黒バス(2012.10~2017.12)
夢小説設定
決勝リーグまで二週間。
誠凛高校バスケ部は、それまでの間今まで以上にハードな練習をこなしていた。
そんな決勝リーグをひかえた、休日のこと。
「本当に、プールで練習するんですか…?」
「えぇ。ここまで来て何言ってるのよ」
誠凛高校から歩いて10分程の場所にあるスポーツジム。
そこはリコの父親が経営している場所なのだが、今日はどうやら休館になったらしい。
午前中は学校ではなくここで練習することになったのだが…。
「なんでプール…」
「水中は浮力があるから体を痛めにくいし、抵抗もあるからすんごくキツいのよ」
「…」
誠凛高校バスケ部に、そんな厳しい伝統があったとは。
ここに来ての難関に真司の頬を冷や汗がつたう。今から死を覚悟する程だ。
「烏羽、なんか顔色悪くないか?」
「そ、そうです、よね。体調悪いのかもしれません…!」
「…そうなのか?今日、多分かなりキツいぞ?」
心配そうに見下ろしてくる伊月に、罪悪感が募る。
それでも、この練習は意地でも避けなければならない。言われた通りに水着を持ってきてしまったけれど。
「烏羽君、まだ泳げないんですか?」
そんな真司の思いを、黒子があっけなく壊してくれた。
「なんだ、烏羽お前、泳げないから嫌だったのか」
「…っ!!」
「大丈夫だよ、泳ぐわけじゃないから」
何てことを言ってくれたんだ。
黒子にじとっとした視線を向ければ、黒子は不思議そうに首を傾げて。
そもそも黒子を責めること自体間違っているのだから、真司は何も言えずにがくりと項垂れた。
「俺が死んだら…バスケットボールを備えて下さいね…」
ぽつりと呟いた諦めの言葉に、伊月は大げさだと言って笑うだけだった。
・・・
「じゃあ、まずスクワットからやるわよ!プールに入ってー」
準備運動、ストレッチをそれぞれ済ませ終わった頃。
リコの一声で、一人また一人とプールへと体を沈めて行く。
躊躇って入り損ねた真司は、既にプールに入っている黒子を見て唖然とした。
「…結構、深くないですか…?」
プールに入った黒子の体は、胸あたりまで水に浸かった状態になっている。
「ここで、本当にスクワットなんて、出来るんですか?」
「出来るわよ。皆去年だってやったんだから」
「で、すか…」
スクワット、とは膝関節の屈曲・伸展を繰り返す運動のことだ。
何が言いたいかって、胸まで浸かった状態から膝を曲げたらどうなるか。
「沈みますよ…?」
「沈まないわよ」
「顔…水につきますよ…?」
「そんなの、その瞬間息止めればいいじゃない」
「…」
リコの目は、さっさと準備しろと言っている。
そもそも真司はスクワット以前にこの深さのプールに体を入れることすら問題なのだ。
それでも、リコの視線が怒りを含み始めた為にプールへと近付き、片足を入れる。
「…」
「烏羽?早く入れよ、どうした?」
「日向先輩…」
眼鏡、外さないんですか。
と多少気になることを呑み込んで、真司はおずおずと口を開いた。
「助けて下さい…」
「はぁ?」
一番近くにいる日向に向けて両手を広げる。
全く意図を察していない日向は怪訝そうに眉を寄せて、それから真司の真似をして両手を左右に広げた。
「もうちょっとこっちに来てもらえると…」
「いやだから何?」
「……入るの、手伝って下さい」
「…」
何故、皆が見ている前でこんな恥ずかしいことを言わなければならないんだ。
恥ずかしくて、じわじわと真司の頬が赤くなっていく。
とはいえ、日向はようやく真司がどうして欲しいのか察してくれたようだ。
「ほら」
ざぶざぶと真司のいるプールサイドへ近付いて来た日向の手は、真司の方へと伸ばされた。
「すみません…」
日向の首に手を回し、恐る恐る体をプールの中へ入れていく。
怖くないように、という配慮なのか、日向も手を真司の背に回してくれて。それでも残念ながら、怖くないわけがなかった。
「ひゅ、日向先輩…っ、足、着かないです…!」
「そりゃそうだろ。んな俺にしがみついてたら」
「っ、う…でも」
ぎゅっとしがみ付いたまま、手を放すのが怖くて動けない。
そんな真司に呆れたのか、耳元で日向がため息を吐いた。きっと目を瞑り眉を寄せているのだろう、見えない日向の表情が何となくわかる。
困らせている。時間も無駄だ。
「…うぅ」
「仕方ないな」
それでも動かない真司に、日向はゆっくりと膝を曲げていった。
少しずつ、真司の体を埋める水の位置が上がってくる。そのまま暫くして、水が胸の位置まで来た時、真司の足が床に着いていた。
「つ、きました!」
「なら、さっさと離れろ」
背中を抱いていた日向の手は、言葉通り真司を剥がそうと肩を押す。
そこでようやく、真司は自分がどれほど恥ずかしいことをしていたのか気付いてしまった。
「う、わ!すみませんでした…!」
「だからって慌てんな。ゆっくり」
「は、はい…」
体を離していけばわかる。あまりにも近過ぎた日向との距離。
いや、距離も何も完全に密着していたのだが。
真司は日向から離れると、おずおずと周りを見渡した。
「…」
「…」
「…す、すみません、でした…」
誠凛高校バスケ部メンバーしかいないプールに冷え切った空気が滞っている。
真司は恐怖の対象である水の中、誰の手も借りずにざぶざぶと歩き出した。
胸まで浸かりそうな勢いだ。背が低いのをこの日程呪ったことはないかもしれない。
「烏羽、大丈夫か?」
「は、はい…」
差し出された優しさあふれる伊月の手を取らずに一人で歩く。
水が鼻に入る感覚や、足がもつれる感覚を思い出して、寒さとは違う鳥肌が立つ。
