藍沢湧太郎(夢色キャスト)
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8.ラブレター
スタッフとして訪れる最後の日。
初めて来た時と同じような緊張感の中、咲哉はスタッフルームへと案内された。
掃除用具やら備品を保管する部屋とは別の、デスクワークをするための部屋だ。
機密情報のなんたるかを再度説明された後、書類へとサインする。
たったのそれだけ。これで、この劇場との特別な関係も、白紙に戻ったのだ。
「寂しそうですね」
正面に腰かけていた劇団ジェネシスの灰羽拓真がぽつりと呟く。
咲哉は伸ばしっぱなしだった背中を少し丸め、はっきりと頷いた。
「この大好きな劇場のスタッフとして置かせてもらって、皆さんにお話しを聞く機会までいただいて…俺、世界一幸せな学生です」
「何か得られましたか?」
「はい。語りつくせないくらい…いっぱいもらいました」
顔馴染みになった役者やスタッフの方々。普通なら入れないスタッフルーム、朝早い時間の劇場。
全て、この経験があって、初めて知ることが出来たものだ。
「それに、とっても優しくしてもらって…特に、藍沢さんには…感謝してもしきれなくて」
「えぇ、それは良い縁でしたね」
灰羽も咲哉と藍沢の関係をどことなく知っているのだろう。
感慨深そうに呟くと、テーブルに置いた両手を絡め、それを口元へ寄せた。
何気なく色気のにじみ出る仕草に、咲哉は思わず目を奪われる。その視線に気付いたのか、灰羽はふっと息を吐いて笑うと「ところで」と口を開いた。
「いっぱいついでに、最後にもう一つ、雑用を頼まれてもらえますか?」
「え…あ、はい!もちろん何でもやります!」
灰羽は咲哉の元気溢れる返事に、良かったと目尻を下げた。
すっと姿勢よく立ち上がり、傍に置かれていた紙の束を手に抱える。
「この劇場で行った公演のアンケートなのですが…集計が終わっていないんです」
灰羽はそのアンケート用紙と作業用のPCを咲哉の前に下ろした。
カチカチと灰羽がマウスを操作すると、馴染みある表計算アプリが画面いっぱいに開かれる。
「使い方は分かりますか?」
「はっ、はい!大丈夫です!学校でも使っているので…!」
灰羽は咲哉の返事にクスとほほ笑むと、お手本にと一番上の用紙を写し始めた。
「選択形式のものはカウントを追加して…コメント欄は必要がありそうなら書き写してください」
「ひ、必要かどうかの判断基準は…」
「劇場や劇団への意見か否か、ですかね」
咲哉はその曖昧さに眉を寄せ、灰羽の手にある用紙のコメント欄に目を移した。
そこに書かれているのは舞台の総合評価のようなものだった。脚本、役者の演技、全体を通した感想等。
「たまにファンレターのように使用する方もいるんです。そういうのは、後で個別に役者へ渡しますので」
「じゃあ、そういうものは、仕分けておきますね」
「えぇ。そうしていただけると助かります」
灰羽はエンターキーをかつんと押すと、上体を起こして元いた席へと戻っていく。
咲哉は灰羽が椅子に座るまでを見送り、自分も椅子に座り直してPCに向かった。
ぺらと紙を一枚捲り、指示された通りに作業を進めていく。
無難な作業だ。しかし時折迷うようなコメントに、咲哉は眉間のシワを深くして手を止める。
そういうのは後回しで、と紙を避け、次の紙に目を通す。
「…ジェネシスの方々も、こういうアンケートのコメントに目を通されるんですか?」
「えぇ、基本的には」
灰羽は少しだけ表情を曇らせ、ふっと息を吐いた。
「残念ながら朱道くんは面倒くさがって、黒木くんは必要ないと言って見ない事が多いんですよ」
「ふふ、ちょっと想像できました」
「白椋くんと藍沢くんはむしろ積極的に見てくれるのですが…」
