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夏目貴志(夏目友人帳)
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8.塔子との対面
学校からの帰り道。友人と別れて一人になった夏目は、ほんのり緩んだ口元を隠さずに歩いていた。
家族が出迎えてくれる家は、夏目にとって何よりも大事で、大切な場所だ。
「ただいま」と言えば「おかえり」と。それが当然のように返ってくる。
それだけでも十分だったのに、今では家族と同じくらい大好きな人も待っている場所となった。
「はぁ…おれ、浮かれてるよな…」
溜め息まじりに零れた独り言。
夏目は心底黒という妖に惚れこんでいた。
彼が人間でないと分かっていても止められなかったのは、その彼こそが夏目を誰よりも気遣い、優しく触れ、愛していると囁くからだ。
「夏目、行く前に…少しだけいいか?」
今朝もそう。学校に行く夏目の腕を名残惜しそうに掴み、申し訳なさそうに顔を寄せてきた。
あまり吸われたら生活に支障が出る。
それを訴えると、黒は小さく首を横に振り、「口にはしないから」と頬に口付けをした。
「…っ、」
その感触を思い出し、ぼっと赤くなった顔を掌で覆う。
黒は触れた相手の精気を吸い取ってしまう、厄介な力をもった妖だ。
だから触れたくても触れられない。辛そうだった、それが酷く愛しい。
変なことばかり考える頭を軽く振り、夏目は幾度目かの溜め息を吐いた。
そんなことを考えているうちに、我が家が目の前に迫る。
夏目は緩んだ口を戻してから自宅のドアに手をかけた。いつも通り、何も変わらない日常がここに。
「おかえりなさい貴志君!」
「あ、塔子さん。ただいま…」
「貴志君、ちゃーんと説明してもらいますからね」
「…え?」
夏目は育て親である塔子の妙な態度に、一度思考を停止させた。
それから改めて冷静に塔子を見れば、腕を組み少し頬を膨らませている姿は明らかにご立腹の様子。
更には、足元でニャンコ先生が「やれやれ」とでも言いたそうに首を横に動かしていて、夏目は嫌でも今日が普段と変わらない日常でないことに気付いてしまった。
・・・
リビングに足を運ぶなり、夏目は塔子と向かい合うように椅子に座った。
夏目の足元に、ニャンコ先生がどっしりと寝転がる。
その中で圧倒的な違和感を放つのは、塔子の隣に腰かけている男。
「人気俳優だよ」とでも紹介されればきっと納得してしまうだろうスタイルと容姿の男は、夏目の良く知る妖だった。
「…夏目、すまない」
「黒…」
いつもの鋭い目つきはどこへやら。
しゅんと眉を下げ、切なげに細めた目は夏目から逸らされている。
「掃除するために貴志君の部屋へ入ったら、この人が寝てたの」
「え…っ」
「危うく警察呼びそうになったわよ。どうして言ってくれなかったの?」
まさか、と夏目は目を大きく見開いた。
黒は人間ではない。黒の姿が人の目に映らないことが何よりの証拠だ。
妖の事を家族に話すつもりのない夏目にとって、塔子に黒の存在を口にしないのは至極当然のことだった。
「ご、ごめんなさい…」
「謝って欲しいわけじゃないのよ。ただ、どうして一言でも教えてくれなかったのかしらって…」
改めて考えれば、身内でもない男を家に上げるだなんて有り得ないことだ。
ましてや家主に相談せずにだなんて。
「…、」
夏目は黙り込んだまま、俯いている黒を見つめた。
彼は人間じゃない、なんて言えるわけがない。
しかし、それ以外に黒のことを説明する言葉が見つけられなかった。知らないのだ、何も。
「なんて…説明したら良いのか、分からなくて」
塔子が不安そうに、顔の前に寄せた手を重ね合わせている。
家がなくて困ってた人、それとも友人のお兄さん?嘘を並べても塔子を騙し通すことはできないだろう。
「…帰る場所も、家族も、何も持っていないんです。だからおれが…、一緒に、いてあげたい…と、」
