黄瀬と美術室の先輩(黒バス)
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1.美術室にいる噂の青年
夏の大会が終わり、冬の大会を迎える準備をし始めた頃。
ふんふんと周りに聞こえない程度の鼻歌を奏でながら、青年は部室のドアを開いて制服を脱ぎ捨てた。
初めから下に着込んでいた練習着と、動きやすいハーフパンツに履き替え、部活前の最後の携帯チェックに取り掛かるべく鞄を漁る。
内ポケット、外ポケットと確認し、鞄を大きく広げて覗き込む。そこまでしたところで、青年はハッと息を呑んだ。
「しまった」
ゆっくりと顔を上げて、特に理由もなくそこにいた先輩を見上げる。
揺れた明るい黄色の髪に、その先輩は眉を寄せて後輩を見下ろした。
「なんだ、黄瀬、どうした?」
「携帯、美術室に忘れてきたっぽいっス…」
海常高校、バスケ部1年の黄瀬涼太は、自分の行動を顧みて、心底面倒そうに眉を寄せた。
HRではバッグにしまったものと思って手に取っていない。
最後の授業は美術室だった。
そして、確かにそこで、こっそりと机の下に手をやって携帯を見ていたという記憶は鮮明だ。
「おいおい、よりにもよって美術室に置いてきたのか」
そんな黄瀬の頭上から、そんな言葉をかけたのは、先輩である森山だった。
妙に不穏な台詞だ。
黄瀬はぱっと顔を上げ、「へ?」と間の抜けた声を出した。
「え、な、なんスかその、よりにもよってって」
「美術室の噂、知らないのか?」
「び、美術室の噂…?」
ぞわと背筋が凍る。
この海常高校で、まだ七不思議的な噂は聞いたことがない。
あまり聞いてしまいたくないが、ごくりと唾を呑んで森山を凝視する。
像が動き出すとか、話し出すとか、それとも絵画が…?
「放課後はある男が占拠しているんだ」
「へ?」
果てしない想像を繰り広げていた黄瀬は、続いた言葉にぽかんと口を開いた。
「ある男?生徒っスか?」
「ああ」
「なぁんだ、怖い話かと思ったじゃないっスかもー!」
ほっと胸を撫で下ろし、自分の手を胸に重ねる。
そりゃ生徒の一人いてもおかしくない、そもそも美術部とかが使ってるんじゃないのか。
黄瀬はすぐに携帯を救出に行こうと、立ち上がり足を一歩踏み出した。
「それがな、男好きだって話だ」
「…え?」
「目を合わせたら最後、服引っぺがされて、食われるってなもんだ」
「はああ!?」
森山の低い声が、絶妙な間で煽ってくる。
男が好きって、つまり、オカマってことだろうか。
「ま、気を付けて行って来いよ」
「……い、行って、来るっス」
半信半疑だ、しかしそれが本当なら、もしかして幽霊よりもホラーなんじゃないか。
黄瀬はボスダンジョンに挑む勇者のような面持ちで、今来たばかりの部室を後にした。
いや、有り得ないっしょ、そんなバカみたいな話。
決して自分に言い聞かせているわけではない。だって実際有り得ないじゃないか。
廊下を抜けて、階段を上がって、廊下の一番奥にある教室の大きなドアの前で足を止める。
いや別に、森山先輩の言葉を信じて躊躇っているわけじゃない。
「し、失礼しまーす…」
からからと扉を横に動かして、隙間から中を覗き見る。
静かだ、もしかして誰もいないー…?
という期待は、美術室の奥に目を向けた時点で打ち砕かれた。
「…どうぞ」
大きな木製の机の上で、膝を立てている男子生徒がいる。
行儀が悪い。という突っ込みは思いつかなかった。
何せ、黄瀬の視界に映るその男子生徒、ワイシャツが肌蹴ている。
前のボタンを全部外し、白い肌を覗かせている。まさにそれは、“何か”あった後みたいな。
「で、出た…!!」
「は?」
思わず声を上げて、黄瀬は勢いのままドアをばたんと閉めていた。
美術室のドアに背を向けて、長く続く廊下に目を向ける。
現実だ、これはまさしく現実で、この場には妙な男と自分しかいない。
想像したような派手なオカマではなかったが、男の纏う妙な色気が、森山の言っていた内容に重なる。
森山は男が好きな男としか言っていない。
つまり、あれは、ホモとかゲイとか言う…。
「いや、そうだ、携帯…」
しかしこのまま逃げ帰るわけにもいかない。
携帯は必需品だ、このままここにあると分かっていて逃げ帰るなんてそんなことは。
「おいこら」
「ヒッ!!」
がらっと背後で音が鳴り、黄瀬は美術室に体を向けて飛び退いた。
いつの間に背後に迫っていたのか、美術室の扉を開け放った男はじっと黄瀬を見つめている。
相変わらず服は完全に肌蹴て、黒髪眼鏡の真面目そうかつ貧弱そうな見た目とは裏腹に、そこそこ筋肉がついた体が晒されていた。
「何か用あったんだろ、何?」
「あ…その、け、携帯を、どっかに」
「携帯?探せば?」
黄瀬の緊張とは裏腹に、男は何気ない面持ちで「ほら」と顎を動かす。