「待たせたついでに変な空気にしてくれた罰。烏羽君は5回プラス。日向君は10回プラスね」
あ、死んだ。
真司と日向は寒さとは関係なく顔を真っ青にした。
・・・
「烏羽、無事か?」
頭上から降り注いだ声に、真司はぐったりとした状態から顔を上げた。
「あ…すみませんでした…」
「いやオレのことはいいから。苦手なこと無理にさせて悪かったな」
プールサイド、壁に寄りかかって休んでいた真司の横に日向も座る。
とんとんと真司の頭を叩く日向の手が優しくて、真司は照れ隠しから顔を伏せた。
「日向先輩、優しい」
「お前はそういう…。いいから、ホント」
頑張った甲斐があった、そう思わせてくれるところが何とも。
言葉に出来ない感覚に頬が緩んで、それでももう少し日向に優しくしてもらいたくて、真司は伏せたまま小さく笑った。
「おい、何笑ってんだ?」
「あ、いえ別に…」
「ったく、心配して来てやったってのに」
日向の手が真司から離れて、少し残念に思いながら顔を上げる。
すると、日向は何やら複雑そうに真司を見下ろしていた。
「…日向先輩?」
「いやお前さ、あれから火神とはどうしてる?」
あれから、とは数日前、テストの結果が戻ってきた日のことを指しているのだろう。
真司はその日のことを思い出し、きゅっと唇を噛んだ。
「…」
「まだ喧嘩したままなのか?いい加減仲直りしてくれねーと」
「分かってます、けど…」
「自分は悪くない、とか面倒なこと考えてねーだろうな?」
「それは…むしろ悪いのは俺の方ですし」
火神に悪いところは恐らくなかった。
青峰のことが好きで、気付かないうちに火神の前で何度も名前を出していたのだろう。覚えてはいないが。
「でも、どうやって謝ったらいいか…。俺、嫌いとか言っちゃったし…」
「別に謝り方なんてこだわる必要ないだろ。火神はお前のこと相当…なぁ?」
「なぁ?って言われましても…」
今日火神がいないのは、秀徳戦での無茶が響いて、万全な状態でないからだ。
しかし、来週からは火神も練習に参加出来るようになる。決勝リーグでも火神との連携は必須。
「…そうですね、来週までには」
「頼むぞ」
今度は優しく、ぽんっと肩を叩かれた。
主将に心配かけているようでは駄目だろう。立ち去って行く日向の背中を見て、真司はぶんぶんと頭を振った。
別のことを考えている余裕も無い。まだ、プール練習は始まったばかりだ。
何人もの部員が水中での運動を繰り返して、ちゃぷんちゃぷんと波打つ水面が顔にかかる。
その度に息を止める真司の呼吸はもう限界に近かった。
「はい!一分休憩!」
リコの声に一分だけ?という思いを口にはせず、手を前方に伸ばして助けを請うように端へと移動する。
「……もう、無理…」
ぐったりと、プールの縁にしがみ付いて大きく息を吐き出す真司に、そのプールから外へと抜け出す気力もなかった。
肩を揺らしながら、暫くそこで呼吸を整える。
「面白い練習してますね」
「はい…まぁ…」
確かに、こんな練習方法、帝光中のハードな練習の中にも無かった。
泳げなくても生きていけると思っていた真司への天誅か。
「それにしても…烏羽君って泳げないんじゃなかったっけ?」
「…ん?」
待て、今自分は誰と話しているんだ。
ふわふわと高くて可愛らしい声、それは誠凛には無いものだ。
疲れ切って項垂れていた頭をゆっくりと上げて、声の主を確認する。
すると、そこにはある種絶景が広がっていた。
「も、桃井さん…!?」
「久しぶりだね、烏羽君」
水色の可愛らしい水着を着こんだ桃井が座っている。
丁度、真司の視線からだとアングル的にかなりセクシーだ。というのはどうでもいい。
「誰!?」
桃井の存在に気付いた先輩達が目を丸くして、というよりは顔を赤くしていて。
真司は慌ててプールから上がると、目に余る大きな胸からさり気なく目を逸らした。
「なんで、桃井さんがこんなところに…」
「えっと…決勝リーグまで我慢出来なくて来ちゃったっていうか…あ!」
帝光中バスケ部のマネージャーだった桃井。彼女とも久しく会っていなくて、それこそ半年振りくらいのものだ。
その桃井は、彷徨わせていた目の先にある人物を捕らえると、ぱっと可憐な笑顔を咲かせた。
「テツ君!!」
視線の先には、プールから上がったばかりの黒子。
桃井は躊躇うことなくその黒子へと突っ込んで行った。
「久しぶりー!会いたかったぁあ!!」
「桃井さん、苦しいです」
桃井の柔らかそうな胸がばいーんと黒子に突撃するのに思わず息を止める。
その直後、ぐっと後ろから腕を引かれて、真司はよろけながら振り返った。
「うわ、わ、監督?」
「誰よあれは…」
「え、中学の時のマネージャーです」
「決勝リーグとか言ってたわね…。まさか偵察…?」
見たことのない形相で背後に立つリコに、恐怖故の冷や汗が流れて。
とにかく何か巻き込まれる前に逃れようと、真司はリコから離れて黒子と桃井に近付こうとした。
が、その腕が更に日向に掴まれていた。
「…日向先輩?」
「あの子は…黒子の彼女、なのか…?」
「いえ、多分違うと思いますけど…」
桃井が黒子を好きなのは間違いないが、恐らく黒子からの好意はそれとは違う、はず。
二人の関係を聞いたことが無い為に確証はないが。
「なるほど…やっぱアレだな!オレ達に足りないのは女子だ!おっぱいだ!」
「…!?」
「烏羽もそう思うだろ!なあ!」
「……日向先輩、監督の顔が…」
突然の日向の主張。何が切っ掛けだったか分からないが、その言葉を聞いてしまったリコの顔がかなりマズイことになっている。
