黒バス(2012.10~2017.12)
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午前の授業を適当に終えて、ノートを机の中に無造作に突っ込む。
がたがたと椅子が床と擦れる音を聞きながら、真司はぱっと椅子を引いて立ち上がった。
入学し、この教室に足を運んでから、もうそれなりの時間が経っている。
クラス内のグループもちらほら作られ始めているようで、一つの机の周りを何人かで囲む様子がいくつも見られた。
(中二の時は…俺もこれと同じことしてたんだよなぁ)
今では他人事、滑稽に見えるそれ。
自分の他人への興味の無さに笑いが漏れる。
「…」
ぽつんと取り残された席を振り返ると、ちくんと胸が痛んだ。
クラスに友達と呼べる人間がいないから…なんかじゃない。
一つの机で共に弁当を食べた、大好きだった彼を思い出して。
「…っ、早く行こ」
らしくもない。既に吹っ切ったことだというのに。
真司は足早に教室を後にして、約束の二年校舎を目指した。
・・・
「ちょっとパン、買ってきて」
その一声は、監督であるリコから発せられたものだ。
昼休み、二年校舎に呼ばれたのは、真司に限らずバスケ部一年全員で。
黒子と火神と、降旗光樹、河原浩一、福田寛、それぞれが各々に理解出来んといった顔を浮かべた。
「それって、ただのパシリじゃ」
「ふふ…それがね、今日は特別なのよ!」
パシリに特別も何もないだろう。
真司は呆れつつ耳は一応リコに傾けた。
その結果分かったことといえば、毎月27日のみ数量限定で売店に置かれる“イベリコ豚カツサンドパン三大珍味のせ”というものがあるということ。
「言わば、誠凛の幻のパンってわけなんだけど、ちょっと普段より混むのよね」
「は?つまりそのパン買ってくればいいんだろ?」
「ま、簡潔に言えばね」
火神はチョロいじゃん、と一言言うと、既に行く気満々になっている。
確かに、昼休みのこの時間、単純にお腹が空いているということもあって、さっさと済ませてしまいたい。
「じゃあ、これ金な」
ぽん、と火神の手の上に置かれたのは小さな封筒。恐らくここにお金が入っているのだろう。
「余った分でついでにオレ達の昼飯買ってきて」
「もし、買ってこれなかったらどうするんですか?」
先程聞いた数量限定という話が引っかかって、真司は何となく聞いてしまった。
途端に日向の表情が黒いものに変わっていく。
「…釣りはいらねーよ。今後筋トレとフットワーク三倍になるだけだ」
迷っている時間があるなら、さっさと行くべきだ。
真司は素早く黒子の手を取った。
「じゃあ、行こっか…テツ君」
「はい」
練習三倍は単純に面倒で困る。それに黒子がぶっ倒れてしまう。
真司は黒子がついて来れる程度に足を進めながら、ふと何気なく後ろを振り返った。
にこにこと命令してきたリコの後ろ、水戸部が酷く眉をひそめて心配そうにこちらを見ている。
「…?」
「烏羽君?どうかしましたか?」
「う、ううん、なんでもない」
ぱっと黒子の方に顔を向けて笑いかける。
渦巻く嫌な予感は、少なからず真司に襲いかかっていた。
・・・
購買に近付くにつれて耳に入ってくるは騒がしい生徒達の声。
それは一人、二人、更には十人、二十人でも済まないような声の乱れ様で。
足を踏み入れた真司は言葉を失って茫然としてしまった。
「監督、何て言ってたっけ?」
「ちょっと混む…でしたか」
リコの言葉を思い出して、再び購買に目を向ける。
そこには、収まり切らない程の人。バーゲンセールでも行われているのかと、自然に疑ってしまう程だ。
「もう購買に見えないんだけど…」
「そうですね」
「でも…行くしかねぇよな」
怖気づいた真司の横を、火神が誰よりも早く一歩を踏み出した。
「ちょ、ちょっと、火神本当に行くのか!?」
降旗の心配も気にせず人混みに火神が消えていく。
と思いきや。数秒後押し返されて戻ってきた火神は、そこに尻餅をついたまま動かなくなった。
「…This is Japanese lunch time rush!」
流暢な英語で語った火神は、余程ショックを受けたのだろう。
などと悟っている場合ではない。
「火神でも無理って…どうすんだよ」
「でも、買わないと…」
「全員で行くしかねぇ!」
火神でも駄目だった。その事実にようやく彼等はこのミッションの難易度を悟る。
それでも例のパンを手に入れる為に、降旗と河原と福田は人混みへと突っ込んで行った。
「えぇ…」
ノリ損ねた真司がぽつんとそこに残る。
ここに突っ込めというのか。大きな体である火神さえも押し返した程の渦に。
「テツ君、どうする?…ってあれ」
渋りながらも一応辺りを見渡して、真司は黒子がいないことに気が付いた。
(まさか、テツ君もこの中に…!?)
