黒バス(2012.10~2017.12)
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あまりにも良い試合だった為か、試合が終わった後も余韻はなくならなかった。
ドキドキが、熱くなった体が治まらない。
「皆!よくやったわ!」
興奮した様子で立ち上がるリコが、彼等へ賞賛を送る。
気持ちは同じだ。なのに、立ち上がった真司は皆の元に駆け寄ることが出来なかった。
「…木吉先輩」
引き分けとはいえ湧き上がる喜び。
そんな状態と同時に胸の中にある不安。
外側から見ていた真司だからこそ気付いてしまったこともあった。
やはり木吉の足は完治していない。
試合最後のゴールで木吉は明らかに跳び損ねていた。
「どうした?そんな顔して。ほら、烏羽もハイタッチ」
「木吉先輩…どうして…」
「烏羽?」
自分の足のことだ、気付いていないはずがない。
それなのに、木吉は何という事もない顔をして笑っている。
「これでウィンターカップへの希望は繋がったんだ。今は喜べよ、烏羽」
「…」
「烏羽、言いたいことは分かる。後でちゃんと話すから、今は。な?」
「わかりました…お疲れ様です、木吉先輩」
でも、話してくれると言うなら。
真司は何とか笑顔をつくって、ハイタッチの為にこちらに向けられていた木吉の手に自分の手を重ねた。
そんな何とも言えない気持ちで控え室へ戻った真司は、やはり居ても経っても居られずに一人外に出た。
こんな顔をして、皆に何か悟られてしまう事の方が問題だ。
せっかくの試合の余韻を壊してしまうし、何より木吉の思う“話すべきタイミング”を失わせてしまうかもしれない。
「何か…別の事を考えよう…」
曇った顔を自分の手でぱちんと叩いて、広い会場を意味なく歩く。
そしてふと思い浮かべるのは、緑間のことだった。
(格好良かったな…)
圧倒的に目を引いた情熱的な彼の姿。
試合中には抑えていた彼への思い、思い返せば途端に愛しさが増してくる。
「はぁ…」
それはそれでどうなのだろう。
真司は自分の不甲斐無さに額をおさえ、そして大きく溜め息を吐いた。
「お前は、何度ため息を吐くつもりなのだよ」
ああ、幻聴まで聞こえてくる。
やっぱり自分はかなり奴に惚れこんでいるようだ。
「緑間君…」
「なんなのだよ」
「……緑間君!?」
とん、と肩に触れた手と声。
幻聴でも幻想でもなかったその人は、試合後とは思えない程に冷めた顔で立っていた。
「わ、わぁ…わぁあ…」
「だから何なのだよ」
「何で今出てくんだよもう。俺別にそういうつもりじゃなかったのに…!」
試合中とは打って変わっていつも通りの緑間だ。
なのに、真司の一度上がってしまったメーターは切り替わろうとしなかった。
「緑間君…抱き着いてもいいですか」
「…烏羽?」
「ちょっとだけでいいから…!」
自分でも馬鹿げたことを言った自覚はあった。
けれど、真司は返答を待つことなく、緑間に抱き着いていた。
「おい烏羽!」
「ごめん…今、ちょっと、ホントに駄目だ俺…」
背中に腕を回せば、それだけで緑間の体格の良さが分かる。
自分より遥かに大きな体。
別にそんなこと疾うに分かっている事なのに、それすら真司の胸をくすぐった。
試合後特有の汗臭ささえも愛しい。
「分かったから落ち着け、一体何なのだよ」
「ん…別に、特に意味はないんだけど…」
「意味がないのにこんな事をする程…お前が阿呆だったとは知らなかったな」
「阿呆で悪かったな」
そう言いながら真司の背中をぽんぽんと撫でる緑間の背中にぎゅっとしがみ付く。。
そこから顔だけを上げれば、さすがに困った顔をした緑間と目が合った。
「緑間君が、あんなに楽しそうにバスケするなんて、知らなかったよ」
「…別に、楽しそうになどしていない」
「またまたぁ、あんなに声張り上げてさ、あんなに…」
そこまで言って、真司ははたと口をとざした。
試合中の光景、試合中にだけ見せる緑間の顔が思い出される。
「急に黙るな、やはり今日のお前は変なのだよ」
「…緑間君のせいだよ」
「何故、」
緑間の声が途中で止まる。
真司は咄嗟に顔を緑間の胸に埋めたが、たぶんバレたのだろう。
顔が熱い。自分から抱き着いておいて、こんな事になるのも情けない話だ。
「今日に限って…どうした?」
「んー…」
「烏羽?」
優しい声が耳に入ってくる。
試合中に聞いた声も好きだが、優しく囁かれる低い声もとても好きだ。
もう少しくっ付いていたい。耳元でもっと囁いて欲しい。
「真司っち……!」
そんな二人の世界は、緑間よりも高く気の抜けた声によって壊された。
「な、ななな、な、何してんスか!?え!?緑間っち!ちょっと!?」
「黄瀬、煩いのだよ」
「黄瀬君煩い」
「うるさくもするっスよ!」
渋々緑間から離れて顔を上げると、茫然とこちらを見ているのは黄瀬だけではなく。
大きな目をぱちぱちと瞬かせて黄瀬の後ろからこちらを覗くのは、桃井だ。
「へ~…ミドリンと烏羽君がそんなに仲良しなんて知らなかったよ」
「オレも初めて目の当たりにして困惑してるっス…」
二人の視線は緑間と真司とを交互に泳ぐ。
それは真司をサッと現実にまで引き戻してくれた。
「あー…俺もびっくりしてる」
「オレはかなり驚いたのだよ」
「だよね?ちょっとどうかしてた」
改めて緑間と顔を合わせれば何ということもない。
いつもの緑間だ。特別格好良いとかいうこともない、いや彼は元々格好良いのだが。
「ていうか、黄瀬君と桃井さん一緒に観に来たの?」
「え?ううん、こっちに来てから偶然きーちゃんと会って、ね」
「せっかくだから一緒に観戦してたっス。なかなかいい試合だったんじゃないスか?」
へらっと笑いながらも、黄瀬が珍しくそんな感想を述べるということは、実際に良い試合だったのだろう。
真司は満足気にふっと笑い、それから焦ったように緑間を振り返った。
「緑間君、結構無茶してなかった?大丈夫?」
火神と緑間。二人は互いに限界を超えてぶつかりあっていた。
火神が跳べなくなるまで打つ。緑間が打てなくなるまで跳ぶ。
結局最後まで二人は折れなかったのだ。
「烏羽…オレのことよりお前は自分の心配をした方が良いのだよ」
「え、何で?」
「次の試合は、…霧崎第一、花宮真のいるところだろう」
花宮。その名前に真司が目を開く。
桃井も何か思い当たることがあったのか、顔を強張らせた。
「その花宮…って、そんなに危ない選手なの?」
「そっか、烏羽君は詳しく知らないよね。無冠の五将のこと」
「…?」
“無冠の五将”。