黄瀬より低い位置にある頭。
とはいえ黄瀬の身長から考えれば、平均か、それより少し大きいくらいだろう。
ぼんやりと、この男に襲われる可能性を考えてみる。
体の大きさも、筋肉量も、何もかも黄瀬より軟弱そうだ。
「…もしかして俺の噂のこと気にしてんのか?」
「えっ!」
「わっかりやすい奴。大丈夫だよ、手ェ出したりしないから」
ほら、と男が少し避けて道を空ける。
考えていたことが見透かされ、黄瀬はごくりと唾を飲んでから美術室の中に目をやった。
そもそも森山に変な事聞いていなければ、少し服肌蹴てるくらい気にしたりしなかっただろうに。
暑いのかな、とか汚したのかな、とか。
晒された白い肌を視界に入れてしまわないように、黄瀬は男の横を通り過ぎて、自分が使用した机に向かった。
「なあ、お前…一年の黄瀬涼太だよな」
「え、あ、そっスけど」
「俺は二年、鈴木咲哉」
背後から聞こえてきた声に、警戒心からか振り返る。
眼鏡の男はぴんと伸ばした人差し指の、手入れの施されていそうな爪でカリと机の木目をなぞった。
ああ、この人先輩なんだと、そう思うのはいつものこと。
黄瀬にとってはほとんどの人間が自分より小さくて、細くて、同じ学生じゃ年上も年下も見た目に分からないから。
「一つ、頼みたいことがあるんだ」
「な、なんスか…」
「ちょっと脱いで見せて欲しいんだけど」
「……は」
黄瀬の中の時間が、その時明らかに止まった。
冗談で言っているように聞こえない、真っ直ぐに見つめてくる視線。
その視線が足先から頭の上までなぞったことに気付き、黄瀬はがたと大げさに後ずさった。
「ま、まじで言ってんスか、それ」
「まじだよ。いいだろ別に、その薄っぺらいの1枚脱ぐくらい」
机に乗せた腕に体重をかけると、その細い腰が強調される。
揺れたワイシャツの隙間から胸元が見えて、黄瀬はまた数歩後ずさり、机にとんと体をぶつけた。
「が、ガチで言ってんなら、ドン引きっスわ、アンタ…」
「先輩に対して随分な口のきき方だな」
耳から耳へ抜けて行った男の名前など、憶えてやる気もない。
あ、そういえば先輩だったんだっけ、と脳裏に過ったが、黄瀬はそのまま自分より小さい男を睨み付けた。
「別に恥ずかしいとかじゃねぇけど、アンタの前で脱ぐのだけは勘弁っス」
「…黄瀬涼太」
「何」
「これ、人質な」
酷い事を言ったのに、調子の変わらない声が不気味で。その男の落ち着いた態度が気味悪くて。
細めた目で見ていた黄瀬は、その眼鏡の男の掌に納まっている物に気付くと、体を前のめりにさせていた。
「っあ!」
「そういえば、さっき回収してたの忘れてたよ」
「てめ、返せよ!」
「口のきき方くらい何とかしろ?運動部だろ、黄瀬涼太」
男の手には、黄瀬がここに来た目的、忘れて行った携帯が握られている。
ばっと腕を伸ばしたが、男はするりとかわし、机を挟んだ向こう側で不敵に微笑んだ。
本来なら体格差もある、奪い返せないわけがない。
しかし、黄瀬は辺りを見渡して茫然とした。
大きな机が並んでいる美術室。
暴れられるスペースは当然ない上、追い掛けっこになれば机を挟んで堂々巡りだろう。
「アンタ、卑怯っスよ!つか、最初っから…オレをまんまと誘い込んだってことっスよねこれ!?」
「悪いな。どうしても見たいんだ」
「な、んなんスかもー…とんだド変態じゃないスか噂通りの…っ」
はあっと肩から脱力し、黄瀬は練習着の裾に手をかけた。
変態男の言う通りにするのは癪だが、脱ぐこと自体に抵抗はない。
部室じゃ皆堂々と着替えるし、モデルの仕事で露出が多い事も当然あるし。
「…お」
黄瀬が諦めたことに気付いた咲哉が、小さく声を漏らす。
まじまじと捕えて離さない視線に妙な羞恥を感じながら、黄瀬はそのまま豪快に練習着を脱いだ。
見られたって寸分も恥ずかしくない体だ。
「これで満足っスか?オレ、これから部活なんで、さっさとそれ返して下さいよ」
「…」
「ちょっと、聞いてんスか?」
開いたままの目が、黄瀬の腹部を見つめている。
撮影するとき、カメラマンに見られる時と少し似ているような、それよりももっと濃いような。
黄瀬が視線に耐えきれず「ちょっと」ともう一度言う、その直前に、咲哉は徐に携帯を黄瀬に差し出した。
「悪い、想像以上だった」
「は…何が」
「ありがとな」
余りにもすんなりと事が運び、黄瀬は望んでいたとはいえ唖然としたまま携帯を受けとった。
顔を上げると、既に咲哉は黄瀬に背を向けている。
「ちょっと、そんだけ?」
「ああ。もういいよ。今日は先約があるから」
「はぁ!?……最悪なんスけど」
散々振り回されて、脱いでやったってのに、たったそんだけかよ。
小さく舌を打ち、黄瀬は悪態吐きたくて仕方がない程の苛立ちを何とか呑み込んだ。