次第に小さくなった声は、最後まで言葉を繋げることが出来なかった。
とうとう口を閉ざし、何も言えないことが悔しくて顔を下げる。
そんな夏目に見かねたのか、黒がカタンと音を鳴らして椅子にかけ直した。
「夏目、お前が顔を下げる必要はない。悪いのは全部俺だろう」
「っ、今回のことは…塔子さんに話せなかったのは、おれが甘かったからだよ」
「違う。俺が、人間みたいなことをしなければ…」
黒の発言に、塔子が少し不思議そうに首を傾げる。
確かに黒が油断していなければ、隠し続けられただろう。
でも、それは違う。
夏目は静かに首を横に振った。
「…そんなの、悲しいだろ」
「夏目?」
「おれが、黒の存在を認めていないみたいで…」
大好きな家族と過ごす空間と、大好きな黒と過ごす空間。
本当は、別々じゃなくて、一つに出来たならそれが一番良いに決まっている。
それも何もかも全部、決める権利はこの藤原家にある。
だから夏目は膝の上に乗せた手をきつく握りしめ、塔子の反応を待った。
「貴志君」
勝手に見知らぬ男を家に招き入れた、それだけで叱られるには十分すぎる。
それが分かっているから、夏目は塔子の声にびくと肩を揺らした。
「私はね、怒っているんじゃないの。そりゃ、驚いたけれどね?それよりも、悲しかったわ」
「塔子さん…」
「相談一つしてくれないんだもの」
塔子の言葉は、夏目の不安を優しく包み込む。
パッと顔を上げると、夏目の予想に反して塔子は微笑んでいた。いつもと変わらない様子で、優しく目を細めている。
「大丈夫よ、彼とはもう話して分かっているから」
「え…」
「何も覚えていないんですってね?それで彼も、貴志君の傍にいたいだけだって」
追い出したりしないわよ、と笑う塔子に、夏目は茫然と開いた口をそのままに言葉を呑み込んだ。
ニャンコ先生のお尻がモフと足に乗っかっている。
「馬鹿だな夏目」と、笑われているかのようだ。
「塔子、安心して欲しい。俺はこの家に一切関わらないし、何の害も与えない」
「いやだわ、そんな…」
「俺は、いないものと思って構わない。夏目の、ほんの少しの時間を、俺にくれればそれでいい…」
黒が声を殺して言う。
それに対して、塔子は肩をすくめて苦く笑った。
異様な光景だった。妖である黒と、妖の沙汰に巻き込まないよう守っている塔子が、同じ空間で会話をしている。
「まあ、とにかく!貴志君、今回は許したけれど分かっているわね?」
「は、はい!今度からは…絶対に、まず相談します」
同じようなことが二度あるとは思えないけれど。
しゃきと背筋を伸ばしてそう誓った夏目に、塔子は椅子から立ち上がり近付いた。
「ふふ、彼、格好良いわね。年甲斐もなくドキドキしちゃうわ」
耳打ちするように、ひそめた声が言う。
その言葉につられて黒に目を向けると、黒も丁度椅子を立ったところだった。
申し訳なさそうにしたまま、夏目の横を通り過ぎる。
「あ、黒…」
呼びかけても黒が振り返ることはなく、そのままリビングを出て行ってしまった。
自分の失態を責めているのだろう。
「その…黒さん?とても落ち込んでいるようだから…貴志君、宜しくお願いするわね」
「はい…。あの、本当に」
「謝らなくていいの。滋さんには、私から説明するわ」
難しそうだけど、と言いながらもやはり微笑んでいる塔子に深々と頭を下げ、夏目も椅子から立ち上った。
それから黒を追いかけるように、慌ててリビングを出る。
ほんの少し前、先に上がっていったはずの足音は既に聞こえない。階段を上がっているのは夏目ただ一人。
部屋に足を踏み入れると、窓際で長い髪の毛がふわと揺れていた。
「…黒」
先程とうってかわって、和装に身を包んでいる。
顔は同じだ、なのに纏う空気があまりにも違い、夏目は一瞬近付くのを躊躇った。
消えてしまいそうだ。
今にも、窓からすり抜けて、どこかへ行ってしまいそう。
「黒、行くなよ」
「はは、どこへ」
「どこにも…」
手を黒の方へ伸ばし、ゆっくりと足を進める。