聞いたことがあるような気がするが、詳しくは知らない。
きょとんとすると、桃井に続けて黄瀬が口を開いた。
「オレらの一つ上にいた実力のある五人の選手の総称っスね。誠凛の木吉鉄平もその一人のはずっスよ」
「へぇ、そうなんだ」
「時代が違ければ彼等が“キセキの世代”と呼ばれてたかも、なんて話も聞いたことあるっス」
なるほど、だから木吉と花宮に接点があったのか。
なんて、さして興味がわかないのは、真司が知りたいのはそこではないからだ。
「無冠の五将の一人が花宮って人だとして…でも、そんなに脅威になるってわけじゃないよね」
無冠の五将の一人は同じく誠凛にいるわけだし。
何よりキセキの世代と同等の力を持つ火神がいて、シックスマンだった黒子もいる。
真司の言いたいことが分かったのだろう、桃井も緑間も分かりやすく顔をしかめた。
「まず…霧崎第一は今回の決勝リーグ、誠凛に照準を合わせてきている」
「どういうこと?」
「オレ達とやった時、レギュラーは試合に出ず、誠凛の試合を観に行っていた」
緑間の言いたいことはつまり。
決勝リーグは二勝すればいい。だから一つ…秀徳との試合を捨てて、誠凛を研究しに来ていた、ということだろう。
「うわ何それ、絶対負けたくない」
「問題はもう一つあるのだよ。霧崎第一は…かなりラフなプレイをする」
「ラフ…?」
「審判には分からない程度の、反則すれすれの行為を行うということだ」
緑間の説明ははっきりと断言していなかったけれど、真司の中にあった予想と重なっていた。
木吉の怪我、それは霧崎第一のそのプレイによって負ったもの。
試合中にわざと、怪我を負わせるようなことをしたのだろう。
「…そっか、教えてくれて有難う」
「烏羽。次の試合、お前には出て欲しくないのだよ」
「っ、オレもっス。真司っち小っちゃいから怪我じゃ済まないかも」
緑間も黄瀬も、心配そうに真司を見下ろしている。
その気持ちは有難い。
でも、タイミングとしては完璧だった。
「心配してくれて有難う。でも大丈夫だよ」
木吉の事が自分の中で明らかになったのに、思いの外冷静でいる。
恐ろしい程に冷静に、真司の中に一つの考えがチラついていた。
自販機でおしるこを買った緑間の後に続いて会場の外に出ると、リアカーをくっつけた自転車がどどんと待ち構えていた。
想像はつくが、恐らくこの自転車を高尾に漕がせて自分は悠々とリアカーに座るのだろう。
「えぇ、せっかく久しぶりに会えたのにもう行っちゃうの?」
「ああ。別に今更話すことなどないだろう」
「もー!ミドリン冷たい!」
桃井に腕を引かれながらも、躊躇することなくリアカーに手をかける。
今にも帰ろうとしている緑間だが、残念ながら漕ぐ人がいなければ待つしかない。
ここで高尾を一人待つ緑間を想像してくすりと笑ってしまった真司は、「そうだ」と言い振り返った緑間を見上げた。
「何?緑間君、どうかした?」
「次の試合は一週間後だろう。明日、練習はあるのか?」
「え…どうかな。二日試合続いたし…ないかも?」
「そうか。なら…」
緑間の質問の意図が分からず、続く言葉を待つ。
しかし、先に何か察したらしい黄瀬によって再び遮られた。
「ちょっと待った!緑間っち、今ここにオレがいること忘れてないっスか?」
「…お前は桃井をつれてさっさと帰れ」
「そーはいかないっスよ…真司っちはオレと先に約束するんスから」
「勝手に決めるな。烏羽の迷惑も考えろ」
おずおずと下がった桃井と目を合わせて首を傾げる。
言い合いを始めてしまった二人に割り込む勇気はないし。
「もー…て、あれ?」
どうしたもんかと二人を見上げていた真司は、つんと何かが足にぶつかり視線を一気に足元まで下げた。
そこにいたのは白と黒のもふもふ。
「二号、どうしてこんなところに?」
「え、何、二号?ってキャアアア可愛い!!」
どうやって一人でここまできたのか、足にすり寄って来た小さな子犬を腕に抱きかかえる。
黒子と似ているという部分を無意識のうちに気付いたのか、桃井の頬はパッと赤らみかなり嬉しそうだ。
「何この子、烏羽君のわんちゃん?私も抱きたい!」
「うちのバスケ部で飼ってる子なんだ。どうぞ」
「わああ、有難う!」
桃井の腕に二号を預けると、桃井はすぐさま整えられた綺麗な毛並みに頬を寄せた。
そんな彼女を横目に、真司は改めて大男二人を見上げる。
「な、何なんスかぁ?」
「全く。馬鹿げたことに付き合って余計に疲れたのだよ」
「だーれのせいだと思ってんスかぁ?」
妙な口争いをしていたことがどうでも良くなったか。
声のトーンに落ち着きが戻っている二人に、微笑ましさを覚える。
こうして少しずつでも皆との時間を取り戻したい。中学二年、当然のように皆と過ごしていたあの頃のように。
「…じゃあ俺は、二号連れて戻るよ」
「え、烏羽君ももう行っちゃうの?」
「うん。さすがにこれ以上皆に迷惑かけるわけにはいかないし」
名残惜しそうに渡された二号を改めて腕に抱える。
それから真司は二号の片手をひょいと上に持ち上げ、それを左右に動かした。
「じゃ、またね」
復唱するかのように「わふっ」と二号が声を上げる。
桃井は嬉しそうに笑い、黄瀬は目を細め、そして緑間はふんと息を漏らした。
「真司っち…いつからそんなにあざとくなっちゃったんスか…」
「アイツは最初からああいう奴なのだよ」
「あああ…あのわんちゃん…なんか好き!!」
三人の声を背後に聞き、胸に膨らむ思いで頬が緩む。
駄目だ、せっかく抑えられたのだから。このまま。
でも我慢出来なくてチラと振り返ると、パッと笑顔が咲いた。
「真司っち!暇な時は連絡してね!」
「おい黄瀬!」
「言ったもん勝ちっスよ!」
ぶんぶんと手を振る黄瀬にもう一度、今度は自分の手を振り返す。
不本意そうではあるが緑間の掌もこちらに向いていて、それが思いの外かなり嬉しくてまた顔が緩んでしまった。
「…良かったんですか?」
「あ、テツ君!」
会場の中に再び戻ると、入口のすぐわきに黒子が立っていた。
探させてしまったのだろうか。いや、探しにといえば二号の方か。
「良かったって、何が?」
それよりもまず黒子の問いに疑問で返すと、それには「いえ」と小さく否定が返されてしまった。
大きく尻尾を振る二号を黒子の手に預け、言葉なくとも二人控え室の方へ歩き出す。
妙な空気の重さ、今までの鈍い真司なら気付かなかったろうその正体に気付いてしまった真司の頬がかっと赤く染まった。
「あ、いや別に…緑間君と黄瀬君とは普通に話してただけだよ?も、桃井さんもいたし!テツ君も来れば良かったのに」
