黒バス(2012.10~2017.12)
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あっという間に訪れた試合当日。
ようやくたどり着いた準決勝、ここを勝てば秀徳とあたる。などと先のことを考える余裕は無くなっていた。
誠凛高校控え室。そう書かれた部屋に漂うのは緊張感。一人一人の表情も硬く体も強張っている。
それを何とかしようと前に出たのは、監督であるリコだった。
「全員ちょっと気負いすぎよ。元気出るようにごほうび考えたわ!」
その瞬間、少し空気が重くなったのは嫌な予感を察したからか。
「次の試合に勝ったら…皆のホッペにチューしてあげる!」
想像を遥かに越えた展開に、数秒の沈黙。
しらっとした先輩達の表情に、リコが一人崩れ落ちた。
打ち合わせでもしていたかのように出来上がった流れだ。
思わず真司がふふっと笑うと、隣にいた黒子の頬も緩んだ。
「烏羽君、便乗して一ついいですか」
「何?」
「試合に勝ったら君にキスします」
「はぁ…!?」
何故そうなった。
いろいろ突っ込みたいことが多すぎるが、黒子が拳をつくってキリッと表情をつくっているので何も言わないことにした。
「まー冗談はいいとして、だ。行く前に改めて言っとくぞ」
そんな妙な空気を読み取ってか、日向が声のトーンを切り替えた。
それに気付き、真司も黒子も視線を真っ直ぐ日向に向ける。
「正邦は強い!ぶっちゃけ去年の大敗でオレはバスケが嫌いになって、バスケをやめそうになった」
「…」
ぴくっと黒子の肩が揺れた。それに気付きながらも真司は日向から目を逸らさなかった。
改めて先輩から去年の大敗の話を聞くのは初めてだ。
触れたくない話だと勝手に思っていたのだが、日向の表情は暗くない。むしろ前向きで今日のリベンジを信じている。
「去年と同じには絶対にならねー。強くなった自信があるからな!勝つだけだ!行くぞ!」
「「「おう!」」」
落ち込んだ空気はなんだったのか。
日向の一声で活気が戻ってくる。真司も気合いを入れ直し、先輩達のあとを続いて控え室を後にした。
「烏羽君、今日は勝負所で入ってもらうつもりだから」
「え」
控え室を出てすぐ、リコの手がとんと肩に乗る。
驚いて足を止めると、リコだけでなく日向や伊月、皆が真司を見ていた。
「俺、でいいんですか。だって、先輩達にとって大事な試合なんですよね」
「何言ってんだ。お前にとっちゃ大した試合でもないってか?」
「そ、そういう意味ではなく」
「ったく、何遠慮してんだ」
呆れてため息を吐いた日向がリコとは反対側に立ち、くしゃっと真司の頭を撫でた。
優しい手。こんな小さな体に試合の勝機を託してくれている。
「お前だって誠凛高校バスケ部の一人だろ」
「…はい」
「一緒にリベンジするぞ」
「はい…!」
よし、と言って笑った日向の笑顔は、今まで見た中で一番素敵に思えた。
チームとして、仲間として一緒に。帝光で消えて行ったものがここにある。
(この人達と勝ち残りたい。皆に思い知らせたい)
強い願望が再び真司の中に芽吹く。
真司はぎゅっと手を握り締め、改めて先輩達の後について行く決意をした。
・・・
体育館に入ると、間もなく試合が始まった。
ベンチに座って見ている真司の目は真剣で、隣に座っているリコも同様に相手チームの動きを見ている。
やはり今までの相手選手たちとは動きが違った。ディフェンスは分厚くないのになかなか越えられずにいる。
それは火神でさえ、だった。
「何か、すごく違和感があるんですけど…」
「正邦の選手のこと?」
「はい」
「そうね。正邦の選手は皆古武術を使うのよ。それをバスケに取り入れてる」
その一つとして、正邦の選手は『ナンバ走り』という同じ側の手足を振る走り方をしている。体を捻らないことで体力を大幅に持続させることが出来るとか。
実際のところ、既に慣れない相手の動きに翻弄されている。一番厄介な展開だ。
「このままじゃ…点が入らない」
ぽつりと漏らした真司の言葉に、リコが静かにこくりと頷いた。
正邦の選手は、常に勝負所と言わんばかりのプレッシャーをかけてくる。マークは一人に一人ついていて、パスも回しにくい上にドリブルで振り解くことも困難なのだ。
「ここまで厚い壁は初めてかもです」
「そうね…高さというよりは一人で厚みが十分にあるって感じ」
ベンチで見ていてそれ程の感想を抱ける。
つまりは、コートに立つ皆が感じているのはもっと酷いプレッシャーということで。
「なんだ、思ったほどじゃないじゃん」
そんなプレッシャーをかけながら、火神のマークについている坊主の選手、津川はへらっと笑った。
それに対して冷静でいられる程、火神の精神力は強くない。
「なんだとテメッ…!」
無理矢理マークを振り切ろうとした火神の体は、津川に思い切りぶつかった。当然火神にはファウルの声が審判から放たれる。
そんな調子で結局、第一クォーターの間に火神はファウルを二回。
それでも黒子のパス、水戸部のブロック、日向のシュート。連携で何とか19対19に押さえることには成功した。
「まだ始まったばかりよ!陣形は攻守共このまま行くわ!」
第二クォーター、勢いにのったまま再スタートを切る。
今度は黒子と火神の連携。マークの間を縫ってパスを火神から黒子へ、そして再び火神の元へボールが戻って行く。
完全に誠凛が正邦を捕らえた、ように見えた。
「烏羽君、どう?」
「…見ているだけでは分かりません。でも…火神君の汗の量がどうも…」
まだ相手のディフェンスを振り切ること出来ていない。今の所、黒子のパスで何とかシュートに繋いでいるようなものだ。
その上、火神は明らかに体力を削られている。
「このままだと一番に火神君が崩されちゃうんじゃ…」
そんな嫌な予感はすぐに的中することになってしまった。
「駄目だ!行くな火神!」
日向の声が体育館に響く。シュートに行った火神の体が再び津川へと突っ込んでいた。
ピーッという音に転がるボールの音、審判の声。ファウルは五つとなると退場させられてしまうもの。
だというのに、これで火神のファウルは四つとなってしまった。
「交代ね」
「だ、大丈夫すよこんくらい!ファウルしなきゃいいんだろ!?」
「いえ、交代よ。そもそも黒子君と火神君は前半までって決めてたから」
ベンチに戻って来た火神が焦りに目を見開く。
リコの言葉には黒子も少し驚いているようで、不思議そうに首を傾げた。
「ボクもですか?」
「緑間を倒せるのは、火神と黒子。お前等だからだ」
日向の言葉にリコも頷いた。
秀徳との試合は、この正邦との試合の後に行うことになっている。
このまま黒子と火神が試合に出続けて疲れてしまったら、次の試合の勝てる可能性は増々低くなってしまうのだ。
「黒子君と火神君は温存するわ」
「あの代わりに俺を…俺に、ボールを運ばせて下さい…!」
「烏羽君…」
自分なら恐らく戦える。そう思ってリコに意思を向けると、リコは少し複雑そうに眉を寄せた。