夏目に迷惑がかかることを何より恐れている黒がここを離れようとしたことは何度もあった。
それを引き止めたのは、夏目だ。夏目しかいない。
「そうだ、黒。どうして、人間の姿でいたりしたんだ?」
「ああ…、うん、人間になれるような気がしてな。ずっと、人間の姿でいれば、と…」
「え…」
「今までも何度か、塔子が出かけたのを見計らってそうしていた。でもまさか寝ちまうとはな…」
無理をして気丈に振る舞っているのが、その声の微かな震えから感じ取れる。
こちらを見ないのも、自分を責めているが故だろう。
「おれは、黒が妖だとか人間だとか気にしてないよ」
「分かってる…。俺が、そうせずにいられないだけだ」
「黒、こっち向いて」
「…」
夏目の指がくいと黒の着物を引く。
視線を交わしたい。その深い色の瞳に自分が映るのを確認したい。
夏目が前のめりに覗きこむと、黒は細めた目で夏目を見下ろした。
「たまに、唐突に不安になるんだよ、夏目。俺は一体何なんだってな」
「不安…?」
「夏目が困っている。俺を説明するときに…姓もない、職もない、家族も、生まれた地も、何もない俺を、表す言葉がないからだ」
「っ…」
言葉を詰まらせた夏目は、思わず黒の腰に腕を回していた。
布越しの体温はない。
それでも確かな質感。黒はここにこうして存在している。
「馬鹿だな、夏目は何も悪くないって」
「黒が悲しむのは、いつもおれのせいだろ?」
「…、あぁ、そりゃ俺が…あやかし風情が夏目に惚れてるんだから、仕方ないよな」
「なんでそんな言い方するんだよ…」
夏目が自分の頬を黒にすり寄せる。
ぴくと体を震わせた黒は、静かに夏目の肩を掴んだ。
引き剥がされる、それが分かって、もっと強く抱き締める。
「分かってんのか、夏目。今お前は滑稽だ」
「滑稽に見えるなら、それでいいよ。おれは…黒をこうしていたい」
「でも今塔子が来たら、夏目は俺から離れるだろう」
「あ、当たり前だろ…!そもそも男同士がこんなの、…」
夏目は思わず上げた声を、はっと呑み込んだ。
腕を緩めて見上げた黒の顔は、何を考えているのか分からない。真っ黒だ。
「…黒、ごめん」
「いや。正しい。夏目が正しいよ」
「…、」
息が苦しい。
どうしても噛み合わない。どうしても二人は間違っている。
人の目に見えていても見えていなくても、この関係は歪んでいるのだ。
「はは…」
またネガティブになってしまう。
そう不安になりかけた夏目の目の前で、黒が肩をすくめて破顔した。
「え、ど、どうしたんだ」
「ん…嬉しいよ夏目。お前がこんなにも俺を思ってくれることが」
「何を今更…」
「今更なんてあるものか。俺はずっと、夏目がいる間はずっと…お前に感謝し続けるだろう」
黒の掌が夏目の頬を包み込む。
それから額に、身元に、鼻先に優しく唇が触れた。
「黒、口も…」
「いいのか?」
困ったように眉を下げて笑う黒に、夏目は「うん」と小さく頷いた。
黒の親指の先が唇に触れ、唇が一瞬重なる。
じわじわと体が熱くなるのと同時に安堵故か全身から力が抜け、夏目はその場に座り込んだ。
「っ夏目!?」
「良かったよ、ちゃんと塔子さんに話せて。本当はずっと、黒にも堂々とこの家にいて欲しかったから」
「何を…」
「もうおれにとっては、家族と同じくらい大事だから」
冷静になった今、夏目は自分が心底喜んでいることに気が付いた。
自分の大好きな人を、大事な家族に隠している生活を、本当はもどかしく感じていたのだ。
「黒、話す機会を作ってくれてありがとな」
「…本当にお前はいい子だな」
「子ども扱いするなよ」
むすと膨れた夏目の頬を、黒の指がつんと突く。
だから子供扱いするなって言ってるのに。
不服を申し立てるために黒を見上げれば、あまりにも綺麗な笑顔がそこにあった。
それだけで満たされる。
吸われた分、返されるような。与え合っているような。
夏目は釣られて笑いながら、黒の無防備な頬に唇を寄せた。
・・・
その日を境に、黒は人間に変わる明確なきっかけを作るようになった。