困ったものです、と首を横に振りながらも、灰羽の表情は随分と穏やかだ。
咲哉は思わず笑みを浮かべつつ、改めて画面に向き合った。
アンケートを手に取り、優しく微笑む藍沢の姿が脳裏に見える。誰にでも優しい、咲哉のよく知る藍沢の姿だ。
「…藍沢くんを、ここに呼びましょうか?」
「え…」
「今なら時間が取れると思いますよ。君も、私より藍沢くんがいてくれた方が居心地が良いでしょう」
咲哉は自身の思考を読み取られたかと錯覚し、カッと顔を赤く染めた。
それからぶんぶんと小刻みに首を振り、意味もなくアンケート用紙を凝視する。
劇場スタッフへの意見、舞台への感想、役者への称賛の声。
「これからは…俺もこっち側の人間に戻るんだから、もう、甘えたことはしません」
「貴方は、甘えていたんですか?」
「…きっと無意識に。藍沢さんが優しくて、甘えてたんだと思います」
灰羽は小さく肩をすくめ、自身の作業へと移り、咲哉もまた、それ以上は何も言わずに黙々と作業を進めた。
一枚、一枚、紙の山は小さくなっていく。
残された時間はあっという間に費やされ、咲哉はその後スタッフルームへやって来た事務の人に見送られて退出した。
次に咲哉がアートシアターつばさを訪ねたのは、数週間後、観客として。
初日から中日まで一気に走り抜けた劇団ジェネシスの公演の客席で、咲哉は生気の抜けたように座ったまま動けずにいた。
帰る準備を始める人々と、感動に浸る人々、感動を共有し合う友人達。
それを傍目に咲哉は一人、握り締めた手に力を込める。
目が気づけば勝手に藍沢湧太郎を追いかけて、彼がメインでないシーンでも3回…いや、少なくとも4、5回は注視していた。
藍沢湧太郎をだ。彼の演じる登場人物ではなく、彼自身を目に焼き付けた。
「…、なんて、ことを…」
咲哉は宿った熱と冷めない興奮を押し殺し、足元に置いた鞄を掴んだ。
その見方自体が悪いわけではない。ファンとしてそういう楽しみ方もあるだろう。
「こんなんじゃ、書けない…」
研究者としての考察も、感想も、何もかも。
咲哉は受付で配られた広告の束を取り出し、一番上に重ねられたアンケート用紙を指で撫でた。
咲哉の震える手が、勝手に思いを書き綴ろうとする。脳裏に浮かんだのは、先日聴いた灰羽の言葉。
見てくれるかも、いや見られなくてもいい。
気付いてくれなくてもいい。
咲哉は不安定な足の上で、必死にペンを走らせた。
・・・
公演を終えた役者は、休む間もなくミーティングルームへと集まる。
その日の反省点と、改善点と良点…これらはすぐに確認しなければ意味がないからだ。
とはいえ、ようやく迎えた中日。疲労の蓄積も考慮され、普段より少し早めに切り上げられると、すぐさま数人が席を立った。
「先に失礼する」
「稽古室、借りるぜ」
「あっ、僕も!ダンスの確認を…藍沢さん、後でお時間いただいても、いいですか?」
次の仕事がある黒木とは慌ただしく鞄を肩にかける。
早速動きを確認したい朱道は稽古室へと、その後ろには白椋が続く。
藍沢は「分かった、後で行くよ」と快く返し、テーブルの上に置かれた紙の束を手に取った。
「律儀ですね。それに目を通しますか」
「えぇ。これだって、もうスタッフさんの手で振り分けられているんですよね。多方の想いを、無下にはできませんから」
「…さすがです」
観客の退出時に集められるアンケート用紙は、スタッフが役者のモチベーションを下げないよう厳選する。
その日の公演のものをその日のうちにという、迅速なスタッフの対応を知っているからこそ、藍沢は真剣な顔付きでそれと向かい合った。
「嬉しいものですね。…実は今日の分、私も手伝ったんですよ」
「えっ、それはまた、どうして」