今脱いだばかりの暖かい服を頭から被り、ぴっと下に引っ張ってから髪を軽く梳く。
はあっと聞こえるくらいの溜め息を吐き出して、大股に美術室を後にする黄瀬に、男は一度だけ振り返った。
「またな」
美術室を出る直前に聞こえた声。
またなんてねーよ、言い返すのももはや煩わしく、黄瀬は何も言わずにその場を立ち去った。
・・・
HRを終えて、帰り支度の済んでいる鞄を肩にかける。
黄瀬の学校生活において一番やる気のみなぎる部活の時間。
椅子から立ったその勢いのまま、体育館に向かうための足を踏み出すのはいつものこと。
その足が教室を一歩出たその時、黄瀬はものすごい勢いで肩を掴まれていた。
「黄瀬大変だ!」
「な、ななななんスか森山先輩!!?」
その唐突さと凄みに、黄瀬は大きく鳴った胸を押さえた。
切羽詰まった様子で黄瀬の肩に掴みかかる森山は、バスケ部の先輩だ。
普段クールな顔をしている森山の、目を開き頬に汗を滲ませるような顔は割と珍しい。
「びっくりしたじゃないスかも~」
「それどころじゃない、大変なんだ…!」
「なんスか?超絶美人見つけたとか?ナンパしようとか勘弁っスよ…」
森山は顔面は整っているが、それを打ち消してしまうほどの女好きだ。
黄瀬がいるとウケが良いのだと、森山の妙な熱意に押されて街中でナンパをしかけたのは記憶に新しい。
残念なイケメンと言われて黄瀬が真っ先に想像するのは、恐らくこの先輩だろう。
「笠松が!あの男に連れていかれた!」
などと失礼なことを考えていた黄瀬の思考が停止したのは言うまでもない。
それから、森山と共通して認識している妙な男を思い出した黄瀬は、肩からズリとバッグを落とした。
「それって…まさか…」
「黄瀬、お前喧嘩売ったらしいじゃないか、もしかして…」
「お、オレのせいで、笠松先輩が拉致られ……」
笠松幸男、バスケ部の主将だ。
そして森山がいう‟あの男”に検討はついている。
「美術室行って来るっス!」
「ああ、黄瀬頼んだ!ってお前鞄、鞄!」
そこに落とした鞄など森山に任せ、黄瀬はなりふり構ってられんと駆け出した。
あまり広い廊下ではないが、HR終わって直後だったおかげか、まだ人はまだらだ。
「はぁ…っ、あれ、つか、場所聞いてねー、けど…ここでいんだよな…?」
肝心なことを聞かなかったことに気付くのは、美術室のある階に上がりきってから。
黄瀬は無意識に声と息と足音を押さえ、廊下を真っ直ぐ進んだ。
美術室に放課後現れる怪しい男。先日黄瀬に脱げだとか言ってきた変態だ。
その男に、笠松が連れていかれた。
もし自分があの男を拒否したから、嫌悪の目で見下ろしたから…笠松を人質になんてことになっていたら。
「…あんま、来たくなかったんスけど…」
ぽつりと小さく不満をこぼしてから、恐る恐ると美術室のドアに近付く。
半開きのドア、人の気配はある。
「…、は…してくれ…」
そのドアの隙間から聞こえてきた微かな声は、残念ながら笠松のもので間違いなかった。
黄瀬は思わず張り込みをする警官にでもなったかのように床に膝をつき、体を小さくしてドアに耳を寄せた。
「…そんなに、黄瀬涼太が必要なんですか」
「あぁ、まぁ、そうだ」
「俺にそれを言いに来たってことは、諦めろって言いたいわけですね」
自分の名前が聞こえてきたことに身構えた黄瀬は、見えない部屋に目を向けていた。
なんだか、妙な話に聞こえるのは気のせいだろうか。
「代わり…ってのは変だけど、なんだ、その…オレじゃ駄目か」
笠松の恥ずかしそうに潜められた声。
黄瀬は思わず吹き出しそうになったのを掌で押さえた。
な、なんだ、二人は一体どういう話をしているのだ。
「でも、笠松さん、こういうの嫌ですよね。そう思って俺…今まで声かけなかったんですけど」
「オレが我儘言ってるわけだし…そんくらいは」
「はは、律儀ですね。でも、すげ嬉しいです」
黄瀬の前とは異なる、砕けた声色。二人そろって、聞いたことのない声で言葉を交わしている。
まさか二人は既に特殊な関係なんじゃ。いや、じゃあさっきまでの会話は一体。
黄瀬はドアに手を当て、その隙間に顔を寄せた。
最近見たばかりの風景。その奥に二人のシルエット。
「悪い。やっぱり、オレじゃ不足だろ」
「そんなことないですよ。笠松さんだってかなり綺麗です」
「お前な」
笠松が、制服を脱いでいる。
シャツのボタンを外している笠松に対し、今「綺麗」と評したのか、あの男は。
「触っても?」
「い、いいけど、それ意味あんのか?」
「ありますよ」
そのまま現場を押さえたいという気持ちがあった故か、はたまた二人の間に流れる空気故か。
踏み出せずにいた黄瀬は、眼鏡男の手が笠松に伸ばされるのを見た。
細い指が裸の笠松へ。触れるか触れないか、黄瀬の場所からは確認できない。