やはり、この場で真司を出すことに躊躇しているのだろうか。先輩の意地か、それとも真司の実力を信じられないのか。
「…先輩」
「走れないかもしれないわよ」
「走れなくても」
「体力がもたないかもしれないわ」
「俺の体力、監督が一番知っているはずです」
何度も大きな壁を越えてきた。
今回、一番の壁は正邦10番、一年の津川。身長はそこまで大きいわけではない。
しかし帝光中での練習試合で、入部したばかりとはいえ黄瀬を止めたという過去がある。
「駄目だと思ったら引っ込めて下さい。俺は、この壁を超えてみたい」
「…」
ここが真司にとって一番の壁かもしれない。
だからこそ、この壁を抜くことが出来たなら、どんなディフェンス相手にも自信を持って挑める。
「監督、俺に戦わせて下さい」
リコの目が黒子と火神を見る。それから決心がついたのか、真司を見てこくりと頷いた。
「黒子君と火神君の代わりに烏羽君を入れるわ。あと小金井君」
「はい…!俺が繋いでみせます!」
パスを、シュートを、そして次の試合に。
真司は自分に言い聞かせ、コートに立った。
「あれ?火神は引っ込んじゃったのか」
コートに立った真司の前に、坊主の男、津川が立った。
都合良く、火神に付いていたマークを真司に移してくれたようだ。
「代わりにこんなちっこいの…もの足んないなー」
「そう思っていてくれていーよ、津川君」
「(あれ、ちょっと可愛くない?)」
見るからに津川は油断している。そりゃそうだろう、火神の代わりが真司なんて。余りにもガタイに差が有り過ぎる。
それでも、ボールを受け取った真司に対して隙を見せないあたり、さすがと言ったところか。
ベンチから見ているだけでは分からなかったが、迫力は確かに凄まじいものがあった。
ただのディフェンスとは思えない程のプレッシャー。火神が気圧されたのも頷ける。
「でも、抜かせてもらう…!」
真司は一度強く打ったドリブルを合図に足に力を加えた。
それは思いの外簡単に。相手の油断もあったのだろうが、あっさりと抜けてしまった。
「な…嘘!?」
「なんだアイツの速さ…!?」
そう驚く声を聞きながら、真司はそのままゴールを決めていた。
正邦の人達は初めて間近にみる真司の速さに驚きを隠せない、そんな感じだ。
「真司…やっぱすげぇ」
ベンチで見ていた火神も、思わず目を丸くして真司を見ていた。
コートに立てば分かる。あのプレッシャーは相当のものだったのに。
「真司君は新協のお父さんを超える為に鍛えまくったからね」
「だからって、あんな避けられんのかよ…」
「彼の足だから出来たことよ」
横に跳んだと思ったら、そのままもうゴールに向かって走り出していた。
「実際にマークしている人には消えたように見えてるんじゃないかしら」
最初の一回までは油断のせいといえる。しかし、第二クォーターの間に真司を止められる者は出なかった。
異常な程の瞬発力と速さ。そして、その自分の足への自信が真司を走らせていた。
「真司、なんであいつらを振り切れるんだ?」
前のめり気味で。真司がベンチに戻ってすぐ、火神が問いかけた。
その声が向こうのベンチにも聞こえたのか、ばっと相手先週の目がこちらに向く。
それを気にせず、真司は火神の隣に腰掛けた。
「確かに癖とかプレッシャーとか凄いけど…。壁であることに変わりはないから」
「壁?」
「ディフェンス。避ければいいんだって、そう思って」
確かに初めて見るタイプだ。少しでも油断したら簡単にボールを奪われてしまいそうな。
だから、相手と同じくらいのプレッシャーで返す。体力自慢の真司だからこそ出来ることだった。
「真司君、体力持ちそう?」
「今のところは」
「ん。じゃあ暫くは真司君が出来る限り運んで。パス回せそうにないならそのまま決めに行っていいから」
「はい」
調子が良すぎる。良すぎて不安になるほど上手くいっている。
攻撃力よりも防御力を他のどこよりも徹底していたからこそ、真司との相性は悪かったのかもしれない。
しかし、このまま調子よく行けるはずもなく。第三クォーター、真司のマークがいなくなった。
「なるほどそう来たか…」
「完全に烏羽君を止めることを諦めましたね」
「でもこれじゃあ…」
今まで一人に一人付いていたマークが真司からだけ外れている。その一人がゴールの下で待機している、それだけで相手の思惑は読み取れた。
ゴール下で真司を止めてしまえば、誠凛には成す術ないと判断したのだろう。
「烏羽君は振り切ってゴールまで走ることを得意としてるわ」
「…でも、シュートは背が低い分、成功率は低いはずです」
「そう…なのよね…」
正邦の選手がゴール下で待機している。
フリーになった真司はマーク無しに走れる代わりに、ゴール下でシュートを止められてしまう。
黒子がいない今、パスもほとんど通らないだろう。
「…やっぱり、烏羽君を引っ込めて土田君を入れるべきかもしれないわね…」
ぽつりとリコが漏らした言葉は、当初行うつもりだった作戦だ。
過去に負けた相手へのリベンジは二年生、以前戦ったメンバーで。
それが頭に過った時、彼等は自分達の目を疑うことになった。
「俺、これでも中学卒業までキセキの世代とバスケしてたんだよね」
一人ドリブルしながら呟いた真司が、邪魔な髪の毛を耳にかけて、ニッと笑う。
そのままゴール下までシュートをする為に突っ込んでいくを思われた真司はその手前で止まり、そしてボールを上空へと放っていた。
「え…!?」
「あそこから、シュート!?」
正邦の選手も、味方である誠凛の選手まで、目を見張った。
真司がいるのは、まだセンターラインを越えた程度の位置だ。そこからシュートするというだけでも無茶な話だというのに、それだけでなく、ボールは天井へと高く放られている。
「何あれ、あんな投げ方で入るっていうの…?」
リコの疑問はもっともだ。
しかし、その結果はすぐに目に見えるもの。ボールは清々しい程に音を立ててゴールを潜っていた。
「う、嘘…!?」
「烏羽君…まさかここまでとは」
「黒子君、何か知ってるの?」
「…恐らく、緑間君から教わっていたのではないかと」
とはいえ、真司は足に優れた選手。
いくらなんでも緑間のように100%のシュートは出来ないはずだ。
だとしても、これで正邦は真司に対しての打開策を失った。
勝負は、これで決まったようなものだった。
そこから点数の取り合いを繰り広げたが、真司の勢いが止められることはなく。
誰もが予期せぬ展開で、誠凛は勝利を掴んでしまった。
・・・
「体冷えないように、すぐ上着きて!ストレッチは入念にね!」
誠凛高校控え室。
汗を拭ったり水分を取りながら、それぞれ今の試合と三時間後にある秀徳との試合の事を考えていた。
「まさか、烏羽があんなシュートも出来るなんてな」
「うん、びっくりしたよ!」
伊月と小金井がウンウンと頷くと、黒子も火神も真司に視線を向けた。
監督として、皆のステータスは把握していただろうリコでさえも知らなかった事実だ。