「たまには…目に留まらず処分される声も、見ておきたいと思いまして」
灰羽のどこか弾んだ声色に、藍沢の表情も綻ぶ。
合理的に物事を考える人だと思っていたが、なるほど、感情的な人間らしい部分もあったのだ。
朗らかな気持ちで、藍沢の手がぺらと紙を捲る。それを数十回繰り返したところで、藍沢の手がピタリと止まった。
『夢のような時間でした。まるで自分がそこにいるかのように、感情が溢れ出して、涙が止まらなくなりました。』
揺れる字で書かれたのは、どこか子供じみた感想。
いつもなら切り捨てられるだろう文句の綴られたそれに、藍沢はチラと灰羽を一瞥した。
「ふ、気付いてしまいましたか?可愛らしい文章だったので、思わず貰ってきてしまったものがあるんです」
「あぁ、やっぱり。見たことのないタイプのものがあると思いました」
「書いたのはきっと学生さんでしょうね」
学生というワードから連想されたのは、一人の友人。
とはいえ、もしあの子なら、もっと理知的で理論的な意見を書くのだろうけれど。
『 楽しくて苦しくてドキドキしたのは…たぶん、恋していたからだと思います。こんなに苦しいものだなんて知らなかったけど。 ごめんなさい。千秋楽、今度こそ目的を忘れずに見に来ます。』
短く、脈絡のない文章だ。まるで手紙のようですらある。
「…確かに、可愛い文章だ。誰かに宛てた…ラブレターにも見える、ような」
「えぇ、私もそう思いました。千秋楽に来ることも、約束してあったかのようで」
藍沢の思考に一瞬モヤがかかった。
忘れてなどいない。思い出せないはずもない。その答えにたどり着くことを、自ら拒んだのだ。
「まだ暫く時間がかかりますね?お茶を持って来ましょう」
「あ、いえ、そんなお構いなく…」
「構わせてください、今日は特別…気分が良いのです」
その言葉通り、足取りの軽い灰羽の、その理由は問いかけるまでもなかった。
「灰羽さん、何か知ってるな…?全く、してやられたらしいね。君も、俺も…」
藍沢は部屋に一人になると、背もたれに寄りかかり呟いた。
この文章を書いたのは、藍沢の良く知る学生の彼。知的だと思っていた彼の、見た目通りに愛らしい一面が、紙の中に記されている。
さて、どうしたものか…じいと文字を見下ろしていると、トンッと軽くドアが叩かれた。
「あ、良かった。なかなかいらっしゃらないから、疲れて眠ってしまわれたのかと…?藍沢さん、どうかしたんですか?」
顔を覗かせ部屋に戻って来た白椋が、不思議そうに藍沢の顔を覗き込む。
藍沢はゆっくりと姿勢を正し、隠すように用紙の束からそれを抜き取り折りたたんだ。
「…ラブレターをもらったんだ」
「わあ!素敵ですね!どんな方からなんですか?」
「そうだな…。笑顔が可愛くて、頑張っている姿が素敵で、リアクションが大きいところはユニークで…癒し系、かな」
白椋はうんうんと頷き、大きな瞳を輝かせている。
そんな無邪気な姿は、彼と重なる部分があった。同じく大学生で、纏うオーラは恐らく白椋と同じ類だろう。
決して白椋を甘やかせ、弟のように連れまわし可愛がりたい…とは思わないけれど。
「元気のない姿を見た時、この子を脅かすモノを俺の手で排除してやりたいと思ったんだ、けど…まさか俺が原因だったなんてな」
「えっと…喧嘩してしまったんですか?それなら仲直りしないと駄目ですよ?」
喧嘩ではないはずだが、藍沢は小刻みに数回頷いた。
彼の気持ちを聞き、向き合って話さなければならない。その状況はどちらにせよ同じだ。
「…有難う」
藍沢はそう呟くと、白椋の為に隣の椅子を引いた。
何となく、灰羽ならお茶を三つ用意してくるような、そんな気がして。
案の定、お盆片手に戻って来た灰羽は、「そろそろ痺れを切らす頃かと思いまして」と白椋にとジュースを差し出した。
