藍沢湧太郎(夢色キャスト)
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6.恋心
朝の爽やかな空気を浴びながら、厳かな雰囲気を放つ劇場へ足を運ぶ。
劇団ジェネシスのために造られたと言っても過言ではないだろう。大人な雰囲気、落ち着いた色合い。大体的な公演はこのアートシアターつばさを使うし、打ち合わせも稽古もここで行っている。
いい劇場だ。毎日来たって足を止めて目を見張る。
「…今日も来ていないか」
いつも通りロビーで足を止めた藍沢は、辺りを見渡して言葉を零した。
ある日からほぼ毎日のように見た姿は、既に数日間見ていない。
大学もあるし、他の用事だってあるだろう。しかし次第に「何かあったんじゃないか」という不安が藍沢を襲った。
「君…藍沢くん」
「あぁ、教授。おはようございます」
一度背筋を伸ばし、小さく頭を下げる。
その綺麗な姿勢に感嘆の溜め息を吐いた初老の男性は、藍沢へとゆったりとした足取りで近付いた。
「彼、良い子だろう?」
「えぇ…真面目で勉強熱心で、うちの弟にも見習わせたいくらいですよ」
「協力してくれたそうだね。今夢中で文章をまとめているよ」
「お力添えできて光栄です」
教授は自身の孫の事でも話すように声色を弾ませ、最後に「今後も宜しく」と頭を下げた。
それに合わせて腰を折り、その小さな背中を見送る。
彼を推薦したのはあの教授だ。
日本のミュージカルや音楽を専門に研究し、執筆した本は数十冊。
自分と同じ道に進もうとする生徒は可愛くて仕方ないだろう。まして、あれほど熱心で、愛らしいのだから尚更。
「そうか…卒論捗ってるんだな」
力になれたようで良かった。
そう思うのと同時に少し寂しい気持ちになるのは、この劇場にあまり馴染まない爽やかな青年の笑顔に癒されていたからだ。
次はいつ来るのか。そもそも次があるのか。
「卒論を終えたら彼は…」
「よう、湧。何してんだ」
「あぁ…ちょっと、ね」
入れ替わるように後ろから近付いてきた朱道岳は、ぽんと藍沢の背を叩きながら彼の視線の先を追った。
何の変哲もない床と、綺麗に磨かれたカウンターがある。
しかし藍沢の目には、彼の青年が見えている。
「随分気に掛けるじゃねぇか、あのガキのことだろ」
「あ、はは、バレたか。本当に良い子だからね、急に来なくなったら気になるに決まってるだろ」
「…研究が終わるまでだろ。優しくしてやったって、酷だと思うがな」
顔を険しくして言う朱道の理解しがたい発言に、藍沢は小さく首を傾けた。
年若き青年に優しく接して何がいけないというのか。
「別に研究が終わるまで、なんて区切る必要はないだろ。俺はそれだけで終わる気はない」
「は?なんでだよ」
「仲良くしてるんだ。当たり前だろ?」
肩をすくめた藍沢は、とんと朱道の肩に手を置いた。
上から目線というよりは、兄のような優しい目を向けられ、朱道は「ガキ扱いすんな」と藍沢の手を弾いた。
それでも藍沢は顔色を変える事無く、堂々と稽古室へと歩き始める。
「…それが酷だって言ってんだろうが」
朱道の小言は、藍沢の耳に届かなかった。
・・・
大学のコンピュータ室に一日居座っていた咲哉は、絶えず動かしていた指をピタと止めた。
お腹が空いてきたし、目もチカチカと白んでPCの画面を映す。
一区切り!ちょっと休憩にしよう。
咲哉は腕を伸ばし、大きく欠伸をしてから壁に掛けられた時計に目を向けた。