「すみません…。今日の君は緑間君について行くだろうと思っていたので」
「あ…はは、そう、思う?」
どんな思いで黒子はそれを口にするのだろう。
真司は口元に浮かべた笑みを消し、八の字にした眉をそのままに俯いた。
「なんで俺は、男に対してドキドキとか、しちゃうんだろ…」
「烏羽君?」
「テツ君は、さ、感じないんでしょ?緑間君のこと格好良いとか、素敵だなぁ…とか」
「そうですね…。格好良いとは思わなくもないですが、ドキドキするかと言われると…」
あ、困ってる。
珍しく口ごもった黒子にまた口元に笑みが戻って来たのは、恐らく自分への嘲笑だ。
こんなこと今更、黒子に言ったって仕方がないのに。
「でも、そんな風に思ってもらえる彼等が羨ましいです」
隣を歩く黒子の手が真司の手とぶつかった。
どくんと胸がなって、血が急速に体を巡る感覚。
「て…テツ君…俺は…」
そんな風に思われていい人間じゃない。
それは黒子の為を思ってのことか、それとも自分の為か。
震える口が思いを伝えそうになって、それを何とか堪えたけれど、たぶん顔は真っ赤だ。
「烏羽君、そんな脈アリっぽい顔しないで下さい。調子にのりますよ」
「ちょ、うしに…のったら、どう、なるの」
足を止めて、一歩先に進んだ黒子の顔をじっと見つめる。
黒子は躊躇いがちに一瞬目を逸らして、そして目を閉じた。
「烏羽君、今のは酷いです」
「え」
「無自覚なら尚タチが悪いです。なかったことにしますから、早く…皆と合流しましょう」
それから真司の言葉を待たず黒子が先を歩き出す。
その黒子の髪の隙間から見える耳が赤くて、また自分が何か余計な反応を返したのだと気付いてしまった。
思わず駆け寄ろうとして、でも何を言ったら良いのか分からない。
真司は数歩遅れる形で黒子の後を追った。
・・・
真司に続いて桃井も立ち去った後。
当然ながら動き出す様子のないリアカーを暫く見ていた黄瀬は、はーっと大きく溜め息を吐いた。
心中は複雑だ。ライバルでありそして同士である。そう評価できる緑間をちらと見れば、その緑間も怪訝そうに黄瀬を見ていた。
「さっきから何なのだよ。オレの傍でため息ばかり吐くな」
「…緑間っち、分かってんスか?」
冷たい緑間の発言を気にするようでもなく、黄瀬が口を尖らせて言う。
その黄瀬の問いに緑間は更に「何が」といった様子で眉間のシワを深くさせた。
「悔しいけど、真司っちにとって赤司っちの存在は大きいっス。誠凛がウィンターカップに進めば、二人は確実に顔を合わせることになるんスよ」
そして急に低い声で黄瀬が話し出せば、それはそれで不機嫌になった緑間が腕を組む。
何が言いたいかは何となく察しがついた。
「オレなら…意地でも連れ帰った。残り少ないチャンス、逃さないっスよ絶対に」
「黄瀬…何を焦っているのだよ」
「だって、前ならこっちから言わなくたってついて行くって…一緒にいたいって言ってくれたのに。真司っち、変わったっス」
中学を卒業して、それだけで心も体も何もかも遠くなったのは確かだ。
焦っていたのも事実。
向けられる好意は変わっていないと分かった今でもそれは変わらない。
「オレ、黒子っちなら平気だって思ってた。でも今は怖いっスよ。黒子っちに、誠凛に真司っちを捕られちゃうって」
「烏羽にも帰る場所が出来たということだ。それは喜んでやるべきことなのだよ」
少なくとも、真司は中学最後より今の方が楽しそうだ。
楽しそうでいて、穏やかで、でもどこか緊張している。
「なんでそんな余裕なんスか。オレは…真司っちの可愛いとこも綺麗なとこも格好良いとこも…エロいとこも全部手に入れたい」
「そういうことを言うんじゃないのだよ…。我慢しているのは、お前だけじゃない」
緑間の言葉に、黄瀬がくくっと笑った。
欲深いのも同じ、求めるものも同じ。
全く異なるタイプの二人が、今は同じ思いに火をともしていた。
2日間の決勝リーグを終えて、またいつもの生活が戻ってくる。
だからって気持ちが落ち着かないのは、週末にまだ一試合残っているからだ。
焦る気持ちを抑えきれず、放課後ダッシュで部室に向かう。
余りにも急ぎ過ぎたか、部室にはまだ日向とリコしかいなかった。
「あら、烏羽君早いわね」
「あ…はは、落ち着かなくて」
「ま、丁度いいわ。早速だけど自分のロッカーの整理してくれる?」
乱雑に置きっぱなしにされていた教科書類を抱えたリコが、大してこちらを見ること無く言う。
きょとんとして日向を見れば、「あー…」と無意味な声を漏らして視線を暫く泳がせた。
「え、何ですか?今日、何か特別な日でしたっけ?」
「別に特別ってことはないけど、明日部室棟に生活指導が入るから、汚いままじゃ面倒でしょ」
なんだ、そんなことか。
安心したのも束の間、周りを見渡して驚くのはこの部室の汚さだ。
今年に入って部室の掃除なんてことは一度も行っていない。
「…ひっどい有様ですね」
「ええ。見ての通りよ」
「最近じゃ木吉が帰ってきたせいで物増えたしな。飴のゴミ散らかってっしよ…」
はー、とため息を吐いた日向の何気ない一言。
それに真司がぴくりと肩を震わせたのは、呟かれた名前が今酷く気掛かりだったからだ。
「あの…木吉先輩の足って…去年の霧崎第一との試合から治ってないんですよね」
「…!?なんで、それ…っ」
既に確信に変わっていたことだが、あえて聞いてみる。
真司の言葉にばっと振り返ったリコと、目を丸くした日向。
それだけでやはり確信は事実へと変わった。
「やっぱり、そうなんですね」
「悪い、隠してたつもりはないし、いつかは話さねーとって思ってたんだけど」
「いえ、それはいいんです、それより…次の霧崎第一との試合、俺を使って下さい」
思わぬ真司の発言に、リコと日向の眉が怪訝にひそめられる。
二人視線を合わせ、先にリコが真司に視線を戻し口を開いた。
「…どうしてその鉄平の足のこと知ったのかしらないけど、復讐したいとか思ってるなら…」
「俺、花宮真からこのことを聞いたんです。わざわざ、自分が怪我させたって、そう教えるかのように」
「え…それ、」
あの日のことを思い出す。
あの時は必死だったから考えもしなかったことだ。
けれど改めて考えてみれば、花宮はあえて情報を晒すことで真司を誘っていたのではないだろうか。
「けしかけられて、俺、黙ってられないです。でも、復讐だとかそういう風には…思ってません」
「だからってねぇ…!」
「それに!相手のやり方を考えると、俺の個人プレイは役に立つんじゃないかと思うんです!的も小さいし…」
どんなプレイで木吉に怪我を負わせたのかは分からない。