それを待っている心の余裕は、今の黄瀬に残っていなかった。
「駄目ー!!」
声を上げながら、ばっと美術室へ足を踏み入れる。
驚き振り返った二人がどう思おうと関係ない。
黄瀬は慌てて笠松に駆け寄ると、抱き寄せるような勢いで肩を掴んだ。
「うわ、黄瀬!?」
「何してんスか!?笠松先輩、駄目っスよそんな、こんな奴にそんな!」
机に置かれた笠松の制服を掴み、体を隠すように笠松へ押し付ける。
そのまま自分より背の小さな先輩を背中に隠すと、黄瀬は睨むように目の前の男を見下ろした。
「あんた、何してくれてんスか…!」
「はぁ…」
「笠松先輩返してもらうっスよ!」
男は小さな溜め息を漏らしただけで、顔色一つ変えない。
それが余計に気に食わなくて、黄瀬はフンッと大げさに鼻息を漏らした。
「オレの目があるうちは、笠松先輩に手出させないから」
「黄瀬涼太…、お前な、少し落ち着けよ」
「おい、黄瀬。ちょっと待て」
眼鏡の男と笠松とが、黄瀬の怒りを鎮めるための言葉をかける。
しかし、そんな声は黄瀬の耳には届かなかった。目の前の男の開けた体が、じくじくと内側から煽ってくる。
「部活、行くっスよ笠松先輩!」
「ったく…悪かったな、鈴木」
「いえ。ありがとうございます」
笠松と鈴木と呼ばれた男が異様に親し気だということもむしろ腹立たしい。
黄瀬は無理やりに笠松の腕を掴むと、大股で絵具のニオイがきつい教室を後にした。
笠松の「おい」だとか「放せ」だとか細かな声を聞き入れず、つかつかと廊下を進み続ける。
少しでも美術室から離れたかったのだ。あの男の気配がないところへ。
「笠松先輩!なんであんな奴に優しくしてやってんスか!?」
「はあ?優しくなんてしてねぇだろ」
「してたっスよ。わざわざ脱いでやるとか、最後だってなんか謝って…」
そこまで悪態を吐いてから、黄瀬は息をハッと大きく吸い込んだ。
笠松が脱いだ、その流れを黄瀬は美術室の外から聞いていた。
黄瀬涼太が必要で、その代わりに…だとか。
「か、笠松先輩…」
黄瀬は笠松の腕から手を放し、恐る恐る振り返った。
背が低いせいで、笠松は自然と黄瀬を上目で見上げる。まだ、シャツの前が開いている。
「お、オレ…変なこと、聞いていいスか…?」
「なんだよ」
「か、笠松先輩…お、オレのこと、す、す…好き…」
「はあ!?気持ち悪いこと言ってんじゃねぇ!」
いつも通りの強烈な笠松の蹴りをお尻に受け、黄瀬は数歩よろけてから床に手をついた。
おかしい、笠松はやけにいつも通りだ。焦っている黄瀬の方がおかしいみたいに。
「え、でもなんかさっき…オレが必要とか、諦めろとか…」
「せっかくオレが庇ってやってたってのに、もう知らねぇからな」
「かば…?な、なんスか!?」
困惑する黄瀬は、四つん這いのまま笠松を見上げた。
笠松はシャツのボタンを止めながら、先に階段を降りていく。
自分は何か重大な勘違いをしているのかもしれない。
そんな気はしていたが、黄瀬の頭は既に考えることを諦めていた。
・・・
笠松と眼鏡男の妙な関係を見てしまったのは昨日のこと。
まんまとそれを引きずり寝付けなかった黄瀬は、机に突っ伏したまま昼を迎えていた。
午前の記憶はほとんどない。
元より真面目な人間ではないが、こうも部活以外のことでぼんやりするのは初めてだ。
「…おい、黄瀬涼太」
なんか呼ばれてる。
声に気付きながら、面倒だという思いから顔を上げることを拒否する。
すると今度はぽんと肩に手を置かれた。
「黄瀬涼太起きろ」
ぱこっという軽い音と同時に、頭に衝撃を受ける。
怪訝に歪ませた顔を上げると、そこには割と綺麗な顔があった。
「ようやく起きたか。疲れてんのか?それともいつもこんななのか?」
寝起きに聞くには気持ちが良い、低すぎない優しい声色。
それが少し馬鹿にしたように息を吐き出し、黄瀬は少しずつ状況を理解していった。
自分の教室、自分の机。
黄瀬を見ているのは、ここ最近問題となっているあの男。
「ゲッ!?」
「人の顔見て第一声がそれか、黄瀬涼太。お前、これから放課後は俺に付き合えよ」
独特なしゃべり方、覇気のない声と顔だが、その鋭い視線はじいと黄瀬を見下ろしている。
その構図を反射的に拒否したのか、黄瀬はばっと勢いよく立ち上がった。
「何?何言ってんスか、アンタ」
「お前が笠松さんとったんだろ。お前が代わりにー…いや、この言い方は良くないか」
たぶん寝起きだからだけじゃない。
またこの男に頭の中をめちゃくちゃにされる。
「お前がいいんだ。頼む」
黄瀬は呆然としたまま、けれど自然と体を後ろに反らしていた。
窓の隙間から入り込む風が髪を揺らす、まだ肌寒さの残る春。
黄瀬のようやく慣れてきた生活は、一人の男によって変わり始めていた。
(第一話 終)
追加日:2018/01/28
