黒バス(2012.10~2017.12)
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今年、最後の挑戦となるのが冬に行われるウィンターカップ。
これから始まるのはその予選、ウィンターカップへの出場権を得る為の試合だ。
「おはよう、テツ君」
「こんにちは」
感覚の違いか、共に異なる挨拶を交わした当日の正午。
これから会場に向かうわけだが、二人は最寄りの駅から待ち合わせをしていた。
何となく、一緒にいたいという思いから連絡をしたのは真司の方だ。
「君から誘ってくれるなんて、珍しいですね」
「え、そうかなぁ?でも、一人で行くより心強いよね」
「そうですね」
隣を歩く黒子の表情は相変わらずその感情をあまり読ませない。
そのせいで少し不安になるのは、今は彼の心が知りたいから。
「えっと…とりあえず今日勝てば、その次からは決勝リーグで…勝ち点多い2校がウィンターカップに行けるんだよね」
「はい。ですが…難しいことを考える必要はないんじゃないですか」
「あはは、勝てば良いってことだしね」
インターハイで上位だった桐皇と洛山は既にウィンターカップ出場が決まっている。
それから別の県から海常、陽泉も決まっていると聞いた。
そして今回、東京代表を決める予選には秀徳が出てくる。
彼等と戦うには、今回勝ちウィンターカップへ進むしかない。
勝てば良い。勝てば、会える。
「…やっとだ…」
ぽつりと、無意識に歓喜の声が漏れていた。
認めざるを得ない、バスケを通じて彼等に会えることを期待している。
「烏羽君?」
「え、あ、ごめん。緊張してるのかな」
「珍しいですね。大丈夫ですよ、君はスタメンじゃないんですから」
「うわー、そういうこと言っちゃう?」
柔らかく微笑んだ黒子は、真司の言った“緊張”を解こうとしてくれているのだろう。
そんな小さな優しさすら愛しくて、とんと軽く触れた肩が心強くて。
「…テツ君」
「何ですか?」
「うん…、ふふ」
「烏羽君、やっぱり変です」
だからこそ、応えてはいけない。
黒子の素直な好意を、自分の汚れきった感情で潰してしまいたくなかった。
「大丈夫ですよ、誠凛はとても強いですし、今回は木吉先輩だっています」
「…あ、そっか、うん、そうだよね」
なんて、こんな大事な時にそんな事を考えていることも間違っているし。
真司はぶつかりそうな距離にいた黒子から少し離れて歩いた。
期待しちゃいけない、期待させてもいけない。
「よし!頑張ろうね、テツ君!」
「君は試合に出れるか分からないですけどね」
「それ言っちゃ駄目なやつ!」
黒子の背中をぺしんと叩くと、ふらりとよろけた黒子がむっと眉間にしわを寄せる。
黒子はそのまま真司を見つめて、「あ、そういえば」と呟いた。
「そんなことよりも烏羽君」
「え、何?」
「ちょっと時間やばいです」
「…え!?」
ちらと自分の携帯を見てみれば、集合時間まであと3分。
どうやら黒子の歩幅に合わせていたら、予定よりも遅くなってしまっていたようだ。
「分かってたなら早く言ってよ!走ろうテツ君!」
「え…無理です置いて行って下さい」
「走りたくないだけでしょ!」
「君の足について行く足は備えてません…」
ひ弱な事を言う黒子の手を掴んで走り出す。
こういう時の黒子は情けないけれど、試合になると強気なとこがいいんだよなぁ、なんて。
今更桃井が良く言っていた「あのギャップがいいんだよ!」が分かるような気がしていた。
・・・
結局少しだけ遅刻して少しだけ怒られて。
会場に入った真司達は新しいユニフォームに着替えていた。
「いい?試合数は少ない分、強豪校とばかりの試合になるからね」
試合前のぴりぴりとした空気は久しぶりだ。
それが楽しい気がするのは、やはりこの舞台を待っていたからだろう。
そんな感じで気分が高揚している真司の横で、更に頬を緩めている男が一人。
「木吉先輩はずいぶんと顔が緩んでますね」
「ん?わかる~?」
「いや、分かりますよ」
公式の試合は久しぶりなのだろう、木吉の顔はへらっと緩みきっている。
それでも頼りになるのは、この人の強さを知っているからか。
真司は何となく手を伸ばして木吉の頬を摘まんだ。
「お?」
「いえ、特に意味はないんですけど」
「日向!見てくれ!烏羽がオレにちょっかい出してきたぞ!」
「烏羽やめろ、コイツが更に調子にのる」
木吉の嬉しそうな声に対し、日向は息多めに返す。
そうは言われたものの、真司は摘まんだ頬をもう少し引っ張ってみた。
「ひててて、何だよ烏羽~」
触ってみて実感したが、木吉の背はやっぱり高い。
顔を触るだけでも手をずいぶんと上に伸ばさなければならないなんて。
木吉はどんな事をきっかけにバスケを始めたのだろう。
まさか紫原みたいに背が高かったから…じゃないだろうな。
とか考えていた真司の体は、ひょいと木吉によって持ち上げられていた。
「え」
「可愛いなぁ、烏羽は」
「だー!ほらもう言わんこっちゃねぇだろが!」
「ちょっとアンタ達、緊張感なさすぎよ!」
なんだこれは。
と突っ込む間もなく、木吉はしっかりと真司を抱き込んでいた。
大きな手が真司の頭を撫でまわす。
「そういえば…木吉先輩の手ってすごく大きいですよね」
「ん?比べてみたいか?ホラ」
と、頭を撫でていた手が真司の目の前に差し出された。
片手で抱えられるその不安定さから、真司も片手を木吉の首に回して、片方を木吉の手に合わせる。
男と女…というより大人と子供。
「このくらい大きかったら…俺も木吉先輩くらい強くなれるのかな」
「何言ってんだ、大きさなんて関係ない。烏羽には烏羽の良さがあるだろ」
「そうですか?」
「あぁ」
その言葉とその声色と。
お父さんのような安心感に包まれて、真司は目を細めて笑った。
「お前の分まで頑張るからなー」
「よろしくお願いします」