黒子が先輩の頼みをスルー出来る人間でないことは確かだ。
しかし、黒子は真司よりも貧弱な体だ。
「テツ君…っ」
黒子も挑んでいるというのに、自分だけここで待機していて許されるのか。否。
「仕方ないなぁ、もうっ」
暫く様子を見ていた真司も、急に義務感を胸に焼き付けられ、自ら踏み込んで行った。
むぎゅっと知らない生徒の背中にぶつかる。
それでも躊躇わずにぶつかって行く。
これだけの人だ。ぶつかることに罪悪感はほとんど感じなかった。
一歩進んでも人。更に行っても人。先の見えない人混みに、流されるようにして進む。
「あ、あれ、あ、ちょっと…」
不意に、大きな体に挟まれた真司の足が床から離れた。
「す、すみませ…ちょっと、あ…っ」
自分の足で立っていない体が人の動きに合わせて揺さぶられる。
目の前から大きな生徒が迫ってきても当然逃げることは出来ず。
「痛…っ」
押されて鼻に食い込んだ眼鏡がぽろりと落ちた。それももはやどこに行ったか検討もつかない。
足元に消えた眼鏡を目で追って、そのまま真司は顔を上げる事を止めた。
(ああ、きっとここが死に場所だったんだ…)
酸素が薄くなって、手も足も自由が利かない。真剣に死に場所を悟り、もがくことを止めて静かに目を閉じる。
せめて、最後に皆の笑顔が見れたなら。
「青峰君…」
ふっと目に滲む涙を擦る手もない。
真司はラグビー部の男子生徒の巨体に押しつぶされ、小さく苦痛の声を漏らした。
「烏羽!」
「…!?」
名を呼ぶ声。それが聞こえたのと同時に体が上に引っ張られていた。
ひょいと担ぐようにして真司の腰を抱くその手は火神のもので。さっきまでと景色が異なるのは、火神の顔の高さに真司の顔があるからだ。
「お前なぁ、ちっせぇんだから無茶すんなよ」
「…ちっさいのは関係ない」
「つ、つかお前…軽…」
「そんなはずないよ、ちゃんと鍛えてるし…!」
単純に火神との体格差故の感想だろう。真司は救い出してくれた火神への感謝の気持ちを言う気も失せ、頬を膨らませた。
「もう降ろしてくれていいよ」
「あ、ああ、悪い」
いや、決して火神が謝る必要はないが。
見上げた火神の顔がぼやけている。手を顔の前にやって、真司はこの昔よくやらかしたようなシチュエーションにため息を漏らした。
「また壊した…」
「烏羽」
「ん?」
「その…」
顔を上げて続く言葉を待つ。しかし、火神は口ごもったままで、言葉を探しているようだった。
そういえば、火神には黄瀬との間の関係を知られたばかりだった。
今このタイミングで話すこととも考えにくいが、他に今火神が言葉に迷っている理由を見つけられない。
「…はっきり、言ってくれていいよ。火神君」
「あ?」
「この前のこと…何か言いたいんじゃないの?」
微妙な空気のまま中途半端に扱われるぐらいなら、きっぱりさっぱり言ってくれた方がマシだ。
「分かってるから…おかしいの、俺だって」
小さく発した声は、溢れる生徒達の声に掻き消えて、もしかしたら火神には聞こえていなかったかもしれない。
しかし、ちらと火神を見上げると戸惑っているのか視線を逸らしていて。
「違ぇ」
「え?」
「別に、お前がおかしいとか、思ってねぇから」
人差し指で自分の頬をかいた火神は、ゆっくりと真司に視線を合わせた。
「誤解させたみたいで…その、悪かったな」
「あ、え…いや、でも」
「むしろおかしいのはオレの方っつか…」
「…??」
会話が成立していない、わけではなく。火神は真司の思いを察して、言葉を選んでくれている。それは分かる。
それでも、火神の言っている事は真司の考えと異なりすぎていて、真司の頭が真っ白になった。
「ちょ、ちょっと待って、火神君、本当に分かってる?」
「お前は、黄瀬とデキてんだろ?」
「うわ、かなり直球…」
今度はあまりに分かりやすい言葉で、真司は頭に熱が上るのを感じた。
デキてる、とは何とも曖昧な言葉だ。関係を持っているという意味ならそうだが、今現在の関係を指しているならば、それは違う。
「まぁデキて…ていうか、付き合ってる…てのとも、ちょっと違うんだけど…」
「違うのか!?」
「俺は…今、黄瀬君とそういう関係になるつもり無いし…」
黄瀬のことを心から愛し、許してしまったら。その瞬間に決意まで揺らいでしまいそうなのだ。
だから、黄瀬が楽しくチームでバスケをした、あの頃のように戻ってくれるまでは。
ぐっと手をきつく握り締めて、胸の前に掲げる。
そんな、もう何度もした決意を改めて胸に宿すと、火神が頭の上でふっと笑った。
「何?」
「いや、何か…安心したわ」
火神の手が真司の頭の上に乗せられる。
そのまま左右にわしゃわしゃの撫でる手は過去の誰の手よりも優しくて、不安だった思いがぱっと晴れ渡っていった。
「俺も、安心した」
「お、おう…」
にっと笑うと、再び火神がぱっと真司から視線を逸らす。
という顔の動きは把握できるものの、火神の表情まではよく見えない。真司はぱっと購買の方へ顔を向けた。
「どうしようか…パン…」
「あ、あぁ、そうだな…つかお前、眼鏡どこで落とした?」
「あの辺」
「…」
ぴっと指さす先には図体のデカい男が溜まっている。
と思いきや、その間を縫って小さな体が抜けて出てきた。
