「そっスよ。こんなことになったの、赤司っちが知ったらどうなるかー…」
そこで会話がピタリと止まったのは、思う事が一致したからだろう。
「黒子っち、ご愁傷様っス」
「烏羽君、君のせいでボクの寿命が縮みましたよ」
「なんか、ほんとにごめん…ふふ」
「何で笑うんですか」
ぷくっと頬を膨らませた黒子が可愛らしくて、思わず笑ってしまう。
けれどその瞬間右目がズキリと痛み、真司は咄嗟に片手で覆った。
「真司っち?大丈夫?」
「うん、なんか…倒れ方良くなかったのかも。目、ぶつけちゃったのかな…」
今まで感じたことのない痛みに、妙な恐怖を覚える。
嫌な予感、それはまだ終わっていなかったのだ。
「…もし、俺がバスケ出来なくなったら…赤司君に嫌われちゃうのかな…」
「烏羽君…」
「あ、もう、赤司君は、いないんだったっけ…?」
もし出来なくなったら。
真司の足を買ってくれた赤司や青峰はどう思うのだろう。
「真司っち、もし何か後遺症とか残っちゃっても…オレ、ずっと真司っちのこと支えるっスよ」
「烏羽、お前はもっと周りを頼れば良い」
「…有難う」
視線を下げて、未だ握られたままの黒子の手にもう片方の手を重ねる。
自分勝手だ、本当に。
自分勝手な行動に、やはり多くの人に迷惑と心配をかけて。
その罰か、真司は右目の視力を失う事となった。
・・・
「烏羽君、大丈夫ですか…?」
医者からの重い通告の後、静かになった病室には黒子だけが残った。
気を遣ってくれたのだろう、いやもしかしたら愛想をつかれたのかもしれない。
「…何ていうか…あんまりショックではないかな」
「治らないと決まったわけではないですし、ね」
右目の視力が完全に元に戻る可能性はかなり低いのだそうだ。
包帯の下がどうなっているのかはまだ分からないが、まあ元々目は悪いわけだし。
そう余裕をかいていられるのも、自分の状況を知らないからなのか。
「…ごめんなさい。ボクは少し安心してしまいました」
「え、安心?」
「もう君が無茶をすることはないだろうと、思って」
眉を八の字にして、けれど口元には笑みが浮かべられている。
黒子も内心複雑なのだろう。
それは真司も同じ。実感はないが、やはりいろんな意味での恐怖は拭えない。
「俺、そんなに危なっかしい?」
「はい、とても」
「小さいから…とかだったら怒るよ?」
ぐっと拳を作って黒子の方へ向ける。
冗談のつもりだったが、黒子は少し視線を下げて黙ってしまった。
「…あれ、テツ君?」
急に変わった空気に、真司も不安に眉を寄せる。
そして黒子の顔を覗き込んでみれば、今度は少し泣きそうに、瞳を揺らしていた。
「君に告白したことは、忘れて下さい」
「…え…?」
そしてはっきりと、揺れない声で言う。
むしろ息を震わせたのは真司の方だった。
「君の赤司君への思いがそんなに強いなんて思っていませんでした。軽率でした」
「そ、そんなこと…」
「ボクでは、赤司君の代わりにはなれないです。それはさすがに分かります」
台本でも読んでいるかのようにはっきりと。
そんな揺るぎない台詞を、黒子はどんな思いで告げているのだろう。
いつも真っ直ぐ真司を見つめる瞳がこちらを向かない。
「テツ君…待って」
「すみません…今日はゆっくり、休んで下さいね」
立ち上がる黒子の手を掴もうと伸ばす。
目一杯伸ばした上半身も虚しく、届かなかった黒子の手が遠ざかって行くのを見送るしかない。
「やだ…やだ、テツ君…!」
ばさっと布団を退かしてベッドの下に足を下ろす。
一瞬ふらりとよろけた体は、ぱっと振り返った黒子に支えられていた。
「な、にしてるんですか君は…」
「ごめんね、テツ君、ごめん…俺…」
「いいんですよ、ボクのことなんて気にしなくて…」
腕を掴んだ黒子の手がまた離れていく。
自分がどれ程残酷なことをしているのか、ずっと分かっていたから触れなかった。
黒子だけは巻き込んではいけないと。だけど。
真司の手は今度こそしっかりと黒子の手を掴み、丁度良い高さにある肩へ顔を押し当てていた。
「ホントは…こんなの駄目だって分かってるのに…」
「烏羽君?」
「好きなんだ、テツ君のこと…」
心臓がうるさくて、頭がズキズキと痛い。
苦しくて途切れる息を吐き出せば、黒子の体がびくりと震えたのが肌を通して伝わった。
「…そんな、気を遣わなくていいんですよ…?」
「ううん、俺、ほんとは結構前からテツ君のこと…い、意識、してたっていうか…」
信じられない、黒子の声色は明らかに真司の言葉を疑っている。
それでも、真司に言えることはこれ以上になかった。
黒子が好きだ。黒子“も”好きになってしまったのだ。
「ボクは、ずっと…ずるいと、思ってました。ボクが最初に君を見つけたのに…君に触れることが出来る、彼等が」
「ごめ…」
「ボクも触っていいんですか…?」
