黒バス(2012.10~2017.12)
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夏休みが始まってすぐ、それは突如起こった。
「日向先輩?どうかしたんですか?」
真司は大きなため息を吐いた日向を見上げてそう問いかけた。
練習が終わり、じゃあ解散と告げた直後だ。
「お疲れですか?」
「いや…。そうだな…これに関しては皆に言っておく必要があるか…」
「先輩?」
「監督は…いないな」
額を押さえながら再び重いため息を吐いて、日向は先程去って行ったリコを目で探した。
顧問に呼ばれていたらしいリコは当然もう体育館にはいない。
それが確認出来ると日向は「よし」と小さく呟いて、すっと息を吸った。
「お前等!もっかい集合!」
日向の声に、一度解散を告げた為にバラバラになっていたメンバーが不思議そうに戻ってくる。
どうやら二年生は何を言われるのか理解しているらしい。心なしか表情がかたい。
「さっき監督が言っていたように、合宿は二回。一回目はもう直なわけだ…が。オレ達は危機に瀕している」
「危機…!?」
今年の合宿は海と山。
何故片方に絞れなかったんだという疑問は抱いても、そこまでとは。
「今回、安い民宿にした為に食事は自炊だ。つまり、監督が飯を作る」
しかし、続いたどの内容にぽかんと口を開いた。
真司だけではない。火神も、黒子も目をぱちぱちと瞬かせている。
「それが、何か問題なんですか?」
「大問題だ」
「リコ先輩の手料理が?」
「一言で言えば、…ポイズンだ」
その瞬間、ぽかんと開かれた口から「あぁ…」と声が漏れた。
「誰が別の人が作ればいいんじゃないですか?」
「いや…練習メニューがきつ過ぎて無理だ」
予想は出来ているが、それはさぞ地獄のような練習なのだろう。
とすればリコの料理から逃れることはほぼ不可能に近い。
そしてそれは更なる死を意味している。
「…というわけで、試食会を開こうと思う」
直接練習しろ、とは言えない。
そんな優しさを持ったが故“試食会”という形で行われることとなったリコの料理をなんとかしよう作戦。
リコの料理の酷さを知る由もない真司は、なんとなく面白そうだなんて悠長な事を考えていた。
・・・
目の前にどんと置かれた皿に、真司は言葉を失った。
やると決めたらすぐ。
そんな勢いで、日向の提案あった翌日、彼等は家庭科室を借りて例の試食会を行っている。
「さ、食べてみて!」
これは地獄か。ここで死ねというのか。
真司は隣にいる日向を見上げて、小さく首を振った。
「烏羽、これが現実だ」
「…こんな現実…知りたくなかったです…」
ぼそぼそとリコには聞こえないくらいの声で言う。
リコは皿を置きながら「カレーよ」と言ったはずだ。
しかしそこにあるのは、茶色い沼に沈む切られていないにんじん、そのままの形をしたたまねぎ、じゃがいも。挙句に肉は生焼けだ。
「なんでまるごと!?」
「え?あ、ちょっと食べにくかった?ま、見た目はともかく味は平気だから!」
「そう、なのか…?じゃあ…」
リコの言葉を信じて、日向、小金井、伊月と次々にスプーンを差し込む。
それを見ていた真司もごくりと唾を飲んでから同じようにそのカレーを救い上げた。
「い、いただきます…」
小さな口には大きすぎる具の塊をなんとか口に含んで。
その感想は、言うまでも無かった。
「…っ、」
思わず「まずい」と言いそうになって、カレーごと呑み込む。
いや、これはカレーではないだろう。というか、どうしたらこうなるというのか。
食べにくい具は何故か噛みきれないし、ルーには妙な苦みがある。
「やっぱり…あんまり美味しくない、かな…」
リコの呟きには、どう返したら良いやら。
真司は涙目になるのを堪えながら、助けを求めるように日向を見上げた。
その日向は、何を思ったかお皿にどどんと乗っていたカレーを全て食べ尽くして。
「それ、寄こせ」
「え…」
そして、真司の皿と入れ替えると更にそれを食した。
「日向先輩…!?」
「ごっそさん」
とん、と真司の前に空になったお皿が置かれる。
驚いて顔を上げると、日向は何も言わずに立ち上がり、扉の方へ向かっていってしまった。
「美味かったけど、ちょっと辛かったから、飲み物かってくるわ」