移動前:2016/10/09、2017/04/02
夏の大会が終わり、冬の大会を迎える準備をし始めた頃。
ふんふんと周りに聞こえない程度の鼻歌を奏でながら、青年は部室のドアを開いて制服を脱ぎ捨てた。
初めから下に着込んでいた練習着と、動きやすいハーフパンツに履き替え、部活前の最後の携帯チェックに取り掛かるべく鞄を漁る。
内ポケット、外ポケットと確認し、鞄を大きく広げて覗き込む。そこまでしたところで、青年はハッと息を呑んだ。
「しまった」
ゆっくりと顔を上げて、特に理由もなくそこにいた先輩を見上げる。
揺れた明るい黄色の髪に、その先輩は眉を寄せて後輩を見下ろした。
「なんだ、黄瀬、どうした?」
「携帯、美術室に忘れてきたっぽいっス…」
海常高校、バスケ部1年の黄瀬涼太は、自分の行動を顧みて、心底面倒そうに眉を寄せた。
HRではバッグにしまったものと思って手に取っていない。
最後の授業は美術室だった。
そして、確かにそこで、こっそりと机の下に手をやって携帯を見ていたという記憶は鮮明だ。
「おいおい、よりにもよって美術室に置いてきたのか」
そんな黄瀬の頭上から、そんな言葉をかけたのは、先輩である森山だった。
妙に不穏な台詞だ。
黄瀬はぱっと顔を上げ、「へ?」と間の抜けた声を出した。
「え、な、なんスかその、よりにもよってって」
「美術室の噂、知らないのか?」
「び、美術室の噂…?」
ぞわと背筋が凍る。
この海常高校で、まだ七不思議的な噂は聞いたことがない。
あまり聞いてしまいたくないが、ごくりと唾を呑んで森山を凝視する。
像が動き出すとか、話し出すとか、それとも絵画が…?
「放課後はある男が占拠しているんだ」
「へ?」
果てしない想像を繰り広げていた黄瀬は、続いた言葉にぽかんと口を開いた。
「ある男?生徒っスか?」
「ああ」
「なぁんだ、怖い話かと思ったじゃないっスかもー!」
ほっと胸を撫で下ろし、自分の手を胸に重ねる。
そりゃ生徒の一人いてもおかしくない、そもそも美術部とかが使ってるんじゃないのか。
黄瀬はすぐに携帯を救出に行こうと、立ち上がり足を一歩踏み出した。
「それがな、男好きだって話だ」
「…え?」
「目を合わせたら最後、服引っぺがされて、食われるってなもんだ」
「はああ!?」
森山の低い声が、絶妙な間で煽ってくる。
男が好きって、つまり、オカマってことだろうか。
「ま、気を付けて行って来いよ」
「……い、行って、来るっス」
半信半疑だ、しかしそれが本当なら、もしかして幽霊よりもホラーなんじゃないか。
黄瀬はボスダンジョンに挑む勇者のような面持ちで、今来たばかりの部室を後にした。
いや、有り得ないっしょ、そんなバカみたいな話。
決して自分に言い聞かせているわけではない。だって実際有り得ないじゃないか。
廊下を抜けて、階段を上がって、廊下の一番奥にある教室の大きなドアの前で足を止める。
いや別に、森山先輩の言葉を信じて躊躇っているわけじゃない。
「し、失礼しまーす…」
からからと扉を横に動かして、隙間から中を覗き見る。
静かだ、もしかして誰もいないー…?
という期待は、美術室の奥に目を向けた時点で打ち砕かれた。
「…どうぞ」
大きな木製の机の上で、膝を立てている男子生徒がいる。
行儀が悪い。という突っ込みは思いつかなかった。
何せ、黄瀬の視界に映るその男子生徒、ワイシャツが肌蹴ている。
前のボタンを全部外し、白い肌を覗かせている。まさにそれは、“何か”あった後みたいな。
「で、出た…!!」
「は?」
思わず声を上げて、黄瀬は勢いのままドアをばたんと閉めていた。
美術室のドアに背を向けて、長く続く廊下に目を向ける。
現実だ、これはまさしく現実で、この場には妙な男と自分しかいない。
想像したような派手なオカマではなかったが、男の纏う妙な色気が、森山の言っていた内容に重なる。
森山は男が好きな男としか言っていない。
つまり、あれは、ホモとかゲイとか言う…。
「いや、そうだ、携帯…」
しかしこのまま逃げ帰るわけにもいかない。
携帯は必需品だ、このままここにあると分かっていて逃げ帰るなんてそんなことは。
「おいこら」
「ヒッ!!」
がらっと背後で音が鳴り、黄瀬は美術室に体を向けて飛び退いた。
いつの間に背後に迫っていたのか、美術室の扉を開け放った男はじっと黄瀬を見つめている。
相変わらず服は完全に肌蹴て、黒髪眼鏡の真面目そうかつ貧弱そうな見た目とは裏腹に、そこそこ筋肉がついた体が晒されていた。
「何か用あったんだろ、何?」
「あ…その、け、携帯を、どっかに」
「携帯?探せば?」
黄瀬の緊張とは裏腹に、男は何気ない面持ちで「ほら」と顎を動かす。
黄瀬より低い位置にある頭。
とはいえ黄瀬の身長から考えれば、平均か、それより少し大きいくらいだろう。