黒子の手が真司の肩を掴んで体を離す。
顔を上げると、黒子の熱っぽい視線がそこにあった。
「テツ君…なんか、やらしいよ…」
「君が悪いんですよ、今まで、ずっと我慢して来たんですから…」
黒子の指が真司の頬を滑る。
首を辿って、凹凸の無い胸に重なって、真司の心臓の高鳴りを感じたのか、また泣きそうに笑った。
「君が好きです」
「うん…俺、も」
待たせてごめん。受け入れてくれて有難う。
いろんな気持ちが入り乱れる。それを全部呑み込むかのように唇が重なり、真司は静かに目を閉じた。
決勝リーグ後やっと訪れた休日。
良く晴れた昼間に、彼等は火神の家へと押しかけていた。
「かんぱーい!」
かんっとコップがぶつかる音と声とが重なる。
テーブルの上にはそこそこ豪勢な食べ物が並んでいるが、全て火神の手料理だ。
「烏羽、もうどこも痛くないんだよな?」
「あ、はい。ご心配をおかけして…」
「あー違う違う、謝るとかそういうの良いから」
ぽんぽん、と一度躊躇いがちに伸ばされた手が、真司の頭に乗せられる。
優しく真司の頭を撫でる伊月の手は、腫れ物に触るかのようだ。
「ねぇ、火神君。台所借りても良い?」
「え、な、んでっすか」
「せっかくだから私がもっと体に良さそうなものを」
腕まくりをしながら立ち上がるリコを押さえ込む火神と日向を横目に、真司はふっと小さく笑った。
祝、ウィンターカップ出場を称して開かれたパーティ。
しかし、本当の狙いは真司の事で落ち込んだ雰囲気を元に戻す為であろう。
真司の自業自得で起こった事故。けれど、霞んだまま戻らなくなった視界は、皆のモチベーションをも下げてしまったのだ。
「あ、こっち側じゃない方が良いんだっけ」
「え?」
「烏羽、こっち側あんま見えてないんだろ?」
ふとした瞬間の気遣い。
それがいつまでも続くせいで、どうにも部員に真司の怪我のことを思い出させてしまう。
真司は確かに狭くなった視界の厄介さに、伸びきった前髪を耳にかけた。
「あ」
「ん?どうした?」
「いえ、髪の毛がかなり邪魔だなぁと…」
中学の頃から変えることのなかった髪型。
右目が見えにくくなった今、左目を覆う長い前髪はかなり邪魔だ。
「…」
「烏羽?」
少し悩んだのは、彼等の言葉をふと思い出したから。
しかし振り払うように真司は首を横に振り、無駄に力強く拳を握った。
「水戸部先輩…!」
「?」
急に声を上げた真司に、呼ばれた水戸部だけでなく全員の視線が真司に移る。
どうしたのだろう、自分に何か出来ることなら、そういう思いがその視線に溢れている。
真司はそれに気付きながら、真っ直ぐ水戸部に向けて言い放った。
「俺の髪の毛、切ってもらえますか」
「え!?」
水戸部が目を丸くし、言葉を発しない彼の代わりに小金井が驚きの声を上げる。
しかし小金井に留まらず、その声は周りに一気に広がった。
「な、なんで!?烏羽君、そんなに目の状態良くないの!?」
「え、いえ、ただ見づらいなーって」
「そりゃそうだろうけど、烏羽、いいのか?」
「別にそこまでこだわってませんし」
リコは真司を心配そうに見つめ、伊月も目を細めて覗き込む。
確かにあまり顔を見せたくないという思いはあったが、眼鏡と前髪でなんて限界はあるわけで。
とっくにクラスメイトには知られているのだから、今更問題はないだろう。
「烏羽君…」
「何、テツ君。まさかテツ君まで切らないでとか言い出すんじゃないだろうな」
「いえ…君の数少ない個性がなくなってしまうと思って」
「テツ君には言われたくない」
黒子の個性何て、影が薄いくらいしかないくせに。
そう小さく悪態つけるぐらい、精神的に余裕はあった。
「バスケ出来なくなってから髪を切るなんて、順番が変かもしれないけど…」
「いいんじゃない?視界もすっきり、気分もさっぱりすれば」
リコがニッと笑って水戸部の背中をとんと叩く。
少し戸惑ったような素振りをしながらも、水戸部はおずおずと立ち上がり火神に目をやった。
どこか借りて良いか、そう問いたいのだろう視線に火神が「洗面所を」と小さく返す。
「いいんですか?水戸部先輩」
既に火神が示した洗面所へ歩き出そうとしている水戸部に一応確認をとれば、笑顔でこくりと頷いた。
嘗て髪の毛を切りたいと小金井を通して聞いた、その気持ちは変わっていなかったらしい。
「なんか、ちょっとドキドキしてきた」
「たかが前髪切るだけでそんなに気張ることねーだろ」
「そんなことないよ!髪ってのは結構印象変えるんだぞ」
自分で言ってちょっと女子みたいだなとは思うが。
火神は不思議そうな顔をしながらも、ちょいちょいと手招きして真司を鏡の前の椅子へ導いた。
ついでに水戸部へハサミを手渡し、真司の膝へ新聞紙を置けば準備は万端だ。
「ひぇーオレも緊張して来た!」
洗面所の外から覗き込むようにして中を見る小金井が体を震わせる。