「おう!」
どうやら木吉は、自分が帰ってきたおかげで真司の出番が減ったことを分かっているのだろう。
勿論それに対して文句を言うつもりも、不服でいたわけでもないのだが。
「ほらもう行くわよ」
「おい木吉、いつまでそうしてんだ行くぞ!」
「このまま行こうなー烏羽ー」
「え!?やですよ、下ろして下さい!」
そんなこんなで始まったウィンターカップ予選。
まったりとした空気は、控え室を出て体育館に入れば、すぐにがらりと切り替わった。
夏の活躍から誠凛はかなり注目を集めていたが、木吉の存在は更に誠凛の強さを引き上げていた。
火神の圧倒的な跳躍力。黒子のパス回し。
そして木吉のオールマイティな技術。
センターでありながら、ポイントガードのパスセンス、そして大きな手だからこそ出来る“後出しの権利”。
シュートに行くと見せかけてパスを出せるその技は、確実に敵を翻弄した。
そして。今日の試合で、誠凛、秀徳、泉真館、霧崎第一の4校が決勝リーグへと駒を進めた。
翌日の決勝リーグ一回戦は泉真館。
それが確定し、明日に備えて今日はしっかり休もうと各自帰路を歩き出す。
これから怒涛の強豪校との試合続きだ。
「あの、ちょっといいですか」
そんな中、黒子の手が真司の手を掴んだ。
何の予定もなくそのまま帰るつもりだった真司は、少し驚きながら振り返る。
「うん、どうしたの?」
「この後、ちょっと付き合ってもらいたいのですが」
朝とは逆に、今度は黒子からのお誘いだ。
それが嬉しくてぱっと顔を輝かせたが、隣にいる火神が目につく。
当然のことながら一人ではないらしい。
「新しいドライブを見て欲しいんです」
「新しい、ドライブ…?え、ドライブ?」
「はい」
黒子といえば中学の頃からずっとパス以外はからっきし。
勿論ドリブルだって下手なのだから、まさかドライブを練習していたなんて。
「敵役は火神君にやってもらうのですが…烏羽君にも、見て欲しくて」
「嬉しい、見たい!」
「良かったです」
じゃあ行きましょう、そう言って歩き出す黒子の後に続く。
今このタイミングで言うということは、明日からの試合で見せていく意志があるということだろう。
「つっても、ホントに完成してんだろーな」
「はい。後は最終調整したいだけなので」
「んならいいけどよ」
少し冷たく言い放つ火神だが、口元には笑みが作られている。
火神も黒子も、二人とも夏からずっと新しい挑戦を始めていたのだ。
ちなみに火神は左手の強化。
「二人とも凄いんだなぁ…」
「そういうの、見てから言ってください。ハードル上がります」
「え、ごめん、そういうつもりじゃなかったんだけど」
むす、とした黒子の横に並んでへらっと笑う。
でも、見なくたって分かる。黒子はずっと努力家で、ずっと頑張ってきた人なんだから。
なんて考えていたとはいえ。
真司の予想していたハードルを、黒子は易々と越えてきた。
ストリートが出来る公園に着いてすぐ、黒子と火神が袖を捲り向き合う。
その二人が互いに構え、動き出すのをコート脇で見ていた真司は、自分の目を疑う事となった。
「え…今、テツ君…!」
ゴールを守る火神をドリブルで越えて行った黒子。
火神は全く動けなかった。
黒子の姿は、火神の前から消えたのだ。
「って、おい黒子ボールすっぽ抜けてんじゃねーか!」
「すっぽ抜けました」
「だからそう言ってんだろ!」
格好良い、と思ったのも束の間、火神の声ではっとする。
肝心のボールは黒子の手に吸い付かず、火神の前に転がっていた。
「あはは、テツ君らしいというか」
ころころと転がってきたボールを拾い上げて、指をその表面に滑らせる。
「って、何このボール…」
「あ?どうした、真司」
「これ…」
見慣れたボールなのに肌触りに違和感が強い。
それを火神にパスすると、火神も驚いたように目を丸くした。
「皮が削れてツルツルじゃねーか」
「このボールも、もう換えないといけませんね…」
コンクリートで使い続ければこうなるのかもしれないが、真司自身それほどボールを酷使したことがないから分からない。
しかし、火神の反応から察するにこれは、尋常なことではないのだろう。
「体育館、もっと使えたら良いんですけど…もうこれで6つ目です」
「な…!?6つ!?」
「え、何?テツ君6つもボール駄目にしたの!?」
いやさすがに6つとなれば話は別だ。よっぽどだ。
真司は思わず黒子に駆け寄り、努力し続けたその手を掴んだ。
真司の手のひらとは違う、見えない努力で剥けた皮も固くなっている。
「あぁもう…テツ君はホント…」
「烏羽君?」
「テツ君、火神君もごめん」
突然の真司からの謝罪に二人がきょろんとしたのが分かった。
しかし真司はその胸の内に溢れる思いのまま、黒子の首に手を回していた。
「は!?」
「え…烏羽君?」
火神の悲鳴に近い声と、黒子の困惑の声。
どちらも近くにあるのに耳をくすぐった黒子の声が頭まで響いて来る。
「どうかしましたか?ボク、何か気に障ることを…」
「ううん、テツ君が、すごくて…テツ君が…」
「何だか良く分かりませんが…有難うございます」
ふっと笑った黒子の息が真司の髪を揺らす。
駄目だ、言いたい。好きだ、こんなにも胸をくすぐる思いが苦しい。
「お、おい、烏羽、具合悪いならオレが」
「火神君、空気を読むことも男のモテテクですよ」
「あえて読んでやんねーよ畜生!」
二人の掛け合いに少し笑いが込み上げるが、それよりも胸が痛いのは愛か罰か。
自分の行動に申し訳なく感じているのに、今はただただ黒子を抱き締めたくて。
黒子に胸を押されるまで、ずっと背中に回した腕に力を入れていた。
・・・
ウィンターカップ予選とは始まってみればあっという間で。
決勝リーグ一日目、対泉真館は危なげなく勝利した。
「楽しんでこーぜ」という木吉の一言がいつも誠凛を精神的にも支えてくれる。