「日向君…?女子ならここにいるけど…?」
「え、あ、うん。そだね」
リコのパンチで日向が吹っ飛んで。
ざぶんと落ちた日向と、未だ拳を震えさせるリコに、真司は静かにその場を離れた。
「日向さん死んじゃいますよー」
何気なく、それを見ていたのだろう桃井が言う。
その言葉に、日向はプールの中で顔を上げ、目を丸くした。
「何で、名前…」
「知ってますよー、誠凛バスケ部主将でクラッチシューター、日向さん」
怪しげに笑う桃井。その姿は中学の頃、桃井の情報が上手いこと試合に影響した時によく見たものだ。
「イーグルアイを持つポイントガード、伊月さん。無口な仕事人でフックシューター、水戸部さん…小金井さん、土田さん」
あっさり省略された小金井と土田が目に見えてショックを受ける。
しかしこれではっきりした。桃井は今敵で、決勝リーグで当たる高校のマネージャーになっているのだろう。
「桃井さん、やはり青峰君のとこ行ったんですか」
ぽつりと黒子の細い声が桃井に問いかける。
桃井は一瞬表情を暗くして、無理矢理笑いながら頷いた。
「…テツ君と一緒の学校行きたかったのは本当だよ?けど…あいつ、放っとくと何するか分かんないから…」
青峰の幼馴染で、彼を誰よりも理解し支えようとしていた人。
その距離感を羨ましいと思ったことは一度も無かった。桃井とは別の青峰との距離を不服に思ったことは無かったから。
「…桃井さん」
それでも、今はどうだろう。
真司は黒子に切なげな表情を見せている桃井に近付いた。
「その…青峰君は…元気にしてる、かな」
「ふふ、青峰君とおんなじような事言うんだ」
「え?」
振り返った桃井がクスッと笑う。
その可愛らしい笑みよりも、桃井の一言が真司の心拍数を上げた。
「あ、青峰君…何か言ってた?」
「うん。誠凛バスケ部に…テツ君に会いに行くって言ったらあいつ、烏羽君が元気にしてるか見て来いって」
「…」
「青峰君に、会いたいと思う?」
桃井の表情は全て見透かしているようで、それでも真司の答えを待っている。
迷いはあった。会いたいと願って良いのかどうか。それでも、真司は顔を背けることが出来なくなっていた。
「…会いたい」
ぽつりと漏らした声に桃井が優しく笑う。
リコも何か察してくれたのか、溜め息を吐きながら暫く休憩にすると告げてくれた。
・・・
ぱたぱたと汗が落ちる。
火神はそれを手の甲で拭いながら、眼前に立つ男を見上げた。
見下すような目、馬鹿に下ような笑い方。
「お前が…青峰大輝…」
「何だよ、信じられねーのか?」
緑間に聞いたプレイスタイルのこと、そして黒子の言ったかなり強い男だと言う話、確かに当てはまる。
「つか、オマエ本当に緑間に勝ったのか?話になんねー」
「テメェ…!」
「あぁ、テツがいるのか。だとしたら不憫だぜ。あいつは光が濃いほど強くなるってのに」
青峰がドリブルしながら突っ込んでくる。今の火神には、それを止めることは叶わなかった。
「オマエの光は淡すぎる」
速い。逆に時間が止まったかのようにも感じる程に、何が起きたか分からなくなる程に。
茫然として、それから青峰の言葉を認めざるを得なくなった。
「オレの速さについてこれねーようじゃ、真司の速さも無駄だな」
「な…」
「味方がついて来れねぇプレイをするわきゃいかねーもんなぁ」
「…」
正しいことを言っているのだろうが、どうにも納得いかない。
火神はショックと苛立ちを隠せず、青峰に向けた視線を鋭くさせた。
「何だよ。言いてぇ事あるって顔だな」
「…真司が、オマエを思ってるってのが気に食わねぇ」
「あ?真司?当然だろ。今のアイツがいんのはオレのおかげだぜ」
どうしてか、酷くもやもやと渦巻く何かが火神を苦しめる。
(なんでだ…)
青峰に全く歯が立たなくて、自分の実力が足りないことを実感して。そこに、真司と青峰とのことなんて関係ないはずだ。
違う、本当は気付いていた。
「そうだとしても…オレは認めねぇ…」
「テメェが認める認めねぇは問題じゃねーんだよ。つか、何、もしかして真司に惚れてんのか?」
「…だったらなんだよ」
「ハッ、止めとけ。やばい奴を敵に回すことになるからな」
そもそも既に敵ではあるけど。そう言って笑った青峰の表情は、今までとは少し異なって、自分にも向けたかのような嘲笑だった。
「…火神君」
ぽつりと、そこに落とされた高めの声。
ばっと振り返った火神の後ろには、ここにいるはずのない真司が眉を寄せて立っていた。
「真司…!?お前、いつから」
「ごめ、ん。盗み聞きする、つもりじゃ…」
それでなくても悪くなっていた雰囲気が、今度こそどこにも落ち着くことが出来なくなる。
真司にとっては、喧嘩していたはずの火神と、微妙な別れ方をしたきりの、ずっと会いたかった青峰。
「お前、今日プールで練習してるはずだろ」
「そういう君は休んでなきゃ駄目なんじゃないの」
「それは…」
何故桃井が知っていたのかは謎だが、火神がこのストリートコートにいて、青峰は火神に会いにそこに行くと教えてくれた。
案の定いたわけだが、来るタイミングを大いに間違えたようだ。
「…、青峰君、久しぶり」
「あ?…あぁ」
「桃井さんが来たよ。相変わらずテツ君大好きなんだね」
「お前は相変わらず小せぇな」
「うっさいよ」
そうじゃない、こんな話がしたいんじゃない。
真司は頭をぽりぽりとかいて、青峰に近付いて行った。
会って話したいことも、したいこともたくさんある。それでも、会った時にどうしようか考えなかったのは、その全てが叶わないことを分かっていたからだ。
「あのさ…青峰君、考えた?」
「何を」