それに対して眉を下げながらもこくりと頷いて笑った水戸部は、「そうだね」とでも言っているのか。
「コガ、せっかくだから終わってからのお楽しみにしたらどうだ?」
「ん?んー、そっか、そうしよう!」
「楽しみにしてるぞ、水戸部、烏羽」
伊月が小金井の手を引いて去って行く。それに続いて先導してくれた火神もいなくなれば、水戸部と二人きりだ。
ちょっとした緊張はそのせいもあるだろう。
「あの、よろしくお願いします、水戸部先輩」
「…」
返事は沈黙だけれど、鏡には柔らかい水戸部の笑顔が映っている。
二人きりになることがなかったのは、確実に小金井が必要だったからだ。
「水戸部先輩は…」
「…」
「あ、目、閉じますね」
鏡に映る水戸部がこくこくと首を縦に動かし、真司は静かに目を閉じた。
水戸部の雰囲気と異なる大きな手が真司の額に触れる。
ほんの少しドキリとして、開きかけた口をきゅっと閉じた。
水戸部先輩は。自分をどう思っているのだろう、とちょっと聞きたかった。
今日はまだ木吉と言葉を交わしていない。
気を遣っているのか、近くにいる伊月はよく話しかけてくる。
「迷惑を…かけてますよね」
前髪に触れていた水戸部の手が一瞬ぴたりと止まった。
「多分、変わりたかったんです。目がつぶれたって前髪短くしたって…それが、何かきっかけになって欲しくて」
冷静になった今なら、目を閉じている今なら、自分の奥にあった心が自分で読み取れる。
きっとこんなことをしたって変わらない。どこかで赤司を求めて、青峰に触りたくて手を伸ばす。
「俺、弱くて。誰かにくっ付いてないと、駄目で…。そういうの、駄目だって思いながら、でも繰り返して…」
新聞紙に落ちる細い髪の束。その音だけが耳を掠めた。
水戸部は何も言わない。何か思っていても水戸部の声が真司の耳に届くことは無い。
それが、今は良かった。否定されることがないから、ネガティブな思いが零れる。
「水戸部先輩は…俺の事、…」
嫌にならないですか。
そう問う前に、水戸部の手がとんとんと真司の肩を叩いた。
思わず目を開くと、にこっと柔らかく微笑みかける水戸部の視線が鏡へと移動する。
「…あ、はは、なんか、テツ君の言う通り普通っぽくなっちゃったな」
その視線を追えば、目にかかる程長かった前髪がすっかり短くなっていた。
視界が広い。なんとなく顔が涼しくも思える。
「水戸部先輩、有難うございました…、え?」
ぱっと鏡から横に立っている水戸部に視線を戻すと、水戸部の手が真司の頭に乗せられた。
数回ぽんぽんと撫でるように触れて、その手が真司の背中に回る。
そのまま水戸部の胸に引き寄せられて、真司は暫くきょとんとしたまま動くことが出来なかった。
「…水戸部先輩?」
「…」
「あ、ああ…なんですかそれ、分かりにくいじゃないですか」
背中を撫でる大きな手。
「大丈夫だよ」と 「迷惑だなんて思ってないよ」と、そう触れる温もりが伝えてくる。
「水戸部先輩、もう大丈夫です」
「…」
「ふふ、あんまり俺に優しくすると惚れられちゃいますよ…?」
冗談だけれど、冗談になっていないような言葉に、水戸部はぱっと離れた。
そこまで嫌がらなくてもいいのに、と苦笑し見上げた水戸部の頬は薄ら赤くて。
「あ、えっと…戻りましょうか」
つられて赤くなった頬を隠すように、真司は俯き新聞紙を折りたたんだ。
そして意味なくパンパンと服を叩いてから水戸部の後をついて行く。
皆が待っている部屋に戻って、ひょいと水戸部の背中から顔を覗かせた真司を見た彼等の反応は。
「…っぷ」
「烏羽君…ふ、ふふ…か、わいい…」
「何か、幼くなったな」
笑顔が戻って、わしゃわしゃと手加減なく頭を撫でられたけれど。
「ば、馬鹿にしてるじゃないですかー!」
「オレ、責任とって烏羽の世話係になるからな」
「木吉先輩、そんなの俺求めてないですから!」
木吉が真司を抱き上げてくれたけれど。
真司は真っ赤になった頬を膨らませて、「何か思ってたのと違う!」と叫んでいた。
ぼーっとする頭がずきりと痛んで、少しずつ頭が冴えてくる。
自分は上手くやれただろうか。あの後…誰も怪我せずに済んだだろうか。
「ん…っ」
狭い視界を不思議に感じつつ、真司は体を起こそうとシーツをかいた。
「お、目が覚めたか」
その声が聞こえなければ、真司はそのまま辺りを見渡して一息ついたはずだった。
ぴたっと手が止まり、言葉が出てこない。
「心配、したんだぞ」
すとんと耳に落ちた声は、酷くかすれていた。
笑っているのか泣いているのか、それとも怒っているのか。
「き…木吉先輩…」
「烏羽…」
木吉は真司の頭を撫でようとした手を途中で止め、シーツを掴んだままの真司の手に重ねた。
「いろいろ言いたいことはあるけど…とりあえず、無事で良かったよ」
「あ…はい、すみません…」