「烏羽君、あのシュートの成功率ってどのくらいだったの?」
「えっと…60%くらいですかね」
「まぁ、そこそこね。一発目が入って良かったわ」
「正直、賭けでした」
タオルで首元を拭う真司は、汗こそかいているものの運動量の割に疲労は見せていない。
第二クォーターの途中から最後まで試合の中心となっていたというのにだ。
「真司お前…キセキの世代並みの実力あんじゃ」
「それはないよ。今回は上手く相手が俺のやり方にはまってくれただけだし…」
「でもスゲェよ、見直した!」
「あ、有難う」
少し強めに頭に乗せられた火神の手が、乱暴に頭を撫で回す。
見上げてあった笑顔は余りにも輝いていて、真司は照れ隠しに俯くことしか出来なかった。
皆の役に立てたことが嬉しい。火神が褒めてくれて嬉しい。
「…お、俺…ちょっとお手洗い行ってきます」
真司は照れ臭さから、焦るように控え室から飛び出した。
部屋の外が涼しく感じるのは、中が熱気によって暑苦しくなっていたからだろう。
はーっと息を吐き出して、肩にかけたタオルで額を拭う。
その真司の目の前で、こつんと足音が止まった。
「こんなところで…何をしているのだよ」
「っ!緑間君」
独特な話し方と、耳をくすぐる低い声。
せっかく冷めた熱が戻ってくるような感覚を覚え、真司はタオルで自分の顔を覆った。
「別に、何もしてないけど」
「なら少し付き合え。話したい事があるのだよ」
「…?」
返事を待たずに緑間が先に歩き出す。
多少迷いはしたが、この状況で緑間を無視することは出来ない。
真司は少し遅れて、自分より歩幅の大きな緑間の後を小走りでついて行った。
「先程の試合のこと、自分でどう思っている?」
会場から出て、緑間はあまり人の通らない涼しげな木の下で足を止めた。
先程の試合、正邦との試合のことだ。
秀徳はその間に別の試合を行っていたが、トリプルスコアで圧倒したらしい。緑間を温存して。
「…見てたの?」
「隣でやっていたのだから、見えるに決まっているだろう」
「そ、っか」
馬鹿かとでも言いたげな口調に、またこの距離を実感する。
そんなに突き放さなくてもいいじゃん、なんてガキ臭いことを考えつつ、真司は試合を思い返した。
「俺のプレイが随分とハマった試合だった、と思うけど」
「そうだろうな。だからお前だけで正邦を打ち破った」
「俺だけで…?」
「分かっていないのか、馬鹿め」
優しさを含んだ「馬鹿」ではなかった。今のは完全に馬鹿にしたものだ。
真司はさすがにズキッと胸が痛むのを感じて唇を噛んだ。なんで、いきなりそんなことを言われなければいけないんだ。
「お前が何故黒子を選んだのか、大体分かっている」
「…選んだって、」
「バスケが好きで、仲良くチームプレイをしたいとでも思ったのだろう?」
「間違っちゃ、ないけど…」
視線を持ち上げると、じっとこちらを見ている緑間と目が合ってしまう。合わせるのが怖い。
しかしそれも許されず、緑間のテーピングの巻かれた指が顎に触れた。
「お前は誰にバスケを教わった?」
「え?」
「お前のバスケは、本当にチームプレイだったのか?」
嫌な予感がする。緑間はこれから、真司にとって聞きたくないことを言う。
しかし、今更耳をふさぐことも目を逸らすことも出来なかった。
「ちょ、ちょっと、やだ、離してよっ!」
顎をがっちりと緑間の手で掴まれ、上を向かされる。
緑間が何を言っているのか、良く分からない。分かりたくない。
そんな真司に現実を突き付けるように、緑間は無理やりに真司との視線を合わせた。
「先程の試合で証明された。お前のバスケは、仲間を必要としていない」
「そんなこと…」
「あっただろう。現に、お前はパスを使わずに誠凛を勝利に導いた」
「…っ」
それは、正邦にパスが通用しなかったからだ。
真司には黒子のように複雑なパスは出せない。中学時代に、パスは基本的な事以外教わっていないし練習もしていないのだから。
「…まさか、俺にパスを教えずドリブルとシュートを教えたのは」
知らないうちに、勝つ為のバスケを教えられていたというのか。帝光中の理念にあったバスケを。
先程の試合で、真司が独りよがりの試合をしたのだとしたら。正邦への先輩達のリベンジは。
「…俺のエゴで、潰してしまった…?」
「お前に、黒子と同じような甘ったれたバスケは出来ない。分かっただろう」
「…、」
言葉が出ない。緑間の言っていることは、否定する要素が見られなくて。事実であることを否定出来なかった。
緑間の手が真司から離れ、がくりと首が落ちる。
視界に入る自分の足。ここまで導いてくれた足が、今は信用出来ないものになってしまった。
「俺の足は…俺のバスケは…」
「次の試合、秀徳が負けることは有り得ない」
「…」
「誠凛を選んだことを、後悔すると良いのだよ」
俯いて見えなくなった緑間の足音だけが遠ざかって行く。
何も言えなかった。自分で選んだ道なのに、自ら踏み外していただなんて。
「ごめんなさい…っ、せん、ぱ…」
ぽろぽろと落ちる涙と同時に、その場にしゃがみこんだ。
誠凛の皆を巻き込んだ。先輩達に嫌われたかもしれない。黒子にも、緑間にも。
「やだ…ど、しよ…っ」
嘆いても仕方ない。それでもどうしたら良いのか分からない。
真司は自分の腕に頭を埋めて、ひたすら声を殺して泣いていた。
・・・
緑間が勝手にふらふらとどこかに行ってしまった。
その結果探しに行く羽目になった秀徳高校三年生の宮地清志は、明らかに不機嫌な顔をして廊下を歩いていた。
「ったく、今度こそ絶対に轢く」
ぼそりと吐き出される独り言は、ぱっちりとした目に整った容姿とは似合わぬもので。
笑顔に浮かべられる怒りマークも、宮地の緑間へ対する苛立ちがMAXに上り詰めていることを表していた。
「あ、んなとこに」
ちらと窓の外を見ると、分かりやすくデカい緑の髪が立っている。
どうやら一人ではないようで、正面には誠凛のジャージを着た少年が見えた。
「…?」
そういえば帝光中出身の人が誠凛にもいるんだったか。
ふと思い出して会話が終わるのを待ってみようと足を止めれば、思いの外早く緑間が先に立ち去った。
そこに残った誠凛の選手は座り込んで俯いたまま動かない。
「あ?おい、まじかよ」
どう見てもうずくまって泣いているではないか。
宮地は面倒くささに顔をしかめながら、慌ててその現場に向かって駆け出した。
会場の外に出て、きょろきょろと辺りを見渡す。確か、木の下で入口からは離れた位置だ。
「、っふ…ぅ…」
耳を掠めたのは押し殺したような声。やはり緑間は泣かせていたか。
すれ違った時に、宮地の存在に気が付かなかった緑間の悔いた表情を思い出しながら、宮地はその場所に向かって足を進めた。
「おい、どうした?」
「っ!」
座り込んだ小さな肩がびくりと震える。
同時にばっと上げられた顔に、宮地は自分で分かる程にピタッと息を止めていた。
「…、緑間の奴が、何か言ったんだろ。後であの阿呆にはきっちり言っとくから」