もう日が暮れる。ジェネシスの稽古や打ち合わせは、何時まで行われるのだろう。
「だ、ダメダメ…迷惑かけないって、決めたんだから…」
咲哉はぶんっと首を横に振り、気が抜けると考えてしまうジェネシスの事を吹き飛ばした。
先日、朱道岳から聞かされたのは、藍沢湧太郎との関係を築くための最初の契機。
藍沢があんなにも優しかったのは、教授がそう頼んでいたからだったのだ。
「…もう」
これ以上、甘えるわけには行かない。
咲哉は自分にそう言い聞かせ、この数日学校に入り浸った。
忙しく頭を使っていれば忘れられるから。
暫くぼうっとしていた咲哉は、ブーッと鞄の中で鳴った携帯に驚き覚醒した。
慌てて鞄から取り出したそれには、電話の発信者が書かれている。
『 藍沢湧太郎 』と。
「っえ、も、もしもし!?」
『お疲れ様。出てくれて良かった』
画面に表示されていた通り、耳に入ってきたのは彼の穏やかな声だった。
咲哉は自身の裏返った声を気にする余裕もなく、ただ藍沢の声に意識を向けていた。
どうして、なんで。気を遣わせてしまった。…でも嬉しい。
『今どこにいる?』
「え、お、俺ですか?お、俺は今、大学ですけど…」
『ああ、良かった。この後って忙しい?』
「え…い、いえ、丁度今帰るところで…」
決して帰る予定はなかったが、だからといって予定があるわけでもない。
とはいえ咄嗟に返してしまった答えに、咲哉はドキドキと勝手に胸を高鳴らせた。
何か、何か誘われてしまうんじゃないだろうか。最近避けるように劇場に行かなかったから。
『実は今、大学の正門にいるんだ。俺も休憩時間だから、一緒にお茶でもと思って』
「…え!?」
咲哉は思わず大きく出てしまった声を慌てて掌で押さえた。
チラと窓の外を見るが、正門は確認出来ない。
正門にあの藍沢湧太郎が立っていたらどうなる。まさか大騒ぎに、撮影とかされちゃったりして。
「い、いい、今行きます!」
『OKってことかな?はは、待ってるよ。慌てなくていいからね』
そうは言われても、咲哉は通話が切れると同時に、慌てて自分の荷物をまとめ始めた。
本当は暫く会わないようにしようと思っていたのだ。
藍沢に迷惑をかけないように、依存してしまわないように。
けれど藍沢がそこにいるのなら話は別だ。
ばたばたと階段を駆け下り、校舎の外に出てからも走る。
「…ッ、あ…、」
正門に見えるのは、到底一般人には見えないオーラを放った人。
走った事が理由じゃない胸の異様な高鳴りに、咲哉はハッと息を吐いた。
「藍沢さん…!」
少しの間会わなかっただけなのに、目に映るその人が以前より輝いて見える。
少女コミックだったなら見開きで花が散っている絵面だ。咲哉の目と、そして遠巻きに彼を見る女性達にもそう見えていただろう。
そんな藍沢が手を振るものだから、咲哉の気持ちはさながらマンガの主人公、彼の元へ全速力で駆け寄った。
「こら、急がなくて大丈夫って言っただろ」
「そんな…っ、藍沢さんを、お待たせ、するわけには…」
「全く、可愛いな君は。お疲れ様」
ぽんぽんと背中を撫でるのは、藍沢の大きな掌。
それを意識した途端、カァッと胸に熱が灯った。
「ごめんね、稽古を見た日から来なくなったから…何か不快な思いをさせてしまったんじゃないかって、それも心配で」
「それはむしろ…藍沢さんの方じゃ…」
「え?」
ボソと零れてしまった本音は藍沢に届かなかったらしい。
咲哉は慌てて首を振り、苦しい思いを飲み込んだ。
…藍沢さんは教授に頼まれたから、世話を焼いてくれている。