「俺とのこととか…バスケのこととか…」
「ハッ…お前、まだそんな事言ってんのかよ」
吐き捨てるように言った青峰の言葉に、真司は思いの外悲しみを感じていなかった。そうだろうな、くらいの事。
だからこそ、これから行われる試合に意味があるのだ。
「青峰君、俺は今でも君のこと大好きだよ。だから会いに来た」
「んなこと…言われなくても知ってるっての」
「うん。だから、火神君と一緒に戦うんだよ」
「…あァ?」
ちらと振り返って火神に目を向ける。
こんなタイミングで自分の名前が出るとは思わなかったらしい。目を丸くして、真司を見ている。
「まだ今のままじゃ青峰君には敵わない。でも、火神君には皆と同じ才能がある」
「だから強くなるって?」
「…そうだよ」
自分で口にしてみて、理想論を述べただけだということに気付く。
それでも、黒子が火神を信じているから。その彼を真司が信じられないはずはなかった。
「俺は火神君を信じてるから」
「…」
「都合の良い事を言ってるのは分かってる。でも、」
「もういい。聞きたくねーよ」
大げさな舌打ちをかまして、青峰は真司に背を向けた。
大きな背中。ずっとこの背中を一歩後ろから見ていた、そんな日々もいつが最後かすら思い出せない。
そして、いつからこの背中に愛しさを感じるようになったかも。
「…青峰君」
真司は手を伸ばして、肌に一枚重ねているだけの青峰のランニングシャツを掴んだ。
それが拒まれないことが分かって、嬉しくて、また一歩近づいて。そのまま青峰の背中に顔を寄せれば、広がる懐かしい汗の匂いがツンと胸を突いた気がした。
「青峰君のニオイだ…」
「ったりめーだろ。汗臭ぇから嗅ぐな」
「ううん、好き」
分厚い背中に抱き着いてしまいたい。この固い腕に抱かれたい。そんな湧き上がる欲望は行く宛なく真司の中に残るだけ。
とん、と軽く背中に額を当てて、真司はゆっくりと青峰から離れた。
「…じゃあ、俺は戻るから」
好きだからこそ、今の状況は余りにも辛い。
離れていた期間が長いせいで、いつの間にか思いは膨らんでしまっていたらしい。
青峰に背中を向けて、代わりに視界に入った火神は、何を思ったか眉を寄せて目を細めている。
真司はそんな火神の表情に小さく笑うと火神の胸をとんと軽く叩いた。
「…火神君、ごめんね」
何に対する、ということでも無く。
真司は火神にそれだけ告げて、ストリートコートから出て行った。
来た時と比べて足がかなり重い。
青峰は、やはりまだ真司の求める答えを持ってはいなかった。
もう、青峰からの好意は無くなってしまったのかもしれない。その可能性だって否めないのに。
「…」
こんなに一人勝手に思い続けたりして、馬鹿みたいだ。
真司は重いながらも歩いていた足をぴたりと止めて、熱くなった目に手を重ねた。
「真司…!」
そんな真司に呼びかける声は火神のもので。
真司は振り返らずに背後から聞こえる声に耳を傾けた。
「真司…その…オレの方こそ、悪かった…っつか」
「…?」
「なぁ、オレじゃ…駄目、なのかよ」
普段の威勢はどこへやら、探るような声と同時に優しく肩に手が乗せられる。
その大きな手に一瞬ドキッとして、それでも真司は振り返ることが出来なかった。
「なぁ、真司」
「ご…めん、…っ」
「真司…?」
重ねた手のひらの下、じわじわと滲んでくる涙が地面を濡らす。
火神も真司が泣いている事に気付いたのだろう、一度肩から温もりが離れた。
「悪ィ」
「え…」
その声は耳元で聞こえていた。
何故謝るのだろう。そう思ったのも一瞬、後ろから回された手が真司を包み込んで。背中にぶつかった火神の体と耳にかかった吐息が、抱きしめられているのだと実感させた。
「火神君…?」
「まじ、悪ィ。少しだけだから」
「…」
優しさなのか、それとも彼自身の何かしら衝動的なものなのか。
ただ、それが何だとしても、真司には応える事は出来ないのだ。
「…火神君、俺なんて…やめた方がいいよ…」
「アイツが好きだからか?」
「それも…うん…そう、だね」
真司の答えに納得したのか、火神がゆっくりと体を離す。
離れた熱に感じるのは更なる罪悪感。真司はほんの少し振り返り「ごめん」と呟いて、一人足を速めた。
・・・
スポーツジムに戻ると、既に練習を終えて学校へと戻る皆に合流することとなった。
当然のことながら、サボった罰として午後には倍のメニューをやらされることになるらしい。
「烏羽君、青峰君に会ったんですか?」
若干のプール臭さの残る水色の髪がふわっと揺れる。
隣を歩く黒子から、まさかそんな直球が飛んでくるとは思わなかった。
「うん。へへ、触っちゃった」
「嬉しそうですね」
「嬉しかったけど…同じくらい寂しいかな」
青峰の汗で少し湿ったランニングシャツ。
薄っぺらい服一枚で、胸元なんかほとんど見えていた。酷いものだ。こっちがどんな思いでいるとも知らずに。
「青峰君、増々やさぐれてたよ」
「…そうでしょうね。ボクも少し桃井さんから話し聞きました。桃井さんを悲しませるなんて最低です」
「桃井さん…青峰君について行ったんだもんね。すごいなぁ」
正直、青峰の傍にいられるというのは羨ましくもある。
しかしそれ以上に、自分では彼を支えられないと分かるから、彼女がいてくれて良かったとも思うわけで。
真司は青峰に触れた手を顔の前でぎゅっと握り締めた。覚悟を決めるしかない。
「テツ君、青峰君に勝とう」
「はい。そのつもりです」
黒子が普段の情けない顔と比べてキリッとした顔をして見せる。
それに笑ってしまうのは、決して黒子の顔が面白いからとかではなくて。