「っ、い、え!緑間君は、何も悪くないんです」
大きな目が涙で揺れてキラキラと輝いている。
なんて、馬鹿げた感想を抱きながら宮地は少年に手を差し出した。
「とにかく、んなとこで座り込んでたら具合悪いのかと勘違いすんだろ。立て」
「す、みませ…」
ずび、と鼻をすすりながら、恥ずかしそうに顔を伏せて立ち上がる。握られた手は宮地よりも細く小さく、それどころか背もバスケ選手とは思えない程小さい。
誠凛の選手、見覚えは微かにあるし、名前も知っていた。
「真司」
「え…なんで、俺の名前」
「あ、いや。高尾がそう呼んでたから」
「秀徳の先輩、ですよね。えっと」
「…宮地だ。うちの後輩が世話になって…つか、悪かったな。大丈夫か?」
目が赤くなっていて、泣いていたことは誰の目から見ても明らかだ。
かわいそうに。そう思ってしまうのは、真司が同じ高校生に見えないからか。
宮地は自然と真司の目元に触れていた。
「泣くほどの事、言われたんだろ」
「ち、違うんです…これは、自分が不甲斐無くて…。緑間君には、何も言わないで下さい…」
「いや、オレが気に食わねーから刺す」
「(刺す!?)」
真司の目が再び揺れる。潤んだ瞳からはいつでも涙が零れてきそうで、宮地はどうしたもんかと頭をかいた。
とりあえず、落ち着くまでついていてあげるべきか、むしろ一人にした方がいいのか。
「…くしゅっ」
「あ?」
急に口を押さえた真司は、女子かのような小さなくしゃみをした。
忘れていたわけではないが、お互い試合後。
タオルで汗を拭きとったとはいえ、完全に乾いていない体に吹き付ける風は体を冷やしてしまう。
「お前なぁ、まだ試合あんのに体冷やしてどーすんだよ」
「…いえ、試合は…もう…」
「出る出ないは関係ねーだろ。ちゃんと汗拭いて、体冷やすな」
真司の肩にかけられていたタオルを取って、頭をがしがしと拭う。
暫くそうしていると、真司の肩がまた小刻みに震え始めた。
「目、腫れちまうぞ」
「…っ、す、みませ…」
「ちょっと待ってろ」
白いタオルを真司の頭にかけて、宮地は自分のポケットを探った。
便所に行くと思って持ったハンカチが丁度入っている。近くには水道もある。
タオルごしに真司の頭をぽんと撫でて、宮地は水道の方へ走って行った。
どうして、こんなに優しくしてくれるのだろう。
数時間後戦う相手で、宮地にとっては真司がどうなろうと関係ないのに。
「…」
急に宮地の優しさが身に染みてきて、真司はすんと鼻を吸ってから背中を木に預けた。
見た目格好よくて、大きくて。それで優しいなんて。
「…宮地、さん」
「ほら、これ目に当てろ」
声と同時に、俯いた視界にハンカチが入り込んだ。
思わず手を出すのを躊躇って顔を上げると、宮地は眉を下げてため息を吐き、真司の前髪を片手で退かした。
「あ…」
閉じた目にひやりとしたハンカチが重ねられる。
大きな手が包み込んでくれているようで、胸が暖かくて。
「…ッ」
「おい、何でまた泣くんだよ」
「な、泣いてません…」
「そーかよ。…ハンカチ貸すから、落ち着いたらすぐ中に入れよ」
最後にとんと肩を叩かれ、手が離れたハンカチがぽとりと真司の手の上に落ちた。
立ち去って行く宮地の背中に胸が熱くなる。ただ感謝の気持ちが大きくて、真司は頭を下げてハンカチを握りしめた。
・・・
宮地が立ち去ってからも暫く、真司はその場で気持ちを落ち着かせていた。
ひやりとしたハンカチと心に染みた宮地の優しさで少なくとも涙は止まってる。
「俺…どんな顔してんだろ」
現実は変わらない。緑間の言うことを真実と受け止めるなら、真司は黒子と正反対どころか誠凛のバスケとも異なっていることになる。
それを思うと表情が無意識に落ち込んで。
「駄目だ…こんなじゃ心配かけちゃう…」
いや、既に嫌われてしまって、何もかも手遅れなのかもしれないが。せめて顔をシャキッとさせた方がいい。
お手洗いに行くと言って結構時間が経ってしまっていることが気になるが、真司はようやくその場所へ向かった。
「お、真司じゃん!」
「…あ」
扉を押して入った瞬間、真司は失敗したとすぐに気付いた。
「高尾君…!」
鏡の前に立って手を洗っている高尾がそこにいる。
真司は驚きと同時に、焦ってすぐに顔を伏せた。
既に気付かれたかもしれない。体の向きを変えて高尾と同じように鏡の方を向けば、薄らと泣いた目をした顔が映った。
「また、元気ない感じ?」
「…なんで高尾君とはこういうタイミングで会っちゃうかな」
ハンカチをポケットに入れて蛇口から流れる水で顔を洗う。
水と一緒にこの気持ちと情けない顔も流れていってくれればいいのに。なんて現実味の無い事を考える程不安定になっている自分が憎い。
「なんでだろーなぁ。会っちゃった手前聞くけど、触れない方がいい?」
「…」
「…真ちゃんが何か言ったとか」
「え…」
あ、当たっちゃった?なんて軽く言ってみせる高尾は、やはり聡い人間なのだと改めて実感する。
初めて会ったときも、初対面相手だというのに隣にいてくれて。
「踏み込むのが上手いんだ」
「まーな。あの真ちゃんの相棒やれるくらいだし?」
「…確かに」
緑間に相棒、あまりピンと来ないのは中学の頃には想像出来なかったことだからだ。
そもそも誰と一番親しかったのか、それさえもはっきりしていなかった彼がまさか相棒などと。
緑間は、秀徳に入って良かったのだろう。
「…」
「そーいう付け込み易そうな顔してっと…容赦なく踏み込まれるぜ」
「俺には入って来ない方がいいと思うよ」
「へぇ、尚更燃えんじゃん」
横で高尾が笑っているのが分かる。
真司のことを知らないから、そうして笑っていられるのだ。
誠凛に入って距離が開いて、手を放された気になっていた。
完全に、自分が何をしているのか分からなくなる程に支配されていたというのに。
「とりあえず、そーだな。今度から一人で泣かずにオレを呼べよ」
「今日は…一人じゃなかったし」
「は、そーなの!?誰!?」
それ程驚くことを言ったつもりはないが、高尾は真司の肩をがしっと掴んだ。
脳裏に浮かぶのは、当然高尾の先輩にあたる宮地の姿。
そうだ、ハンカチ。せっかくだから高尾に渡してもらおう。
そう思ってポケットから取り出して、真司はそれをじっと見つめた。
「それは?」
「えっと…借りたんだけど」
「秀徳の誰か?んなら渡しとくけど」
「…いいや。自分で返す」
あそこまで優しくしてもらって、これきりと言うのも申し訳ない。
真司はハンカチを胸の前でぎゅっと握りしめて、再びポケットへと戻した。
「…踏み込まれてんじゃん」
「何?」
「べっつに。じゃ、オレ先行くから。その顔何とかしとけよ」
「うわ」
ニッと笑っている高尾が、去り際に真司の鼻をつんと突いた。
すぐにぱたんと扉が閉まって、高尾がいなくなる。高尾が賑やかな人間だからか、酷く静かに感じてしまう。
「でも、この顔じゃ」
先輩達にも黒子にも泣いてたことがバレるかもしれない。