「…謝るなよ…謝らなきゃいけないのは、オレの方だろ」
きゅっと握られた手から痛い程伝わってくる。
木吉は自分を責めている。決して、木吉は悪くないのに。
「あ、あの、試合は」
「ん?勝ったよ。それに、あの後誰も怪我をしてない」
「…そうですか…良かった…」
それでも真司が望んだ最善に終えたらしい。
ほっと息を吐くと、木吉ががたんと椅子から立ち上った。
「全然良くないだろ!お前は…っ」
突然声を荒げた木吉に思わず驚いて目を見張る。
けれど、木吉も今更何を言っても仕方ないことが分かっているのだろう。
静かに首を振って笑みを作った。
「…大変だったんだぞ。あの試合…隣にゃ緑間君がいたし、桐皇の青峰君も観に来てたみたいでな」
「え…!?」
「試合を終えてオレ達がここに来るまで、青峰君が烏羽についていてくれたよ」
真司は思わず扉の方へ目を向けていた。
青峰がここにいた、近くにいたというのか。いやそんなことよりも、試合を観に来てくれていたなんて。
「…青峰君」
「烏羽の無事を確認してさっき出てったけど…呼んでくるか?今ならまだ…」
「…、いえ、いいです。それより、皆に、話したいことがあります」
会いたいけれど。
真司は迷いを残しつつ首を振った。
今はチームメイトに話すべきことがあるから。
「分かった。皆を、呼んでくるよ」
がららっと白い扉を開いて木吉が外に出て行く。
それを見送った真司は改めて上半身をしっかりと起こし、自分の体を見下ろした。
「…どうなったんだっけ…」
咄嗟だったから、ほとんど覚えていない。
視界がぐるりと回って、酷い痛みを覚えて。
恐らく強く打ったのだろう頭に片手で触れて、そして視界が覆われた右目に触れる。
「痛っ…」
布、包帯だろうか。ぐるりと巻かれた目がその布越しに痛む。
包帯の下がどうなっているのか怖い。
でも、どうなろうとこの道を選んだのは自分だ。
ネガティブな思考にきゅっと左右の手を絡めて目を閉じる。
暫くしてがらら、という音が聞こえて、狭い視界を開いた。
「烏羽君…!」
真っ先にそう名を呼んだのは黒子だった。
続いてぞろぞろと皆入ってくる。どれほどの間意識を手放していたか知れないが、皆待っていてくれたようだ。
「良かった、烏羽君…!」
たたた、と駆け足で真司の横まで来たリコが眉を下げて微笑む。
リコにまでこんな顔をさせてしまうなんて。罪悪感にズキッと胸が痛む…なんて思うのは早かった。
「こんの…大馬鹿者っ!!」
そう叫ぶが早いかリコが拳を振り上げる。
あ、これはやばい。過去の経験から察して強く目を瞑る。
けれど、痛みはやってこなかった。
「…?か、監督?」
「ほんっとうに…心配したんだから…っ」
目を開く前にやってきたのは真司を包む柔い感触。
こうして女性に抱き締められるのは少し緊張する。
あまり肉付きのよくないリコの体からは女性特有のあれやそれを感じることは出来なかったが。
「監督…俺は、別に怪我しようがバスケが出来なくなろうが、構わなかったんです」
話さなきゃいけないこと。
もしかしたら皆に嫌われてしまうかもしれない。でも、もう隠してはいられないと考えていたことだ。
「何言ってるの、烏羽君?」
「俺は皆と違う。バスケなんて…全然好きじゃなかったんです」
リコの体がするりと離れた。
自分を見下ろすいくつもの顔を見る勇気はなくて、視線を落して真っ白なシ―ツを見下ろす。
「ウィンターカップに行けるかもしれない。そうなった時…俺は、やっと…赤司君に会えるって思ったんです」
本心だ、間違いなく自分でも感じた違和感。
自分はたぶん皆と違う喜びを感じていた。
「俺は、愛されたくてバスケをしていたんです。だから…彼らの手から離れたら、どうでもよくなったのかもしれません」
バスケは好きだ。けれど、試合に出る喜びは薄くなっていたのだと思う。
圧倒的な存在が、目の前にちらついてしまったから。
「だから俺は、木吉先輩がこれ以上酷くなるより、こうなった方が良いと思って…」
「はぁ…。烏羽君…あなた、どこまで馬鹿なの」
初めから分かってもらえるとは思っていなかったけれど、はっきりとした否定に真司の瞳が揺れた。
嫌われるのは怖い。追い出されるのは、居場所がなくなるのだけは。
「あのね、そもそも烏羽君は間違ってるのよ」
「…はい」
「バスケが出来るか出来ないか?そんなのどうでも良いのよ、いや良くはないけど…」
「?」
呆れきったリコの声、けれどそれはいつもの声だ。
恐る恐る顔を上げると、リコの手は真司の右側の頬を撫でた。
「ま、彼等に会った方が分かるかしらね」
「え?」
優しく微笑んだリコにきょとんと目を丸くする。
その時、タイミングよく病室の扉ががんっと開け放たれた。
「真司っち…!」
「おい病院で騒ぐな、黄瀬!」
だだっと駆けこんできたのは黄瀬。そしてその後ろから緑間が続いて入って来る。