黒子の揺るぎない言葉に、酷く安心するのだった。
誠凛高校バスケ部は、それまでの間今まで以上にハードな練習をこなしていた。
そんな決勝リーグをひかえた、休日のこと。
「本当に、プールで練習するんですか…?」
「えぇ。ここまで来て何言ってるのよ」
誠凛高校から歩いて10分程の場所にあるスポーツジム。
そこはリコの父親が経営している場所なのだが、今日はどうやら休館になったらしい。
午前中は学校ではなくここで練習することになったのだが…。
「なんでプール…」
「水中は浮力があるから体を痛めにくいし、抵抗もあるからすんごくキツいのよ」
「…」
誠凛高校バスケ部に、そんな厳しい伝統があったとは。
ここに来ての難関に真司の頬を冷や汗がつたう。今から死を覚悟する程だ。
「烏羽、なんか顔色悪くないか?」
「そ、そうです、よね。体調悪いのかもしれません…!」
「…そうなのか?今日、多分かなりキツいぞ?」
心配そうに見下ろしてくる伊月に、罪悪感が募る。
それでも、この練習は意地でも避けなければならない。言われた通りに水着を持ってきてしまったけれど。
「烏羽君、まだ泳げないんですか?」
そんな真司の思いを、黒子があっけなく壊してくれた。
「なんだ、烏羽お前、泳げないから嫌だったのか」
「…っ!!」
「大丈夫だよ、泳ぐわけじゃないから」
何てことを言ってくれたんだ。
黒子にじとっとした視線を向ければ、黒子は不思議そうに首を傾げて。
そもそも黒子を責めること自体間違っているのだから、真司は何も言えずにがくりと項垂れた。
「俺が死んだら…バスケットボールを備えて下さいね…」
ぽつりと呟いた諦めの言葉に、伊月は大げさだと言って笑うだけだった。
・・・
「じゃあ、まずスクワットからやるわよ!プールに入ってー」
準備運動、ストレッチをそれぞれ済ませ終わった頃。
リコの一声で、一人また一人とプールへと体を沈めて行く。
躊躇って入り損ねた真司は、既にプールに入っている黒子を見て唖然とした。
「…結構、深くないですか…?」
プールに入った黒子の体は、胸あたりまで水に浸かった状態になっている。
「ここで、本当にスクワットなんて、出来るんですか?」
「出来るわよ。皆去年だってやったんだから」
「で、すか…」
スクワット、とは膝関節の屈曲・伸展を繰り返す運動のことだ。
何が言いたいかって、胸まで浸かった状態から膝を曲げたらどうなるか。
「沈みますよ…?」
「沈まないわよ」
「顔…水につきますよ…?」
「そんなの、その瞬間息止めればいいじゃない」
「…」
リコの目は、さっさと準備しろと言っている。
そもそも真司はスクワット以前にこの深さのプールに体を入れることすら問題なのだ。
それでも、リコの視線が怒りを含み始めた為にプールへと近付き、片足を入れる。
「…」
「烏羽?早く入れよ、どうした?」
「日向先輩…」
眼鏡、外さないんですか。
と多少気になることを呑み込んで、真司はおずおずと口を開いた。
「助けて下さい…」
「はぁ?」
一番近くにいる日向に向けて両手を広げる。
全く意図を察していない日向は怪訝そうに眉を寄せて、それから真司の真似をして両手を左右に広げた。
「もうちょっとこっちに来てもらえると…」
「いやだから何?」
「……入るの、手伝って下さい」
「…」
何故、皆が見ている前でこんな恥ずかしいことを言わなければならないんだ。
恥ずかしくて、じわじわと真司の頬が赤くなっていく。
とはいえ、日向はようやく真司がどうして欲しいのか察してくれたようだ。
「ほら」
ざぶざぶと真司のいるプールサイドへ近付いて来た日向の手は、真司の方へと伸ばされた。
「すみません…」
日向の首に手を回し、恐る恐る体をプールの中へ入れていく。
怖くないように、という配慮なのか、日向も手を真司の背に回してくれて。それでも残念ながら、怖くないわけがなかった。
「ひゅ、日向先輩…っ、足、着かないです…!」
「そりゃそうだろ。んな俺にしがみついてたら」
「っ、う…でも」
ぎゅっとしがみ付いたまま、手を放すのが怖くて動けない。
そんな真司に呆れたのか、耳元で日向がため息を吐いた。きっと目を瞑り眉を寄せているのだろう、見えない日向の表情が何となくわかる。
困らせている。時間も無駄だ。
「…うぅ」
「仕方ないな」
それでも動かない真司に、日向はゆっくりと膝を曲げていった。
少しずつ、真司の体を埋める水の位置が上がってくる。そのまま暫くして、水が胸の位置まで来た時、真司の足が床に着いていた。
「つ、きました!」
「なら、さっさと離れろ」
背中を抱いていた日向の手は、言葉通り真司を剥がそうと肩を押す。
そこでようやく、真司は自分がどれほど恥ずかしいことをしていたのか気付いてしまった。
「う、わ!すみませんでした…!」
「だからって慌てんな。ゆっくり」
「は、はい…」
体を離していけばわかる。あまりにも近過ぎた日向との距離。
いや、距離も何も完全に密着していたのだが。
真司は日向から離れると、おずおずと周りを見渡した。
「…」
「…」
「…す、すみません、でした…」
誠凛高校バスケ部メンバーしかいないプールに冷え切った空気が滞っている。
真司は恐怖の対象である水の中、誰の手も借りずにざぶざぶと歩き出した。
胸まで浸かりそうな勢いだ。背が低いのをこの日程呪ったことはないかもしれない。
「烏羽、大丈夫か?」
「は、はい…」
差し出された優しさあふれる伊月の手を取らずに一人で歩く。
水が鼻に入る感覚や、足がもつれる感覚を思い出して、寒さとは違う鳥肌が立つ。