だから、強気でコートに出て行く皆をベンチから見守る真司も、かなり安心して試合を観ている事が出来た。
「つっても、浮かれる暇もねーな」
試合を終えたというのに、そう言った日向の表情は言葉通りに笑みの一つも携えていなかった。
翌日に行われる試合が既に目先にちらついている。
「次の試合はかなり厳しくなるぞ」
「一度こちらが勝っているからこそ…今度は死に物狂いで勝ち来ます」
黒子の脳裏にも、やはり見えているのだろう。
一度負けたからこそ、今度は必死に立ち向かってくる緑間の姿が。
「ま、何にせよ。今日はこのまま帰って、皆しっかり休んでね」
リコが手を打ちながらそう言うが、やはり明日が気になってしまうことに変わりはなく。
真司は高揚してしまった気持ちを抑える為に、一人ドアの方に向かった。
「すみません、ちょっと、お手洗い行って来ていいですか」
「いいわよ、行ってきなさい」
別に駄目なんて言わないわよ、くらいの勢いで返され、そそくさと控え室を出る。
ぱたんと扉が閉まれば、汗臭さのないひやりとした空気が体に纏わりついた。
柄にもなくというか、珍しく緊張している。
ここで勝たなければウィンターカップに行けない…皆と出来ない、そう、やはり思ってしまっているからだろうか。
「…はぁ…」
気分はいいのに、ため息が出る。
入ったお手洗いに人がいなかったのを良い事に、真司蛇口を捻って静かに流れる水をすくいあげた。
その水を徐に自分の顔にかけて、ぽたぽたと髪から落ちる滴を手の甲で拭う。
顔を上げれば、情けない顔が鏡に映った。
本当に自分は「誠凛の皆と試合をしたい」と思えているだろうか。
ウィンターカップで本当に成し遂げたいこととは。
(分からない…俺は、どうしたいんだろう)
だって、考えてしまったのだ。
“やっと赤司君に会える”と。
「…っ」
ポケットにさしていたタオルを顔に当てる。
それから結局どうにもならなかった自分の内面に落ち込みつつ、真司はドアノブに手を伸ばした。
しかし、誰かが入ってくるタイミングと被ってしまったらしい。真司がノブを掴む前に向こうが勝手に動き出す。
お手洗いに入って来た人は、目の前にいた真司に一瞬不快そうに目を細め…すぐにパッと笑顔に変わった。
「あれ、君…誠凛の選手だよね」
「え」
見知らぬ人にまさか話しかけられるとは思っておらず、真司は驚いて顔を上げた。
よく見ればそのジャージには“KIRISAKIDAIICHI”と書いてある。
霧崎第一…決勝リーグ、三日目に当たる相手の学校だ。
「あ、どうも…」
「近くで見ると本当に、女の子みたいだ」
「は…?」
「そうだ、木吉鉄平は元気?」
会話を続けるつもりはなかったが、ぱたんとその人の背中で閉まったドアから出るタイミングを失ってしまった。
仕方なく、そこまで背の高くない黒髪の…貼り付けたような笑顔を浮かべるその人に向き直る。
「木吉先輩の、知り合いなんですか?」
「ハッ…別に、知り合いってわけじゃないけど。怪我は大丈夫かなと思ってね」
「え…怪我、ですか?」
「あれ?知らないんだ」
透き通るような綺麗な声でしゃべるのに、その人の笑い声はなんだか不気味だった。
その話の内容も相まって、真司は無意識に唾を飲んでいた。
なんだか、嫌な予感がする。
「足…かなり痛めているはずなんだけどな」
「なんですか、それ…知りません」
「ま、知らなくても今度の試合で分かるだろ」
眉を下げて低い声で放たれたその言葉に、真司は思わず一歩詰め寄っていた。
「何なんですか…?まさか、あなたが何かやったんですか?」
「嫌だなぁ。何をするって言うんだい?」
「知りませんけど、でも…!」
何だか怪しい。何かが引っかかる。
そんな勘から動いた真司だったが、次の瞬間、腕をその人に掴まれていた。
二人しかいない空間に、ガツンと鈍い音が響く。
「痛ッ…!?」
強く握られた片手が無理やり持ち上げられ捻られている。
そのまま正面の壁まで引きずられ、どんと壁に押し付けられていた。
木吉や火神程背が高いわけではないけれど、真司との身長差は大きい。
高く持ち上げられると、それだけで自由が利かなくなってしまった。
「君、バスケ選手にしては随分と小さいよね…。ぶつかっちゃったらどうなるだろう」
「な、にするんですか…っ」
「木吉は足だけで済んだけどさ」
「…!やっぱりあなたが…!?」
ぐいと近づけられた顔が不気味に笑っている。
その間にもキリキリと痛めつけられている腕に、真司は顔をしかめた。
「あはは、痛がる顔も可愛いね。イジメ甲斐があるよ」
「っ、やめて下さい、こんなことして…!」
許されるはずがない。という言葉は喉で止まった。
ここには誰もいない、他には誰もいない状態で、この人の悪事を誰が知れるというのか。
試合中でだってそうだ、ばれなければ何だって出来てしまうのかもしれない。
「何?どうしたの?何か言う事があるなら言っておけば?」
「…、っ…」
木吉の怪我が本当なら、次の霧崎第一との試合、悲劇が起こりうるのかもしれない。
嫌な想像と腕の痛みとで自然と目に涙がたまる。
駄目だ、この人の思い通りにさせてはいけない。
「あれ?泣いちゃったの?この程度で?」
「はな、せ…っ」
「嫌だよ」
「っぅ…」
冷たい声が耳を掠める。
どうしてか上手く言い返せないし抵抗することも出来ない。
誰か、誰か来て。誰か。頭の中で何度もそう叫ぶことしか出来なかった。
真司の願いが届いたのか、恐怖に目を閉じた時、かちゃんとドアが開く音が聞こえた。
思わず目を開いて顔を動かせば、救世主と言わんばかりに立っているその人。
「木吉先輩!」
「…花宮!?」
しかし、その木吉が呼んだのは真司の名では無かった。
「やあ、木吉。久しぶり」
「どうしてお前が烏羽と…っ」
花宮、とは目の前の男の名だろう。
真司は手が解放されたにも関わらず、茫然としたまま動くことが出来なかった。
まさか、このタイプの異なる二人が知り合いだったなんて。