「オレ、ほんっとにどうしようって…あああ、無事で良かったっス…っ!!」
「き、黄瀬君…どうして」
「緑間っちが連絡くれたんスよ、真司っちがやばいって…オレもう仕事途中で抜けだして来たっスよ!」
ぎゅっと手を握られ、その勢いに茫然とした。
「烏羽、頭を打っただろう。体に異常はないか?」
「え…あ…わ、かんない。たぶん大丈夫、かな」
「馬鹿が。オレの忠告を聞いておきながらお前は…」
いつも通りに辛辣な言葉を並べながらも、緑間の声色はどこか落ち込んでいる。
打ったのは頭。下手したら、今ここでこうして彼等と話すことさえ叶わなかったのかもしれない。
そう考えた瞬間、リコの言ったことを理解した。
「…ご、めんなさい…俺…自分のことしか、考えてなかった」
「真司っち…」
「心配かけて、ごめんなさい…」
きつく手を握り締める。
慰めようと黄瀬の手が背中を撫でるのも、今は酷く胸を痛めつけた。
自分は馬鹿だった、緑間の言う通りに。
「すみません、少し時間をもらってもいいですか」
ふと、そう言ったのは黒子だった。
その言葉は真司ではなくリコや日向…他の部員達に向けられている。
「どうした黒子?」
「烏羽君と話がしたいんです」
黒子の顔は真司から見えないが、どうやら何か深刻だったのか。
空気を察したように、全員部屋を出て行った。火神だけは不服そうだったが。
そうして振り返った黒子は、やはり真剣な顔つきをしていた。
「ボクからも、君に話すことがあります」
「…何?」
何となく病室の独特なニオイと相まって、不安が胸に渦巻く。
黄瀬と緑間も眉間にシワを寄せ、黒子の言葉を静かに待っていた。
「君は赤司君に会いたいと、そう言いましたね」
「え…あ、うん…ごめん」
「その件ですが、ウィンターカップに行っても叶わないかもしれません」
「…え?」
至って真面目な顔をした黒子が真司に近付いてくる。
黄瀬と緑間の顔色は、急に変わったように見えた。
「でも、洛山はウィンターカップ出場決まってるよね?赤司君はレギュラーに間違いないし」
「そうですね、赤司君は来るでしょう」
「テツ君?何が言いたいのかよく…」
少なくとも赤司はこちらに来る。
たとえ洛山と誠凛があたらずとも、物理的に会う事は可能のはずだ。
しかし、黒子の言葉を理解しているのだろう二人が口を開いた。
「真司っちは、知らなかったんスか」
「赤司は…烏羽の前でだけは変わらずいたのだよ」
「ああ…確かに、そうだったかもっスね」
真司だけ何も分かっていない状況に不安が大きくなる。
つまり、どういうことなのか。
揺れる瞳で黒子を見上げると、その小さな口が動いた。
「恐らくもう、君の知っている赤司君はいません」
聞いたところで、やはり真司には分からなかった。
「えっと…?」
「赤司君には二つの人格がありました。君はその片方しか知らないんです」
ぽかんと開いた口が塞がらなかった。
そんな現実味のない話を、どう信じろというのだろう。
何それ、と思わず笑いそうになる。けれど黒子も黄瀬も緑間も、表情は真剣だった。
「…じゃあ、もしそうだったとして…今赤司君に会っても、俺の知らない赤司君しかいないってこと…?」
「恐らくですが」
「皆知ってたの?何で…?俺が、一番赤司君の傍にいたと…思ってたのに…」
自然と声が震えた。
自分が誰よりも赤司の近くにいた、そう疑わなかったから。
「俺が、頼りなかったから…?俺には、教えてくれなかったってこと…?」
「烏羽君、それは違います」
「でも、俺だけが知らないなんて…そんな…」
慰めるように、しゃがんだ黒子の手が真司の手を握り締める。
上からはテーピングの巻かれた手が頭に乗せられ、優しく髪の毛を梳き取った。
「赤司がそう望んだからなのだよ」
「え…?」
「お前にだけは知られまいと足掻いていた。赤司は本当にお前を好いていた、ということだ」
慣れない事を言って少し頬を赤くした緑間の言葉に茫然とする。
喜んで良いのか、それは。だってその“赤司”はもういないという話なのに。
「…赤司君に会いたいよ…」
本当にいないのだと、信じたわけでは無いけれど。
「テツ君のせいで…、もっと赤司君に会いたくなった…」
溢れる思いが素直に口から零れてしまう。
本当は離れたくなかった、ずっと一緒にいたかった彼。
ようやく手が届くところに辿り着いたと思ったのに。
「ごめんなさい。言い出すタイミングが、分からなくて」
「…っ、ううん。でも、有難う、テツ君」
話しだけでは実感がないけれど、知らずに会うことになるよりは良かったのだろう。
よく分からないけれど、“赤司征十郎”には会えるのだから。
小さく頭を下げて、そして低い位置にある黒子の顔を見る。
しかし、黒子の表情はまだ硬かった。
「烏羽君、もう一つ言わせて下さい」
「え…な、何?」