真司は重いため息を吐き出して、自分の手で顔を覆った。
数時間後行われる秀徳との試合は頭から離れていた。
ようやくたどり着いた準決勝、ここを勝てば秀徳とあたる。などと先のことを考える余裕は無くなっていた。
誠凛高校控え室。そう書かれた部屋に漂うのは緊張感。一人一人の表情も硬く体も強張っている。
それを何とかしようと前に出たのは、監督であるリコだった。
「全員ちょっと気負いすぎよ。元気出るようにごほうび考えたわ!」
その瞬間、少し空気が重くなったのは嫌な予感を察したからか。
「次の試合に勝ったら…皆のホッペにチューしてあげる!」
想像を遥かに越えた展開に、数秒の沈黙。
しらっとした先輩達の表情に、リコが一人崩れ落ちた。
打ち合わせでもしていたかのように出来上がった流れだ。
思わず真司がふふっと笑うと、隣にいた黒子の頬も緩んだ。
「烏羽君、便乗して一ついいですか」
「何?」
「試合に勝ったら君にキスします」
「はぁ…!?」
何故そうなった。
いろいろ突っ込みたいことが多すぎるが、黒子が拳をつくってキリッと表情をつくっているので何も言わないことにした。
「まー冗談はいいとして、だ。行く前に改めて言っとくぞ」
そんな妙な空気を読み取ってか、日向が声のトーンを切り替えた。
それに気付き、真司も黒子も視線を真っ直ぐ日向に向ける。
「正邦は強い!ぶっちゃけ去年の大敗でオレはバスケが嫌いになって、バスケをやめそうになった」
「…」
ぴくっと黒子の肩が揺れた。それに気付きながらも真司は日向から目を逸らさなかった。
改めて先輩から去年の大敗の話を聞くのは初めてだ。
触れたくない話だと勝手に思っていたのだが、日向の表情は暗くない。むしろ前向きで今日のリベンジを信じている。
「去年と同じには絶対にならねー。強くなった自信があるからな!勝つだけだ!行くぞ!」
「「「おう!」」」
落ち込んだ空気はなんだったのか。
日向の一声で活気が戻ってくる。真司も気合いを入れ直し、先輩達のあとを続いて控え室を後にした。
「烏羽君、今日は勝負所で入ってもらうつもりだから」
「え」
控え室を出てすぐ、リコの手がとんと肩に乗る。
驚いて足を止めると、リコだけでなく日向や伊月、皆が真司を見ていた。
「俺、でいいんですか。だって、先輩達にとって大事な試合なんですよね」
「何言ってんだ。お前にとっちゃ大した試合でもないってか?」
「そ、そういう意味ではなく」
「ったく、何遠慮してんだ」
呆れてため息を吐いた日向がリコとは反対側に立ち、くしゃっと真司の頭を撫でた。
優しい手。こんな小さな体に試合の勝機を託してくれている。
「お前だって誠凛高校バスケ部の一人だろ」
「…はい」
「一緒にリベンジするぞ」
「はい…!」
よし、と言って笑った日向の笑顔は、今まで見た中で一番素敵に思えた。
チームとして、仲間として一緒に。帝光で消えて行ったものがここにある。
(この人達と勝ち残りたい。皆に思い知らせたい)
強い願望が再び真司の中に芽吹く。
真司はぎゅっと手を握り締め、改めて先輩達の後について行く決意をした。
・・・
体育館に入ると、間もなく試合が始まった。
ベンチに座って見ている真司の目は真剣で、隣に座っているリコも同様に相手チームの動きを見ている。
やはり今までの相手選手たちとは動きが違った。ディフェンスは分厚くないのになかなか越えられずにいる。
それは火神でさえ、だった。
「何か、すごく違和感があるんですけど…」
「正邦の選手のこと?」
「はい」
「そうね。正邦の選手は皆古武術を使うのよ。それをバスケに取り入れてる」
その一つとして、正邦の選手は『ナンバ走り』という同じ側の手足を振る走り方をしている。体を捻らないことで体力を大幅に持続させることが出来るとか。
実際のところ、既に慣れない相手の動きに翻弄されている。一番厄介な展開だ。
「このままじゃ…点が入らない」
ぽつりと漏らした真司の言葉に、リコが静かにこくりと頷いた。
正邦の選手は、常に勝負所と言わんばかりのプレッシャーをかけてくる。マークは一人に一人ついていて、パスも回しにくい上にドリブルで振り解くことも困難なのだ。
「ここまで厚い壁は初めてかもです」
「そうね…高さというよりは一人で厚みが十分にあるって感じ」
ベンチで見ていてそれ程の感想を抱ける。
つまりは、コートに立つ皆が感じているのはもっと酷いプレッシャーということで。
「なんだ、思ったほどじゃないじゃん」
そんなプレッシャーをかけながら、火神のマークについている坊主の選手、津川はへらっと笑った。
それに対して冷静でいられる程、火神の精神力は強くない。
「なんだとテメッ…!」
無理矢理マークを振り切ろうとした火神の体は、津川に思い切りぶつかった。当然火神にはファウルの声が審判から放たれる。
そんな調子で結局、第一クォーターの間に火神はファウルを二回。
それでも黒子のパス、水戸部のブロック、日向のシュート。連携で何とか19対19に押さえることには成功した。
「まだ始まったばかりよ!陣形は攻守共このまま行くわ!」
第二クォーター、勢いにのったまま再スタートを切る。
今度は黒子と火神の連携。マークの間を縫ってパスを火神から黒子へ、そして再び火神の元へボールが戻って行く。
完全に誠凛が正邦を捕らえた、ように見えた。
「烏羽君、どう?」
「…見ているだけでは分かりません。でも…火神君の汗の量がどうも…」
まだ相手のディフェンスを振り切ること出来ていない。今の所、黒子のパスで何とかシュートに繋いでいるようなものだ。
その上、火神は明らかに体力を削られている。
「このままだと一番に火神君が崩されちゃうんじゃ…」
そんな嫌な予感はすぐに的中することになってしまった。
「駄目だ!行くな火神!」
日向の声が体育館に響く。シュートに行った火神の体が再び津川へと突っ込んでいた。
ピーッという音に転がるボールの音、審判の声。ファウルは五つとなると退場させられてしまうもの。
だというのに、これで火神のファウルは四つとなってしまった。
「交代ね」
「だ、大丈夫すよこんくらい!ファウルしなきゃいいんだろ!?」
「いえ、交代よ。そもそも黒子君と火神君は前半までって決めてたから」
ベンチに戻って来た火神が焦りに目を見開く。
リコの言葉には黒子も少し驚いているようで、不思議そうに首を傾げた。
「ボクもですか?」
「緑間を倒せるのは、火神と黒子。お前等だからだ」
日向の言葉にリコも頷いた。
秀徳との試合は、この正邦との試合の後に行うことになっている。
このまま黒子と火神が試合に出続けて疲れてしまったら、次の試合の勝てる可能性は増々低くなってしまうのだ。
「黒子君と火神君は温存するわ」
「あの代わりに俺を…俺に、ボールを運ばせて下さい…!」
「烏羽君…」
自分なら恐らく戦える。そう思ってリコに意思を向けると、リコは少し複雑そうに眉を寄せた。
やはり、この場で真司を出すことに躊躇しているのだろうか。先輩の意地か、それとも真司の実力を信じられないのか。