「待たせたついでに変な空気にしてくれた罰。烏羽君は5回プラス。日向君は10回プラスね」
あ、死んだ。
真司と日向は寒さとは関係なく顔を真っ青にした。
・・・
「烏羽、無事か?」
頭上から降り注いだ声に、真司はぐったりとした状態から顔を上げた。
「あ…すみませんでした…」
「いやオレのことはいいから。苦手なこと無理にさせて悪かったな」
プールサイド、壁に寄りかかって休んでいた真司の横に日向も座る。
とんとんと真司の頭を叩く日向の手が優しくて、真司は照れ隠しから顔を伏せた。
「日向先輩、優しい」
「お前はそういう…。いいから、ホント」
頑張った甲斐があった、そう思わせてくれるところが何とも。
言葉に出来ない感覚に頬が緩んで、それでももう少し日向に優しくしてもらいたくて、真司は伏せたまま小さく笑った。
「おい、何笑ってんだ?」
「あ、いえ別に…」
「ったく、心配して来てやったってのに」
日向の手が真司から離れて、少し残念に思いながら顔を上げる。
すると、日向は何やら複雑そうに真司を見下ろしていた。
「…日向先輩?」
「いやお前さ、あれから火神とはどうしてる?」
あれから、とは数日前、テストの結果が戻ってきた日のことを指しているのだろう。
真司はその日のことを思い出し、きゅっと唇を噛んだ。
「…」
「まだ喧嘩したままなのか?いい加減仲直りしてくれねーと」
「分かってます、けど…」
「自分は悪くない、とか面倒なこと考えてねーだろうな?」
「それは…むしろ悪いのは俺の方ですし」
火神に悪いところは恐らくなかった。
青峰のことが好きで、気付かないうちに火神の前で何度も名前を出していたのだろう。覚えてはいないが。
「でも、どうやって謝ったらいいか…。俺、嫌いとか言っちゃったし…」
「別に謝り方なんてこだわる必要ないだろ。火神はお前のこと相当…なぁ?」
「なぁ?って言われましても…」
今日火神がいないのは、秀徳戦での無茶が響いて、万全な状態でないからだ。
しかし、来週からは火神も練習に参加出来るようになる。決勝リーグでも火神との連携は必須。
「…そうですね、来週までには」
「頼むぞ」
今度は優しく、ぽんっと肩を叩かれた。
主将に心配かけているようでは駄目だろう。立ち去って行く日向の背中を見て、真司はぶんぶんと頭を振った。
別のことを考えている余裕も無い。まだ、プール練習は始まったばかりだ。
何人もの部員が水中での運動を繰り返して、ちゃぷんちゃぷんと波打つ水面が顔にかかる。
その度に息を止める真司の呼吸はもう限界に近かった。
「はい!一分休憩!」
リコの声に一分だけ?という思いを口にはせず、手を前方に伸ばして助けを請うように端へと移動する。
「……もう、無理…」
ぐったりと、プールの縁にしがみ付いて大きく息を吐き出す真司に、そのプールから外へと抜け出す気力もなかった。
肩を揺らしながら、暫くそこで呼吸を整える。
「面白い練習してますね」
「はい…まぁ…」
確かに、こんな練習方法、帝光中のハードな練習の中にも無かった。
泳げなくても生きていけると思っていた真司への天誅か。
「それにしても…烏羽君って泳げないんじゃなかったっけ?」
「…ん?」
待て、今自分は誰と話しているんだ。
ふわふわと高くて可愛らしい声、それは誠凛には無いものだ。
疲れ切って項垂れていた頭をゆっくりと上げて、声の主を確認する。
すると、そこにはある種絶景が広がっていた。
「も、桃井さん…!?」
「久しぶりだね、烏羽君」
水色の可愛らしい水着を着こんだ桃井が座っている。
丁度、真司の視線からだとアングル的にかなりセクシーだ。というのはどうでもいい。
「誰!?」
桃井の存在に気付いた先輩達が目を丸くして、というよりは顔を赤くしていて。
真司は慌ててプールから上がると、目に余る大きな胸からさり気なく目を逸らした。
「なんで、桃井さんがこんなところに…」
「えっと…決勝リーグまで我慢出来なくて来ちゃったっていうか…あ!」
帝光中バスケ部のマネージャーだった桃井。彼女とも久しく会っていなくて、それこそ半年振りくらいのものだ。
その桃井は、彷徨わせていた目の先にある人物を捕らえると、ぱっと可憐な笑顔を咲かせた。
「テツ君!!」
視線の先には、プールから上がったばかりの黒子。
桃井は躊躇うことなくその黒子へと突っ込んで行った。
「久しぶりー!会いたかったぁあ!!」
「桃井さん、苦しいです」
桃井の柔らかそうな胸がばいーんと黒子に突撃するのに思わず息を止める。
その直後、ぐっと後ろから腕を引かれて、真司はよろけながら振り返った。
「うわ、わ、監督?」
「誰よあれは…」
「え、中学の時のマネージャーです」
「決勝リーグとか言ってたわね…。まさか偵察…?」
見たことのない形相で背後に立つリコに、恐怖故の冷や汗が流れて。
とにかく何か巻き込まれる前に逃れようと、真司はリコから離れて黒子と桃井に近付こうとした。
が、その腕が更に日向に掴まれていた。
「…日向先輩?」
「あの子は…黒子の彼女、なのか…?」
「いえ、多分違うと思いますけど…」
桃井が黒子を好きなのは間違いないが、恐らく黒子からの好意はそれとは違う、はず。
二人の関係を聞いたことが無い為に確証はないが。
「なるほど…やっぱアレだな!オレ達に足りないのは女子だ!おっぱいだ!」
「…!?」
「烏羽もそう思うだろ!なあ!」
「……日向先輩、監督の顔が…」
突然の日向の主張。何が切っ掛けだったか分からないが、その言葉を聞いてしまったリコの顔がかなりマズイことになっている。
「日向君…?女子ならここにいるけど…?」