「…烏羽に、何をしたんだ」
「何怖い顔しているんだい?別に少し話をしていただけだよ」
「少し話…?泣いてるじゃないか」
二人の会話をぼんやりとしたまま聞く。
そしてようやく自分の情けない有様に気付いた。
花宮という男の他人を何とも思わないその冷酷な目。それに無意識のうちに恐れ涙していた。
「目にゴミでも入ったんでしょ、ねぇ、烏羽君」
「…っ、」
「話、してただけだよね」
「…まあ…そうですけど」
実際のところ、特別苛められたわけではなし。
むしろ花宮はかなり重要な事を教えてくれた。
「でも、烏羽…」
「木吉先輩、心配かけてごめんなさい。大丈夫です」
「…そうか、ならいい。皆心配してるから、早く戻ろう」
「はい」
花宮から離れたいのか、木吉は急かす様にこちらに手を伸ばした。
それに従って、真司は花宮と壁との間からするりと抜け出る。
「なぁ、木吉。この子は知らなかったみたいだけど、怪我…早く良くなってよ」
「…!」
「心配してるんだからさ」
ばたんとドアが閉まり、空間を遮断する。
真司は緊張から解き放たれたかのように、息を大きく吐き出していた。
正直、怖かった。ズキズキとまだ痛んでいる腕は、かなり力強く掴まれていたようだ。
「烏羽…ごめんな、大丈夫か?」
「え、なんで木吉先輩が謝るんですか」
「オレが…オレのせいで、たぶん巻き込んだんじゃないかと…」
しゅんと眉を下げてこちらを見下ろす木吉が真司の背中を押して歩き出す。
ここに立ち止まりたくはないのだろう。
花宮と木吉、関係はよく知らないが、良いものでないことは分かる。
「…木吉先輩」
「いや、烏羽、先に一つ言わせてくれ」
問いたい。
その思いに気付いたのか、木吉はぴたと足を止めた。
「余計な事は考えるな」
木吉の言う余計な事とは、本当に余計なことなのだろうか。
真司は木吉を見上げて、それから開いていた口を閉じた。
足の怪我のこと。それから花宮のこと。
聞いてはいけないというのか、そんなに大事なことを。
「…それは、さっきの人の事ですか、それとも…さっきの人との事ですか」
「どっちも、だな」
眉を下げて笑った木吉の顔は、なんだか痛々しくて。
そしてそれが木吉なりの拒絶だと分かって、真司は視線を落とした。
「先輩、無理だけはしないで下さい」
「ん?別に無理なんてしてないぞ」
でも聞いたって何て返されるか予想は出来た。
問いかけたところでこの人は笑って言うのだ、大丈夫だと。
木吉との間に建てられた大きな壁は、どうあがいても壊せそうになかった。
・・・
むかえた翌日の決勝リーグ二日目。
外は土砂降りで暗いのに、会場内は今まで以上の熱気を帯びていた。
今回の決勝リーグ一番期待される試合、誠凛対秀徳。
ベンチに座り互いを見据える彼等は、熱気の奥の更なる熱い思いにも気付いていた。
「烏羽君、さっき緑間君と何を話していたんですか?」
黒子の声色は、冷静でありながらもどこか緊張感を纏っていた。
眼前に見える緑間。今日の彼は何か滾っている。
「話すって程じゃないけど…負けないっていう宣言とあと…」
「あと?」
「勝つ為に手段は選ばないって」
目線を上げて、つい先程のことを思い出しながら言う。
内容はどうにも恐ろしい、緑間の口から出た言葉とは考えにくいものだ。
「やはり前回の敗北は、緑間君の中の何かを変えたのでしょう」
「そうだろうね。なんか、今日の緑間君はギラギラしてる」
控え室から移動してコートに入った時、緑間と目が合った。
そして告げられたのは今黒子に言った通り。
緑間からは“キセキの世代”と言われた頃の余裕はなくなっていた。
「ま、そうだろうな。敗北を知った人間は、勝利に飢える」
黒子と真司の話を聞いていた木吉が皆に聞こえるように言う。
そしてそれを聞いた日向は小さく笑った。
「こっぴどく負けてきたのは、何も向こうだけじゃないだろ」
負ける気がないのはどちらも同じ。
勿論、勝利への執着だって変わらない。
「勝つための必須条件は緑間君攻略よ。そして彼の長距離スリーポイントには限界がある」
リコのアドバイスに耳を傾ける選手たちは皆真剣だった。
「打つほどタメが長くなる。全てじゃなくても、そこまで抑えれば成功率は一気に落ちる!」
その緑間にとって相性が悪いのは火神。
緑間のシュートを火神が止める。
それが今回の勝利への道、簡潔でいて、でも長い道だ。
「火神君、信じてるよ」
「おう、任せろ!」
恐る恐る作った拳を火神に向ければ、火神は笑顔と一緒にこつんと拳をぶつけてくれた。
緑間と火神の一騎打ち。
先に折れた方の負け、どちらも変わらない勝利条件を持って。
試合は始まった。
・・・
格上だと思われていた秀徳だが、実力はほぼ互角だった。
緑間の今までなら選ばない新しい手段とは、仲間を頼るパス。
一方で誠凛は木吉が帰ってきたことで本来の、攻撃に特化したバスケが出来るようになっていた。
更には黒子の新たなドライブもある。
余りにも早い点取り合戦に見ているだけでも休まらない。
ベンチでずっと試合を見守っていた真司は、それだけでなく自分自身に違和感を感じていた。
「烏羽君、試合出たいでしょ」
そうリコに言われた瞬間、真司は咄嗟に言葉が出てこなかったのだ。
「…出たい…のかな…」
「烏羽君?」
「いえ…」
一瞬たりとも目を離せないほどの試合展開。
コート上で汗を流し輝いている彼の姿。
以前巻き込まれる形とはいえ、ベンチでずっと海常と桐皇の試合を観ていられる機会を得た。
あの時から、もう自分の中で何かが変わっていたのかもしれない。
「…っ」
試合を観ているのが楽しい。
コート上で熱をぶつけあっている彼等をずっと見ていたい。
この試合、緑間も火神も限界を超えるほどボールを打ち、また跳び続けた。
黒子も、公式戦で初めてボールの仲介ではなく、その手にボールを持った。
そんな彼等を見て、真司は確信した。