友人が家を訪れた時みたいに玄関から家に入る。そして玄関から出ていく。
それ以外はいつも通りだ。いないようで、ずっと夏目のそばにいる。
「ごめんなさいね、貴志君。滋さんのこと、説得できなくて」
「い、いえ!当たり前ですよ。赤の他人、しかも大人の男を家に上げるなんて」
申し訳なさそうに言った塔子に、夏目は一瞬声を詰まらせた。
部屋には今も変わらず、着物を身に纏った黒がどっしりと居座っている。
結局家族を騙しているみたいな状況だ。
「そういえば…あの日、彼ったら面白かったのよ」
そんな夏目の妙な反応に気付くことなく、塔子はポンと手を打った。
彼とは、恐らく黒のことだろう。
黒のことを話す時、塔子は少し照れ臭そうに頬を緩める。
「私が貴志君の部屋に入って声を上げちゃって、寝ていた彼を起こしてしまったんだけど」
「そう言ってましたね」
「えぇ、でもその時にね?目が合ってるのに、自分を見ていると思わなかったみたいなのよ。不思議そうに辺りを見渡して」
寝ぼけていたのかしら、と笑う塔子に、夏目は頬に汗が流れるのを感じながら笑い返した。
普通の人間の目に映らない黒は、無意識に塔子の視界に入るはずがないと思い込んだのだろう。
「その後に…私の聞き間違いでなければね?」
「何か言ったんですか?」
「そうなの。‟俺が見えるのか塔子”って」
名前を呼ばれたから驚いたのよ、と。
塔子は年若い少女のようにコロコロと笑い、手のひらを自身の頬へ添えた。
「彼とても綺麗でしょう?だから私、天の使いなのかと思ったの」
夏目は薄く口を開いたまま、恥ずかしそうにはにかんだ塔子から目を逸らした。
視線の先には、腕を組んで壁に寄りかかっている黒。
その黒もまた、照れくさそうに唇を尖らせ、心なしか頬を赤らめている。
「…そう、かもしれませんね」
「ふふ、でしょう?」
ぽつりと零した夏目の言葉に、塔子は嬉しそうに笑った。
もしかしたら、いつか、家族にだけは本当のことを話せる日が来るかもしれない。
口元の緩んだ黒の横顔に、夏目の顔も綻んでいた。
(第八話・終)
追加日:2017/11/12
移動前:2017/05/06
学校からの帰り道。友人と別れて一人になった夏目は、ほんのり緩んだ口元を隠さずに歩いていた。
家族が出迎えてくれる家は、夏目にとって何よりも大事で、大切な場所だ。
「ただいま」と言えば「おかえり」と。それが当然のように返ってくる。
それだけでも十分だったのに、今では家族と同じくらい大好きな人も待っている場所となった。
「はぁ…おれ、浮かれてるよな…」
溜め息まじりに零れた独り言。
夏目は心底黒という妖に惚れこんでいた。
彼が人間でないと分かっていても止められなかったのは、その彼こそが夏目を誰よりも気遣い、優しく触れ、愛していると囁くからだ。
「夏目、行く前に…少しだけいいか?」
今朝もそう。学校に行く夏目の腕を名残惜しそうに掴み、申し訳なさそうに顔を寄せてきた。
あまり吸われたら生活に支障が出る。
それを訴えると、黒は小さく首を横に振り、「口にはしないから」と頬に口付けをした。
「…っ、」
その感触を思い出し、ぼっと赤くなった顔を掌で覆う。
黒は触れた相手の精気を吸い取ってしまう、厄介な力をもった妖だ。
だから触れたくても触れられない。辛そうだった、それが酷く愛しい。
変なことばかり考える頭を軽く振り、夏目は幾度目かの溜め息を吐いた。
そんなことを考えているうちに、我が家が目の前に迫る。
夏目は緩んだ口を戻してから自宅のドアに手をかけた。いつも通り、何も変わらない日常がここに。
「おかえりなさい貴志君!」
「あ、塔子さん。ただいま…」
「貴志君、ちゃーんと説明してもらいますからね」
「…え?」
夏目は育て親である塔子の妙な態度に、一度思考を停止させた。
それから改めて冷静に塔子を見れば、腕を組み少し頬を膨らませている姿は明らかにご立腹の様子。
更には、足元でニャンコ先生が「やれやれ」とでも言いたそうに首を横に動かしていて、夏目は嫌でも今日が普段と変わらない日常でないことに気付いてしまった。