「え、あ、うん。そだね」
リコのパンチで日向が吹っ飛んで。
ざぶんと落ちた日向と、未だ拳を震えさせるリコに、真司は静かにその場を離れた。
「日向さん死んじゃいますよー」
何気なく、それを見ていたのだろう桃井が言う。
その言葉に、日向はプールの中で顔を上げ、目を丸くした。
「何で、名前…」
「知ってますよー、誠凛バスケ部主将でクラッチシューター、日向さん」
怪しげに笑う桃井。その姿は中学の頃、桃井の情報が上手いこと試合に影響した時によく見たものだ。
「イーグルアイを持つポイントガード、伊月さん。無口な仕事人でフックシューター、水戸部さん…小金井さん、土田さん」
あっさり省略された小金井と土田が目に見えてショックを受ける。
しかしこれではっきりした。桃井は今敵で、決勝リーグで当たる高校のマネージャーになっているのだろう。
「桃井さん、やはり青峰君のとこ行ったんですか」
ぽつりと黒子の細い声が桃井に問いかける。
桃井は一瞬表情を暗くして、無理矢理笑いながら頷いた。
「…テツ君と一緒の学校行きたかったのは本当だよ?けど…あいつ、放っとくと何するか分かんないから…」
青峰の幼馴染で、彼を誰よりも理解し支えようとしていた人。
その距離感を羨ましいと思ったことは一度も無かった。桃井とは別の青峰との距離を不服に思ったことは無かったから。
「…桃井さん」
それでも、今はどうだろう。
真司は黒子に切なげな表情を見せている桃井に近付いた。
「その…青峰君は…元気にしてる、かな」
「ふふ、青峰君とおんなじような事言うんだ」
「え?」
振り返った桃井がクスッと笑う。
その可愛らしい笑みよりも、桃井の一言が真司の心拍数を上げた。
「あ、青峰君…何か言ってた?」
「うん。誠凛バスケ部に…テツ君に会いに行くって言ったらあいつ、烏羽君が元気にしてるか見て来いって」
「…」
「青峰君に、会いたいと思う?」
桃井の表情は全て見透かしているようで、それでも真司の答えを待っている。
迷いはあった。会いたいと願って良いのかどうか。それでも、真司は顔を背けることが出来なくなっていた。
「…会いたい」
ぽつりと漏らした声に桃井が優しく笑う。
リコも何か察してくれたのか、溜め息を吐きながら暫く休憩にすると告げてくれた。
・・・
ぱたぱたと汗が落ちる。
火神はそれを手の甲で拭いながら、眼前に立つ男を見上げた。
見下すような目、馬鹿に下ような笑い方。
「お前が…青峰大輝…」
「何だよ、信じられねーのか?」
緑間に聞いたプレイスタイルのこと、そして黒子の言ったかなり強い男だと言う話、確かに当てはまる。
「つか、オマエ本当に緑間に勝ったのか?話になんねー」
「テメェ…!」
「あぁ、テツがいるのか。だとしたら不憫だぜ。あいつは光が濃いほど強くなるってのに」
青峰がドリブルしながら突っ込んでくる。今の火神には、それを止めることは叶わなかった。
「オマエの光は淡すぎる」
速い。逆に時間が止まったかのようにも感じる程に、何が起きたか分からなくなる程に。
茫然として、それから青峰の言葉を認めざるを得なくなった。
「オレの速さについてこれねーようじゃ、真司の速さも無駄だな」
「な…」
「味方がついて来れねぇプレイをするわきゃいかねーもんなぁ」
「…」
正しいことを言っているのだろうが、どうにも納得いかない。
火神はショックと苛立ちを隠せず、青峰に向けた視線を鋭くさせた。
「何だよ。言いてぇ事あるって顔だな」
「…真司が、オマエを思ってるってのが気に食わねぇ」
「あ?真司?当然だろ。今のアイツがいんのはオレのおかげだぜ」
どうしてか、酷くもやもやと渦巻く何かが火神を苦しめる。
(なんでだ…)
青峰に全く歯が立たなくて、自分の実力が足りないことを実感して。そこに、真司と青峰とのことなんて関係ないはずだ。
違う、本当は気付いていた。
「そうだとしても…オレは認めねぇ…」
「テメェが認める認めねぇは問題じゃねーんだよ。つか、何、もしかして真司に惚れてんのか?」
「…だったらなんだよ」
「ハッ、止めとけ。やばい奴を敵に回すことになるからな」
そもそも既に敵ではあるけど。そう言って笑った青峰の表情は、今までとは少し異なって、自分にも向けたかのような嘲笑だった。
「…火神君」
ぽつりと、そこに落とされた高めの声。
ばっと振り返った火神の後ろには、ここにいるはずのない真司が眉を寄せて立っていた。
「真司…!?お前、いつから」
「ごめ、ん。盗み聞きする、つもりじゃ…」
それでなくても悪くなっていた雰囲気が、今度こそどこにも落ち着くことが出来なくなる。
真司にとっては、喧嘩していたはずの火神と、微妙な別れ方をしたきりの、ずっと会いたかった青峰。
「お前、今日プールで練習してるはずだろ」
「そういう君は休んでなきゃ駄目なんじゃないの」
「それは…」
何故桃井が知っていたのかは謎だが、火神がこのストリートコートにいて、青峰は火神に会いにそこに行くと教えてくれた。
案の定いたわけだが、来るタイミングを大いに間違えたようだ。
「…、青峰君、久しぶり」
「あ?…あぁ」
「桃井さんが来たよ。相変わらずテツ君大好きなんだね」
「お前は相変わらず小せぇな」
「うっさいよ」
そうじゃない、こんな話がしたいんじゃない。
真司は頭をぽりぽりとかいて、青峰に近付いて行った。
会って話したいことも、したいこともたくさんある。それでも、会った時にどうしようか考えなかったのは、その全てが叶わないことを分かっていたからだ。
「あのさ…青峰君、考えた?」
「何を」
「俺とのこととか…バスケのこととか…」