甘えては駄目、調子に乗っても駄目だ。
「あの稽古のあと、益々書きたい事が増えたんです。今絶好調で!」
「…そうか、それなら良かった」
その咲哉の決意を揺るがすのは、藍沢のどこか寂しそうな顔。
目と口元は微笑んでいるのに八の字に下がった眉、整った容姿が生み出すのはシリアスなワンシーンだ。
「たまに息抜きで来てくれても良いんだよ。君のことは、スタッフの皆も認めているしね」
「…そんな」
「俺も、君がいないと寂しいから」
藍沢は咲哉の手を掴み取った。
その手を顔の前に持ち上げ、咲哉に見せつけ「ね」と微笑む。
まるであの日、共に散歩した奇跡の再演。藍沢は躊躇うことなく、咲哉の手を掴んだまま歩き出した。
「学校の近くだと迷惑になると思って、車を向こうに停めて来たんだ。少し歩くけど良い?」
「あ、え、あ…それは、もちろん大丈夫です、けど…」
決して自意識過剰ではなく、周りからの視線を感じる。
勿論視線を集めているのは藍沢で間違いないが、そんな目立つ体格の彼に手を引かれる咲哉もまた好奇の視線を集めている。
モデルかな?俳優かな?ジェネシスの人じゃない?どういう関係?何学部の人?囁く声が次第に増えていく。
「…藍沢さん、目立っちゃってますよ…!?」
「はは、さすがに大学生には見えないよな」
「いえ、そういう理由ではないと思います…っていうかその、手…っ」
ザ・日本人の並み体型である咲哉が藍沢に手を引かれる様は、もしかしたら大人と子供に見えるかもしれない。
しかし咲哉の手はじんわりと汗ばみ、一歩進む度に胸がどくんと鳴った。
体がおかしい、顔が熱く、動悸が激しくなっていく。
「あ、あああの、藍沢さん…!こういうの、あまり、その…俺、」
「恥ずかしい?ごめんね、でも俺はこうして歩くの楽しいよ」
振り返る藍沢の笑顔に、咲哉は心臓を射抜かれるような錯覚に陥った。
駄目だ、胸が鳴る。こんなの、まるで本で読んだ恋だ。
彼を見ると嬉しくて、胸が煩くなって、顔が熱くて、呼吸ができなくなる。
「車まで、このままでもいい?」
握る手が離れるのを拒むかのように、きゅっと強く結ばれた。
更に高鳴る胸と上昇する体温が答えが明白にしていく。
これは、この感情は、きっと恋だ。自分は藍沢湧太郎に恋をしているのだ。
「俺も…俺も、楽しいです、すごく嬉しくて…」
心が浮ついて、言葉もまともに話せなくなる。彼を思えば思うほど温かい気持ちになるのに、次第に苦しい程熱くなっていく。
これが、喉から手が出るほど感じたかったものだ。
「藍沢さんとこうして歩くの、好きです…!」
「はは、俺もだよ。もう一人、弟が出来たみたいだ」
手を握り、歩幅を合わせる。
藍沢の笑顔はあまりにも眩しく、爽やかに咲哉の心を貫いた。
「これからもずっと、友人でありたいと思ってるよ。咲哉君の卒論が終わってもね」
だから宜しくね、と。君も気軽に連絡してね、と。
たくさん投げかけられた優しい言葉は、ほとんど耳に入っていなかった。
自覚し始めた恋心が、ガラガラと崩れ落ちていく。
「はは、おかしいかな。こんな風に会いに来たりして」
「…い、いいえ、すごく嬉しいです、その…卒論も、出来上がったら一番にお見せしますね」
「有難う、咲哉くん」
男同士で年齢も離れていて、住んでいる世界も違う。友人と認められただけでも素晴らしいことだ。
それでも心の内に残る哀しさはなくならない。
決して死ぬほどではないが、今の笑顔が偽りである事は間違いなかった。
家に帰って、一人で泣こう。