・・・
リビングに足を運ぶなり、夏目は塔子と向かい合うように椅子に座った。
夏目の足元に、ニャンコ先生がどっしりと寝転がる。
その中で圧倒的な違和感を放つのは、塔子の隣に腰かけている男。
「人気俳優だよ」とでも紹介されればきっと納得してしまうだろうスタイルと容姿の男は、夏目の良く知る妖だった。
「…夏目、すまない」
「黒…」
いつもの鋭い目つきはどこへやら。
しゅんと眉を下げ、切なげに細めた目は夏目から逸らされている。
「掃除するために貴志君の部屋へ入ったら、この人が寝てたの」
「え…っ」
「危うく警察呼びそうになったわよ。どうして言ってくれなかったの?」
まさか、と夏目は目を大きく見開いた。
黒は人間ではない。黒の姿が人の目に映らないことが何よりの証拠だ。
妖の事を家族に話すつもりのない夏目にとって、塔子に黒の存在を口にしないのは至極当然のことだった。
「ご、ごめんなさい…」
「謝って欲しいわけじゃないのよ。ただ、どうして一言でも教えてくれなかったのかしらって…」
改めて考えれば、身内でもない男を家に上げるだなんて有り得ないことだ。
ましてや家主に相談せずにだなんて。
「…、」
夏目は黙り込んだまま、俯いている黒を見つめた。
彼は人間じゃない、なんて言えるわけがない。
しかし、それ以外に黒のことを説明する言葉が見つけられなかった。知らないのだ、何も。
「なんて…説明したら良いのか、分からなくて」
塔子が不安そうに、顔の前に寄せた手を重ね合わせている。
家がなくて困ってた人、それとも友人のお兄さん?嘘を並べても塔子を騙し通すことはできないだろう。
「…帰る場所も、家族も、何も持っていないんです。だからおれが…、一緒に、いてあげたい…と、」
次第に小さくなった声は、最後まで言葉を繋げることが出来なかった。
とうとう口を閉ざし、何も言えないことが悔しくて顔を下げる。
そんな夏目に見かねたのか、黒がカタンと音を鳴らして椅子にかけ直した。
「夏目、お前が顔を下げる必要はない。悪いのは全部俺だろう」
「っ、今回のことは…塔子さんに話せなかったのは、おれが甘かったからだよ」
「違う。俺が、人間みたいなことをしなければ…」
黒の発言に、塔子が少し不思議そうに首を傾げる。
確かに黒が油断していなければ、隠し続けられただろう。
でも、それは違う。
夏目は静かに首を横に振った。
「…そんなの、悲しいだろ」
「夏目?」
「おれが、黒の存在を認めていないみたいで…」
大好きな家族と過ごす空間と、大好きな黒と過ごす空間。
本当は、別々じゃなくて、一つに出来たならそれが一番良いに決まっている。
それも何もかも全部、決める権利はこの藤原家にある。
だから夏目は膝の上に乗せた手をきつく握りしめ、塔子の反応を待った。
「貴志君」
勝手に見知らぬ男を家に招き入れた、それだけで叱られるには十分すぎる。
それが分かっているから、夏目は塔子の声にびくと肩を揺らした。
「私はね、怒っているんじゃないの。そりゃ、驚いたけれどね?それよりも、悲しかったわ」
「塔子さん…」
「相談一つしてくれないんだもの」
塔子の言葉は、夏目の不安を優しく包み込む。
パッと顔を上げると、夏目の予想に反して塔子は微笑んでいた。いつもと変わらない様子で、優しく目を細めている。
「大丈夫よ、彼とはもう話して分かっているから」
「え…」
「何も覚えていないんですってね?それで彼も、貴志君の傍にいたいだけだって」
追い出したりしないわよ、と笑う塔子に、夏目は茫然と開いた口をそのままに言葉を呑み込んだ。
ニャンコ先生のお尻がモフと足に乗っかっている。
「馬鹿だな夏目」と、笑われているかのようだ。
「塔子、安心して欲しい。俺はこの家に一切関わらないし、何の害も与えない」
「いやだわ、そんな…」
「俺は、いないものと思って構わない。夏目の、ほんの少しの時間を、俺にくれればそれでいい…」