その背中は何とも言い難い凛々しさがあって。
思わずキュンとしかけた真司の前に、今度は木吉の影がかかった。
「味は個性的だけどイケるよ。料理に一番大事なものは入ってる。愛情が、な」
木吉は鍋に向かうと、自らおかわりをしている。
クサい台詞も気にならない程の男前な行動に、リコは潤んだ瞳を見開いた。
「鉄平…」
「だけど、作り方がどっか間違ってるかもな。もう一回、作ってみないか?」
「うん…!」
そんな二人を見ていた真司含め他全員は絶句、いや感動して言葉を失った。
いくらリコが頑張って作ったものとはいえ、完食、ましてやおかわりなど出来るはずもない。
とはいえ、彼等が無事かというとそんな事もなく。
「…つーわけで、誰か…リコに作り方教えられねーか…?」
「てゆーか木吉変な汗出てるけど!?」
「おかわりはやりすぎた…」
ぷるぷると震えて汗を流す木吉。日向は廊下で息絶えていた。
ポイズン、いや完全に“デス”だ。
「…」
ここは、名乗り出るべきなのだろうか。
普段から自分のご飯は自分で作っている真司にとって、カレーは朝飯前だ。
しかし、迷うのは今のリコに自分で対応できるか…というところ。
そんな真司の考えを知ってか知らずか、火神が調理場へ移動して行った。
「あの…ちょっとこの辺の残りモンでメシ作っていいすか?」
「え!?火神料理出来んの!?」
「出来るっつーか…腹減って」
手際よく料理を始める手付から、火神が慣れていることは一目瞭然だ。ちゃっかりエプロンまで着込んでいる。
真司は思わず立ち上がり、火神の横に移動していた。
「火神君、いつも自分で作ってるの?」
「あぁ、一人暮らしだから」
「そーなんだ」
高校生で一人暮らしなんて、さぞ大変だろうに。
とはいえ大して驚かなかったのは、真司も似たような境遇だったからか。
「烏羽君」
突然、そういえば今までずっと黙ったままでいた黒子が真司を呼んだ。
「何?」
「そこに卵があります」
黒子の目は、確かにそこにある卵をじつと見つめている。
真司は黒子のいろいろ足りな過ぎる発言に、きょとんと目を丸くした。
「ある、ね?」
「久しぶりに、君の卵焼きが食べたいです」
淡々とそう言った黒子に、いち早く反応したのは真司では無かった。
「真司の、卵焼き?」
火神がぽつりと復唱する。それを切っ掛けに、じわじわと広がって行った。
「烏羽も料理とかするんだ?」
「え、あ、はいまぁ」
「えー!何それ食べてみたいんだけど!」
伊月と小金井が続けて言う。
すると、先程まで小刻みに震えていた木吉が急にばっと振り返った。
「黒子、お前は食った事あるのか?」
「中学の時に何度か。とても美味しいんですよ」
「おぉ…!烏羽!」
今度は輝いた目を向けて、真司の肩をがしっと掴む。
この後何を言われるかは、何となく予想が出来た。
「作ってくれ!」
「いや…いいんですか?」
「あぁ。頼む」
「ちょ、ちょっとー…私のカレーは?」
不服そうな声を漏らしたリコに、現実へと無理やり送還させられる。
木吉は暫く「んー…」と声を漏らし、それから火神の肩をとんと叩いた。
「…火神、お願い出来るか」
「はぁ、まぁいいすよ」
「烏羽にはこれな」
「あ、どうも…」
木吉から手渡されたのは青いエプロンだ。
火神やリコの着ているものと同じ種類らしい。
そのシンプルなエプロンを着込み、真司は邪魔な前髪を耳にかけた。
「おお…」
「なんか、ぽい!」
「烏羽、やっぱりうちの嫁に」
「木吉は黙ってろ」
「お、日向生き返った!」
それぞれの感想を聞いて苦笑いをしつつ。
真司は火神に負けないくらいの手際で料理に取り掛かった。
家庭科室に良い匂いが漂っている。
部員の前に並べられているのは、見た目は完全に一般的なカレー。そして、素朴な卵焼き。
「美味そう…?」
「とりあえず、普通のカレーだな」
「でしょ!?食べて食べて!」
皆の分をよそり終え、リコはばっと両手を左右に広げた。
その行動から察するに、さぞ自信があるのだろう。
「烏羽の卵焼きは…一応後に残しておこう」
「そうだな、何があるか分からないしな…」
「ちょ、ちょっとどういう意味よそれ!」
日向の一言で、皆真司の卵焼きをそっと脇にずらした。所謂お口直しに使うつもりらしい。
真司も何となくそれに従い、先にカレーに手を伸ばした。