咲哉は藍沢の手をきつく握り返した。
(第六話・終)
追加日:2018/08/05
朝の爽やかな空気を浴びながら、厳かな雰囲気を放つ劇場へ足を運ぶ。
劇団ジェネシスのために造られたと言っても過言ではないだろう。大人な雰囲気、落ち着いた色合い。大体的な公演はこのアートシアターつばさを使うし、打ち合わせも稽古もここで行っている。
いい劇場だ。毎日来たって足を止めて目を見張る。
「…今日も来ていないか」
いつも通りロビーで足を止めた藍沢は、辺りを見渡して言葉を零した。
ある日からほぼ毎日のように見た姿は、既に数日間見ていない。
大学もあるし、他の用事だってあるだろう。しかし次第に「何かあったんじゃないか」という不安が藍沢を襲った。
「君…藍沢くん」
「あぁ、教授。おはようございます」
一度背筋を伸ばし、小さく頭を下げる。
その綺麗な姿勢に感嘆の溜め息を吐いた初老の男性は、藍沢へとゆったりとした足取りで近付いた。
「彼、良い子だろう?」
「えぇ…真面目で勉強熱心で、うちの弟にも見習わせたいくらいですよ」
「協力してくれたそうだね。今夢中で文章をまとめているよ」
「お力添えできて光栄です」
教授は自身の孫の事でも話すように声色を弾ませ、最後に「今後も宜しく」と頭を下げた。
それに合わせて腰を折り、その小さな背中を見送る。
彼を推薦したのはあの教授だ。
日本のミュージカルや音楽を専門に研究し、執筆した本は数十冊。
自分と同じ道に進もうとする生徒は可愛くて仕方ないだろう。まして、あれほど熱心で、愛らしいのだから尚更。
「そうか…卒論捗ってるんだな」
力になれたようで良かった。
そう思うのと同時に少し寂しい気持ちになるのは、この劇場にあまり馴染まない爽やかな青年の笑顔に癒されていたからだ。
次はいつ来るのか。そもそも次があるのか。
「卒論を終えたら彼は…」
「よう、湧。何してんだ」
「あぁ…ちょっと、ね」
入れ替わるように後ろから近付いてきた朱道岳は、ぽんと藍沢の背を叩きながら彼の視線の先を追った。
何の変哲もない床と、綺麗に磨かれたカウンターがある。
しかし藍沢の目には、彼の青年が見えている。
「随分気に掛けるじゃねぇか、あのガキのことだろ」
「あ、はは、バレたか。本当に良い子だからね、急に来なくなったら気になるに決まってるだろ」
「…研究が終わるまでだろ。優しくしてやったって、酷だと思うがな」
顔を険しくして言う朱道の理解しがたい発言に、藍沢は小さく首を傾けた。
年若き青年に優しく接して何がいけないというのか。
「別に研究が終わるまで、なんて区切る必要はないだろ。俺はそれだけで終わる気はない」
「は?なんでだよ」
「仲良くしてるんだ。当たり前だろ?」
肩をすくめた藍沢は、とんと朱道の肩に手を置いた。
上から目線というよりは、兄のような優しい目を向けられ、朱道は「ガキ扱いすんな」と藍沢の手を弾いた。
それでも藍沢は顔色を変える事無く、堂々と稽古室へと歩き始める。
「…それが酷だって言ってんだろうが」
朱道の小言は、藍沢の耳に届かなかった。
・・・
大学のコンピュータ室に一日居座っていた咲哉は、絶えず動かしていた指をピタと止めた。
お腹が空いてきたし、目もチカチカと白んでPCの画面を映す。
一区切り!ちょっと休憩にしよう。
咲哉は腕を伸ばし、大きく欠伸をしてから壁に掛けられた時計に目を向けた。
もう日が暮れる。ジェネシスの稽古や打ち合わせは、何時まで行われるのだろう。
「だ、ダメダメ…迷惑かけないって、決めたんだから…」