けれど、真司の体の小ささや瞬発力は逆に相手を翻弄させられる。
真司はそれを言い切ると、リコの顔をじっと見つめた。
これが真司の答えだ。この部の為に出来る最善だと思っている。
「…言いたいことは分かったけど、烏羽君の気持ちがどうだからって試合に出すかは別よ。次の試合次第でウィンターカップに行けるかが決まるんだから。私は最善のメンバーを選ぶだけ」
「…はい、分かってます」
「じゃあこの話は終わり。さっさとロッカー片す!」
気持ちが伝わったのか、それともはぐらかされたのか。
しかしそう言われてしまったら、これ以上真司は何も言えない。
何となくスッキリしないまま、真司は自分のロッカーの前に移動するしかなかった。
そして切り替えようと頭を左右に振って、ロッカーを開いて。
中を確認した瞬間、真司は思い切りロッカーを閉めていた。
「ちょ、っと待って下さい。今日はロッカーのコンディションが悪いです」
「は?何言ってんの、烏羽君」
「いえあの、今日はこのロッカー…ちょっと、あれです、駄目な日です」
自分のロッカーを隠すように背で守る。
それはリコと日向にとっては逆効果だった。
「…まさか、烏羽お前…いかがわしい何かを」
「ち、違いますよ!?」
「日向君、押さえて」
「おう」
「ちょ…!!先輩!!」
日向の腕にがっちりと捕えられ、ロッカーの前からずりずりと遠ざけられる。
そして迷うことなく真司のロッカーを開いたリコの動きが、ぴたりと止まった。
「…メイド服…?」
目に入ったものの名前をはっきりと告げたのは日向だ。
リコはゆっくりと振り返り、憐みをもった目を真司に向けていた。
「人の趣味にとやかく言うつもりはないけど…烏羽君…」
「違うんですそれは!クラスの女子が持ってきて、あげるとか言うから…っ、その、いつか何とかしようと思ってて!」
それは数日前の出来事だ。詳しく説明するつもりはないが、文化祭うんぬんの話し合いから起こったこと。
認めたくないが、メイド服は真司によく似合う。らしい。
「面白いじゃない、今日はそれ着て掃除すれば?」
「は?」
「いいんじゃないか、つか見たい」
「先輩…!!」
リコがロッカーからそれを取り出して真司に押し付ける。
監督と主将。二人の圧迫感に耐えられる程、真司は強い後輩ではなかった。
・・・
「なあ、気のせいかな…メイドがいるんだけど」
「メイドがいる…ここが冥土か!」
部室に入って来た部員達の反応に、真司は大量の本を手に持ったまま振り返った。
肩にかかる程伸びた髪を二つに結わいたのはリコだ。
纏うひらひらの服は真司のロッカーから出たメイド服。
「どうも、こんにちは」
「いやいやいや!そこは“お帰りなさいませご主人様”でしょ!」
「小金井先輩…俺、全然そういうつもりじゃないんで」
真司の反応に小金井が残念そうに眉を下げる。
その後ろで茫然としている木吉は、部室の扉の外に突っ立ったまま。
「おい木吉?お前もさっさと手伝えよ」
「え、何、掃除してんの?」
「そーだよ、コガ、お前もさっさと手伝え」
声をかけられた木吉よりも前に小金井が動き出す。
伊月は真っ直ぐに真司に向かうと、ひらひらとしたスカートの裾を掴んだ。
「これ、どうしたんだ?ずいぶん可愛らしくなって…」
「まあその、あったんで…」
「へぇ?つか髪の毛伸びたんだな。おさげ?可愛いな」
短いながらも左右に結ばれた髪の束を伊月の指が弄ぶ。
端正な伊月の顔に覗かれて少し恥ずかしくなり、真司は手に持っていた本を伊月の方へ押し付けた。
「そ、んなことはいいですから、これ」
「お?そういや何で急に掃除なんか…いや、すべきだとはずっと思ってたけどさ」
それを受け取った伊月が意味も無く真司の頭を撫でる。
やっぱりこの人モテるんだろうな。
彼の無意識の行動に感心しつつ、真司は邪魔なスカートを上に持ち上げた。
「ちょ…!」
声を上げたのは、余りの頭の悪さに居残り勉強させられていた火神だ。
「な、ななな、何、してんだテメェ…!」
ずかずかと木吉の横を通り過ぎて入ってきた火神が真司の手を掴む。
そして何を思ったか素早く手放した。
「スカートをめくるな…!じゃねえ何スカートはいてんだ!つかなんだこの服!?」
「おお…盛大な突っ込み有難う」
「なんなんスかこれ!?せ、先輩達が着させたんスか!?」
顔を真っ赤にして怒っているのか戸惑っているのか。
やけに声が大きい火神に対し、日向が一言「うるせぇ」と返した。
「っ…いや待て、お前は本当に真司か!?」
「ちょ、その突っ込みはおかしいから。っていうか顔近いし手痛いんだけど…」
「っ!悪ィ!」
怒涛の勢いで離れた火神に、日向が一発蹴りをくらわす。
似合ってしまっているのは間違いないだろうが、そんなに動揺することだろうか。
「おい火神、遅刻した罰だ、ここのロッカーの中身出せ」
「は!?理不尽だろ!…っですよ!」
向こうで繰り広げられているやり取りを遠く聞きながら、真司は真司で使われていないロッカーを開く。
埃だとかそういうレベルではない。いろんな菌が増殖していそうな魔の樹海と化した空間。
そこに恐る恐るほうきを突っ込んで中身を取り出そうと試みる。
その瞬間、黒い悪魔の遣いが真司の横をすり抜けたのが見えた。
「っ…わああああ!!!」
条件反射で叫び、そしてそこにいた人にしがみ付く。
真司の声に驚き振り向いた部員達の目線は、すぐさま足元に移動していた。
「で、でた!!」
「いるとは思ってたけどマジで出やがった!」
「ちょ、ちょっと、誰か早く叩いて!」
途端に騒がしくなった部内を駆け回る黒くて小さい奴。
皆の視線は当然奴が張りついた壁に向けられる。
その隙に、だったのか。
「烏羽…ちょっと、いいか」
「はい?え、ちょ…」
真司は思わず抱き着いてしまったその人…見上げて初めて木吉であったと気付いたが、彼に腕を引かれていた。
部室を出て、通路の端まで連れて行かれる。
途端にメイド服を着ている自分が恥ずかしくなって、真司は移動の最中ボタンを解き、袖から腕を引きぬいた。
「…木吉先輩…?」
下はひらひらのスカート、上半身はタンクトップという中途半端な恰好で見上げる。
このタイミングでの呼び出しとは一体なんだろう。
「あ、もしかして、今俺が飛び付いちゃったから…足、痛みましたか…?」
静かな木吉が不自然で、恐る恐るそう問いかける。
本当は期待していた。花宮との、霧崎第一とのことを詳しく教えてくれるのではないかと。
けれど、木吉はゆっくりと首を振って、それから真司の肩を掴んだ。