そして再び開かれた口から発せられた声は、思いの外重くて。
まだ何かあるのだろうかと恐怖にごくりと唾を飲み込んだ真司は、続く黒子の声に言葉を失った。
「もう絶対に無茶はしないで下さい…!」
「…!」
滅多に声を荒げない黒子の声にびくりと震える。
真司だけじゃない、黄瀬と緑間も目を丸くしていた。
「あの後、冷静ではいられませんでした。君が…あんな風に倒れてボクは…!」
「て、テツ君…」
「君を大事に思っている人がいることを、絶対に忘れないで下さい。一人で何とかしようなんて思わないで下さい…!」
真司の手を握る黒子の手がきつく食い込んでくる。悲痛に歪んだ顔が、擦れた声が実感させる。
愛してくれる人はここにもいたのに。忠告は何度もされていたのに。
「…黒子の言う通りなのだよ」
「そっスよ。こんなことになったの、赤司っちが知ったらどうなるかー…」
そこで会話がピタリと止まったのは、思う事が一致したからだろう。
「黒子っち、ご愁傷様っス」
「烏羽君、君のせいでボクの寿命が縮みましたよ」
「なんか、ほんとにごめん…ふふ」
「何で笑うんですか」
ぷくっと頬を膨らませた黒子が可愛らしくて、思わず笑ってしまう。
けれどその瞬間右目がズキリと痛み、真司は咄嗟に片手で覆った。
「真司っち?大丈夫?」
「うん、なんか…倒れ方良くなかったのかも。目、ぶつけちゃったのかな…」
今まで感じたことのない痛みに、妙な恐怖を覚える。
嫌な予感、それはまだ終わっていなかったのだ。
「…もし、俺がバスケ出来なくなったら…赤司君に嫌われちゃうのかな…」
「烏羽君…」
「あ、もう、赤司君は、いないんだったっけ…?」
もし出来なくなったら。
真司の足を買ってくれた赤司や青峰はどう思うのだろう。
「真司っち、もし何か後遺症とか残っちゃっても…オレ、ずっと真司っちのこと支えるっスよ」
「烏羽、お前はもっと周りを頼れば良い」
「…有難う」
視線を下げて、未だ握られたままの黒子の手にもう片方の手を重ねる。
自分勝手だ、本当に。
自分勝手な行動に、やはり多くの人に迷惑と心配をかけて。
その罰か、真司は右目の視力を失う事となった。
・・・
「烏羽君、大丈夫ですか…?」
医者からの重い通告の後、静かになった病室には黒子だけが残った。
気を遣ってくれたのだろう、いやもしかしたら愛想をつかれたのかもしれない。
「…何ていうか…あんまりショックではないかな」
「治らないと決まったわけではないですし、ね」
右目の視力が完全に元に戻る可能性はかなり低いのだそうだ。
包帯の下がどうなっているのかはまだ分からないが、まあ元々目は悪いわけだし。
そう余裕をかいていられるのも、自分の状況を知らないからなのか。
「…ごめんなさい。ボクは少し安心してしまいました」
「え、安心?」
「もう君が無茶をすることはないだろうと、思って」
眉を八の字にして、けれど口元には笑みが浮かべられている。
黒子も内心複雑なのだろう。
それは真司も同じ。実感はないが、やはりいろんな意味での恐怖は拭えない。
「俺、そんなに危なっかしい?」
「はい、とても」
「小さいから…とかだったら怒るよ?」
ぐっと拳を作って黒子の方へ向ける。
冗談のつもりだったが、黒子は少し視線を下げて黙ってしまった。
「…あれ、テツ君?」
急に変わった空気に、真司も不安に眉を寄せる。
そして黒子の顔を覗き込んでみれば、今度は少し泣きそうに、瞳を揺らしていた。
「君に告白したことは、忘れて下さい」
「…え…?」
そしてはっきりと、揺れない声で言う。
むしろ息を震わせたのは真司の方だった。
「君の赤司君への思いがそんなに強いなんて思っていませんでした。軽率でした」
「そ、そんなこと…」
「ボクでは、赤司君の代わりにはなれないです。それはさすがに分かります」
台本でも読んでいるかのようにはっきりと。
そんな揺るぎない台詞を、黒子はどんな思いで告げているのだろう。
いつも真っ直ぐ真司を見つめる瞳がこちらを向かない。
「テツ君…待って」
「すみません…今日はゆっくり、休んで下さいね」
立ち上がる黒子の手を掴もうと伸ばす。
目一杯伸ばした上半身も虚しく、届かなかった黒子の手が遠ざかって行くのを見送るしかない。
「やだ…やだ、テツ君…!」
ばさっと布団を退かしてベッドの下に足を下ろす。
一瞬ふらりとよろけた体は、ぱっと振り返った黒子に支えられていた。
「な、にしてるんですか君は…」
「ごめんね、テツ君、ごめん…俺…」
「いいんですよ、ボクのことなんて気にしなくて…」
腕を掴んだ黒子の手がまた離れていく。
自分がどれ程残酷なことをしているのか、ずっと分かっていたから触れなかった。
黒子だけは巻き込んではいけないと。だけど。
真司の手は今度こそしっかりと黒子の手を掴み、丁度良い高さにある肩へ顔を押し当てていた。