ぼんやりと、この男に襲われる可能性を考えてみる。
体の大きさも、筋肉量も、何もかも黄瀬より軟弱そうだ。
「…もしかして俺の噂のこと気にしてんのか?」
「えっ!」
「わっかりやすい奴。大丈夫だよ、手ェ出したりしないから」
ほら、と男が少し避けて道を空ける。
考えていたことが見透かされ、黄瀬はごくりと唾を飲んでから美術室の中に目をやった。
そもそも森山に変な事聞いていなければ、少し服肌蹴てるくらい気にしたりしなかっただろうに。
暑いのかな、とか汚したのかな、とか。
晒された白い肌を視界に入れてしまわないように、黄瀬は男の横を通り過ぎて、自分が使用した机に向かった。
「なあ、お前…一年の黄瀬涼太だよな」
「え、あ、そっスけど」
「俺は二年、鈴木咲哉」
背後から聞こえてきた声に、警戒心からか振り返る。
眼鏡の男はぴんと伸ばした人差し指の、手入れの施されていそうな爪でカリと机の木目をなぞった。
ああ、この人先輩なんだと、そう思うのはいつものこと。
黄瀬にとってはほとんどの人間が自分より小さくて、細くて、同じ学生じゃ年上も年下も見た目に分からないから。
「一つ、頼みたいことがあるんだ」
「な、なんスか…」
「ちょっと脱いで見せて欲しいんだけど」
「……は」
黄瀬の中の時間が、その時明らかに止まった。
冗談で言っているように聞こえない、真っ直ぐに見つめてくる視線。
その視線が足先から頭の上までなぞったことに気付き、黄瀬はがたと大げさに後ずさった。
「ま、まじで言ってんスか、それ」
「まじだよ。いいだろ別に、その薄っぺらいの1枚脱ぐくらい」
机に乗せた腕に体重をかけると、その細い腰が強調される。
揺れたワイシャツの隙間から胸元が見えて、黄瀬はまた数歩後ずさり、机にとんと体をぶつけた。
「が、ガチで言ってんなら、ドン引きっスわ、アンタ…」
「先輩に対して随分な口のきき方だな」
耳から耳へ抜けて行った男の名前など、憶えてやる気もない。
あ、そういえば先輩だったんだっけ、と脳裏に過ったが、黄瀬はそのまま自分より小さい男を睨み付けた。
「別に恥ずかしいとかじゃねぇけど、アンタの前で脱ぐのだけは勘弁っス」
「…黄瀬涼太」
「何」
「これ、人質な」
酷い事を言ったのに、調子の変わらない声が不気味で。その男の落ち着いた態度が気味悪くて。
細めた目で見ていた黄瀬は、その眼鏡の男の掌に納まっている物に気付くと、体を前のめりにさせていた。
「っあ!」
「そういえば、さっき回収してたの忘れてたよ」
「てめ、返せよ!」
「口のきき方くらい何とかしろ?運動部だろ、黄瀬涼太」
男の手には、黄瀬がここに来た目的、忘れて行った携帯が握られている。
ばっと腕を伸ばしたが、男はするりとかわし、机を挟んだ向こう側で不敵に微笑んだ。
本来なら体格差もある、奪い返せないわけがない。
しかし、黄瀬は辺りを見渡して茫然とした。
大きな机が並んでいる美術室。
暴れられるスペースは当然ない上、追い掛けっこになれば机を挟んで堂々巡りだろう。
「アンタ、卑怯っスよ!つか、最初っから…オレをまんまと誘い込んだってことっスよねこれ!?」
「悪いな。どうしても見たいんだ」
「な、んなんスかもー…とんだド変態じゃないスか噂通りの…っ」
はあっと肩から脱力し、黄瀬は練習着の裾に手をかけた。
変態男の言う通りにするのは癪だが、脱ぐこと自体に抵抗はない。
部室じゃ皆堂々と着替えるし、モデルの仕事で露出が多い事も当然あるし。
「…お」
黄瀬が諦めたことに気付いた咲哉が、小さく声を漏らす。
まじまじと捕えて離さない視線に妙な羞恥を感じながら、黄瀬はそのまま豪快に練習着を脱いだ。
見られたって寸分も恥ずかしくない体だ。
「これで満足っスか?オレ、これから部活なんで、さっさとそれ返して下さいよ」
「…」
「ちょっと、聞いてんスか?」
開いたままの目が、黄瀬の腹部を見つめている。
撮影するとき、カメラマンに見られる時と少し似ているような、それよりももっと濃いような。
黄瀬が視線に耐えきれず「ちょっと」ともう一度言う、その直前に、咲哉は徐に携帯を黄瀬に差し出した。
「悪い、想像以上だった」
「は…何が」
「ありがとな」
余りにもすんなりと事が運び、黄瀬は望んでいたとはいえ唖然としたまま携帯を受けとった。
顔を上げると、既に咲哉は黄瀬に背を向けている。
「ちょっと、そんだけ?」
「ああ。もういいよ。今日は先約があるから」
「はぁ!?……最悪なんスけど」
散々振り回されて、脱いでやったってのに、たったそんだけかよ。
小さく舌を打ち、黄瀬は悪態吐きたくて仕方がない程の苛立ちを何とか呑み込んだ。
今脱いだばかりの暖かい服を頭から被り、ぴっと下に引っ張ってから髪を軽く梳く。
はあっと聞こえるくらいの溜め息を吐き出して、大股に美術室を後にする黄瀬に、男は一度だけ振り返った。