「烏羽。オレは今、お前が本当に女の子なら良かったと思ったよ」
呆気にとられる。
真司は木吉の真っ直ぐな視線から目を逸らすことが出来なかった。
ドキドキが、熱くなった体が治まらない。
「皆!よくやったわ!」
興奮した様子で立ち上がるリコが、彼等へ賞賛を送る。
気持ちは同じだ。なのに、立ち上がった真司は皆の元に駆け寄ることが出来なかった。
「…木吉先輩」
引き分けとはいえ湧き上がる喜び。
そんな状態と同時に胸の中にある不安。
外側から見ていた真司だからこそ気付いてしまったこともあった。
やはり木吉の足は完治していない。
試合最後のゴールで木吉は明らかに跳び損ねていた。
「どうした?そんな顔して。ほら、烏羽もハイタッチ」
「木吉先輩…どうして…」
「烏羽?」
自分の足のことだ、気付いていないはずがない。
それなのに、木吉は何という事もない顔をして笑っている。
「これでウィンターカップへの希望は繋がったんだ。今は喜べよ、烏羽」
「…」
「烏羽、言いたいことは分かる。後でちゃんと話すから、今は。な?」
「わかりました…お疲れ様です、木吉先輩」
でも、話してくれると言うなら。
真司は何とか笑顔をつくって、ハイタッチの為にこちらに向けられていた木吉の手に自分の手を重ねた。
そんな何とも言えない気持ちで控え室へ戻った真司は、やはり居ても経っても居られずに一人外に出た。
こんな顔をして、皆に何か悟られてしまう事の方が問題だ。
せっかくの試合の余韻を壊してしまうし、何より木吉の思う“話すべきタイミング”を失わせてしまうかもしれない。
「何か…別の事を考えよう…」
曇った顔を自分の手でぱちんと叩いて、広い会場を意味なく歩く。
そしてふと思い浮かべるのは、緑間のことだった。
(格好良かったな…)
圧倒的に目を引いた情熱的な彼の姿。
試合中には抑えていた彼への思い、思い返せば途端に愛しさが増してくる。
「はぁ…」
それはそれでどうなのだろう。
真司は自分の不甲斐無さに額をおさえ、そして大きく溜め息を吐いた。
「お前は、何度ため息を吐くつもりなのだよ」
ああ、幻聴まで聞こえてくる。
やっぱり自分はかなり奴に惚れこんでいるようだ。
「緑間君…」
「なんなのだよ」
「……緑間君!?」
とん、と肩に触れた手と声。
幻聴でも幻想でもなかったその人は、試合後とは思えない程に冷めた顔で立っていた。
「わ、わぁ…わぁあ…」
「だから何なのだよ」
「何で今出てくんだよもう。俺別にそういうつもりじゃなかったのに…!」
試合中とは打って変わっていつも通りの緑間だ。
なのに、真司の一度上がってしまったメーターは切り替わろうとしなかった。
「緑間君…抱き着いてもいいですか」
「…烏羽?」
「ちょっとだけでいいから…!」
自分でも馬鹿げたことを言った自覚はあった。
けれど、真司は返答を待つことなく、緑間に抱き着いていた。
「おい烏羽!」
「ごめん…今、ちょっと、ホントに駄目だ俺…」
背中に腕を回せば、それだけで緑間の体格の良さが分かる。
自分より遥かに大きな体。
別にそんなこと疾うに分かっている事なのに、それすら真司の胸をくすぐった。
試合後特有の汗臭ささえも愛しい。
「分かったから落ち着け、一体何なのだよ」
「ん…別に、特に意味はないんだけど…」
「意味がないのにこんな事をする程…お前が阿呆だったとは知らなかったな」
「阿呆で悪かったな」
そう言いながら真司の背中をぽんぽんと撫でる緑間の背中にぎゅっとしがみ付く。。
そこから顔だけを上げれば、さすがに困った顔をした緑間と目が合った。
「緑間君が、あんなに楽しそうにバスケするなんて、知らなかったよ」
「…別に、楽しそうになどしていない」
「またまたぁ、あんなに声張り上げてさ、あんなに…」
そこまで言って、真司ははたと口をとざした。
試合中の光景、試合中にだけ見せる緑間の顔が思い出される。
「急に黙るな、やはり今日のお前は変なのだよ」
「…緑間君のせいだよ」
「何故、」
緑間の声が途中で止まる。
真司は咄嗟に顔を緑間の胸に埋めたが、たぶんバレたのだろう。
顔が熱い。自分から抱き着いておいて、こんな事になるのも情けない話だ。
「今日に限って…どうした?」
「んー…」
「烏羽?」
優しい声が耳に入ってくる。
試合中に聞いた声も好きだが、優しく囁かれる低い声もとても好きだ。
もう少しくっ付いていたい。耳元でもっと囁いて欲しい。
「真司っち……!」
そんな二人の世界は、緑間よりも高く気の抜けた声によって壊された。
「な、ななな、な、何してんスか!?え!?緑間っち!ちょっと!?」
「黄瀬、煩いのだよ」
「黄瀬君煩い」
「うるさくもするっスよ!」
渋々緑間から離れて顔を上げると、茫然とこちらを見ているのは黄瀬だけではなく。
大きな目をぱちぱちと瞬かせて黄瀬の後ろからこちらを覗くのは、桃井だ。
「へ~…ミドリンと烏羽君がそんなに仲良しなんて知らなかったよ」
「オレも初めて目の当たりにして困惑してるっス…」
二人の視線は緑間と真司とを交互に泳ぐ。
それは真司をサッと現実にまで引き戻してくれた。
「あー…俺もびっくりしてる」
「オレはかなり驚いたのだよ」
「だよね?ちょっとどうかしてた」
改めて緑間と顔を合わせれば何ということもない。
いつもの緑間だ。特別格好良いとかいうこともない、いや彼は元々格好良いのだが。
「ていうか、黄瀬君と桃井さん一緒に観に来たの?」
「え?ううん、こっちに来てから偶然きーちゃんと会って、ね」
「せっかくだから一緒に観戦してたっス。なかなかいい試合だったんじゃないスか?」
へらっと笑いながらも、黄瀬が珍しくそんな感想を述べるということは、実際に良い試合だったのだろう。
真司は満足気にふっと笑い、それから焦ったように緑間を振り返った。
「緑間君、結構無茶してなかった?大丈夫?」
火神と緑間。二人は互いに限界を超えてぶつかりあっていた。
火神が跳べなくなるまで打つ。緑間が打てなくなるまで跳ぶ。
結局最後まで二人は折れなかったのだ。
「烏羽…オレのことよりお前は自分の心配をした方が良いのだよ」
「え、何で?」
「次の試合は、…霧崎第一、花宮真のいるところだろう」
花宮。その名前に真司が目を開く。
桃井も何か思い当たることがあったのか、顔を強張らせた。
「その花宮…って、そんなに危ない選手なの?」
「そっか、烏羽君は詳しく知らないよね。無冠の五将のこと」
「…?」
“無冠の五将”。
聞いたことがあるような気がするが、詳しくは知らない。
きょとんとすると、桃井に続けて黄瀬が口を開いた。