「いただきます…」
先程のカレーが印象に残っている手前、恐る恐るスプーンですくい上げる。
そして口に含むと、目を見開き、ゆっくりとスプーンを置いた。
「…」
口に広がるのは妙な苦み。
ちらっと日向を見上げると、抱いた感想は同じようで、眉間のシワを深くしていた。
「え、嘘、美味しくない?」
「火神、ちゃんと教えたんだろうな?」
「味見もしたし、間違いないと思う、すけど…」
何でだ。
皆顔を見合わせ不思議そうにする。その中で黒子だけが小さく呟いた。
「美味しいですよ」
きょとんと、マズイと思っている皆の方がおかしいかのように。
「いや黒子お前…無理しなくていいから」
「いえ、本当に」
さらりと失礼な事を言った日向はさておき、木吉は何か気付いたようにハッと顔を上げた。
「黒子、お前自分でよそったんじゃないか?」
「え…はい。忘れられていたので…」
まさかのミスディレクション。いや、単に存在感が無いだけか。
木吉はそれで確信したようで、スプーンを置くとリコに向き直った。
「もう一回よそってみてくれないか?」
「え…う、うん」
散々言われたリコの目には薄らと涙が滲んでいる。
それでも木吉に言われた通り、すんっと鼻をすすってから皿にご飯をよそった。
そして続いて何かふりかける。
「…リコ先輩、それって」
「え?サプリメント、だけど」
真司は咄嗟に問いかけ、そして納得した。苦いはずだ。
何はともあれ原因は分かった。
皆一斉に立ち上がり、カレーをよそり直して、そして一口。
「普通だ…!」
「ちょっと、そこは美味しいって言ってよ!」
改めて食べたカレーは、本当によくあるカレーの味。
それをほっとした様子で食べる一同の中、真司はぽつりと声を漏らした。
「美味しい…」
「烏羽君?」
「すごく美味しいです…」
真司にとっては初めて“自分以外の人が作ったカレー”だ。
学校の給食は別として、それは味以上に何か込み上げるものがあって。
「でも、サプリメントは入れないで下さいね」
「わ…分かったわよ…」
リコにはもう少し部活から離れて料理に挑んで欲しいところだが、そんなところも彼女らしいのかもしれない。
そんな事を考えながらもう一口。
その真司の肩を、背後から木吉が掴んだ。
「どうしました?」
「烏羽、毎朝オレの為に味噌汁と卵焼き作らないか?」
「…毎朝は飽きますよ」
既に聞き慣れているこの手のフレーズに真司のため息が漏れる。
まぁ大体木吉がこれを言うと他の先輩…特に日向が突っ込んでくれる為に言い返すことはしない。
しなかったのに。
「いや、烏羽はオレがもらう」
さらりと日向の奥にいた伊月が言う。
「料理も出来るなんて知らなかったしなー。烏羽って良い奥さんになりそうだな!」
続いて小金井。その横では水戸部がこくりと優しい顔をして頷いた。
「い、いやいや…揃って何言ってるんですか…!」
この流れは初めてだ。
悪い気はしないものの、さすがに戸惑いながら日向を見上げる。
しかし日向は暫く考えるように眉を寄せて、それから静かに口を開いた。
「いや、他にやるくらいならオレがもらう」
「日向先輩!?」
「嫌かよ」
「…い、いえ」
当然冗談なのだろうが、本気とも取れない言い方に、なんとなく恥ずかしくなって。
俯き遮られた視界の外で、リコが呆れきった溜め息を吐いたのが聞こえた。
・・・
夕暮れ、顔にオレンジの光を浴びながら、真司はぐぐっと腕を伸ばした。
本日の練習も終了して、後は帰宅するだけだ。
「それにしても…日向先輩も木吉先輩も男前だよねぇ」
ぼんやりと今日感じた事を呟く。
いくら下手だったとはいえ女性の手料理だ。真司には気の利いた一言すら言えなかったのに二人ときたら。
「ああいうのを紳士的って言うんだろうな」
うんうんと一人頷いて、先程から黙ったままの火神と黒子を振り返る。
二人とも何か言いたそうに口を開いて、火神は何やら照れくさそうに頭をかいた。
「あのよ…」
「ん?」
ぼそっと、横を通る車の音にかき消されそうな声。
火神は視線を合わせないままに言葉を続けた。
「いつも自分の弁当、作ってんだろ?」
「あー、うん。親が作ってくれないからなー」
「今度、お前の分…作ってくる」
「え…?」
辛うじて聞き取れた低い声に、真司は暫く思考が停止していた。