「…先輩」
「走れないかもしれないわよ」
「走れなくても」
「体力がもたないかもしれないわ」
「俺の体力、監督が一番知っているはずです」
何度も大きな壁を越えてきた。
今回、一番の壁は正邦10番、一年の津川。身長はそこまで大きいわけではない。
しかし帝光中での練習試合で、入部したばかりとはいえ黄瀬を止めたという過去がある。
「駄目だと思ったら引っ込めて下さい。俺は、この壁を超えてみたい」
「…」
ここが真司にとって一番の壁かもしれない。
だからこそ、この壁を抜くことが出来たなら、どんなディフェンス相手にも自信を持って挑める。
「監督、俺に戦わせて下さい」
リコの目が黒子と火神を見る。それから決心がついたのか、真司を見てこくりと頷いた。
「黒子君と火神君の代わりに烏羽君を入れるわ。あと小金井君」
「はい…!俺が繋いでみせます!」
パスを、シュートを、そして次の試合に。
真司は自分に言い聞かせ、コートに立った。
「あれ?火神は引っ込んじゃったのか」
コートに立った真司の前に、坊主の男、津川が立った。
都合良く、火神に付いていたマークを真司に移してくれたようだ。
「代わりにこんなちっこいの…もの足んないなー」
「そう思っていてくれていーよ、津川君」
「(あれ、ちょっと可愛くない?)」
見るからに津川は油断している。そりゃそうだろう、火神の代わりが真司なんて。余りにもガタイに差が有り過ぎる。
それでも、ボールを受け取った真司に対して隙を見せないあたり、さすがと言ったところか。
ベンチから見ているだけでは分からなかったが、迫力は確かに凄まじいものがあった。
ただのディフェンスとは思えない程のプレッシャー。火神が気圧されたのも頷ける。
「でも、抜かせてもらう…!」
真司は一度強く打ったドリブルを合図に足に力を加えた。
それは思いの外簡単に。相手の油断もあったのだろうが、あっさりと抜けてしまった。
「な…嘘!?」
「なんだアイツの速さ…!?」
そう驚く声を聞きながら、真司はそのままゴールを決めていた。
正邦の人達は初めて間近にみる真司の速さに驚きを隠せない、そんな感じだ。
「真司…やっぱすげぇ」
ベンチで見ていた火神も、思わず目を丸くして真司を見ていた。
コートに立てば分かる。あのプレッシャーは相当のものだったのに。
「真司君は新協のお父さんを超える為に鍛えまくったからね」
「だからって、あんな避けられんのかよ…」
「彼の足だから出来たことよ」
横に跳んだと思ったら、そのままもうゴールに向かって走り出していた。
「実際にマークしている人には消えたように見えてるんじゃないかしら」
最初の一回までは油断のせいといえる。しかし、第二クォーターの間に真司を止められる者は出なかった。
異常な程の瞬発力と速さ。そして、その自分の足への自信が真司を走らせていた。
「真司、なんであいつらを振り切れるんだ?」
前のめり気味で。真司がベンチに戻ってすぐ、火神が問いかけた。
その声が向こうのベンチにも聞こえたのか、ばっと相手先週の目がこちらに向く。
それを気にせず、真司は火神の隣に腰掛けた。
「確かに癖とかプレッシャーとか凄いけど…。壁であることに変わりはないから」
「壁?」
「ディフェンス。避ければいいんだって、そう思って」
確かに初めて見るタイプだ。少しでも油断したら簡単にボールを奪われてしまいそうな。
だから、相手と同じくらいのプレッシャーで返す。体力自慢の真司だからこそ出来ることだった。
「真司君、体力持ちそう?」
「今のところは」
「ん。じゃあ暫くは真司君が出来る限り運んで。パス回せそうにないならそのまま決めに行っていいから」
「はい」
調子が良すぎる。良すぎて不安になるほど上手くいっている。
攻撃力よりも防御力を他のどこよりも徹底していたからこそ、真司との相性は悪かったのかもしれない。
しかし、このまま調子よく行けるはずもなく。第三クォーター、真司のマークがいなくなった。
「なるほどそう来たか…」
「完全に烏羽君を止めることを諦めましたね」
「でもこれじゃあ…」
今まで一人に一人付いていたマークが真司からだけ外れている。その一人がゴールの下で待機している、それだけで相手の思惑は読み取れた。
ゴール下で真司を止めてしまえば、誠凛には成す術ないと判断したのだろう。
「烏羽君は振り切ってゴールまで走ることを得意としてるわ」
「…でも、シュートは背が低い分、成功率は低いはずです」
「そう…なのよね…」
正邦の選手がゴール下で待機している。
フリーになった真司はマーク無しに走れる代わりに、ゴール下でシュートを止められてしまう。
黒子がいない今、パスもほとんど通らないだろう。
「…やっぱり、烏羽君を引っ込めて土田君を入れるべきかもしれないわね…」
ぽつりとリコが漏らした言葉は、当初行うつもりだった作戦だ。
過去に負けた相手へのリベンジは二年生、以前戦ったメンバーで。
それが頭に過った時、彼等は自分達の目を疑うことになった。
「俺、これでも中学卒業までキセキの世代とバスケしてたんだよね」
一人ドリブルしながら呟いた真司が、邪魔な髪の毛を耳にかけて、ニッと笑う。
そのままゴール下までシュートをする為に突っ込んでいくを思われた真司はその手前で止まり、そしてボールを上空へと放っていた。
「え…!?」
「あそこから、シュート!?」
正邦の選手も、味方である誠凛の選手まで、目を見張った。
真司がいるのは、まだセンターラインを越えた程度の位置だ。そこからシュートするというだけでも無茶な話だというのに、それだけでなく、ボールは天井へと高く放られている。
「何あれ、あんな投げ方で入るっていうの…?」
リコの疑問はもっともだ。
しかし、その結果はすぐに目に見えるもの。ボールは清々しい程に音を立ててゴールを潜っていた。
「う、嘘…!?」
「烏羽君…まさかここまでとは」
「黒子君、何か知ってるの?」
「…恐らく、緑間君から教わっていたのではないかと」
とはいえ、真司は足に優れた選手。
いくらなんでも緑間のように100%のシュートは出来ないはずだ。
だとしても、これで正邦は真司に対しての打開策を失った。
勝負は、これで決まったようなものだった。
そこから点数の取り合いを繰り広げたが、真司の勢いが止められることはなく。
誰もが予期せぬ展開で、誠凛は勝利を掴んでしまった。
・・・
「体冷えないように、すぐ上着きて!ストレッチは入念にね!」
誠凛高校控え室。
汗を拭ったり水分を取りながら、それぞれ今の試合と三時間後にある秀徳との試合の事を考えていた。
「まさか、烏羽があんなシュートも出来るなんてな」
「うん、びっくりしたよ!」
伊月と小金井がウンウンと頷くと、黒子も火神も真司に視線を向けた。
監督として、皆のステータスは把握していただろうリコでさえも知らなかった事実だ。
「烏羽君、あのシュートの成功率ってどのくらいだったの?」