「オレらの一つ上にいた実力のある五人の選手の総称っスね。誠凛の木吉鉄平もその一人のはずっスよ」
「へぇ、そうなんだ」
「時代が違ければ彼等が“キセキの世代”と呼ばれてたかも、なんて話も聞いたことあるっス」
なるほど、だから木吉と花宮に接点があったのか。
なんて、さして興味がわかないのは、真司が知りたいのはそこではないからだ。
「無冠の五将の一人が花宮って人だとして…でも、そんなに脅威になるってわけじゃないよね」
無冠の五将の一人は同じく誠凛にいるわけだし。
何よりキセキの世代と同等の力を持つ火神がいて、シックスマンだった黒子もいる。
真司の言いたいことが分かったのだろう、桃井も緑間も分かりやすく顔をしかめた。
「まず…霧崎第一は今回の決勝リーグ、誠凛に照準を合わせてきている」
「どういうこと?」
「オレ達とやった時、レギュラーは試合に出ず、誠凛の試合を観に行っていた」
緑間の言いたいことはつまり。
決勝リーグは二勝すればいい。だから一つ…秀徳との試合を捨てて、誠凛を研究しに来ていた、ということだろう。
「うわ何それ、絶対負けたくない」
「問題はもう一つあるのだよ。霧崎第一は…かなりラフなプレイをする」
「ラフ…?」
「審判には分からない程度の、反則すれすれの行為を行うということだ」
緑間の説明ははっきりと断言していなかったけれど、真司の中にあった予想と重なっていた。
木吉の怪我、それは霧崎第一のそのプレイによって負ったもの。
試合中にわざと、怪我を負わせるようなことをしたのだろう。
「…そっか、教えてくれて有難う」
「烏羽。次の試合、お前には出て欲しくないのだよ」
「っ、オレもっス。真司っち小っちゃいから怪我じゃ済まないかも」
緑間も黄瀬も、心配そうに真司を見下ろしている。
その気持ちは有難い。
でも、タイミングとしては完璧だった。
「心配してくれて有難う。でも大丈夫だよ」
木吉の事が自分の中で明らかになったのに、思いの外冷静でいる。
恐ろしい程に冷静に、真司の中に一つの考えがチラついていた。
自販機でおしるこを買った緑間の後に続いて会場の外に出ると、リアカーをくっつけた自転車がどどんと待ち構えていた。
想像はつくが、恐らくこの自転車を高尾に漕がせて自分は悠々とリアカーに座るのだろう。
「えぇ、せっかく久しぶりに会えたのにもう行っちゃうの?」
「ああ。別に今更話すことなどないだろう」
「もー!ミドリン冷たい!」
桃井に腕を引かれながらも、躊躇することなくリアカーに手をかける。
今にも帰ろうとしている緑間だが、残念ながら漕ぐ人がいなければ待つしかない。
ここで高尾を一人待つ緑間を想像してくすりと笑ってしまった真司は、「そうだ」と言い振り返った緑間を見上げた。
「何?緑間君、どうかした?」
「次の試合は一週間後だろう。明日、練習はあるのか?」
「え…どうかな。二日試合続いたし…ないかも?」
「そうか。なら…」
緑間の質問の意図が分からず、続く言葉を待つ。
しかし、先に何か察したらしい黄瀬によって再び遮られた。
「ちょっと待った!緑間っち、今ここにオレがいること忘れてないっスか?」
「…お前は桃井をつれてさっさと帰れ」
「そーはいかないっスよ…真司っちはオレと先に約束するんスから」
「勝手に決めるな。烏羽の迷惑も考えろ」
おずおずと下がった桃井と目を合わせて首を傾げる。
言い合いを始めてしまった二人に割り込む勇気はないし。
「もー…て、あれ?」
どうしたもんかと二人を見上げていた真司は、つんと何かが足にぶつかり視線を一気に足元まで下げた。
そこにいたのは白と黒のもふもふ。
「二号、どうしてこんなところに?」
「え、何、二号?ってキャアアア可愛い!!」
どうやって一人でここまできたのか、足にすり寄って来た小さな子犬を腕に抱きかかえる。
黒子と似ているという部分を無意識のうちに気付いたのか、桃井の頬はパッと赤らみかなり嬉しそうだ。
「何この子、烏羽君のわんちゃん?私も抱きたい!」
「うちのバスケ部で飼ってる子なんだ。どうぞ」
「わああ、有難う!」
桃井の腕に二号を預けると、桃井はすぐさま整えられた綺麗な毛並みに頬を寄せた。
そんな彼女を横目に、真司は改めて大男二人を見上げる。
「な、何なんスかぁ?」
「全く。馬鹿げたことに付き合って余計に疲れたのだよ」
「だーれのせいだと思ってんスかぁ?」
妙な口争いをしていたことがどうでも良くなったか。
声のトーンに落ち着きが戻っている二人に、微笑ましさを覚える。
こうして少しずつでも皆との時間を取り戻したい。中学二年、当然のように皆と過ごしていたあの頃のように。
「…じゃあ俺は、二号連れて戻るよ」
「え、烏羽君ももう行っちゃうの?」
「うん。さすがにこれ以上皆に迷惑かけるわけにはいかないし」
名残惜しそうに渡された二号を改めて腕に抱える。
それから真司は二号の片手をひょいと上に持ち上げ、それを左右に動かした。
「じゃ、またね」
復唱するかのように「わふっ」と二号が声を上げる。
桃井は嬉しそうに笑い、黄瀬は目を細め、そして緑間はふんと息を漏らした。
「真司っち…いつからそんなにあざとくなっちゃったんスか…」
「アイツは最初からああいう奴なのだよ」
「あああ…あのわんちゃん…なんか好き!!」
三人の声を背後に聞き、胸に膨らむ思いで頬が緩む。
駄目だ、せっかく抑えられたのだから。このまま。
でも我慢出来なくてチラと振り返ると、パッと笑顔が咲いた。
「真司っち!暇な時は連絡してね!」
「おい黄瀬!」
「言ったもん勝ちっスよ!」
ぶんぶんと手を振る黄瀬にもう一度、今度は自分の手を振り返す。
不本意そうではあるが緑間の掌もこちらに向いていて、それが思いの外かなり嬉しくてまた顔が緩んでしまった。
「…良かったんですか?」
「あ、テツ君!」
会場の中に再び戻ると、入口のすぐわきに黒子が立っていた。
探させてしまったのだろうか。いや、探しにといえば二号の方か。
「良かったって、何が?」
それよりもまず黒子の問いに疑問で返すと、それには「いえ」と小さく否定が返されてしまった。
大きく尻尾を振る二号を黒子の手に預け、言葉なくとも二人控え室の方へ歩き出す。
妙な空気の重さ、今までの鈍い真司なら気付かなかったろうその正体に気付いてしまった真司の頬がかっと赤く染まった。
「あ、いや別に…緑間君と黄瀬君とは普通に話してただけだよ?も、桃井さんもいたし!テツ君も来れば良かったのに」
「すみません…。今日の君は緑間君について行くだろうと思っていたので」
「あ…はは、そう、思う?」
どんな思いで黒子はそれを口にするのだろう。