「あれ、テツ君?」
ぴょんっと飛び出た黒子は、ふうっと少し疲労を感じさせる息を吐き出して。
それからゆっくりと手を真司に伸ばした。
「買えました」
その黒子の手にあるのはパン。見た目には普通のパンだが、間に挟んである具は見たことのないものばかりで。
「テツ君、まさかそれ…」
「はい。人混みに流されていたら先頭に出ちゃったんで、これをとってお金を置いてきました」
受け取ってそのパンを確認すれば、例の幻のパンであることは明らか。
しかし、喜びよりも自分の苦労が無駄であったことを自覚してしまったことによるショックの方が勝ってしまった。
「…」
「あの、烏羽君。眼鏡してましたよね?」
「…」
「どうかしたんですか?」
もう購買など二度と利用してやるものか。
意味などない反抗心に駆られつつも、無事真司達はミッションを成功した。
きょとんとしている黒子を差し置いて、真司は火神と目を合わせ呆れ混じりの笑みを浮かべる。
そこには、二人にしか分からないそれまでの苦労と、仲直りに近い感覚があった。
・・・
黒子の力あって無事パンを手に入れた彼等は、二年生の待つ屋上へと向かった。
乱れた制服に、やつれた表情は人混みに挑んだ結果だ。
「おーお疲れ。ちゃんと買えたんだな」
思いの外くつろいで待っていた二年生達は、あろうことか既に昼食をとっている。
「それ、お前等で食っていいからな」
「え、いいんですか?」
「いいって。遠慮すんなよ」
日向の言い方は、初めから食べる気などなかったといった感じで。
真司は黒子や火神と視線を合わせ、戸惑いながらもパンの包みを開いた。
「はい、テツ君」
「え、ボクですか?」
「買って来たのはテツ君だから、一番に」
パンを黒子の手に渡し、黒子が口に含むのを見守る。
正直に言ってしまうと、先に誰かが食べるのを確認したいという思いもあったのだが。
「…どう?」
小さい口でかぶりついた黒子の口がもごもごと動く。
それからぱっと目が輝くのに時間はかからなかった。
「めっちゃ美味しいです」
「そうなの!?」
思わず黒子の手からパンを受け取って口に運ぶ。
そこには言葉では説明できないような高級感と、食べたことがないような味のハーモニーが広がっていた。
「あ、美味しい」
「ですね。意外と美味しいです」
「まじ!?ちょっと、オレにも!」
ぱっと手を伸ばしてきた降旗にパンを預け、それから焦点の合わない目を擦る。
結局眼鏡の救出は不可能だった。放課後にでも購買を立ち寄る他ないだろう。
ちなみに、一年の黒子を除く皆には、そのままでいいじゃないかと告げられてしまった。
「烏羽、眼鏡落としたのか?」
それは当然二年生も気付くことで。いち早く突っ込んだ伊月は、眉間にしわを寄せ心配そうに目を細めた。
「大丈夫だったか?」
「いや…だいぶ死にそうでした」
「お疲れ様。結局隠せなくなっちゃったな」
伊月の言っているのは、顔のことだろう。
必死に隠していたのが何だったのか、試合で外し、こんな形でも落とし。
「やっぱり、眼鏡外せってことなんですかね」
「んー…どう思う?コガ?」
首を傾けて伊月が目を逸らす。急に話をふられた小金井はぴんっと背筋を伸ばして、真司の顔をじっと見つめた。
「オレはコンタクトにしてくれた方が嬉しいなー」
「そっか。オレはオレ等だけの秘密にしときたいんだけどな」
にこ、と笑った伊月の細い目が真司を捕らえる。
その目は、以前二人の時に見せたものと似ていた。
“まだ、オレの特権”
そう言って、伊月の手が真司の顔を覆った時。伊月の目は細められ、真司を見透かしているかのように見えた。
「…自ら眼鏡を外すのは…試合の時だけにします」
ぽつりと漏らしたのは、ほぼ無意識に出た言葉。
えー、という声をいくつも聞きながらも、やはりそれを曲げることは無いだろうと確信していた。
眼鏡がないまま一日を過ごすことになってしまったその日。
教室ではなるべく俯いたままで、教師とも視線を合わせないようにした。
それでも数人の女子は目ざとく気付いて。
「あれ、烏羽君…だっけ?」
「何か雰囲気違くない?」
とんとんと机を叩いて覗き込んでくる女子生徒の目はキラキラと輝いている。
「可愛い顔ー」
「目、大きいんだ」
そういう君達の方が可愛いですよ。
そんなキザな言葉など喉の奥で呑み込んで、真司はにこりと彼女達に笑いかけた。
「部活行くから…」
「あ、そ、そうだよね!ごめんね!」
焦ったようにした女の子二人が左右に避けて道を空ける。
しかし、その声の大きさ故に視線が集まり始めてしまい、真司は慌てて鞄を肩にかけた。
「ねぇ、知ってた?」
「知らなかった…!」
「え、何?どうしたの?」
「今烏羽君がね…!」
後ろから聞こえる黄色い女子の声に居た堪れなくなりながら、足早に俯いたまま教室を出て行く。
机を避けて扉までたどり着いた真司の額がどんっと何かにぶつかった。
「あ、すみません…」
タイミングからして人とぶつかったのだろう。
咄嗟に謝ってそのまま行こうとした真司の腕は、何故かその人に掴まれていた。
驚いて顔を上げると、前を開いた学ランに赤い髪が見える。
そんな人間、一人くらいしか思い当たらなかった。
「火神君…?」