「またな」
美術室を出る直前に聞こえた声。
またなんてねーよ、言い返すのももはや煩わしく、黄瀬は何も言わずにその場を立ち去った。
・・・
HRを終えて、帰り支度の済んでいる鞄を肩にかける。
黄瀬の学校生活において一番やる気のみなぎる部活の時間。
椅子から立ったその勢いのまま、体育館に向かうための足を踏み出すのはいつものこと。
その足が教室を一歩出たその時、黄瀬はものすごい勢いで肩を掴まれていた。
「黄瀬大変だ!」
「な、ななななんスか森山先輩!!?」
その唐突さと凄みに、黄瀬は大きく鳴った胸を押さえた。
切羽詰まった様子で黄瀬の肩に掴みかかる森山は、バスケ部の先輩だ。
普段クールな顔をしている森山の、目を開き頬に汗を滲ませるような顔は割と珍しい。
「びっくりしたじゃないスかも~」
「それどころじゃない、大変なんだ…!」
「なんスか?超絶美人見つけたとか?ナンパしようとか勘弁っスよ…」
森山は顔面は整っているが、それを打ち消してしまうほどの女好きだ。
黄瀬がいるとウケが良いのだと、森山の妙な熱意に押されて街中でナンパをしかけたのは記憶に新しい。
残念なイケメンと言われて黄瀬が真っ先に想像するのは、恐らくこの先輩だろう。
「笠松が!あの男に連れていかれた!」
などと失礼なことを考えていた黄瀬の思考が停止したのは言うまでもない。
それから、森山と共通して認識している妙な男を思い出した黄瀬は、肩からズリとバッグを落とした。
「それって…まさか…」
「黄瀬、お前喧嘩売ったらしいじゃないか、もしかして…」
「お、オレのせいで、笠松先輩が拉致られ……」
笠松幸男、バスケ部の主将だ。
そして森山がいう‟あの男”に検討はついている。
「美術室行って来るっス!」
「ああ、黄瀬頼んだ!ってお前鞄、鞄!」
そこに落とした鞄など森山に任せ、黄瀬はなりふり構ってられんと駆け出した。
あまり広い廊下ではないが、HR終わって直後だったおかげか、まだ人はまだらだ。
「はぁ…っ、あれ、つか、場所聞いてねー、けど…ここでいんだよな…?」
肝心なことを聞かなかったことに気付くのは、美術室のある階に上がりきってから。
黄瀬は無意識に声と息と足音を押さえ、廊下を真っ直ぐ進んだ。
美術室に放課後現れる怪しい男。先日黄瀬に脱げだとか言ってきた変態だ。
その男に、笠松が連れていかれた。
もし自分があの男を拒否したから、嫌悪の目で見下ろしたから…笠松を人質になんてことになっていたら。
「…あんま、来たくなかったんスけど…」
ぽつりと小さく不満をこぼしてから、恐る恐ると美術室のドアに近付く。
半開きのドア、人の気配はある。
「…、は…してくれ…」
そのドアの隙間から聞こえてきた微かな声は、残念ながら笠松のもので間違いなかった。
黄瀬は思わず張り込みをする警官にでもなったかのように床に膝をつき、体を小さくしてドアに耳を寄せた。
「…そんなに、黄瀬涼太が必要なんですか」
「あぁ、まぁ、そうだ」
「俺にそれを言いに来たってことは、諦めろって言いたいわけですね」
自分の名前が聞こえてきたことに身構えた黄瀬は、見えない部屋に目を向けていた。
なんだか、妙な話に聞こえるのは気のせいだろうか。
「代わり…ってのは変だけど、なんだ、その…オレじゃ駄目か」
笠松の恥ずかしそうに潜められた声。
黄瀬は思わず吹き出しそうになったのを掌で押さえた。
な、なんだ、二人は一体どういう話をしているのだ。
「でも、笠松さん、こういうの嫌ですよね。そう思って俺…今まで声かけなかったんですけど」
「オレが我儘言ってるわけだし…そんくらいは」
「はは、律儀ですね。でも、すげ嬉しいです」
黄瀬の前とは異なる、砕けた声色。二人そろって、聞いたことのない声で言葉を交わしている。
まさか二人は既に特殊な関係なんじゃ。いや、じゃあさっきまでの会話は一体。
黄瀬はドアに手を当て、その隙間に顔を寄せた。
最近見たばかりの風景。その奥に二人のシルエット。
「悪い。やっぱり、オレじゃ不足だろ」
「そんなことないですよ。笠松さんだってかなり綺麗です」
「お前な」
笠松が、制服を脱いでいる。
シャツのボタンを外している笠松に対し、今「綺麗」と評したのか、あの男は。
「触っても?」
「い、いいけど、それ意味あんのか?」
「ありますよ」
そのまま現場を押さえたいという気持ちがあった故か、はたまた二人の間に流れる空気故か。
踏み出せずにいた黄瀬は、眼鏡男の手が笠松に伸ばされるのを見た。
細い指が裸の笠松へ。触れるか触れないか、黄瀬の場所からは確認できない。
それを待っている心の余裕は、今の黄瀬に残っていなかった。
「駄目ー!!」
声を上げながら、ばっと美術室へ足を踏み入れる。
驚き振り返った二人がどう思おうと関係ない。