(第八話・終)
追加日:2018/10/0
スタッフとして訪れる最後の日。
初めて来た時と同じような緊張感の中、咲哉はスタッフルームへと案内された。
掃除用具やら備品を保管する部屋とは別の、デスクワークをするための部屋だ。
機密情報のなんたるかを再度説明された後、書類へとサインする。
たったのそれだけ。これで、この劇場との特別な関係も、白紙に戻ったのだ。
「寂しそうですね」
正面に腰かけていた劇団ジェネシスの灰羽拓真がぽつりと呟く。
咲哉は伸ばしっぱなしだった背中を少し丸め、はっきりと頷いた。
「この大好きな劇場のスタッフとして置かせてもらって、皆さんにお話しを聞く機会までいただいて…俺、世界一幸せな学生です」
「何か得られましたか?」
「はい。語りつくせないくらい…いっぱいもらいました」
顔馴染みになった役者やスタッフの方々。普通なら入れないスタッフルーム、朝早い時間の劇場。
全て、この経験があって、初めて知ることが出来たものだ。
「それに、とっても優しくしてもらって…特に、藍沢さんには…感謝してもしきれなくて」
「えぇ、それは良い縁でしたね」
灰羽も咲哉と藍沢の関係をどことなく知っているのだろう。
感慨深そうに呟くと、テーブルに置いた両手を絡め、それを口元へ寄せた。
何気なく色気のにじみ出る仕草に、咲哉は思わず目を奪われる。その視線に気付いたのか、灰羽はふっと息を吐いて笑うと「ところで」と口を開いた。
「いっぱいついでに、最後にもう一つ、雑用を頼まれてもらえますか?」
「え…あ、はい!もちろん何でもやります!」
灰羽は咲哉の元気溢れる返事に、良かったと目尻を下げた。
すっと姿勢よく立ち上がり、傍に置かれていた紙の束を手に抱える。
「この劇場で行った公演のアンケートなのですが…集計が終わっていないんです」
灰羽はそのアンケート用紙と作業用のPCを咲哉の前に下ろした。
カチカチと灰羽がマウスを操作すると、馴染みある表計算アプリが画面いっぱいに開かれる。
「使い方は分かりますか?」
「はっ、はい!大丈夫です!学校でも使っているので…!」
灰羽は咲哉の返事にクスとほほ笑むと、お手本にと一番上の用紙を写し始めた。
「選択形式のものはカウントを追加して…コメント欄は必要がありそうなら書き写してください」
「ひ、必要かどうかの判断基準は…」
「劇場や劇団への意見か否か、ですかね」
咲哉はその曖昧さに眉を寄せ、灰羽の手にある用紙のコメント欄に目を移した。
そこに書かれているのは舞台の総合評価のようなものだった。脚本、役者の演技、全体を通した感想等。
「たまにファンレターのように使用する方もいるんです。そういうのは、後で個別に役者へ渡しますので」
「じゃあ、そういうものは、仕分けておきますね」
「えぇ。そうしていただけると助かります」
灰羽はエンターキーをかつんと押すと、上体を起こして元いた席へと戻っていく。
咲哉は灰羽が椅子に座るまでを見送り、自分も椅子に座り直してPCに向かった。
ぺらと紙を一枚捲り、指示された通りに作業を進めていく。
無難な作業だ。しかし時折迷うようなコメントに、咲哉は眉間のシワを深くして手を止める。
そういうのは後回しで、と紙を避け、次の紙に目を通す。
「…ジェネシスの方々も、こういうアンケートのコメントに目を通されるんですか?」
「えぇ、基本的には」
灰羽は少しだけ表情を曇らせ、ふっと息を吐いた。
「残念ながら朱道くんは面倒くさがって、黒木くんは必要ないと言って見ない事が多いんですよ」
「ふふ、ちょっと想像できました」
「白椋くんと藍沢くんはむしろ積極的に見てくれるのですが…」
困ったものです、と首を横に振りながらも、灰羽の表情は随分と穏やかだ。