「おう」
「ボクもいます」
「あ、テツ君」
目を全力で細めてその姿を探れば、ぼんやりと見える薄い色の髪の毛。
視界がぼやけて、黒子の存在をいつも以上に視界に捕えられなくなってしまったようだ。
「大丈夫ですか?心配で迎えに来ました」
「有難う…ちょっと怖かったから助かるよ」
黒子は真司の目の悪さを良く知っている。
来てくれたことに心からの感謝をしつつ、申し訳なさに更に頭が上がらなくなった。
真司は、まだ眼鏡を救出していないのだ。
「あの、さ、購買…寄ってもいいかな?」
「はい。行きましょう」
「あ、有難う…!」
黒子の手が真司の手を掴む。
火神も真司の目的に気付いたのだろう、何も言わずに後ろをついて来た。
「足元、気を付けて下さいね」
「うん」
昼には人であふれていた購買が、今では別の場所かのように静まり返っている。
見えない真司は黒子の後ろをただついて行き、黒子と火神は辺りはじっくりと見渡して。
「お、あったぜ」
真司が落としたと言った場所を覚えていたのか、火神がいち早く呟いた。
たたっと駆け足で近寄り掴み上げた眼鏡は、踏まれてしまったのだろう、耳の部分が外れレンズも片方割れている。
耳にかけられる状態にはなっていなかった。
「悪ィ。これ、多分駄目だ」
「なんで火神君が謝るんだよ。有難う。あの時も…」
「いいって、別に」
眼鏡を火神の手から受け取って、目の前にやる。
透かしたレンズの向こうにある火神の顔は、言葉通り残念そうに眉を下げていた。
「そうだ、火神君って…」
「あ?」
少し、似ている気がするのだ。まだ光を放っていた彼に。
中学時代一番楽しかった頃、あのような状況で救い出してくれるのは青峰だった。
「…俺のこと名前で呼んでよ」
「は?なんだよいきなり」
「あ…いや、なんとなく、なんだけど」
火神には、“真司”と呼んで欲しい。そう、無意識に感じた。
妙な緊張のせいか、首筋に汗がつたう。
戸惑いに視線を逸らしていた火神は、はぁ…と息を漏らし、こほんと小さく咳払いをした。
「…真司、でいいか?」
「あ…お、俺の名前、覚えてくれてたんだ」
「馬鹿にしてんのかよ」
「ううん、嬉しい」
嬉しさ半分とむず痒さ半分。
それでも若干勝る嬉しさに笑みをこぼすと、火神も照れ臭そうに笑ってくれた。
と、そんな進展を見せたところで状況は変わらない。今日はまともにバスケをすることも出来ないだろう。
ふと現実に戻ったように手を降ろして壊れた眼鏡を見つめる。
「…はぁ」
「今日、コンタクトとか持ってきてねーの?」
「うん、今日は…だって眼鏡壊れるとか思わないし」
「だよな」
しゅんと肩を落としながらも妙な慣れが生まれていて、さして悲しくもなかった。
壊れた眼鏡を鞄にしまって体育館に向かう。ぼやけた視界はやはり歩きにくい上に不安で、黒子の手を握ったまま探り探り進んだ。
「って、テツ君、もう少し早く歩いてくれても平気だよ?」
先導するどころか、真司の横、むしろ後ろを歩いていた黒子に目を向ける。
表情は良く見えないが、何か様子がおかしいような。
「テツ君?」
「烏羽君が、人にそんなこと言うの…初めてですね」
「えっと」
「いえ、なんでもないです。行きましょう」
急にペースを上げた黒子に、少しよろけながらついて行く。
黒子のことが心配だが、寄り道をしていた為に部活開始時間を超えてしまっていることは明らかだ。
三人居れば怖くないとか、そんなことを考えている場合でもない。
なるべく急いで向かい、それでも体育館を覗き込むとやはり練習は既に始まっていた。
「遅れました」
「お、来たか」
日向が気付いて振り返る。事情は分かってくれていたのか、お咎めは無しだった。
しかし途端に昼間とは違う、主将としての厳しい表情に変わる。
不思議に思って見上げていると、日向がパンパンと両手を叩いた。
「集合!!」
ぞろぞろと練習をしていた部員が集まる。
日向はすっと息を吸うと、大きな声を張り上げた。
「もうすぐインターハイ予選だ!去年はあと一歩及ばなかったが、今年は絶対行くぞ!」
インターハイ予選、その練習試合と違う響きの言葉に、真司の胸がぞくっと震える。
しかし、それだけではなく。
「同地区で最強最大の敵は秀徳高校だ。秀徳に挑む為にも初戦、気を引き締めていくぞ!」
おなじ地区にある秀徳高校。
誰もが知る強豪校であるばかりか、今年そこにはキセキの世代が一人入部している。
「…緑間君のとこだ」
隣に立っている黒子を見ると、少し険しい表情をしていて。真司の言葉にこくんと頷いた。
緑間真太郎。彼とも卒業以来一度も会っていないし連絡もない。
どうしてもざわざわする気持ちに目を伏せると、火神が怪訝そうに眉を寄せた。
「どんな奴なんだ?」
その質問にはそこにいる皆が反応して、黒子と真司に視線が集まる。
戦う前の情報というのは多いに限る、それは当然だ。しかし。
「口で言っても信じないですよ、多分」
黒子がぽつりと呟いて、それから真司に目を向けた。
黒子よりも長いこと一緒にいた真司だ。詳しくは真司からと思ったのだろう。
「緑間君は体格にも恵まれてるし、それでいて繊細なプレーが出来る人だよ」
「繊細?」
「緑間くんにシュートを打たせたら、まず外れないと言っていい」