自分は、コートに立てなくても良いのだと。
試合は104対104。
引き分けという形で幕を閉じた。
これから始まるのはその予選、ウィンターカップへの出場権を得る為の試合だ。
「おはよう、テツ君」
「こんにちは」
感覚の違いか、共に異なる挨拶を交わした当日の正午。
これから会場に向かうわけだが、二人は最寄りの駅から待ち合わせをしていた。
何となく、一緒にいたいという思いから連絡をしたのは真司の方だ。
「君から誘ってくれるなんて、珍しいですね」
「え、そうかなぁ?でも、一人で行くより心強いよね」
「そうですね」
隣を歩く黒子の表情は相変わらずその感情をあまり読ませない。
そのせいで少し不安になるのは、今は彼の心が知りたいから。
「えっと…とりあえず今日勝てば、その次からは決勝リーグで…勝ち点多い2校がウィンターカップに行けるんだよね」
「はい。ですが…難しいことを考える必要はないんじゃないですか」
「あはは、勝てば良いってことだしね」
インターハイで上位だった桐皇と洛山は既にウィンターカップ出場が決まっている。
それから別の県から海常、陽泉も決まっていると聞いた。
そして今回、東京代表を決める予選には秀徳が出てくる。
彼等と戦うには、今回勝ちウィンターカップへ進むしかない。
勝てば良い。勝てば、会える。
「…やっとだ…」
ぽつりと、無意識に歓喜の声が漏れていた。
認めざるを得ない、バスケを通じて彼等に会えることを期待している。
「烏羽君?」
「え、あ、ごめん。緊張してるのかな」
「珍しいですね。大丈夫ですよ、君はスタメンじゃないんですから」
「うわー、そういうこと言っちゃう?」
柔らかく微笑んだ黒子は、真司の言った“緊張”を解こうとしてくれているのだろう。
そんな小さな優しさすら愛しくて、とんと軽く触れた肩が心強くて。
「…テツ君」
「何ですか?」
「うん…、ふふ」
「烏羽君、やっぱり変です」
だからこそ、応えてはいけない。
黒子の素直な好意を、自分の汚れきった感情で潰してしまいたくなかった。
「大丈夫ですよ、誠凛はとても強いですし、今回は木吉先輩だっています」
「…あ、そっか、うん、そうだよね」
なんて、こんな大事な時にそんな事を考えていることも間違っているし。
真司はぶつかりそうな距離にいた黒子から少し離れて歩いた。
期待しちゃいけない、期待させてもいけない。
「よし!頑張ろうね、テツ君!」
「君は試合に出れるか分からないですけどね」
「それ言っちゃ駄目なやつ!」
黒子の背中をぺしんと叩くと、ふらりとよろけた黒子がむっと眉間にしわを寄せる。
黒子はそのまま真司を見つめて、「あ、そういえば」と呟いた。
「そんなことよりも烏羽君」
「え、何?」
「ちょっと時間やばいです」
「…え!?」
ちらと自分の携帯を見てみれば、集合時間まであと3分。
どうやら黒子の歩幅に合わせていたら、予定よりも遅くなってしまっていたようだ。
「分かってたなら早く言ってよ!走ろうテツ君!」
「え…無理です置いて行って下さい」
「走りたくないだけでしょ!」
「君の足について行く足は備えてません…」
ひ弱な事を言う黒子の手を掴んで走り出す。
こういう時の黒子は情けないけれど、試合になると強気なとこがいいんだよなぁ、なんて。
今更桃井が良く言っていた「あのギャップがいいんだよ!」が分かるような気がしていた。
・・・
結局少しだけ遅刻して少しだけ怒られて。
会場に入った真司達は新しいユニフォームに着替えていた。
「いい?試合数は少ない分、強豪校とばかりの試合になるからね」
試合前のぴりぴりとした空気は久しぶりだ。
それが楽しい気がするのは、やはりこの舞台を待っていたからだろう。
そんな感じで気分が高揚している真司の横で、更に頬を緩めている男が一人。
「木吉先輩はずいぶんと顔が緩んでますね」
「ん?わかる~?」
「いや、分かりますよ」
公式の試合は久しぶりなのだろう、木吉の顔はへらっと緩みきっている。
それでも頼りになるのは、この人の強さを知っているからか。
真司は何となく手を伸ばして木吉の頬を摘まんだ。
「お?」
「いえ、特に意味はないんですけど」
「日向!見てくれ!烏羽がオレにちょっかい出してきたぞ!」
「烏羽やめろ、コイツが更に調子にのる」
木吉の嬉しそうな声に対し、日向は息多めに返す。
そうは言われたものの、真司は摘まんだ頬をもう少し引っ張ってみた。
「ひててて、何だよ烏羽~」
触ってみて実感したが、木吉の背はやっぱり高い。
顔を触るだけでも手をずいぶんと上に伸ばさなければならないなんて。
木吉はどんな事をきっかけにバスケを始めたのだろう。
まさか紫原みたいに背が高かったから…じゃないだろうな。
とか考えていた真司の体は、ひょいと木吉によって持ち上げられていた。
「え」
「可愛いなぁ、烏羽は」
「だー!ほらもう言わんこっちゃねぇだろが!」
「ちょっとアンタ達、緊張感なさすぎよ!」
なんだこれは。
と突っ込む間もなく、木吉はしっかりと真司を抱き込んでいた。
大きな手が真司の頭を撫でまわす。
「そういえば…木吉先輩の手ってすごく大きいですよね」
「ん?比べてみたいか?ホラ」
と、頭を撫でていた手が真司の目の前に差し出された。
片手で抱えられるその不安定さから、真司も片手を木吉の首に回して、片方を木吉の手に合わせる。
男と女…というより大人と子供。
「このくらい大きかったら…俺も木吉先輩くらい強くなれるのかな」
「何言ってんだ、大きさなんて関係ない。烏羽には烏羽の良さがあるだろ」
「そうですか?」
「あぁ」
その言葉とその声色と。
お父さんのような安心感に包まれて、真司は目を細めて笑った。
「お前の分まで頑張るからなー」
「よろしくお願いします」
「おう!」
どうやら木吉は、自分が帰ってきたおかげで真司の出番が減ったことを分かっているのだろう。