咲哉は思わず笑みを浮かべつつ、改めて画面に向き合った。
アンケートを手に取り、優しく微笑む藍沢の姿が脳裏に見える。誰にでも優しい、咲哉のよく知る藍沢の姿だ。
「…藍沢くんを、ここに呼びましょうか?」
「え…」
「今なら時間が取れると思いますよ。君も、私より藍沢くんがいてくれた方が居心地が良いでしょう」
咲哉は自身の思考を読み取られたかと錯覚し、カッと顔を赤く染めた。
それからぶんぶんと小刻みに首を振り、意味もなくアンケート用紙を凝視する。
劇場スタッフへの意見、舞台への感想、役者への称賛の声。
「これからは…俺もこっち側の人間に戻るんだから、もう、甘えたことはしません」
「貴方は、甘えていたんですか?」
「…きっと無意識に。藍沢さんが優しくて、甘えてたんだと思います」
灰羽は小さく肩をすくめ、自身の作業へと移り、咲哉もまた、それ以上は何も言わずに黙々と作業を進めた。
一枚、一枚、紙の山は小さくなっていく。
残された時間はあっという間に費やされ、咲哉はその後スタッフルームへやって来た事務の人に見送られて退出した。
次に咲哉がアートシアターつばさを訪ねたのは、数週間後、観客として。
初日から中日まで一気に走り抜けた劇団ジェネシスの公演の客席で、咲哉は生気の抜けたように座ったまま動けずにいた。
帰る準備を始める人々と、感動に浸る人々、感動を共有し合う友人達。
それを傍目に咲哉は一人、握り締めた手に力を込める。
目が気づけば勝手に藍沢湧太郎を追いかけて、彼がメインでないシーンでも3回…いや、少なくとも4、5回は注視していた。
藍沢湧太郎をだ。彼の演じる登場人物ではなく、彼自身を目に焼き付けた。
「…、なんて、ことを…」
咲哉は宿った熱と冷めない興奮を押し殺し、足元に置いた鞄を掴んだ。
その見方自体が悪いわけではない。ファンとしてそういう楽しみ方もあるだろう。
「こんなんじゃ、書けない…」
研究者としての考察も、感想も、何もかも。
咲哉は受付で配られた広告の束を取り出し、一番上に重ねられたアンケート用紙を指で撫でた。
咲哉の震える手が、勝手に思いを書き綴ろうとする。脳裏に浮かんだのは、先日聴いた灰羽の言葉。
見てくれるかも、いや見られなくてもいい。
気付いてくれなくてもいい。
咲哉は不安定な足の上で、必死にペンを走らせた。
・・・
公演を終えた役者は、休む間もなくミーティングルームへと集まる。
その日の反省点と、改善点と良点…これらはすぐに確認しなければ意味がないからだ。
とはいえ、ようやく迎えた中日。疲労の蓄積も考慮され、普段より少し早めに切り上げられると、すぐさま数人が席を立った。
「先に失礼する」
「稽古室、借りるぜ」
「あっ、僕も!ダンスの確認を…藍沢さん、後でお時間いただいても、いいですか?」
次の仕事がある黒木とは慌ただしく鞄を肩にかける。
早速動きを確認したい朱道は稽古室へと、その後ろには白椋が続く。
藍沢は「分かった、後で行くよ」と快く返し、テーブルの上に置かれた紙の束を手に取った。
「律儀ですね。それに目を通しますか」
「えぇ。これだって、もうスタッフさんの手で振り分けられているんですよね。多方の想いを、無下にはできませんから」
「…さすがです」
観客の退出時に集められるアンケート用紙は、スタッフが役者のモチベーションを下げないよう厳選する。
その日の公演のものをその日のうちにという、迅速なスタッフの対応を知っているからこそ、藍沢は真剣な顔付きでそれと向かい合った。
「嬉しいものですね。…実は今日の分、私も手伝ったんですよ」
「えっ、それはまた、どうして」
「たまには…目に留まらず処分される声も、見ておきたいと思いまして」