というか、絶対に外さない。外したところなど見たことが無い。
しかし、そう言ったところで信じる者はいないだろう。その点、黒子の言い方は正しいと言えた。
「でも…キセキの世代の成長の早さからして、今の段階じゃ想像もつかない、かな」
黄瀬と比べてもその上を行く緑間。帝光のナンバーワンシューターは秀徳高校でも相当貢献しているはずだ。
勝てる気などしない。それでも負ける気もない。
「火神君とテツ君なら、きっと」
「はい。勝ちます」
黒子も同じ気持ちだったようだ。
真司は安心して頬を緩めて笑い、目の先にあるゴールを見据えた。
がたがたと椅子が床と擦れる音を聞きながら、真司はぱっと椅子を引いて立ち上がった。
入学し、この教室に足を運んでから、もうそれなりの時間が経っている。
クラス内のグループもちらほら作られ始めているようで、一つの机の周りを何人かで囲む様子がいくつも見られた。
(中二の時は…俺もこれと同じことしてたんだよなぁ)
今では他人事、滑稽に見えるそれ。
自分の他人への興味の無さに笑いが漏れる。
「…」
ぽつんと取り残された席を振り返ると、ちくんと胸が痛んだ。
クラスに友達と呼べる人間がいないから…なんかじゃない。
一つの机で共に弁当を食べた、大好きだった彼を思い出して。
「…っ、早く行こ」
らしくもない。既に吹っ切ったことだというのに。
真司は足早に教室を後にして、約束の二年校舎を目指した。
・・・
「ちょっとパン、買ってきて」
その一声は、監督であるリコから発せられたものだ。
昼休み、二年校舎に呼ばれたのは、真司に限らずバスケ部一年全員で。
黒子と火神と、降旗光樹、河原浩一、福田寛、それぞれが各々に理解出来んといった顔を浮かべた。
「それって、ただのパシリじゃ」
「ふふ…それがね、今日は特別なのよ!」
パシリに特別も何もないだろう。
真司は呆れつつ耳は一応リコに傾けた。
その結果分かったことといえば、毎月27日のみ数量限定で売店に置かれる“イベリコ豚カツサンドパン三大珍味のせ”というものがあるということ。
「言わば、誠凛の幻のパンってわけなんだけど、ちょっと普段より混むのよね」
「は?つまりそのパン買ってくればいいんだろ?」
「ま、簡潔に言えばね」
火神はチョロいじゃん、と一言言うと、既に行く気満々になっている。
確かに、昼休みのこの時間、単純にお腹が空いているということもあって、さっさと済ませてしまいたい。
「じゃあ、これ金な」
ぽん、と火神の手の上に置かれたのは小さな封筒。恐らくここにお金が入っているのだろう。
「余った分でついでにオレ達の昼飯買ってきて」
「もし、買ってこれなかったらどうするんですか?」
先程聞いた数量限定という話が引っかかって、真司は何となく聞いてしまった。
途端に日向の表情が黒いものに変わっていく。
「…釣りはいらねーよ。今後筋トレとフットワーク三倍になるだけだ」
迷っている時間があるなら、さっさと行くべきだ。
真司は素早く黒子の手を取った。
「じゃあ、行こっか…テツ君」
「はい」
練習三倍は単純に面倒で困る。それに黒子がぶっ倒れてしまう。
真司は黒子がついて来れる程度に足を進めながら、ふと何気なく後ろを振り返った。
にこにこと命令してきたリコの後ろ、水戸部が酷く眉をひそめて心配そうにこちらを見ている。
「…?」
「烏羽君?どうかしましたか?」
「う、ううん、なんでもない」
ぱっと黒子の方に顔を向けて笑いかける。
渦巻く嫌な予感は、少なからず真司に襲いかかっていた。
・・・
購買に近付くにつれて耳に入ってくるは騒がしい生徒達の声。
それは一人、二人、更には十人、二十人でも済まないような声の乱れ様で。
足を踏み入れた真司は言葉を失って茫然としてしまった。
「監督、何て言ってたっけ?」
「ちょっと混む…でしたか」
リコの言葉を思い出して、再び購買に目を向ける。
そこには、収まり切らない程の人。バーゲンセールでも行われているのかと、自然に疑ってしまう程だ。
「もう購買に見えないんだけど…」
「そうですね」
「でも…行くしかねぇよな」
怖気づいた真司の横を、火神が誰よりも早く一歩を踏み出した。
「ちょ、ちょっと、火神本当に行くのか!?」
降旗の心配も気にせず人混みに火神が消えていく。
と思いきや。数秒後押し返されて戻ってきた火神は、そこに尻餅をついたまま動かなくなった。
「…This is Japanese lunch time rush!」
流暢な英語で語った火神は、余程ショックを受けたのだろう。
などと悟っている場合ではない。
「火神でも無理って…どうすんだよ」
「でも、買わないと…」
「全員で行くしかねぇ!」
火神でも駄目だった。その事実にようやく彼等はこのミッションの難易度を悟る。
それでも例のパンを手に入れる為に、降旗と河原と福田は人混みへと突っ込んで行った。
「えぇ…」
ノリ損ねた真司がぽつんとそこに残る。
ここに突っ込めというのか。大きな体である火神さえも押し返した程の渦に。
「テツ君、どうする?…ってあれ」
渋りながらも一応辺りを見渡して、真司は黒子がいないことに気が付いた。
(まさか、テツ君もこの中に…!?)