咲哉はぶんっと首を横に振り、気が抜けると考えてしまうジェネシスの事を吹き飛ばした。
先日、朱道岳から聞かされたのは、藍沢湧太郎との関係を築くための最初の契機。
藍沢があんなにも優しかったのは、教授がそう頼んでいたからだったのだ。
「…もう」
これ以上、甘えるわけには行かない。
咲哉は自分にそう言い聞かせ、この数日学校に入り浸った。
忙しく頭を使っていれば忘れられるから。
暫くぼうっとしていた咲哉は、ブーッと鞄の中で鳴った携帯に驚き覚醒した。
慌てて鞄から取り出したそれには、電話の発信者が書かれている。
『 藍沢湧太郎 』と。
「っえ、も、もしもし!?」
『お疲れ様。出てくれて良かった』
画面に表示されていた通り、耳に入ってきたのは彼の穏やかな声だった。
咲哉は自身の裏返った声を気にする余裕もなく、ただ藍沢の声に意識を向けていた。
どうして、なんで。気を遣わせてしまった。…でも嬉しい。
『今どこにいる?』
「え、お、俺ですか?お、俺は今、大学ですけど…」
『ああ、良かった。この後って忙しい?』
「え…い、いえ、丁度今帰るところで…」
決して帰る予定はなかったが、だからといって予定があるわけでもない。
とはいえ咄嗟に返してしまった答えに、咲哉はドキドキと勝手に胸を高鳴らせた。
何か、何か誘われてしまうんじゃないだろうか。最近避けるように劇場に行かなかったから。
『実は今、大学の正門にいるんだ。俺も休憩時間だから、一緒にお茶でもと思って』
「…え!?」
咲哉は思わず大きく出てしまった声を慌てて掌で押さえた。
チラと窓の外を見るが、正門は確認出来ない。
正門にあの藍沢湧太郎が立っていたらどうなる。まさか大騒ぎに、撮影とかされちゃったりして。
「い、いい、今行きます!」
『OKってことかな?はは、待ってるよ。慌てなくていいからね』
そうは言われても、咲哉は通話が切れると同時に、慌てて自分の荷物をまとめ始めた。
本当は暫く会わないようにしようと思っていたのだ。
藍沢に迷惑をかけないように、依存してしまわないように。
けれど藍沢がそこにいるのなら話は別だ。
ばたばたと階段を駆け下り、校舎の外に出てからも走る。
「…ッ、あ…、」
正門に見えるのは、到底一般人には見えないオーラを放った人。
走った事が理由じゃない胸の異様な高鳴りに、咲哉はハッと息を吐いた。
「藍沢さん…!」
少しの間会わなかっただけなのに、目に映るその人が以前より輝いて見える。
少女コミックだったなら見開きで花が散っている絵面だ。咲哉の目と、そして遠巻きに彼を見る女性達にもそう見えていただろう。
そんな藍沢が手を振るものだから、咲哉の気持ちはさながらマンガの主人公、彼の元へ全速力で駆け寄った。
「こら、急がなくて大丈夫って言っただろ」
「そんな…っ、藍沢さんを、お待たせ、するわけには…」
「全く、可愛いな君は。お疲れ様」
ぽんぽんと背中を撫でるのは、藍沢の大きな掌。
それを意識した途端、カァッと胸に熱が灯った。
「ごめんね、稽古を見た日から来なくなったから…何か不快な思いをさせてしまったんじゃないかって、それも心配で」
「それはむしろ…藍沢さんの方じゃ…」
「え?」
ボソと零れてしまった本音は藍沢に届かなかったらしい。
咲哉は慌てて首を振り、苦しい思いを飲み込んだ。
…藍沢さんは教授に頼まれたから、世話を焼いてくれている。
甘えては駄目、調子に乗っても駄目だ。
「あの稽古のあと、益々書きたい事が増えたんです。今絶好調で!」