黒が声を殺して言う。
それに対して、塔子は肩をすくめて苦く笑った。
異様な光景だった。妖である黒と、妖の沙汰に巻き込まないよう守っている塔子が、同じ空間で会話をしている。
「まあ、とにかく!貴志君、今回は許したけれど分かっているわね?」
「は、はい!今度からは…絶対に、まず相談します」
同じようなことが二度あるとは思えないけれど。
しゃきと背筋を伸ばしてそう誓った夏目に、塔子は椅子から立ち上がり近付いた。
「ふふ、彼、格好良いわね。年甲斐もなくドキドキしちゃうわ」
耳打ちするように、ひそめた声が言う。
その言葉につられて黒に目を向けると、黒も丁度椅子を立ったところだった。
申し訳なさそうにしたまま、夏目の横を通り過ぎる。
「あ、黒…」
呼びかけても黒が振り返ることはなく、そのままリビングを出て行ってしまった。
自分の失態を責めているのだろう。
「その…黒さん?とても落ち込んでいるようだから…貴志君、宜しくお願いするわね」
「はい…。あの、本当に」
「謝らなくていいの。滋さんには、私から説明するわ」
難しそうだけど、と言いながらもやはり微笑んでいる塔子に深々と頭を下げ、夏目も椅子から立ち上った。
それから黒を追いかけるように、慌ててリビングを出る。
ほんの少し前、先に上がっていったはずの足音は既に聞こえない。階段を上がっているのは夏目ただ一人。
部屋に足を踏み入れると、窓際で長い髪の毛がふわと揺れていた。
「…黒」
先程とうってかわって、和装に身を包んでいる。
顔は同じだ、なのに纏う空気があまりにも違い、夏目は一瞬近付くのを躊躇った。
消えてしまいそうだ。
今にも、窓からすり抜けて、どこかへ行ってしまいそう。
「黒、行くなよ」
「はは、どこへ」
「どこにも…」
手を黒の方へ伸ばし、ゆっくりと足を進める。
夏目に迷惑がかかることを何より恐れている黒がここを離れようとしたことは何度もあった。
それを引き止めたのは、夏目だ。夏目しかいない。
「そうだ、黒。どうして、人間の姿でいたりしたんだ?」
「ああ…、うん、人間になれるような気がしてな。ずっと、人間の姿でいれば、と…」
「え…」
「今までも何度か、塔子が出かけたのを見計らってそうしていた。でもまさか寝ちまうとはな…」
無理をして気丈に振る舞っているのが、その声の微かな震えから感じ取れる。
こちらを見ないのも、自分を責めているが故だろう。
「おれは、黒が妖だとか人間だとか気にしてないよ」
「分かってる…。俺が、そうせずにいられないだけだ」
「黒、こっち向いて」
「…」
夏目の指がくいと黒の着物を引く。
視線を交わしたい。その深い色の瞳に自分が映るのを確認したい。
夏目が前のめりに覗きこむと、黒は細めた目で夏目を見下ろした。
「たまに、唐突に不安になるんだよ、夏目。俺は一体何なんだってな」
「不安…?」
「夏目が困っている。俺を説明するときに…姓もない、職もない、家族も、生まれた地も、何もない俺を、表す言葉がないからだ」
「っ…」
言葉を詰まらせた夏目は、思わず黒の腰に腕を回していた。
布越しの体温はない。
それでも確かな質感。黒はここにこうして存在している。
「馬鹿だな、夏目は何も悪くないって」
「黒が悲しむのは、いつもおれのせいだろ?」
「…、あぁ、そりゃ俺が…あやかし風情が夏目に惚れてるんだから、仕方ないよな」
「なんでそんな言い方するんだよ…」
夏目が自分の頬を黒にすり寄せる。
ぴくと体を震わせた黒は、静かに夏目の肩を掴んだ。
引き剥がされる、それが分かって、もっと強く抱き締める。
「分かってんのか、夏目。今お前は滑稽だ」
「滑稽に見えるなら、それでいいよ。おれは…黒をこうしていたい」
「でも今塔子が来たら、夏目は俺から離れるだろう」
「あ、当たり前だろ…!そもそも男同士がこんなの、…」
夏目は思わず上げた声を、はっと呑み込んだ。
腕を緩めて見上げた黒の顔は、何を考えているのか分からない。真っ黒だ。
「…黒、ごめん」
「いや。正しい。夏目が正しいよ」