黒子が先輩の頼みをスルー出来る人間でないことは確かだ。
しかし、黒子は真司よりも貧弱な体だ。
「テツ君…っ」
黒子も挑んでいるというのに、自分だけここで待機していて許されるのか。否。
「仕方ないなぁ、もうっ」
暫く様子を見ていた真司も、急に義務感を胸に焼き付けられ、自ら踏み込んで行った。
むぎゅっと知らない生徒の背中にぶつかる。
それでも躊躇わずにぶつかって行く。
これだけの人だ。ぶつかることに罪悪感はほとんど感じなかった。
一歩進んでも人。更に行っても人。先の見えない人混みに、流されるようにして進む。
「あ、あれ、あ、ちょっと…」
不意に、大きな体に挟まれた真司の足が床から離れた。
「す、すみませ…ちょっと、あ…っ」
自分の足で立っていない体が人の動きに合わせて揺さぶられる。
目の前から大きな生徒が迫ってきても当然逃げることは出来ず。
「痛…っ」
押されて鼻に食い込んだ眼鏡がぽろりと落ちた。それももはやどこに行ったか検討もつかない。
足元に消えた眼鏡を目で追って、そのまま真司は顔を上げる事を止めた。
(ああ、きっとここが死に場所だったんだ…)
酸素が薄くなって、手も足も自由が利かない。真剣に死に場所を悟り、もがくことを止めて静かに目を閉じる。
せめて、最後に皆の笑顔が見れたなら。
「青峰君…」
ふっと目に滲む涙を擦る手もない。
真司はラグビー部の男子生徒の巨体に押しつぶされ、小さく苦痛の声を漏らした。
「烏羽!」
「…!?」
名を呼ぶ声。それが聞こえたのと同時に体が上に引っ張られていた。
ひょいと担ぐようにして真司の腰を抱くその手は火神のもので。さっきまでと景色が異なるのは、火神の顔の高さに真司の顔があるからだ。
「お前なぁ、ちっせぇんだから無茶すんなよ」
「…ちっさいのは関係ない」
「つ、つかお前…軽…」
「そんなはずないよ、ちゃんと鍛えてるし…!」
単純に火神との体格差故の感想だろう。真司は救い出してくれた火神への感謝の気持ちを言う気も失せ、頬を膨らませた。
「もう降ろしてくれていいよ」
「あ、ああ、悪い」
いや、決して火神が謝る必要はないが。
見上げた火神の顔がぼやけている。手を顔の前にやって、真司はこの昔よくやらかしたようなシチュエーションにため息を漏らした。
「また壊した…」
「烏羽」
「ん?」
「その…」
顔を上げて続く言葉を待つ。しかし、火神は口ごもったままで、言葉を探しているようだった。
そういえば、火神には黄瀬との間の関係を知られたばかりだった。
今このタイミングで話すこととも考えにくいが、他に今火神が言葉に迷っている理由を見つけられない。
「…はっきり、言ってくれていいよ。火神君」
「あ?」
「この前のこと…何か言いたいんじゃないの?」
微妙な空気のまま中途半端に扱われるぐらいなら、きっぱりさっぱり言ってくれた方がマシだ。
「分かってるから…おかしいの、俺だって」
小さく発した声は、溢れる生徒達の声に掻き消えて、もしかしたら火神には聞こえていなかったかもしれない。
しかし、ちらと火神を見上げると戸惑っているのか視線を逸らしていて。
「違ぇ」
「え?」
「別に、お前がおかしいとか、思ってねぇから」
人差し指で自分の頬をかいた火神は、ゆっくりと真司に視線を合わせた。
「誤解させたみたいで…その、悪かったな」
「あ、え…いや、でも」
「むしろおかしいのはオレの方っつか…」
「…??」
会話が成立していない、わけではなく。火神は真司の思いを察して、言葉を選んでくれている。それは分かる。
それでも、火神の言っている事は真司の考えと異なりすぎていて、真司の頭が真っ白になった。
「ちょ、ちょっと待って、火神君、本当に分かってる?」
「お前は、黄瀬とデキてんだろ?」
「うわ、かなり直球…」
今度はあまりに分かりやすい言葉で、真司は頭に熱が上るのを感じた。
デキてる、とは何とも曖昧な言葉だ。関係を持っているという意味ならそうだが、今現在の関係を指しているならば、それは違う。
「まぁデキて…ていうか、付き合ってる…てのとも、ちょっと違うんだけど…」
「違うのか!?」
「俺は…今、黄瀬君とそういう関係になるつもり無いし…」
黄瀬のことを心から愛し、許してしまったら。その瞬間に決意まで揺らいでしまいそうなのだ。
だから、黄瀬が楽しくチームでバスケをした、あの頃のように戻ってくれるまでは。
ぐっと手をきつく握り締めて、胸の前に掲げる。
そんな、もう何度もした決意を改めて胸に宿すと、火神が頭の上でふっと笑った。
「何?」
「いや、何か…安心したわ」
火神の手が真司の頭の上に乗せられる。
そのまま左右にわしゃわしゃの撫でる手は過去の誰の手よりも優しくて、不安だった思いがぱっと晴れ渡っていった。
「俺も、安心した」
「お、おう…」
にっと笑うと、再び火神がぱっと真司から視線を逸らす。
という顔の動きは把握できるものの、火神の表情まではよく見えない。真司はぱっと購買の方へ顔を向けた。
「どうしようか…パン…」
「あ、あぁ、そうだな…つかお前、眼鏡どこで落とした?」
「あの辺」
「…」
ぴっと指さす先には図体のデカい男が溜まっている。
と思いきや、その間を縫って小さな体が抜けて出てきた。
「あれ、テツ君?」
ぴょんっと飛び出た黒子は、ふうっと少し疲労を感じさせる息を吐き出して。
それからゆっくりと手を真司に伸ばした。
「買えました」