何よりも、どうしてという疑問が大きくて。
「今日…監督の作ったカレー、美味そうに食ってたから…」
「そりゃ自分で作るよりは美味しく感じる、けど」
「だから、作ってくる」
迷惑じゃなければ、そう付け足されて、真司はぶんぶんと首を振った。
そんなもの、迷惑なはずがない。むしろかなり嬉しい。
「火神君が、面倒じゃないなら」
「明日、弁当持ってくんなよ」
「う、うん」
何だろう、この感じは。
むずむずする感覚に真司は口を尖らせて前を向いた。
火神からの好意が分かる。そしてそれにドキドキし出している事にも気づいている。
「…」
会話がおぼつかないのは、互いに意識してしまっているからだろうか。
真司はもぞもぞと手を動かして、視線を地面に落とした。
「…烏羽君」
その真司の視界に黒子の足が映る。
隣を歩いているのか、同じ歩幅の彼の顔を見ると、何故か黒子も俯いていた。
「何?」
「……いえ」
ぽつりと小さな声と共に首を振る。
真司は黒子の反応を不思議に思いながらも、特に言及することは無かった。
それから、別に黒子に変わった様子はなく。
真司は火神の弁当を昼食に頂くようになり。
そしてついに数日後、合宿の日は訪れる。
「磯の香りが…いそがねば!」
そんな寒気のする台詞はさておき。
電車を降りた一行は、ずらずらと重い荷物を抱えて歩いていた。
とはいえ伊月の言葉はただのダジャレというわけでもなく。
真司はすんっと鼻で息を吸うと、眉間のシワを深くさせた。
「烏羽、そんなに嫌そうな顔するなよ」
「え、あ、いえそうじゃなくて…」
伊月の手が真司の頭をとんっと叩く。どうやらダジャレに対してした反応だと思ったのだろう。
当然そうではない。
「俺、海ってあまり好きじゃなくて」
「そうなのか?あ、泳げないから?」
「…まあ、そんな感じで」
元々苦手だったというのに、中学時代の青峰の悪戯によって更なる恐怖を植え付けられた。
今回は泳がないと分かっているものの、やはり嫌な印象は拭えないのだ。
「お!ほら見えた!」
駅を出てから暫く行くと、先を歩いていた小金井がやけにはしゃいだ声を出した。
その指さす先を見れば、青く広がる空とそして。
「海だー!!」
「合宿だダァホ!」
見渡す限りの青い海。
キラキラと太陽の下光る海は、誰の目から見ても綺麗なもの。
真司は眩しさに目を細め、それからゆっくりと息を吐いた。
不思議な感覚だ。嫌いなのに、目を奪われる。
「大丈夫ですか?」
ぼーっとしていたからか。
突如背後からかけられた声に、真司はびくっと体を揺らしてしまった。
「うわ、テツ君」
「烏羽君にそんな反応をされるとは。傷つきます」
「はは。ごめんごめん」
普段なら、真司が黒子に気付かないという事は滅多にない。それほどまでに海に目を奪われていたのだろうか。
久々に見る青。楽しかったあの頃。
「海に来るのは…あの日以来です」
「…俺も。あんな事がなければ、海に来ることなんて無いからなー…」
「黄瀬君が強引に決めたんでしたっけ」
「そーだった、かな。懐かしいね」
手を伸ばせば届く位置に皆がいた。愛しい人達が、愛をくれた。
それを、今も欲しいとは思わない。
「…これはこれで、充実してるから」
「烏羽君?」
「悪くないなって。こんな形で海に来るのも」
「…そうですね」
真司はきゅっと唇を結んで、先を行く先輩達を目で追った。
そんな風に切り替えようとしても、本当は薄らと気付き始めていたのだ。
もう、我慢にも限界が来ていることに。
・・・
ぽたぽたと汗が黄色の砂浜へと落ちて消える。
炎天下、砂浜に足を取られながらのバスケは想像以上に過酷だった。
重い足に、ドリブルは出来ない。
パスで繋ぐしかないバスケは、今の真司の課題でもある。
「はぁ…っ、…」
「烏羽君、大丈夫?」
「はい…」
「走れなくてもどかしいでしょ。この後体育館に移動して練習するからね」
体育館の使用にはお金がかかる。だからこの合宿中に体育館を使うのは夕方からの数時間だけらしい。
それなのに、体育館に行く前からこれ程疲れさせてくるとは。
「ちゃんと水分は補給しなさいよ。汗も拭いて」
「はぁい…」
「なーによその返事。シャキッとしなさい」
「む、無理です…」
返事もままならない。それ程体が疲労を訴えている。