真司は口元に浮かべた笑みを消し、八の字にした眉をそのままに俯いた。
「なんで俺は、男に対してドキドキとか、しちゃうんだろ…」
「烏羽君?」
「テツ君は、さ、感じないんでしょ?緑間君のこと格好良いとか、素敵だなぁ…とか」
「そうですね…。格好良いとは思わなくもないですが、ドキドキするかと言われると…」
あ、困ってる。
珍しく口ごもった黒子にまた口元に笑みが戻って来たのは、恐らく自分への嘲笑だ。
こんなこと今更、黒子に言ったって仕方がないのに。
「でも、そんな風に思ってもらえる彼等が羨ましいです」
隣を歩く黒子の手が真司の手とぶつかった。
どくんと胸がなって、血が急速に体を巡る感覚。
「て…テツ君…俺は…」
そんな風に思われていい人間じゃない。
それは黒子の為を思ってのことか、それとも自分の為か。
震える口が思いを伝えそうになって、それを何とか堪えたけれど、たぶん顔は真っ赤だ。
「烏羽君、そんな脈アリっぽい顔しないで下さい。調子にのりますよ」
「ちょ、うしに…のったら、どう、なるの」
足を止めて、一歩先に進んだ黒子の顔をじっと見つめる。
黒子は躊躇いがちに一瞬目を逸らして、そして目を閉じた。
「烏羽君、今のは酷いです」
「え」
「無自覚なら尚タチが悪いです。なかったことにしますから、早く…皆と合流しましょう」
それから真司の言葉を待たず黒子が先を歩き出す。
その黒子の髪の隙間から見える耳が赤くて、また自分が何か余計な反応を返したのだと気付いてしまった。
思わず駆け寄ろうとして、でも何を言ったら良いのか分からない。
真司は数歩遅れる形で黒子の後を追った。
・・・
真司に続いて桃井も立ち去った後。
当然ながら動き出す様子のないリアカーを暫く見ていた黄瀬は、はーっと大きく溜め息を吐いた。
心中は複雑だ。ライバルでありそして同士である。そう評価できる緑間をちらと見れば、その緑間も怪訝そうに黄瀬を見ていた。
「さっきから何なのだよ。オレの傍でため息ばかり吐くな」
「…緑間っち、分かってんスか?」
冷たい緑間の発言を気にするようでもなく、黄瀬が口を尖らせて言う。
その黄瀬の問いに緑間は更に「何が」といった様子で眉間のシワを深くさせた。
「悔しいけど、真司っちにとって赤司っちの存在は大きいっス。誠凛がウィンターカップに進めば、二人は確実に顔を合わせることになるんスよ」
そして急に低い声で黄瀬が話し出せば、それはそれで不機嫌になった緑間が腕を組む。
何が言いたいかは何となく察しがついた。
「オレなら…意地でも連れ帰った。残り少ないチャンス、逃さないっスよ絶対に」
「黄瀬…何を焦っているのだよ」
「だって、前ならこっちから言わなくたってついて行くって…一緒にいたいって言ってくれたのに。真司っち、変わったっス」
中学を卒業して、それだけで心も体も何もかも遠くなったのは確かだ。
焦っていたのも事実。
向けられる好意は変わっていないと分かった今でもそれは変わらない。
「オレ、黒子っちなら平気だって思ってた。でも今は怖いっスよ。黒子っちに、誠凛に真司っちを捕られちゃうって」
「烏羽にも帰る場所が出来たということだ。それは喜んでやるべきことなのだよ」
少なくとも、真司は中学最後より今の方が楽しそうだ。
楽しそうでいて、穏やかで、でもどこか緊張している。
「なんでそんな余裕なんスか。オレは…真司っちの可愛いとこも綺麗なとこも格好良いとこも…エロいとこも全部手に入れたい」
「そういうことを言うんじゃないのだよ…。我慢しているのは、お前だけじゃない」
緑間の言葉に、黄瀬がくくっと笑った。
欲深いのも同じ、求めるものも同じ。
全く異なるタイプの二人が、今は同じ思いに火をともしていた。
2日間の決勝リーグを終えて、またいつもの生活が戻ってくる。
だからって気持ちが落ち着かないのは、週末にまだ一試合残っているからだ。
焦る気持ちを抑えきれず、放課後ダッシュで部室に向かう。
余りにも急ぎ過ぎたか、部室にはまだ日向とリコしかいなかった。
「あら、烏羽君早いわね」
「あ…はは、落ち着かなくて」
「ま、丁度いいわ。早速だけど自分のロッカーの整理してくれる?」
乱雑に置きっぱなしにされていた教科書類を抱えたリコが、大してこちらを見ること無く言う。
きょとんとして日向を見れば、「あー…」と無意味な声を漏らして視線を暫く泳がせた。
「え、何ですか?今日、何か特別な日でしたっけ?」
「別に特別ってことはないけど、明日部室棟に生活指導が入るから、汚いままじゃ面倒でしょ」
なんだ、そんなことか。
安心したのも束の間、周りを見渡して驚くのはこの部室の汚さだ。
今年に入って部室の掃除なんてことは一度も行っていない。
「…ひっどい有様ですね」
「ええ。見ての通りよ」
「最近じゃ木吉が帰ってきたせいで物増えたしな。飴のゴミ散らかってっしよ…」
はー、とため息を吐いた日向の何気ない一言。
それに真司がぴくりと肩を震わせたのは、呟かれた名前が今酷く気掛かりだったからだ。
「あの…木吉先輩の足って…去年の霧崎第一との試合から治ってないんですよね」
「…!?なんで、それ…っ」
既に確信に変わっていたことだが、あえて聞いてみる。
真司の言葉にばっと振り返ったリコと、目を丸くした日向。
それだけでやはり確信は事実へと変わった。
「やっぱり、そうなんですね」
「悪い、隠してたつもりはないし、いつかは話さねーとって思ってたんだけど」
「いえ、それはいいんです、それより…次の霧崎第一との試合、俺を使って下さい」
思わぬ真司の発言に、リコと日向の眉が怪訝にひそめられる。
二人視線を合わせ、先にリコが真司に視線を戻し口を開いた。
「…どうしてその鉄平の足のこと知ったのかしらないけど、復讐したいとか思ってるなら…」
「俺、花宮真からこのことを聞いたんです。わざわざ、自分が怪我させたって、そう教えるかのように」
「え…それ、」
あの日のことを思い出す。
あの時は必死だったから考えもしなかったことだ。
けれど改めて考えてみれば、花宮はあえて情報を晒すことで真司を誘っていたのではないだろうか。
「けしかけられて、俺、黙ってられないです。でも、復讐だとかそういう風には…思ってません」
「だからってねぇ…!」
「それに!相手のやり方を考えると、俺の個人プレイは役に立つんじゃないかと思うんです!的も小さいし…」
どんなプレイで木吉に怪我を負わせたのかは分からない。
けれど、真司の体の小ささや瞬発力は逆に相手を翻弄させられる。
真司はそれを言い切ると、リコの顔をじっと見つめた。