その黒子の手にあるのはパン。見た目には普通のパンだが、間に挟んである具は見たことのないものばかりで。
「テツ君、まさかそれ…」
「はい。人混みに流されていたら先頭に出ちゃったんで、これをとってお金を置いてきました」
受け取ってそのパンを確認すれば、例の幻のパンであることは明らか。
しかし、喜びよりも自分の苦労が無駄であったことを自覚してしまったことによるショックの方が勝ってしまった。
「…」
「あの、烏羽君。眼鏡してましたよね?」
「…」
「どうかしたんですか?」
もう購買など二度と利用してやるものか。
意味などない反抗心に駆られつつも、無事真司達はミッションを成功した。
きょとんとしている黒子を差し置いて、真司は火神と目を合わせ呆れ混じりの笑みを浮かべる。
そこには、二人にしか分からないそれまでの苦労と、仲直りに近い感覚があった。
・・・
黒子の力あって無事パンを手に入れた彼等は、二年生の待つ屋上へと向かった。
乱れた制服に、やつれた表情は人混みに挑んだ結果だ。
「おーお疲れ。ちゃんと買えたんだな」
思いの外くつろいで待っていた二年生達は、あろうことか既に昼食をとっている。
「それ、お前等で食っていいからな」
「え、いいんですか?」
「いいって。遠慮すんなよ」
日向の言い方は、初めから食べる気などなかったといった感じで。
真司は黒子や火神と視線を合わせ、戸惑いながらもパンの包みを開いた。
「はい、テツ君」
「え、ボクですか?」
「買って来たのはテツ君だから、一番に」
パンを黒子の手に渡し、黒子が口に含むのを見守る。
正直に言ってしまうと、先に誰かが食べるのを確認したいという思いもあったのだが。
「…どう?」
小さい口でかぶりついた黒子の口がもごもごと動く。
それからぱっと目が輝くのに時間はかからなかった。
「めっちゃ美味しいです」
「そうなの!?」
思わず黒子の手からパンを受け取って口に運ぶ。
そこには言葉では説明できないような高級感と、食べたことがないような味のハーモニーが広がっていた。
「あ、美味しい」
「ですね。意外と美味しいです」
「まじ!?ちょっと、オレにも!」
ぱっと手を伸ばしてきた降旗にパンを預け、それから焦点の合わない目を擦る。
結局眼鏡の救出は不可能だった。放課後にでも購買を立ち寄る他ないだろう。
ちなみに、一年の黒子を除く皆には、そのままでいいじゃないかと告げられてしまった。
「烏羽、眼鏡落としたのか?」
それは当然二年生も気付くことで。いち早く突っ込んだ伊月は、眉間にしわを寄せ心配そうに目を細めた。
「大丈夫だったか?」
「いや…だいぶ死にそうでした」
「お疲れ様。結局隠せなくなっちゃったな」
伊月の言っているのは、顔のことだろう。
必死に隠していたのが何だったのか、試合で外し、こんな形でも落とし。
「やっぱり、眼鏡外せってことなんですかね」
「んー…どう思う?コガ?」
首を傾けて伊月が目を逸らす。急に話をふられた小金井はぴんっと背筋を伸ばして、真司の顔をじっと見つめた。
「オレはコンタクトにしてくれた方が嬉しいなー」
「そっか。オレはオレ等だけの秘密にしときたいんだけどな」
にこ、と笑った伊月の細い目が真司を捕らえる。
その目は、以前二人の時に見せたものと似ていた。
“まだ、オレの特権”
そう言って、伊月の手が真司の顔を覆った時。伊月の目は細められ、真司を見透かしているかのように見えた。
「…自ら眼鏡を外すのは…試合の時だけにします」
ぽつりと漏らしたのは、ほぼ無意識に出た言葉。
えー、という声をいくつも聞きながらも、やはりそれを曲げることは無いだろうと確信していた。
眼鏡がないまま一日を過ごすことになってしまったその日。
教室ではなるべく俯いたままで、教師とも視線を合わせないようにした。
それでも数人の女子は目ざとく気付いて。
「あれ、烏羽君…だっけ?」
「何か雰囲気違くない?」
とんとんと机を叩いて覗き込んでくる女子生徒の目はキラキラと輝いている。
「可愛い顔ー」
「目、大きいんだ」
そういう君達の方が可愛いですよ。
そんなキザな言葉など喉の奥で呑み込んで、真司はにこりと彼女達に笑いかけた。
「部活行くから…」
「あ、そ、そうだよね!ごめんね!」
焦ったようにした女の子二人が左右に避けて道を空ける。
しかし、その声の大きさ故に視線が集まり始めてしまい、真司は慌てて鞄を肩にかけた。
「ねぇ、知ってた?」
「知らなかった…!」
「え、何?どうしたの?」
「今烏羽君がね…!」
後ろから聞こえる黄色い女子の声に居た堪れなくなりながら、足早に俯いたまま教室を出て行く。
机を避けて扉までたどり着いた真司の額がどんっと何かにぶつかった。
「あ、すみません…」
タイミングからして人とぶつかったのだろう。
咄嗟に謝ってそのまま行こうとした真司の腕は、何故かその人に掴まれていた。
驚いて顔を上げると、前を開いた学ランに赤い髪が見える。
そんな人間、一人くらいしか思い当たらなかった。
「火神君…?」
「おう」
「ボクもいます」
「あ、テツ君」
目を全力で細めてその姿を探れば、ぼんやりと見える薄い色の髪の毛。
視界がぼやけて、黒子の存在をいつも以上に視界に捕えられなくなってしまったようだ。
「大丈夫ですか?心配で迎えに来ました」
「有難う…ちょっと怖かったから助かるよ」
黒子は真司の目の悪さを良く知っている。
来てくれたことに心からの感謝をしつつ、申し訳なさに更に頭が上がらなくなった。