灰羽のどこか弾んだ声色に、藍沢の表情も綻ぶ。
合理的に物事を考える人だと思っていたが、なるほど、感情的な人間らしい部分もあったのだ。
朗らかな気持ちで、藍沢の手がぺらと紙を捲る。それを数十回繰り返したところで、藍沢の手がピタリと止まった。
『夢のような時間でした。まるで自分がそこにいるかのように、感情が溢れ出して、涙が止まらなくなりました。』
揺れる字で書かれたのは、どこか子供じみた感想。
いつもなら切り捨てられるだろう文句の綴られたそれに、藍沢はチラと灰羽を一瞥した。
「ふ、気付いてしまいましたか?可愛らしい文章だったので、思わず貰ってきてしまったものがあるんです」
「あぁ、やっぱり。見たことのないタイプのものがあると思いました」
「書いたのはきっと学生さんでしょうね」
学生というワードから連想されたのは、一人の友人。
とはいえ、もしあの子なら、もっと理知的で理論的な意見を書くのだろうけれど。
『 楽しくて苦しくてドキドキしたのは…たぶん、恋していたからだと思います。こんなに苦しいものだなんて知らなかったけど。 ごめんなさい。千秋楽、今度こそ目的を忘れずに見に来ます。』
短く、脈絡のない文章だ。まるで手紙のようですらある。
「…確かに、可愛い文章だ。誰かに宛てた…ラブレターにも見える、ような」
「えぇ、私もそう思いました。千秋楽に来ることも、約束してあったかのようで」
藍沢の思考に一瞬モヤがかかった。
忘れてなどいない。思い出せないはずもない。その答えにたどり着くことを、自ら拒んだのだ。
「まだ暫く時間がかかりますね?お茶を持って来ましょう」
「あ、いえ、そんなお構いなく…」
「構わせてください、今日は特別…気分が良いのです」
その言葉通り、足取りの軽い灰羽の、その理由は問いかけるまでもなかった。
「灰羽さん、何か知ってるな…?全く、してやられたらしいね。君も、俺も…」
藍沢は部屋に一人になると、背もたれに寄りかかり呟いた。
この文章を書いたのは、藍沢の良く知る学生の彼。知的だと思っていた彼の、見た目通りに愛らしい一面が、紙の中に記されている。
さて、どうしたものか…じいと文字を見下ろしていると、トンッと軽くドアが叩かれた。
「あ、良かった。なかなかいらっしゃらないから、疲れて眠ってしまわれたのかと…?藍沢さん、どうかしたんですか?」
顔を覗かせ部屋に戻って来た白椋が、不思議そうに藍沢の顔を覗き込む。
藍沢はゆっくりと姿勢を正し、隠すように用紙の束からそれを抜き取り折りたたんだ。
「…ラブレターをもらったんだ」
「わあ!素敵ですね!どんな方からなんですか?」
「そうだな…。笑顔が可愛くて、頑張っている姿が素敵で、リアクションが大きいところはユニークで…癒し系、かな」
白椋はうんうんと頷き、大きな瞳を輝かせている。
そんな無邪気な姿は、彼と重なる部分があった。同じく大学生で、纏うオーラは恐らく白椋と同じ類だろう。
決して白椋を甘やかせ、弟のように連れまわし可愛がりたい…とは思わないけれど。
「元気のない姿を見た時、この子を脅かすモノを俺の手で排除してやりたいと思ったんだ、けど…まさか俺が原因だったなんてな」
「えっと…喧嘩してしまったんですか?それなら仲直りしないと駄目ですよ?」
喧嘩ではないはずだが、藍沢は小刻みに数回頷いた。
彼の気持ちを聞き、向き合って話さなければならない。その状況はどちらにせよ同じだ。
「…有難う」
藍沢はそう呟くと、白椋の為に隣の椅子を引いた。
何となく、灰羽ならお茶を三つ用意してくるような、そんな気がして。
案の定、お盆片手に戻って来た灰羽は、「そろそろ痺れを切らす頃かと思いまして」と白椋にとジュースを差し出した。
(第八話・終)
追加日:2018/10/0