これが真司の答えだ。この部の為に出来る最善だと思っている。
「…言いたいことは分かったけど、烏羽君の気持ちがどうだからって試合に出すかは別よ。次の試合次第でウィンターカップに行けるかが決まるんだから。私は最善のメンバーを選ぶだけ」
「…はい、分かってます」
「じゃあこの話は終わり。さっさとロッカー片す!」
気持ちが伝わったのか、それともはぐらかされたのか。
しかしそう言われてしまったら、これ以上真司は何も言えない。
何となくスッキリしないまま、真司は自分のロッカーの前に移動するしかなかった。
そして切り替えようと頭を左右に振って、ロッカーを開いて。
中を確認した瞬間、真司は思い切りロッカーを閉めていた。
「ちょ、っと待って下さい。今日はロッカーのコンディションが悪いです」
「は?何言ってんの、烏羽君」
「いえあの、今日はこのロッカー…ちょっと、あれです、駄目な日です」
自分のロッカーを隠すように背で守る。
それはリコと日向にとっては逆効果だった。
「…まさか、烏羽お前…いかがわしい何かを」
「ち、違いますよ!?」
「日向君、押さえて」
「おう」
「ちょ…!!先輩!!」
日向の腕にがっちりと捕えられ、ロッカーの前からずりずりと遠ざけられる。
そして迷うことなく真司のロッカーを開いたリコの動きが、ぴたりと止まった。
「…メイド服…?」
目に入ったものの名前をはっきりと告げたのは日向だ。
リコはゆっくりと振り返り、憐みをもった目を真司に向けていた。
「人の趣味にとやかく言うつもりはないけど…烏羽君…」
「違うんですそれは!クラスの女子が持ってきて、あげるとか言うから…っ、その、いつか何とかしようと思ってて!」
それは数日前の出来事だ。詳しく説明するつもりはないが、文化祭うんぬんの話し合いから起こったこと。
認めたくないが、メイド服は真司によく似合う。らしい。
「面白いじゃない、今日はそれ着て掃除すれば?」
「は?」
「いいんじゃないか、つか見たい」
「先輩…!!」
リコがロッカーからそれを取り出して真司に押し付ける。
監督と主将。二人の圧迫感に耐えられる程、真司は強い後輩ではなかった。
・・・
「なあ、気のせいかな…メイドがいるんだけど」
「メイドがいる…ここが冥土か!」
部室に入って来た部員達の反応に、真司は大量の本を手に持ったまま振り返った。
肩にかかる程伸びた髪を二つに結わいたのはリコだ。
纏うひらひらの服は真司のロッカーから出たメイド服。
「どうも、こんにちは」
「いやいやいや!そこは“お帰りなさいませご主人様”でしょ!」
「小金井先輩…俺、全然そういうつもりじゃないんで」
真司の反応に小金井が残念そうに眉を下げる。
その後ろで茫然としている木吉は、部室の扉の外に突っ立ったまま。
「おい木吉?お前もさっさと手伝えよ」
「え、何、掃除してんの?」
「そーだよ、コガ、お前もさっさと手伝え」
声をかけられた木吉よりも前に小金井が動き出す。
伊月は真っ直ぐに真司に向かうと、ひらひらとしたスカートの裾を掴んだ。
「これ、どうしたんだ?ずいぶん可愛らしくなって…」
「まあその、あったんで…」
「へぇ?つか髪の毛伸びたんだな。おさげ?可愛いな」
短いながらも左右に結ばれた髪の束を伊月の指が弄ぶ。
端正な伊月の顔に覗かれて少し恥ずかしくなり、真司は手に持っていた本を伊月の方へ押し付けた。
「そ、んなことはいいですから、これ」
「お?そういや何で急に掃除なんか…いや、すべきだとはずっと思ってたけどさ」
それを受け取った伊月が意味も無く真司の頭を撫でる。
やっぱりこの人モテるんだろうな。
彼の無意識の行動に感心しつつ、真司は邪魔なスカートを上に持ち上げた。
「ちょ…!」
声を上げたのは、余りの頭の悪さに居残り勉強させられていた火神だ。
「な、ななな、何、してんだテメェ…!」
ずかずかと木吉の横を通り過ぎて入ってきた火神が真司の手を掴む。
そして何を思ったか素早く手放した。
「スカートをめくるな…!じゃねえ何スカートはいてんだ!つかなんだこの服!?」
「おお…盛大な突っ込み有難う」
「なんなんスかこれ!?せ、先輩達が着させたんスか!?」
顔を真っ赤にして怒っているのか戸惑っているのか。
やけに声が大きい火神に対し、日向が一言「うるせぇ」と返した。
「っ…いや待て、お前は本当に真司か!?」
「ちょ、その突っ込みはおかしいから。っていうか顔近いし手痛いんだけど…」
「っ!悪ィ!」
怒涛の勢いで離れた火神に、日向が一発蹴りをくらわす。
似合ってしまっているのは間違いないだろうが、そんなに動揺することだろうか。
「おい火神、遅刻した罰だ、ここのロッカーの中身出せ」
「は!?理不尽だろ!…っですよ!」
向こうで繰り広げられているやり取りを遠く聞きながら、真司は真司で使われていないロッカーを開く。
埃だとかそういうレベルではない。いろんな菌が増殖していそうな魔の樹海と化した空間。
そこに恐る恐るほうきを突っ込んで中身を取り出そうと試みる。
その瞬間、黒い悪魔の遣いが真司の横をすり抜けたのが見えた。
「っ…わああああ!!!」
条件反射で叫び、そしてそこにいた人にしがみ付く。
真司の声に驚き振り向いた部員達の目線は、すぐさま足元に移動していた。
「で、でた!!」
「いるとは思ってたけどマジで出やがった!」
「ちょ、ちょっと、誰か早く叩いて!」
途端に騒がしくなった部内を駆け回る黒くて小さい奴。
皆の視線は当然奴が張りついた壁に向けられる。
その隙に、だったのか。
「烏羽…ちょっと、いいか」
「はい?え、ちょ…」
真司は思わず抱き着いてしまったその人…見上げて初めて木吉であったと気付いたが、彼に腕を引かれていた。
部室を出て、通路の端まで連れて行かれる。
途端にメイド服を着ている自分が恥ずかしくなって、真司は移動の最中ボタンを解き、袖から腕を引きぬいた。
「…木吉先輩…?」
下はひらひらのスカート、上半身はタンクトップという中途半端な恰好で見上げる。
このタイミングでの呼び出しとは一体なんだろう。
「あ、もしかして、今俺が飛び付いちゃったから…足、痛みましたか…?」
静かな木吉が不自然で、恐る恐るそう問いかける。
本当は期待していた。花宮との、霧崎第一とのことを詳しく教えてくれるのではないかと。
けれど、木吉はゆっくりと首を振って、それから真司の肩を掴んだ。
「烏羽。オレは今、お前が本当に女の子なら良かったと思ったよ」
呆気にとられる。
真司は木吉の真っ直ぐな視線から目を逸らすことが出来なかった。