真司はタオルに顔を押し当て、熱い呼吸を数回繰り返した。
正直、ここまでハードな練習は帝光中以来だ。
それでもついて行けたのは、皆に近付きたくて必死だったから。
そして今は、皆に勝つ為に。
「ほら、烏羽」
「っ!?」
その閉ざされた視界の向こう。
首筋に触れた冷たさに真司はがばっと顔を上げた。
「水分。とってないだろ」
「あ…有難うございます…」
振り返ると、伊月がペットボトルを持って笑っていた。
今首に当てられたのはそのペットボトルだったようだ。
「さすがの烏羽も、辛そうだな」
「…こんなの、初めてですし…」
「そりゃ、そうだ」
練習メニューを聞いた直後の先輩達の顔から察するに、この練習は今年初だ。
同じ状況の中でも伊月に余裕が見えるのは、経験の差によるものなのだろう。
そんな事を考えながら、冷えたペットボトルに口をつける。
潤いを求めて何度も何度も喉を動かして。ふと、横でごそごそと動き出した伊月を見て、目を丸くした。
「っ!…げほっ」
「お、どうした?大丈夫か?」
「だ、大丈夫、です…っ」
視界に入り込んだのは、伊月の裸体。
ただ単に汗をかいた服を脱いだだけだ。別に今更驚くことではない。
ないのだが。
「…」
綺麗な顔立ち、優男っぽく見せかけておいて、思いの外分厚い胸板。
着替えやらで見る機会はそれなりにあるし、思い出したくはないが共に風呂に入ったこともある。
それでも慣れない。いや、だからこそ慣れないのか。
「…」
「烏羽?」
「あ、いえ…」
男として、いちいちこんな事を気にするようでは駄目だ。そう言い聞かせて、視線を伊月に戻す。
ぱちっと目が合って、また逸らしそうになるのを堪える。
すると、何を思ったか伊月はふっと笑って真司の頭に手を乗せた。
「それにしても…走れない烏羽は、並みの選手だ」
「い、言ってくれますね…」
「でも、きっと強くなるな」
真司の汗まみれの髪を伊月の手がわしゃわしゃと撫で回す。
頭を撫でられるのは嫌ではないが、さすがに汗で濡れた髪は触って欲しくなくて、真司はさりげなく頭を下げると伊月の手を避けた。
「汗臭いですから…」
「ん?臭くないけど」
「か、顔近づけないで下さい!」
そう言っても、笑うだけで離れるつもりはないらしい。
むしろぴたりと頬に寄せられた伊月の顔に、真司は湧き上がる熱を止められなくなっていた。
「…っ」
止め方が分からない。そもそもどうしてこうなるのかが分からない。
真司は俯いたまま、伊月が離れるのをじっと待つことしか出来なかった。
「あの、伊月先輩」
「ん?」
「そろそろ移動するみたいですよ」
視界の外で黒子の声がする。
分かったと軽い返事の後、伊月が離れていく気配がして、真司はゆっくりと顔を上げた。
「烏羽君も、体は大丈夫ですか?」
「あ、うん…」
真司の手に握られていたタオルを黒子が取る。
それがちょんちょんと額に当てられ、真司は反射的に目を閉じた。
「…テツ君こそ…さっきまでバテてたでしょ」
「君が先輩と遊んでいる間に、休みましたから」
「…」
遊んでいた、のなら良かったのに。
この未だ治まらない高鳴りは、遊んでいたという感覚とは明らかに違う。
自分の気持ちを確認する為にも、恐る恐る伊月の姿を視界に映す。
しなやかな体にタオルを当てる姿は、やはり格好良い。
早く服を着てくれ、なんて無意識に思っている時点で、きっともう間違っているのだろう。
「じゃあ、皆!体育館に向かうわよー!」
リコの元気な声に、元気のない「はーい」という声が続く。
真司は視線を下げたまま足を進めて、そして黒子の腕を掴んだ。
「烏羽君?」
「…俺、駄目かも」
「…」
「ドキドキするの、皆だけじゃないんだ…」
“皆”というのが“キセキの世代”という事を黒子は分かっている。
こんな最小限の言葉でも、黒子は目を見開き口を噤んだ。
中学の時も、そして高校生になってもこんな事を黒子に話すことになるなんて。
「テツ君、ごめん」
「…いえ。ボクの方こそ」
「なんでテツ君が謝るの」
「…」
黒子の返事が途絶える。
それが真司を不安にさせて、真司は静かに俯いた。
そんな思考に苦しんでも、リコの強化合宿は留まることを知らない。
引き続き手を緩めない体育館練習に、真司は余計なことを考える余裕も失っていた。