黄瀬は慌てて笠松に駆け寄ると、抱き寄せるような勢いで肩を掴んだ。
「うわ、黄瀬!?」
「何してんスか!?笠松先輩、駄目っスよそんな、こんな奴にそんな!」
机に置かれた笠松の制服を掴み、体を隠すように笠松へ押し付ける。
そのまま自分より背の小さな先輩を背中に隠すと、黄瀬は睨むように目の前の男を見下ろした。
「あんた、何してくれてんスか…!」
「はぁ…」
「笠松先輩返してもらうっスよ!」
男は小さな溜め息を漏らしただけで、顔色一つ変えない。
それが余計に気に食わなくて、黄瀬はフンッと大げさに鼻息を漏らした。
「オレの目があるうちは、笠松先輩に手出させないから」
「黄瀬涼太…、お前な、少し落ち着けよ」
「おい、黄瀬。ちょっと待て」
眼鏡の男と笠松とが、黄瀬の怒りを鎮めるための言葉をかける。
しかし、そんな声は黄瀬の耳には届かなかった。目の前の男の開けた体が、じくじくと内側から煽ってくる。
「部活、行くっスよ笠松先輩!」
「ったく…悪かったな、鈴木」
「いえ。ありがとうございます」
笠松と鈴木と呼ばれた男が異様に親し気だということもむしろ腹立たしい。
黄瀬は無理やりに笠松の腕を掴むと、大股で絵具のニオイがきつい教室を後にした。
笠松の「おい」だとか「放せ」だとか細かな声を聞き入れず、つかつかと廊下を進み続ける。
少しでも美術室から離れたかったのだ。あの男の気配がないところへ。
「笠松先輩!なんであんな奴に優しくしてやってんスか!?」
「はあ?優しくなんてしてねぇだろ」
「してたっスよ。わざわざ脱いでやるとか、最後だってなんか謝って…」
そこまで悪態を吐いてから、黄瀬は息をハッと大きく吸い込んだ。
笠松が脱いだ、その流れを黄瀬は美術室の外から聞いていた。
黄瀬涼太が必要で、その代わりに…だとか。
「か、笠松先輩…」
黄瀬は笠松の腕から手を放し、恐る恐る振り返った。
背が低いせいで、笠松は自然と黄瀬を上目で見上げる。まだ、シャツの前が開いている。
「お、オレ…変なこと、聞いていいスか…?」
「なんだよ」
「か、笠松先輩…お、オレのこと、す、す…好き…」
「はあ!?気持ち悪いこと言ってんじゃねぇ!」
いつも通りの強烈な笠松の蹴りをお尻に受け、黄瀬は数歩よろけてから床に手をついた。
おかしい、笠松はやけにいつも通りだ。焦っている黄瀬の方がおかしいみたいに。
「え、でもなんかさっき…オレが必要とか、諦めろとか…」
「せっかくオレが庇ってやってたってのに、もう知らねぇからな」
「かば…?な、なんスか!?」
困惑する黄瀬は、四つん這いのまま笠松を見上げた。
笠松はシャツのボタンを止めながら、先に階段を降りていく。
自分は何か重大な勘違いをしているのかもしれない。
そんな気はしていたが、黄瀬の頭は既に考えることを諦めていた。
・・・
笠松と眼鏡男の妙な関係を見てしまったのは昨日のこと。
まんまとそれを引きずり寝付けなかった黄瀬は、机に突っ伏したまま昼を迎えていた。
午前の記憶はほとんどない。
元より真面目な人間ではないが、こうも部活以外のことでぼんやりするのは初めてだ。
「…おい、黄瀬涼太」
なんか呼ばれてる。
声に気付きながら、面倒だという思いから顔を上げることを拒否する。
すると今度はぽんと肩に手を置かれた。
「黄瀬涼太起きろ」
ぱこっという軽い音と同時に、頭に衝撃を受ける。
怪訝に歪ませた顔を上げると、そこには割と綺麗な顔があった。
「ようやく起きたか。疲れてんのか?それともいつもこんななのか?」
寝起きに聞くには気持ちが良い、低すぎない優しい声色。
それが少し馬鹿にしたように息を吐き出し、黄瀬は少しずつ状況を理解していった。
自分の教室、自分の机。
黄瀬を見ているのは、ここ最近問題となっているあの男。
「ゲッ!?」
「人の顔見て第一声がそれか、黄瀬涼太。お前、これから放課後は俺に付き合えよ」
独特なしゃべり方、覇気のない声と顔だが、その鋭い視線はじいと黄瀬を見下ろしている。
その構図を反射的に拒否したのか、黄瀬はばっと勢いよく立ち上がった。
「何?何言ってんスか、アンタ」
「お前が笠松さんとったんだろ。お前が代わりにー…いや、この言い方は良くないか」
たぶん寝起きだからだけじゃない。
またこの男に頭の中をめちゃくちゃにされる。
「お前がいいんだ。頼む」
黄瀬は呆然としたまま、けれど自然と体を後ろに反らしていた。
窓の隙間から入り込む風が髪を揺らす、まだ肌寒さの残る春。
黄瀬のようやく慣れてきた生活は、一人の男によって変わり始めていた。
(第一話 終)
追加日:2018/01/28
移動前:2016/10/09、2017/04/02
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