勿論それに対して文句を言うつもりも、不服でいたわけでもないのだが。
「ほらもう行くわよ」
「おい木吉、いつまでそうしてんだ行くぞ!」
「このまま行こうなー烏羽ー」
「え!?やですよ、下ろして下さい!」
そんなこんなで始まったウィンターカップ予選。
まったりとした空気は、控え室を出て体育館に入れば、すぐにがらりと切り替わった。
夏の活躍から誠凛はかなり注目を集めていたが、木吉の存在は更に誠凛の強さを引き上げていた。
火神の圧倒的な跳躍力。黒子のパス回し。
そして木吉のオールマイティな技術。
センターでありながら、ポイントガードのパスセンス、そして大きな手だからこそ出来る“後出しの権利”。
シュートに行くと見せかけてパスを出せるその技は、確実に敵を翻弄した。
そして。今日の試合で、誠凛、秀徳、泉真館、霧崎第一の4校が決勝リーグへと駒を進めた。
翌日の決勝リーグ一回戦は泉真館。
それが確定し、明日に備えて今日はしっかり休もうと各自帰路を歩き出す。
これから怒涛の強豪校との試合続きだ。
「あの、ちょっといいですか」
そんな中、黒子の手が真司の手を掴んだ。
何の予定もなくそのまま帰るつもりだった真司は、少し驚きながら振り返る。
「うん、どうしたの?」
「この後、ちょっと付き合ってもらいたいのですが」
朝とは逆に、今度は黒子からのお誘いだ。
それが嬉しくてぱっと顔を輝かせたが、隣にいる火神が目につく。
当然のことながら一人ではないらしい。
「新しいドライブを見て欲しいんです」
「新しい、ドライブ…?え、ドライブ?」
「はい」
黒子といえば中学の頃からずっとパス以外はからっきし。
勿論ドリブルだって下手なのだから、まさかドライブを練習していたなんて。
「敵役は火神君にやってもらうのですが…烏羽君にも、見て欲しくて」
「嬉しい、見たい!」
「良かったです」
じゃあ行きましょう、そう言って歩き出す黒子の後に続く。
今このタイミングで言うということは、明日からの試合で見せていく意志があるということだろう。
「つっても、ホントに完成してんだろーな」
「はい。後は最終調整したいだけなので」
「んならいいけどよ」
少し冷たく言い放つ火神だが、口元には笑みが作られている。
火神も黒子も、二人とも夏からずっと新しい挑戦を始めていたのだ。
ちなみに火神は左手の強化。
「二人とも凄いんだなぁ…」
「そういうの、見てから言ってください。ハードル上がります」
「え、ごめん、そういうつもりじゃなかったんだけど」
むす、とした黒子の横に並んでへらっと笑う。
でも、見なくたって分かる。黒子はずっと努力家で、ずっと頑張ってきた人なんだから。
なんて考えていたとはいえ。
真司の予想していたハードルを、黒子は易々と越えてきた。
ストリートが出来る公園に着いてすぐ、黒子と火神が袖を捲り向き合う。
その二人が互いに構え、動き出すのをコート脇で見ていた真司は、自分の目を疑う事となった。
「え…今、テツ君…!」
ゴールを守る火神をドリブルで越えて行った黒子。
火神は全く動けなかった。
黒子の姿は、火神の前から消えたのだ。
「って、おい黒子ボールすっぽ抜けてんじゃねーか!」
「すっぽ抜けました」
「だからそう言ってんだろ!」
格好良い、と思ったのも束の間、火神の声ではっとする。
肝心のボールは黒子の手に吸い付かず、火神の前に転がっていた。
「あはは、テツ君らしいというか」
ころころと転がってきたボールを拾い上げて、指をその表面に滑らせる。
「って、何このボール…」
「あ?どうした、真司」
「これ…」
見慣れたボールなのに肌触りに違和感が強い。
それを火神にパスすると、火神も驚いたように目を丸くした。
「皮が削れてツルツルじゃねーか」
「このボールも、もう換えないといけませんね…」
コンクリートで使い続ければこうなるのかもしれないが、真司自身それほどボールを酷使したことがないから分からない。
しかし、火神の反応から察するにこれは、尋常なことではないのだろう。
「体育館、もっと使えたら良いんですけど…もうこれで6つ目です」
「な…!?6つ!?」
「え、何?テツ君6つもボール駄目にしたの!?」
いやさすがに6つとなれば話は別だ。よっぽどだ。
真司は思わず黒子に駆け寄り、努力し続けたその手を掴んだ。
真司の手のひらとは違う、見えない努力で剥けた皮も固くなっている。
「あぁもう…テツ君はホント…」
「烏羽君?」
「テツ君、火神君もごめん」
突然の真司からの謝罪に二人がきょろんとしたのが分かった。
しかし真司はその胸の内に溢れる思いのまま、黒子の首に手を回していた。
「は!?」
「え…烏羽君?」
火神の悲鳴に近い声と、黒子の困惑の声。
どちらも近くにあるのに耳をくすぐった黒子の声が頭まで響いて来る。
「どうかしましたか?ボク、何か気に障ることを…」
「ううん、テツ君が、すごくて…テツ君が…」
「何だか良く分かりませんが…有難うございます」
ふっと笑った黒子の息が真司の髪を揺らす。
駄目だ、言いたい。好きだ、こんなにも胸をくすぐる思いが苦しい。
「お、おい、烏羽、具合悪いならオレが」
「火神君、空気を読むことも男のモテテクですよ」
「あえて読んでやんねーよ畜生!」
二人の掛け合いに少し笑いが込み上げるが、それよりも胸が痛いのは愛か罰か。
自分の行動に申し訳なく感じているのに、今はただただ黒子を抱き締めたくて。
黒子に胸を押されるまで、ずっと背中に回した腕に力を入れていた。
・・・
ウィンターカップ予選とは始まってみればあっという間で。
決勝リーグ一日目、対泉真館は危なげなく勝利した。
「楽しんでこーぜ」という木吉の一言がいつも誠凛を精神的にも支えてくれる。
だから、強気でコートに出て行く皆をベンチから見守る真司も、かなり安心して試合を観ている事が出来た。
「つっても、浮かれる暇もねーな」