「ホントは…こんなの駄目だって分かってるのに…」
「烏羽君?」
「好きなんだ、テツ君のこと…」
心臓がうるさくて、頭がズキズキと痛い。
苦しくて途切れる息を吐き出せば、黒子の体がびくりと震えたのが肌を通して伝わった。
「…そんな、気を遣わなくていいんですよ…?」
「ううん、俺、ほんとは結構前からテツ君のこと…い、意識、してたっていうか…」
信じられない、黒子の声色は明らかに真司の言葉を疑っている。
それでも、真司に言えることはこれ以上になかった。
黒子が好きだ。黒子“も”好きになってしまったのだ。
「ボクは、ずっと…ずるいと、思ってました。ボクが最初に君を見つけたのに…君に触れることが出来る、彼等が」
「ごめ…」
「ボクも触っていいんですか…?」
黒子の手が真司の肩を掴んで体を離す。
顔を上げると、黒子の熱っぽい視線がそこにあった。
「テツ君…なんか、やらしいよ…」
「君が悪いんですよ、今まで、ずっと我慢して来たんですから…」
黒子の指が真司の頬を滑る。
首を辿って、凹凸の無い胸に重なって、真司の心臓の高鳴りを感じたのか、また泣きそうに笑った。
「君が好きです」
「うん…俺、も」
待たせてごめん。受け入れてくれて有難う。
いろんな気持ちが入り乱れる。それを全部呑み込むかのように唇が重なり、真司は静かに目を閉じた。
決勝リーグ後やっと訪れた休日。
良く晴れた昼間に、彼等は火神の家へと押しかけていた。
「かんぱーい!」
かんっとコップがぶつかる音と声とが重なる。
テーブルの上にはそこそこ豪勢な食べ物が並んでいるが、全て火神の手料理だ。
「烏羽、もうどこも痛くないんだよな?」
「あ、はい。ご心配をおかけして…」
「あー違う違う、謝るとかそういうの良いから」
ぽんぽん、と一度躊躇いがちに伸ばされた手が、真司の頭に乗せられる。
優しく真司の頭を撫でる伊月の手は、腫れ物に触るかのようだ。
「ねぇ、火神君。台所借りても良い?」
「え、な、んでっすか」
「せっかくだから私がもっと体に良さそうなものを」
腕まくりをしながら立ち上がるリコを押さえ込む火神と日向を横目に、真司はふっと小さく笑った。
祝、ウィンターカップ出場を称して開かれたパーティ。
しかし、本当の狙いは真司の事で落ち込んだ雰囲気を元に戻す為であろう。
真司の自業自得で起こった事故。けれど、霞んだまま戻らなくなった視界は、皆のモチベーションをも下げてしまったのだ。
「あ、こっち側じゃない方が良いんだっけ」
「え?」
「烏羽、こっち側あんま見えてないんだろ?」
ふとした瞬間の気遣い。
それがいつまでも続くせいで、どうにも部員に真司の怪我のことを思い出させてしまう。
真司は確かに狭くなった視界の厄介さに、伸びきった前髪を耳にかけた。
「あ」
「ん?どうした?」
「いえ、髪の毛がかなり邪魔だなぁと…」
中学の頃から変えることのなかった髪型。
右目が見えにくくなった今、左目を覆う長い前髪はかなり邪魔だ。
「…」
「烏羽?」
少し悩んだのは、彼等の言葉をふと思い出したから。
しかし振り払うように真司は首を横に振り、無駄に力強く拳を握った。
「水戸部先輩…!」
「?」
急に声を上げた真司に、呼ばれた水戸部だけでなく全員の視線が真司に移る。
どうしたのだろう、自分に何か出来ることなら、そういう思いがその視線に溢れている。
真司はそれに気付きながら、真っ直ぐ水戸部に向けて言い放った。
「俺の髪の毛、切ってもらえますか」
「え!?」
水戸部が目を丸くし、言葉を発しない彼の代わりに小金井が驚きの声を上げる。
しかし小金井に留まらず、その声は周りに一気に広がった。
「な、なんで!?烏羽君、そんなに目の状態良くないの!?」
「え、いえ、ただ見づらいなーって」
「そりゃそうだろうけど、烏羽、いいのか?」
「別にそこまでこだわってませんし」
リコは真司を心配そうに見つめ、伊月も目を細めて覗き込む。
確かにあまり顔を見せたくないという思いはあったが、眼鏡と前髪でなんて限界はあるわけで。
とっくにクラスメイトには知られているのだから、今更問題はないだろう。
「烏羽君…」
「何、テツ君。まさかテツ君まで切らないでとか言い出すんじゃないだろうな」
「いえ…君の数少ない個性がなくなってしまうと思って」
「テツ君には言われたくない」
黒子の個性何て、影が薄いくらいしかないくせに。
そう小さく悪態つけるぐらい、精神的に余裕はあった。
「バスケ出来なくなってから髪を切るなんて、順番が変かもしれないけど…」
「いいんじゃない?視界もすっきり、気分もさっぱりすれば」
リコがニッと笑って水戸部の背中をとんと叩く。
少し戸惑ったような素振りをしながらも、水戸部はおずおずと立ち上がり火神に目をやった。
どこか借りて良いか、そう問いたいのだろう視線に火神が「洗面所を」と小さく返す。