「えっと…60%くらいですかね」
「まぁ、そこそこね。一発目が入って良かったわ」
「正直、賭けでした」
タオルで首元を拭う真司は、汗こそかいているものの運動量の割に疲労は見せていない。
第二クォーターの途中から最後まで試合の中心となっていたというのにだ。
「真司お前…キセキの世代並みの実力あんじゃ」
「それはないよ。今回は上手く相手が俺のやり方にはまってくれただけだし…」
「でもスゲェよ、見直した!」
「あ、有難う」
少し強めに頭に乗せられた火神の手が、乱暴に頭を撫で回す。
見上げてあった笑顔は余りにも輝いていて、真司は照れ隠しに俯くことしか出来なかった。
皆の役に立てたことが嬉しい。火神が褒めてくれて嬉しい。
「…お、俺…ちょっとお手洗い行ってきます」
真司は照れ臭さから、焦るように控え室から飛び出した。
部屋の外が涼しく感じるのは、中が熱気によって暑苦しくなっていたからだろう。
はーっと息を吐き出して、肩にかけたタオルで額を拭う。
その真司の目の前で、こつんと足音が止まった。
「こんなところで…何をしているのだよ」
「っ!緑間君」
独特な話し方と、耳をくすぐる低い声。
せっかく冷めた熱が戻ってくるような感覚を覚え、真司はタオルで自分の顔を覆った。
「別に、何もしてないけど」
「なら少し付き合え。話したい事があるのだよ」
「…?」
返事を待たずに緑間が先に歩き出す。
多少迷いはしたが、この状況で緑間を無視することは出来ない。
真司は少し遅れて、自分より歩幅の大きな緑間の後を小走りでついて行った。
「先程の試合のこと、自分でどう思っている?」
会場から出て、緑間はあまり人の通らない涼しげな木の下で足を止めた。
先程の試合、正邦との試合のことだ。
秀徳はその間に別の試合を行っていたが、トリプルスコアで圧倒したらしい。緑間を温存して。
「…見てたの?」
「隣でやっていたのだから、見えるに決まっているだろう」
「そ、っか」
馬鹿かとでも言いたげな口調に、またこの距離を実感する。
そんなに突き放さなくてもいいじゃん、なんてガキ臭いことを考えつつ、真司は試合を思い返した。
「俺のプレイが随分とハマった試合だった、と思うけど」
「そうだろうな。だからお前だけで正邦を打ち破った」
「俺だけで…?」
「分かっていないのか、馬鹿め」
優しさを含んだ「馬鹿」ではなかった。今のは完全に馬鹿にしたものだ。
真司はさすがにズキッと胸が痛むのを感じて唇を噛んだ。なんで、いきなりそんなことを言われなければいけないんだ。
「お前が何故黒子を選んだのか、大体分かっている」
「…選んだって、」
「バスケが好きで、仲良くチームプレイをしたいとでも思ったのだろう?」
「間違っちゃ、ないけど…」
視線を持ち上げると、じっとこちらを見ている緑間と目が合ってしまう。合わせるのが怖い。
しかしそれも許されず、緑間のテーピングの巻かれた指が顎に触れた。
「お前は誰にバスケを教わった?」
「え?」
「お前のバスケは、本当にチームプレイだったのか?」
嫌な予感がする。緑間はこれから、真司にとって聞きたくないことを言う。
しかし、今更耳をふさぐことも目を逸らすことも出来なかった。
「ちょ、ちょっと、やだ、離してよっ!」
顎をがっちりと緑間の手で掴まれ、上を向かされる。
緑間が何を言っているのか、良く分からない。分かりたくない。
そんな真司に現実を突き付けるように、緑間は無理やりに真司との視線を合わせた。
「先程の試合で証明された。お前のバスケは、仲間を必要としていない」
「そんなこと…」
「あっただろう。現に、お前はパスを使わずに誠凛を勝利に導いた」
「…っ」
それは、正邦にパスが通用しなかったからだ。
真司には黒子のように複雑なパスは出せない。中学時代に、パスは基本的な事以外教わっていないし練習もしていないのだから。
「…まさか、俺にパスを教えずドリブルとシュートを教えたのは」
知らないうちに、勝つ為のバスケを教えられていたというのか。帝光中の理念にあったバスケを。
先程の試合で、真司が独りよがりの試合をしたのだとしたら。正邦への先輩達のリベンジは。
「…俺のエゴで、潰してしまった…?」
「お前に、黒子と同じような甘ったれたバスケは出来ない。分かっただろう」
「…、」
言葉が出ない。緑間の言っていることは、否定する要素が見られなくて。事実であることを否定出来なかった。
緑間の手が真司から離れ、がくりと首が落ちる。
視界に入る自分の足。ここまで導いてくれた足が、今は信用出来ないものになってしまった。
「俺の足は…俺のバスケは…」
「次の試合、秀徳が負けることは有り得ない」
「…」
「誠凛を選んだことを、後悔すると良いのだよ」
俯いて見えなくなった緑間の足音だけが遠ざかって行く。
何も言えなかった。自分で選んだ道なのに、自ら踏み外していただなんて。
「ごめんなさい…っ、せん、ぱ…」
ぽろぽろと落ちる涙と同時に、その場にしゃがみこんだ。
誠凛の皆を巻き込んだ。先輩達に嫌われたかもしれない。黒子にも、緑間にも。
「やだ…ど、しよ…っ」
嘆いても仕方ない。それでもどうしたら良いのか分からない。
真司は自分の腕に頭を埋めて、ひたすら声を殺して泣いていた。
・・・
緑間が勝手にふらふらとどこかに行ってしまった。
その結果探しに行く羽目になった秀徳高校三年生の宮地清志は、明らかに不機嫌な顔をして廊下を歩いていた。
「ったく、今度こそ絶対に轢く」
ぼそりと吐き出される独り言は、ぱっちりとした目に整った容姿とは似合わぬもので。
笑顔に浮かべられる怒りマークも、宮地の緑間へ対する苛立ちがMAXに上り詰めていることを表していた。
「あ、んなとこに」
ちらと窓の外を見ると、分かりやすくデカい緑の髪が立っている。
どうやら一人ではないようで、正面には誠凛のジャージを着た少年が見えた。
「…?」
そういえば帝光中出身の人が誠凛にもいるんだったか。
ふと思い出して会話が終わるのを待ってみようと足を止めれば、思いの外早く緑間が先に立ち去った。
そこに残った誠凛の選手は座り込んで俯いたまま動かない。
「あ?おい、まじかよ」
どう見てもうずくまって泣いているではないか。
宮地は面倒くささに顔をしかめながら、慌ててその現場に向かって駆け出した。
会場の外に出て、きょろきょろと辺りを見渡す。確か、木の下で入口からは離れた位置だ。
「、っふ…ぅ…」
耳を掠めたのは押し殺したような声。やはり緑間は泣かせていたか。
すれ違った時に、宮地の存在に気が付かなかった緑間の悔いた表情を思い出しながら、宮地はその場所に向かって足を進めた。
「おい、どうした?」
「っ!」
座り込んだ小さな肩がびくりと震える。
同時にばっと上げられた顔に、宮地は自分で分かる程にピタッと息を止めていた。
「…、緑間の奴が、何か言ったんだろ。後であの阿呆にはきっちり言っとくから」
「っ、い、え!緑間君は、何も悪くないんです」
大きな目が涙で揺れてキラキラと輝いている。