「…、」
息が苦しい。
どうしても噛み合わない。どうしても二人は間違っている。
人の目に見えていても見えていなくても、この関係は歪んでいるのだ。
「はは…」
またネガティブになってしまう。
そう不安になりかけた夏目の目の前で、黒が肩をすくめて破顔した。
「え、ど、どうしたんだ」
「ん…嬉しいよ夏目。お前がこんなにも俺を思ってくれることが」
「何を今更…」
「今更なんてあるものか。俺はずっと、夏目がいる間はずっと…お前に感謝し続けるだろう」
黒の掌が夏目の頬を包み込む。
それから額に、身元に、鼻先に優しく唇が触れた。
「黒、口も…」
「いいのか?」
困ったように眉を下げて笑う黒に、夏目は「うん」と小さく頷いた。
黒の親指の先が唇に触れ、唇が一瞬重なる。
じわじわと体が熱くなるのと同時に安堵故か全身から力が抜け、夏目はその場に座り込んだ。
「っ夏目!?」
「良かったよ、ちゃんと塔子さんに話せて。本当はずっと、黒にも堂々とこの家にいて欲しかったから」
「何を…」
「もうおれにとっては、家族と同じくらい大事だから」
冷静になった今、夏目は自分が心底喜んでいることに気が付いた。
自分の大好きな人を、大事な家族に隠している生活を、本当はもどかしく感じていたのだ。
「黒、話す機会を作ってくれてありがとな」
「…本当にお前はいい子だな」
「子ども扱いするなよ」
むすと膨れた夏目の頬を、黒の指がつんと突く。
だから子供扱いするなって言ってるのに。
不服を申し立てるために黒を見上げれば、あまりにも綺麗な笑顔がそこにあった。
それだけで満たされる。
吸われた分、返されるような。与え合っているような。
夏目は釣られて笑いながら、黒の無防備な頬に唇を寄せた。
・・・
その日を境に、黒は人間に変わる明確なきっかけを作るようになった。
友人が家を訪れた時みたいに玄関から家に入る。そして玄関から出ていく。
それ以外はいつも通りだ。いないようで、ずっと夏目のそばにいる。
「ごめんなさいね、貴志君。滋さんのこと、説得できなくて」
「い、いえ!当たり前ですよ。赤の他人、しかも大人の男を家に上げるなんて」
申し訳なさそうに言った塔子に、夏目は一瞬声を詰まらせた。
部屋には今も変わらず、着物を身に纏った黒がどっしりと居座っている。
結局家族を騙しているみたいな状況だ。
「そういえば…あの日、彼ったら面白かったのよ」
そんな夏目の妙な反応に気付くことなく、塔子はポンと手を打った。
彼とは、恐らく黒のことだろう。
黒のことを話す時、塔子は少し照れ臭そうに頬を緩める。
「私が貴志君の部屋に入って声を上げちゃって、寝ていた彼を起こしてしまったんだけど」
「そう言ってましたね」
「えぇ、でもその時にね?目が合ってるのに、自分を見ていると思わなかったみたいなのよ。不思議そうに辺りを見渡して」
寝ぼけていたのかしら、と笑う塔子に、夏目は頬に汗が流れるのを感じながら笑い返した。
普通の人間の目に映らない黒は、無意識に塔子の視界に入るはずがないと思い込んだのだろう。
「その後に…私の聞き間違いでなければね?」
「何か言ったんですか?」
「そうなの。‟俺が見えるのか塔子”って」
名前を呼ばれたから驚いたのよ、と。
塔子は年若い少女のようにコロコロと笑い、手のひらを自身の頬へ添えた。
「彼とても綺麗でしょう?だから私、天の使いなのかと思ったの」
夏目は薄く口を開いたまま、恥ずかしそうにはにかんだ塔子から目を逸らした。
視線の先には、腕を組んで壁に寄りかかっている黒。
その黒もまた、照れくさそうに唇を尖らせ、心なしか頬を赤らめている。
「…そう、かもしれませんね」
「ふふ、でしょう?」
ぽつりと零した夏目の言葉に、塔子は嬉しそうに笑った。
もしかしたら、いつか、家族にだけは本当のことを話せる日が来るかもしれない。
口元の緩んだ黒の横顔に、夏目の顔も綻んでいた。
(第八話・終)
追加日:2017/11/12
移動前:2017/05/06