「いいんですか?水戸部先輩」
既に火神が示した洗面所へ歩き出そうとしている水戸部に一応確認をとれば、笑顔でこくりと頷いた。
嘗て髪の毛を切りたいと小金井を通して聞いた、その気持ちは変わっていなかったらしい。
「なんか、ちょっとドキドキしてきた」
「たかが前髪切るだけでそんなに気張ることねーだろ」
「そんなことないよ!髪ってのは結構印象変えるんだぞ」
自分で言ってちょっと女子みたいだなとは思うが。
火神は不思議そうな顔をしながらも、ちょいちょいと手招きして真司を鏡の前の椅子へ導いた。
ついでに水戸部へハサミを手渡し、真司の膝へ新聞紙を置けば準備は万端だ。
「ひぇーオレも緊張して来た!」
洗面所の外から覗き込むようにして中を見る小金井が体を震わせる。
それに対して眉を下げながらもこくりと頷いて笑った水戸部は、「そうだね」とでも言っているのか。
「コガ、せっかくだから終わってからのお楽しみにしたらどうだ?」
「ん?んー、そっか、そうしよう!」
「楽しみにしてるぞ、水戸部、烏羽」
伊月が小金井の手を引いて去って行く。それに続いて先導してくれた火神もいなくなれば、水戸部と二人きりだ。
ちょっとした緊張はそのせいもあるだろう。
「あの、よろしくお願いします、水戸部先輩」
「…」
返事は沈黙だけれど、鏡には柔らかい水戸部の笑顔が映っている。
二人きりになることがなかったのは、確実に小金井が必要だったからだ。
「水戸部先輩は…」
「…」
「あ、目、閉じますね」
鏡に映る水戸部がこくこくと首を縦に動かし、真司は静かに目を閉じた。
水戸部の雰囲気と異なる大きな手が真司の額に触れる。
ほんの少しドキリとして、開きかけた口をきゅっと閉じた。
水戸部先輩は。自分をどう思っているのだろう、とちょっと聞きたかった。
今日はまだ木吉と言葉を交わしていない。
気を遣っているのか、近くにいる伊月はよく話しかけてくる。
「迷惑を…かけてますよね」
前髪に触れていた水戸部の手が一瞬ぴたりと止まった。
「多分、変わりたかったんです。目がつぶれたって前髪短くしたって…それが、何かきっかけになって欲しくて」
冷静になった今なら、目を閉じている今なら、自分の奥にあった心が自分で読み取れる。
きっとこんなことをしたって変わらない。どこかで赤司を求めて、青峰に触りたくて手を伸ばす。
「俺、弱くて。誰かにくっ付いてないと、駄目で…。そういうの、駄目だって思いながら、でも繰り返して…」
新聞紙に落ちる細い髪の束。その音だけが耳を掠めた。
水戸部は何も言わない。何か思っていても水戸部の声が真司の耳に届くことは無い。
それが、今は良かった。否定されることがないから、ネガティブな思いが零れる。
「水戸部先輩は…俺の事、…」
嫌にならないですか。
そう問う前に、水戸部の手がとんとんと真司の肩を叩いた。
思わず目を開くと、にこっと柔らかく微笑みかける水戸部の視線が鏡へと移動する。
「…あ、はは、なんか、テツ君の言う通り普通っぽくなっちゃったな」
その視線を追えば、目にかかる程長かった前髪がすっかり短くなっていた。
視界が広い。なんとなく顔が涼しくも思える。
「水戸部先輩、有難うございました…、え?」
ぱっと鏡から横に立っている水戸部に視線を戻すと、水戸部の手が真司の頭に乗せられた。
数回ぽんぽんと撫でるように触れて、その手が真司の背中に回る。
そのまま水戸部の胸に引き寄せられて、真司は暫くきょとんとしたまま動くことが出来なかった。
「…水戸部先輩?」
「…」
「あ、ああ…なんですかそれ、分かりにくいじゃないですか」
背中を撫でる大きな手。
「大丈夫だよ」と 「迷惑だなんて思ってないよ」と、そう触れる温もりが伝えてくる。
「水戸部先輩、もう大丈夫です」
「…」
「ふふ、あんまり俺に優しくすると惚れられちゃいますよ…?」
冗談だけれど、冗談になっていないような言葉に、水戸部はぱっと離れた。
そこまで嫌がらなくてもいいのに、と苦笑し見上げた水戸部の頬は薄ら赤くて。
「あ、えっと…戻りましょうか」
つられて赤くなった頬を隠すように、真司は俯き新聞紙を折りたたんだ。
そして意味なくパンパンと服を叩いてから水戸部の後をついて行く。
皆が待っている部屋に戻って、ひょいと水戸部の背中から顔を覗かせた真司を見た彼等の反応は。
「…っぷ」
「烏羽君…ふ、ふふ…か、わいい…」
「何か、幼くなったな」
笑顔が戻って、わしゃわしゃと手加減なく頭を撫でられたけれど。
「ば、馬鹿にしてるじゃないですかー!」
「オレ、責任とって烏羽の世話係になるからな」
「木吉先輩、そんなの俺求めてないですから!」
木吉が真司を抱き上げてくれたけれど。
真司は真っ赤になった頬を膨らませて、「何か思ってたのと違う!」と叫んでいた。