「ハッ…お前、まだそんな事言ってんのかよ」
吐き捨てるように言った青峰の言葉に、真司は思いの外悲しみを感じていなかった。そうだろうな、くらいの事。
だからこそ、これから行われる試合に意味があるのだ。
「青峰君、俺は今でも君のこと大好きだよ。だから会いに来た」
「んなこと…言われなくても知ってるっての」
「うん。だから、火神君と一緒に戦うんだよ」
「…あァ?」
ちらと振り返って火神に目を向ける。
こんなタイミングで自分の名前が出るとは思わなかったらしい。目を丸くして、真司を見ている。
「まだ今のままじゃ青峰君には敵わない。でも、火神君には皆と同じ才能がある」
「だから強くなるって?」
「…そうだよ」
自分で口にしてみて、理想論を述べただけだということに気付く。
それでも、黒子が火神を信じているから。その彼を真司が信じられないはずはなかった。
「俺は火神君を信じてるから」
「…」
「都合の良い事を言ってるのは分かってる。でも、」
「もういい。聞きたくねーよ」
大げさな舌打ちをかまして、青峰は真司に背を向けた。
大きな背中。ずっとこの背中を一歩後ろから見ていた、そんな日々もいつが最後かすら思い出せない。
そして、いつからこの背中に愛しさを感じるようになったかも。
「…青峰君」
真司は手を伸ばして、肌に一枚重ねているだけの青峰のランニングシャツを掴んだ。
それが拒まれないことが分かって、嬉しくて、また一歩近づいて。そのまま青峰の背中に顔を寄せれば、広がる懐かしい汗の匂いがツンと胸を突いた気がした。
「青峰君のニオイだ…」
「ったりめーだろ。汗臭ぇから嗅ぐな」
「ううん、好き」
分厚い背中に抱き着いてしまいたい。この固い腕に抱かれたい。そんな湧き上がる欲望は行く宛なく真司の中に残るだけ。
とん、と軽く背中に額を当てて、真司はゆっくりと青峰から離れた。
「…じゃあ、俺は戻るから」
好きだからこそ、今の状況は余りにも辛い。
離れていた期間が長いせいで、いつの間にか思いは膨らんでしまっていたらしい。
青峰に背中を向けて、代わりに視界に入った火神は、何を思ったか眉を寄せて目を細めている。
真司はそんな火神の表情に小さく笑うと火神の胸をとんと軽く叩いた。
「…火神君、ごめんね」
何に対する、ということでも無く。
真司は火神にそれだけ告げて、ストリートコートから出て行った。
来た時と比べて足がかなり重い。
青峰は、やはりまだ真司の求める答えを持ってはいなかった。
もう、青峰からの好意は無くなってしまったのかもしれない。その可能性だって否めないのに。
「…」
こんなに一人勝手に思い続けたりして、馬鹿みたいだ。
真司は重いながらも歩いていた足をぴたりと止めて、熱くなった目に手を重ねた。
「真司…!」
そんな真司に呼びかける声は火神のもので。
真司は振り返らずに背後から聞こえる声に耳を傾けた。
「真司…その…オレの方こそ、悪かった…っつか」
「…?」
「なぁ、オレじゃ…駄目、なのかよ」
普段の威勢はどこへやら、探るような声と同時に優しく肩に手が乗せられる。
その大きな手に一瞬ドキッとして、それでも真司は振り返ることが出来なかった。
「なぁ、真司」
「ご…めん、…っ」
「真司…?」
重ねた手のひらの下、じわじわと滲んでくる涙が地面を濡らす。
火神も真司が泣いている事に気付いたのだろう、一度肩から温もりが離れた。
「悪ィ」
「え…」
その声は耳元で聞こえていた。
何故謝るのだろう。そう思ったのも一瞬、後ろから回された手が真司を包み込んで。背中にぶつかった火神の体と耳にかかった吐息が、抱きしめられているのだと実感させた。
「火神君…?」
「まじ、悪ィ。少しだけだから」
「…」
優しさなのか、それとも彼自身の何かしら衝動的なものなのか。
ただ、それが何だとしても、真司には応える事は出来ないのだ。
「…火神君、俺なんて…やめた方がいいよ…」
「アイツが好きだからか?」
「それも…うん…そう、だね」
真司の答えに納得したのか、火神がゆっくりと体を離す。
離れた熱に感じるのは更なる罪悪感。真司はほんの少し振り返り「ごめん」と呟いて、一人足を速めた。
・・・
スポーツジムに戻ると、既に練習を終えて学校へと戻る皆に合流することとなった。
当然のことながら、サボった罰として午後には倍のメニューをやらされることになるらしい。
「烏羽君、青峰君に会ったんですか?」
若干のプール臭さの残る水色の髪がふわっと揺れる。
隣を歩く黒子から、まさかそんな直球が飛んでくるとは思わなかった。
「うん。へへ、触っちゃった」
「嬉しそうですね」
「嬉しかったけど…同じくらい寂しいかな」
青峰の汗で少し湿ったランニングシャツ。
薄っぺらい服一枚で、胸元なんかほとんど見えていた。酷いものだ。こっちがどんな思いでいるとも知らずに。
「青峰君、増々やさぐれてたよ」
「…そうでしょうね。ボクも少し桃井さんから話し聞きました。桃井さんを悲しませるなんて最低です」
「桃井さん…青峰君について行ったんだもんね。すごいなぁ」
正直、青峰の傍にいられるというのは羨ましくもある。
しかしそれ以上に、自分では彼を支えられないと分かるから、彼女がいてくれて良かったとも思うわけで。
真司は青峰に触れた手を顔の前でぎゅっと握り締めた。覚悟を決めるしかない。
「テツ君、青峰君に勝とう」
「はい。そのつもりです」
黒子が普段の情けない顔と比べてキリッとした顔をして見せる。
それに笑ってしまうのは、決して黒子の顔が面白いからとかではなくて。
黒子の揺るぎない言葉に、酷く安心するのだった。