試合を終えたというのに、そう言った日向の表情は言葉通りに笑みの一つも携えていなかった。
翌日に行われる試合が既に目先にちらついている。
「次の試合はかなり厳しくなるぞ」
「一度こちらが勝っているからこそ…今度は死に物狂いで勝ち来ます」
黒子の脳裏にも、やはり見えているのだろう。
一度負けたからこそ、今度は必死に立ち向かってくる緑間の姿が。
「ま、何にせよ。今日はこのまま帰って、皆しっかり休んでね」
リコが手を打ちながらそう言うが、やはり明日が気になってしまうことに変わりはなく。
真司は高揚してしまった気持ちを抑える為に、一人ドアの方に向かった。
「すみません、ちょっと、お手洗い行って来ていいですか」
「いいわよ、行ってきなさい」
別に駄目なんて言わないわよ、くらいの勢いで返され、そそくさと控え室を出る。
ぱたんと扉が閉まれば、汗臭さのないひやりとした空気が体に纏わりついた。
柄にもなくというか、珍しく緊張している。
ここで勝たなければウィンターカップに行けない…皆と出来ない、そう、やはり思ってしまっているからだろうか。
「…はぁ…」
気分はいいのに、ため息が出る。
入ったお手洗いに人がいなかったのを良い事に、真司蛇口を捻って静かに流れる水をすくいあげた。
その水を徐に自分の顔にかけて、ぽたぽたと髪から落ちる滴を手の甲で拭う。
顔を上げれば、情けない顔が鏡に映った。
本当に自分は「誠凛の皆と試合をしたい」と思えているだろうか。
ウィンターカップで本当に成し遂げたいこととは。
(分からない…俺は、どうしたいんだろう)
だって、考えてしまったのだ。
“やっと赤司君に会える”と。
「…っ」
ポケットにさしていたタオルを顔に当てる。
それから結局どうにもならなかった自分の内面に落ち込みつつ、真司はドアノブに手を伸ばした。
しかし、誰かが入ってくるタイミングと被ってしまったらしい。真司がノブを掴む前に向こうが勝手に動き出す。
お手洗いに入って来た人は、目の前にいた真司に一瞬不快そうに目を細め…すぐにパッと笑顔に変わった。
「あれ、君…誠凛の選手だよね」
「え」
見知らぬ人にまさか話しかけられるとは思っておらず、真司は驚いて顔を上げた。
よく見ればそのジャージには“KIRISAKIDAIICHI”と書いてある。
霧崎第一…決勝リーグ、三日目に当たる相手の学校だ。
「あ、どうも…」
「近くで見ると本当に、女の子みたいだ」
「は…?」
「そうだ、木吉鉄平は元気?」
会話を続けるつもりはなかったが、ぱたんとその人の背中で閉まったドアから出るタイミングを失ってしまった。
仕方なく、そこまで背の高くない黒髪の…貼り付けたような笑顔を浮かべるその人に向き直る。
「木吉先輩の、知り合いなんですか?」
「ハッ…別に、知り合いってわけじゃないけど。怪我は大丈夫かなと思ってね」
「え…怪我、ですか?」
「あれ?知らないんだ」
透き通るような綺麗な声でしゃべるのに、その人の笑い声はなんだか不気味だった。
その話の内容も相まって、真司は無意識に唾を飲んでいた。
なんだか、嫌な予感がする。
「足…かなり痛めているはずなんだけどな」
「なんですか、それ…知りません」
「ま、知らなくても今度の試合で分かるだろ」
眉を下げて低い声で放たれたその言葉に、真司は思わず一歩詰め寄っていた。
「何なんですか…?まさか、あなたが何かやったんですか?」
「嫌だなぁ。何をするって言うんだい?」
「知りませんけど、でも…!」
何だか怪しい。何かが引っかかる。
そんな勘から動いた真司だったが、次の瞬間、腕をその人に掴まれていた。
二人しかいない空間に、ガツンと鈍い音が響く。
「痛ッ…!?」
強く握られた片手が無理やり持ち上げられ捻られている。
そのまま正面の壁まで引きずられ、どんと壁に押し付けられていた。
木吉や火神程背が高いわけではないけれど、真司との身長差は大きい。
高く持ち上げられると、それだけで自由が利かなくなってしまった。
「君、バスケ選手にしては随分と小さいよね…。ぶつかっちゃったらどうなるだろう」
「な、にするんですか…っ」
「木吉は足だけで済んだけどさ」
「…!やっぱりあなたが…!?」
ぐいと近づけられた顔が不気味に笑っている。
その間にもキリキリと痛めつけられている腕に、真司は顔をしかめた。
「あはは、痛がる顔も可愛いね。イジメ甲斐があるよ」
「っ、やめて下さい、こんなことして…!」
許されるはずがない。という言葉は喉で止まった。
ここには誰もいない、他には誰もいない状態で、この人の悪事を誰が知れるというのか。
試合中でだってそうだ、ばれなければ何だって出来てしまうのかもしれない。
「何?どうしたの?何か言う事があるなら言っておけば?」
「…、っ…」
木吉の怪我が本当なら、次の霧崎第一との試合、悲劇が起こりうるのかもしれない。
嫌な想像と腕の痛みとで自然と目に涙がたまる。
駄目だ、この人の思い通りにさせてはいけない。
「あれ?泣いちゃったの?この程度で?」
「はな、せ…っ」
「嫌だよ」
「っぅ…」
冷たい声が耳を掠める。
どうしてか上手く言い返せないし抵抗することも出来ない。
誰か、誰か来て。誰か。頭の中で何度もそう叫ぶことしか出来なかった。
真司の願いが届いたのか、恐怖に目を閉じた時、かちゃんとドアが開く音が聞こえた。
思わず目を開いて顔を動かせば、救世主と言わんばかりに立っているその人。
「木吉先輩!」
「…花宮!?」
しかし、その木吉が呼んだのは真司の名では無かった。
「やあ、木吉。久しぶり」
「どうしてお前が烏羽と…っ」
花宮、とは目の前の男の名だろう。
真司は手が解放されたにも関わらず、茫然としたまま動くことが出来なかった。
まさか、このタイプの異なる二人が知り合いだったなんて。
「…烏羽に、何をしたんだ」
「何怖い顔しているんだい?別に少し話をしていただけだよ」