なんて、馬鹿げた感想を抱きながら宮地は少年に手を差し出した。
「とにかく、んなとこで座り込んでたら具合悪いのかと勘違いすんだろ。立て」
「す、みませ…」
ずび、と鼻をすすりながら、恥ずかしそうに顔を伏せて立ち上がる。握られた手は宮地よりも細く小さく、それどころか背もバスケ選手とは思えない程小さい。
誠凛の選手、見覚えは微かにあるし、名前も知っていた。
「真司」
「え…なんで、俺の名前」
「あ、いや。高尾がそう呼んでたから」
「秀徳の先輩、ですよね。えっと」
「…宮地だ。うちの後輩が世話になって…つか、悪かったな。大丈夫か?」
目が赤くなっていて、泣いていたことは誰の目から見ても明らかだ。
かわいそうに。そう思ってしまうのは、真司が同じ高校生に見えないからか。
宮地は自然と真司の目元に触れていた。
「泣くほどの事、言われたんだろ」
「ち、違うんです…これは、自分が不甲斐無くて…。緑間君には、何も言わないで下さい…」
「いや、オレが気に食わねーから刺す」
「(刺す!?)」
真司の目が再び揺れる。潤んだ瞳からはいつでも涙が零れてきそうで、宮地はどうしたもんかと頭をかいた。
とりあえず、落ち着くまでついていてあげるべきか、むしろ一人にした方がいいのか。
「…くしゅっ」
「あ?」
急に口を押さえた真司は、女子かのような小さなくしゃみをした。
忘れていたわけではないが、お互い試合後。
タオルで汗を拭きとったとはいえ、完全に乾いていない体に吹き付ける風は体を冷やしてしまう。
「お前なぁ、まだ試合あんのに体冷やしてどーすんだよ」
「…いえ、試合は…もう…」
「出る出ないは関係ねーだろ。ちゃんと汗拭いて、体冷やすな」
真司の肩にかけられていたタオルを取って、頭をがしがしと拭う。
暫くそうしていると、真司の肩がまた小刻みに震え始めた。
「目、腫れちまうぞ」
「…っ、す、みませ…」
「ちょっと待ってろ」
白いタオルを真司の頭にかけて、宮地は自分のポケットを探った。
便所に行くと思って持ったハンカチが丁度入っている。近くには水道もある。
タオルごしに真司の頭をぽんと撫でて、宮地は水道の方へ走って行った。
どうして、こんなに優しくしてくれるのだろう。
数時間後戦う相手で、宮地にとっては真司がどうなろうと関係ないのに。
「…」
急に宮地の優しさが身に染みてきて、真司はすんと鼻を吸ってから背中を木に預けた。
見た目格好よくて、大きくて。それで優しいなんて。
「…宮地、さん」
「ほら、これ目に当てろ」
声と同時に、俯いた視界にハンカチが入り込んだ。
思わず手を出すのを躊躇って顔を上げると、宮地は眉を下げてため息を吐き、真司の前髪を片手で退かした。
「あ…」
閉じた目にひやりとしたハンカチが重ねられる。
大きな手が包み込んでくれているようで、胸が暖かくて。
「…ッ」
「おい、何でまた泣くんだよ」
「な、泣いてません…」
「そーかよ。…ハンカチ貸すから、落ち着いたらすぐ中に入れよ」
最後にとんと肩を叩かれ、手が離れたハンカチがぽとりと真司の手の上に落ちた。
立ち去って行く宮地の背中に胸が熱くなる。ただ感謝の気持ちが大きくて、真司は頭を下げてハンカチを握りしめた。
・・・
宮地が立ち去ってからも暫く、真司はその場で気持ちを落ち着かせていた。
ひやりとしたハンカチと心に染みた宮地の優しさで少なくとも涙は止まってる。
「俺…どんな顔してんだろ」
現実は変わらない。緑間の言うことを真実と受け止めるなら、真司は黒子と正反対どころか誠凛のバスケとも異なっていることになる。
それを思うと表情が無意識に落ち込んで。
「駄目だ…こんなじゃ心配かけちゃう…」
いや、既に嫌われてしまって、何もかも手遅れなのかもしれないが。せめて顔をシャキッとさせた方がいい。
お手洗いに行くと言って結構時間が経ってしまっていることが気になるが、真司はようやくその場所へ向かった。
「お、真司じゃん!」
「…あ」
扉を押して入った瞬間、真司は失敗したとすぐに気付いた。
「高尾君…!」
鏡の前に立って手を洗っている高尾がそこにいる。
真司は驚きと同時に、焦ってすぐに顔を伏せた。
既に気付かれたかもしれない。体の向きを変えて高尾と同じように鏡の方を向けば、薄らと泣いた目をした顔が映った。
「また、元気ない感じ?」
「…なんで高尾君とはこういうタイミングで会っちゃうかな」
ハンカチをポケットに入れて蛇口から流れる水で顔を洗う。
水と一緒にこの気持ちと情けない顔も流れていってくれればいいのに。なんて現実味の無い事を考える程不安定になっている自分が憎い。
「なんでだろーなぁ。会っちゃった手前聞くけど、触れない方がいい?」
「…」
「…真ちゃんが何か言ったとか」
「え…」
あ、当たっちゃった?なんて軽く言ってみせる高尾は、やはり聡い人間なのだと改めて実感する。
初めて会ったときも、初対面相手だというのに隣にいてくれて。
「踏み込むのが上手いんだ」
「まーな。あの真ちゃんの相棒やれるくらいだし?」
「…確かに」
緑間に相棒、あまりピンと来ないのは中学の頃には想像出来なかったことだからだ。
そもそも誰と一番親しかったのか、それさえもはっきりしていなかった彼がまさか相棒などと。
緑間は、秀徳に入って良かったのだろう。
「…」
「そーいう付け込み易そうな顔してっと…容赦なく踏み込まれるぜ」
「俺には入って来ない方がいいと思うよ」
「へぇ、尚更燃えんじゃん」
横で高尾が笑っているのが分かる。
真司のことを知らないから、そうして笑っていられるのだ。
誠凛に入って距離が開いて、手を放された気になっていた。
完全に、自分が何をしているのか分からなくなる程に支配されていたというのに。
「とりあえず、そーだな。今度から一人で泣かずにオレを呼べよ」
「今日は…一人じゃなかったし」
「は、そーなの!?誰!?」
それ程驚くことを言ったつもりはないが、高尾は真司の肩をがしっと掴んだ。
脳裏に浮かぶのは、当然高尾の先輩にあたる宮地の姿。
そうだ、ハンカチ。せっかくだから高尾に渡してもらおう。
そう思ってポケットから取り出して、真司はそれをじっと見つめた。
「それは?」
「えっと…借りたんだけど」
「秀徳の誰か?んなら渡しとくけど」
「…いいや。自分で返す」
あそこまで優しくしてもらって、これきりと言うのも申し訳ない。
真司はハンカチを胸の前でぎゅっと握りしめて、再びポケットへと戻した。
「…踏み込まれてんじゃん」
「何?」
「べっつに。じゃ、オレ先行くから。その顔何とかしとけよ」
「うわ」
ニッと笑っている高尾が、去り際に真司の鼻をつんと突いた。
すぐにぱたんと扉が閉まって、高尾がいなくなる。高尾が賑やかな人間だからか、酷く静かに感じてしまう。
「でも、この顔じゃ」
先輩達にも黒子にも泣いてたことがバレるかもしれない。
真司は重いため息を吐き出して、自分の手で顔を覆った。
数時間後行われる秀徳との試合は頭から離れていた。