真司は、まだ眼鏡を救出していないのだ。
「あの、さ、購買…寄ってもいいかな?」
「はい。行きましょう」
「あ、有難う…!」
黒子の手が真司の手を掴む。
火神も真司の目的に気付いたのだろう、何も言わずに後ろをついて来た。
「足元、気を付けて下さいね」
「うん」
昼には人であふれていた購買が、今では別の場所かのように静まり返っている。
見えない真司は黒子の後ろをただついて行き、黒子と火神は辺りはじっくりと見渡して。
「お、あったぜ」
真司が落としたと言った場所を覚えていたのか、火神がいち早く呟いた。
たたっと駆け足で近寄り掴み上げた眼鏡は、踏まれてしまったのだろう、耳の部分が外れレンズも片方割れている。
耳にかけられる状態にはなっていなかった。
「悪ィ。これ、多分駄目だ」
「なんで火神君が謝るんだよ。有難う。あの時も…」
「いいって、別に」
眼鏡を火神の手から受け取って、目の前にやる。
透かしたレンズの向こうにある火神の顔は、言葉通り残念そうに眉を下げていた。
「そうだ、火神君って…」
「あ?」
少し、似ている気がするのだ。まだ光を放っていた彼に。
中学時代一番楽しかった頃、あのような状況で救い出してくれるのは青峰だった。
「…俺のこと名前で呼んでよ」
「は?なんだよいきなり」
「あ…いや、なんとなく、なんだけど」
火神には、“真司”と呼んで欲しい。そう、無意識に感じた。
妙な緊張のせいか、首筋に汗がつたう。
戸惑いに視線を逸らしていた火神は、はぁ…と息を漏らし、こほんと小さく咳払いをした。
「…真司、でいいか?」
「あ…お、俺の名前、覚えてくれてたんだ」
「馬鹿にしてんのかよ」
「ううん、嬉しい」
嬉しさ半分とむず痒さ半分。
それでも若干勝る嬉しさに笑みをこぼすと、火神も照れ臭そうに笑ってくれた。
と、そんな進展を見せたところで状況は変わらない。今日はまともにバスケをすることも出来ないだろう。
ふと現実に戻ったように手を降ろして壊れた眼鏡を見つめる。
「…はぁ」
「今日、コンタクトとか持ってきてねーの?」
「うん、今日は…だって眼鏡壊れるとか思わないし」
「だよな」
しゅんと肩を落としながらも妙な慣れが生まれていて、さして悲しくもなかった。
壊れた眼鏡を鞄にしまって体育館に向かう。ぼやけた視界はやはり歩きにくい上に不安で、黒子の手を握ったまま探り探り進んだ。
「って、テツ君、もう少し早く歩いてくれても平気だよ?」
先導するどころか、真司の横、むしろ後ろを歩いていた黒子に目を向ける。
表情は良く見えないが、何か様子がおかしいような。
「テツ君?」
「烏羽君が、人にそんなこと言うの…初めてですね」
「えっと」
「いえ、なんでもないです。行きましょう」
急にペースを上げた黒子に、少しよろけながらついて行く。
黒子のことが心配だが、寄り道をしていた為に部活開始時間を超えてしまっていることは明らかだ。
三人居れば怖くないとか、そんなことを考えている場合でもない。
なるべく急いで向かい、それでも体育館を覗き込むとやはり練習は既に始まっていた。
「遅れました」
「お、来たか」
日向が気付いて振り返る。事情は分かってくれていたのか、お咎めは無しだった。
しかし途端に昼間とは違う、主将としての厳しい表情に変わる。
不思議に思って見上げていると、日向がパンパンと両手を叩いた。
「集合!!」
ぞろぞろと練習をしていた部員が集まる。
日向はすっと息を吸うと、大きな声を張り上げた。
「もうすぐインターハイ予選だ!去年はあと一歩及ばなかったが、今年は絶対行くぞ!」
インターハイ予選、その練習試合と違う響きの言葉に、真司の胸がぞくっと震える。
しかし、それだけではなく。
「同地区で最強最大の敵は秀徳高校だ。秀徳に挑む為にも初戦、気を引き締めていくぞ!」
おなじ地区にある秀徳高校。
誰もが知る強豪校であるばかりか、今年そこにはキセキの世代が一人入部している。
「…緑間君のとこだ」
隣に立っている黒子を見ると、少し険しい表情をしていて。真司の言葉にこくんと頷いた。
緑間真太郎。彼とも卒業以来一度も会っていないし連絡もない。
どうしてもざわざわする気持ちに目を伏せると、火神が怪訝そうに眉を寄せた。
「どんな奴なんだ?」
その質問にはそこにいる皆が反応して、黒子と真司に視線が集まる。
戦う前の情報というのは多いに限る、それは当然だ。しかし。
「口で言っても信じないですよ、多分」
黒子がぽつりと呟いて、それから真司に目を向けた。
黒子よりも長いこと一緒にいた真司だ。詳しくは真司からと思ったのだろう。
「緑間君は体格にも恵まれてるし、それでいて繊細なプレーが出来る人だよ」
「繊細?」
「緑間くんにシュートを打たせたら、まず外れないと言っていい」
というか、絶対に外さない。外したところなど見たことが無い。
しかし、そう言ったところで信じる者はいないだろう。その点、黒子の言い方は正しいと言えた。
「でも…キセキの世代の成長の早さからして、今の段階じゃ想像もつかない、かな」
黄瀬と比べてもその上を行く緑間。帝光のナンバーワンシューターは秀徳高校でも相当貢献しているはずだ。
勝てる気などしない。それでも負ける気もない。
「火神君とテツ君なら、きっと」
「はい。勝ちます」
黒子も同じ気持ちだったようだ。
真司は安心して頬を緩めて笑い、目の先にあるゴールを見据えた。