「少し話…?泣いてるじゃないか」
二人の会話をぼんやりとしたまま聞く。
そしてようやく自分の情けない有様に気付いた。
花宮という男の他人を何とも思わないその冷酷な目。それに無意識のうちに恐れ涙していた。
「目にゴミでも入ったんでしょ、ねぇ、烏羽君」
「…っ、」
「話、してただけだよね」
「…まあ…そうですけど」
実際のところ、特別苛められたわけではなし。
むしろ花宮はかなり重要な事を教えてくれた。
「でも、烏羽…」
「木吉先輩、心配かけてごめんなさい。大丈夫です」
「…そうか、ならいい。皆心配してるから、早く戻ろう」
「はい」
花宮から離れたいのか、木吉は急かす様にこちらに手を伸ばした。
それに従って、真司は花宮と壁との間からするりと抜け出る。
「なぁ、木吉。この子は知らなかったみたいだけど、怪我…早く良くなってよ」
「…!」
「心配してるんだからさ」
ばたんとドアが閉まり、空間を遮断する。
真司は緊張から解き放たれたかのように、息を大きく吐き出していた。
正直、怖かった。ズキズキとまだ痛んでいる腕は、かなり力強く掴まれていたようだ。
「烏羽…ごめんな、大丈夫か?」
「え、なんで木吉先輩が謝るんですか」
「オレが…オレのせいで、たぶん巻き込んだんじゃないかと…」
しゅんと眉を下げてこちらを見下ろす木吉が真司の背中を押して歩き出す。
ここに立ち止まりたくはないのだろう。
花宮と木吉、関係はよく知らないが、良いものでないことは分かる。
「…木吉先輩」
「いや、烏羽、先に一つ言わせてくれ」
問いたい。
その思いに気付いたのか、木吉はぴたと足を止めた。
「余計な事は考えるな」
木吉の言う余計な事とは、本当に余計なことなのだろうか。
真司は木吉を見上げて、それから開いていた口を閉じた。
足の怪我のこと。それから花宮のこと。
聞いてはいけないというのか、そんなに大事なことを。
「…それは、さっきの人の事ですか、それとも…さっきの人との事ですか」
「どっちも、だな」
眉を下げて笑った木吉の顔は、なんだか痛々しくて。
そしてそれが木吉なりの拒絶だと分かって、真司は視線を落とした。
「先輩、無理だけはしないで下さい」
「ん?別に無理なんてしてないぞ」
でも聞いたって何て返されるか予想は出来た。
問いかけたところでこの人は笑って言うのだ、大丈夫だと。
木吉との間に建てられた大きな壁は、どうあがいても壊せそうになかった。
・・・
むかえた翌日の決勝リーグ二日目。
外は土砂降りで暗いのに、会場内は今まで以上の熱気を帯びていた。
今回の決勝リーグ一番期待される試合、誠凛対秀徳。
ベンチに座り互いを見据える彼等は、熱気の奥の更なる熱い思いにも気付いていた。
「烏羽君、さっき緑間君と何を話していたんですか?」
黒子の声色は、冷静でありながらもどこか緊張感を纏っていた。
眼前に見える緑間。今日の彼は何か滾っている。
「話すって程じゃないけど…負けないっていう宣言とあと…」
「あと?」
「勝つ為に手段は選ばないって」
目線を上げて、つい先程のことを思い出しながら言う。
内容はどうにも恐ろしい、緑間の口から出た言葉とは考えにくいものだ。
「やはり前回の敗北は、緑間君の中の何かを変えたのでしょう」
「そうだろうね。なんか、今日の緑間君はギラギラしてる」
控え室から移動してコートに入った時、緑間と目が合った。
そして告げられたのは今黒子に言った通り。
緑間からは“キセキの世代”と言われた頃の余裕はなくなっていた。
「ま、そうだろうな。敗北を知った人間は、勝利に飢える」
黒子と真司の話を聞いていた木吉が皆に聞こえるように言う。
そしてそれを聞いた日向は小さく笑った。
「こっぴどく負けてきたのは、何も向こうだけじゃないだろ」
負ける気がないのはどちらも同じ。
勿論、勝利への執着だって変わらない。
「勝つための必須条件は緑間君攻略よ。そして彼の長距離スリーポイントには限界がある」
リコのアドバイスに耳を傾ける選手たちは皆真剣だった。
「打つほどタメが長くなる。全てじゃなくても、そこまで抑えれば成功率は一気に落ちる!」
その緑間にとって相性が悪いのは火神。
緑間のシュートを火神が止める。
それが今回の勝利への道、簡潔でいて、でも長い道だ。
「火神君、信じてるよ」
「おう、任せろ!」
恐る恐る作った拳を火神に向ければ、火神は笑顔と一緒にこつんと拳をぶつけてくれた。
緑間と火神の一騎打ち。
先に折れた方の負け、どちらも変わらない勝利条件を持って。
試合は始まった。
・・・
格上だと思われていた秀徳だが、実力はほぼ互角だった。
緑間の今までなら選ばない新しい手段とは、仲間を頼るパス。
一方で誠凛は木吉が帰ってきたことで本来の、攻撃に特化したバスケが出来るようになっていた。
更には黒子の新たなドライブもある。
余りにも早い点取り合戦に見ているだけでも休まらない。
ベンチでずっと試合を見守っていた真司は、それだけでなく自分自身に違和感を感じていた。
「烏羽君、試合出たいでしょ」
そうリコに言われた瞬間、真司は咄嗟に言葉が出てこなかったのだ。
「…出たい…のかな…」
「烏羽君?」
「いえ…」
一瞬たりとも目を離せないほどの試合展開。
コート上で汗を流し輝いている彼の姿。
以前巻き込まれる形とはいえ、ベンチでずっと海常と桐皇の試合を観ていられる機会を得た。
あの時から、もう自分の中で何かが変わっていたのかもしれない。
「…っ」
試合を観ているのが楽しい。
コート上で熱をぶつけあっている彼等をずっと見ていたい。
この試合、緑間も火神も限界を超えるほどボールを打ち、また跳び続けた。
黒子も、公式戦で初めてボールの仲介ではなく、その手にボールを持った。
そんな彼等を見て、真司は確信した。
自分は、コートに立てなくても良いのだと。
試合は104対104。
引き分けという形で幕を閉じた。