「…そうか、それなら良かった」
その咲哉の決意を揺るがすのは、藍沢のどこか寂しそうな顔。
目と口元は微笑んでいるのに八の字に下がった眉、整った容姿が生み出すのはシリアスなワンシーンだ。
「たまに息抜きで来てくれても良いんだよ。君のことは、スタッフの皆も認めているしね」
「…そんな」
「俺も、君がいないと寂しいから」
藍沢は咲哉の手を掴み取った。
その手を顔の前に持ち上げ、咲哉に見せつけ「ね」と微笑む。
まるであの日、共に散歩した奇跡の再演。藍沢は躊躇うことなく、咲哉の手を掴んだまま歩き出した。
「学校の近くだと迷惑になると思って、車を向こうに停めて来たんだ。少し歩くけど良い?」
「あ、え、あ…それは、もちろん大丈夫です、けど…」
決して自意識過剰ではなく、周りからの視線を感じる。
勿論視線を集めているのは藍沢で間違いないが、そんな目立つ体格の彼に手を引かれる咲哉もまた好奇の視線を集めている。
モデルかな?俳優かな?ジェネシスの人じゃない?どういう関係?何学部の人?囁く声が次第に増えていく。
「…藍沢さん、目立っちゃってますよ…!?」
「はは、さすがに大学生には見えないよな」
「いえ、そういう理由ではないと思います…っていうかその、手…っ」
ザ・日本人の並み体型である咲哉が藍沢に手を引かれる様は、もしかしたら大人と子供に見えるかもしれない。
しかし咲哉の手はじんわりと汗ばみ、一歩進む度に胸がどくんと鳴った。
体がおかしい、顔が熱く、動悸が激しくなっていく。
「あ、あああの、藍沢さん…!こういうの、あまり、その…俺、」
「恥ずかしい?ごめんね、でも俺はこうして歩くの楽しいよ」
振り返る藍沢の笑顔に、咲哉は心臓を射抜かれるような錯覚に陥った。
駄目だ、胸が鳴る。こんなの、まるで本で読んだ恋だ。
彼を見ると嬉しくて、胸が煩くなって、顔が熱くて、呼吸ができなくなる。
「車まで、このままでもいい?」
握る手が離れるのを拒むかのように、きゅっと強く結ばれた。
更に高鳴る胸と上昇する体温が答えが明白にしていく。
これは、この感情は、きっと恋だ。自分は藍沢湧太郎に恋をしているのだ。
「俺も…俺も、楽しいです、すごく嬉しくて…」
心が浮ついて、言葉もまともに話せなくなる。彼を思えば思うほど温かい気持ちになるのに、次第に苦しい程熱くなっていく。
これが、喉から手が出るほど感じたかったものだ。
「藍沢さんとこうして歩くの、好きです…!」
「はは、俺もだよ。もう一人、弟が出来たみたいだ」
手を握り、歩幅を合わせる。
藍沢の笑顔はあまりにも眩しく、爽やかに咲哉の心を貫いた。
「これからもずっと、友人でありたいと思ってるよ。咲哉君の卒論が終わってもね」
だから宜しくね、と。君も気軽に連絡してね、と。
たくさん投げかけられた優しい言葉は、ほとんど耳に入っていなかった。
自覚し始めた恋心が、ガラガラと崩れ落ちていく。
「はは、おかしいかな。こんな風に会いに来たりして」
「…い、いいえ、すごく嬉しいです、その…卒論も、出来上がったら一番にお見せしますね」
「有難う、咲哉くん」
男同士で年齢も離れていて、住んでいる世界も違う。友人と認められただけでも素晴らしいことだ。
それでも心の内に残る哀しさはなくならない。
決して死ぬほどではないが、今の笑顔が偽りである事は間違いなかった。
家に帰って、一人で泣こう。
咲哉は藍沢の手をきつく握り返した。
(第六話・終)
追加日:2018/08/05