初恋は純白であれ
3年に上がった。
流石に三年間とも同じクラスにはならないだろうと思っていたが、その予想は深津を裏切った。
「3年目もよろしくな、一成」
「よろしくピョン」
「三年間一緒ってあるんだなぁ」
「若干飽きてるピョン」
「……」
「…うそピョン」
ベシからピョンへ、口癖も変わった深津の変化にも慣れるほど長い時間一緒にいる檜山は、見知った顔が一緒にいて良かったと深津に話す。だがその口ぶりには以前ほどの明るさはなかった。
山王工高で3年目ともなると、主力である深津はバスケ部の主将となった。そして夏には全国大会も控えている。深津にかかるプレッシャーは凄いものだったが、本人は極めていつも通りだった。
深津も檜山もお互いに部活動の追い込みがあって、話す機会は以前より減ってしまった。
というのも檜山は、故意に深津を避けていたこともある。バスケ部は王者山王、最強山王と有名で、その評価はバスケを知らない者だって知っている。
そして深津は日本一のガードとまで言われているらしい。今年の山王は特に強いとのことで、アメリカへ遠征に行くほどだ。
おそらく深津はこのままどこかプロのチームにスカウトされるか、あるいは大学から推薦をもらうだろう。
対して檜山は、もともと山王工高の野球部は平均的で、自分も至って普通の野球部に所属する、どこにでもいる高校生だった。スカウトやらプロやらは雲の上の話だ。早々に引退した後は、進学の為に受験勉強を進めていた。
自分の勉強のため。そう言えば聞こえはいいが、深津を見ていると、自分とは生きている世界が違うのだと、自分を卑下してしまうようになった。そんなことを友達に思うのも考えるのも嫌で、何かと理由をつけては関わるのをやめていた。
その山王が、インターハイ初戦敗退。
沢北から広島で行われる試合に観に来ないかと言われたが、その日は模試があって無理だと答えた。
深津なら大丈夫と見送った、はずだ。
最強山王が初戦敗退、そのショックは試合を観ていない自分ですら大きく、ますます深津に合わせる顔がなかった。戻ってきた山王のバスケ部員たちはみんな消沈していたどころか、むしろ燃えていたとバスケ部を見た奴等は話していたが。
夏休みの間、たまたま部活に顔を出した時に久しぶりに深津とすれ違ってしまった。相変わらず眉ひとつ動かない無表情っぷりで、少し変わったことといえば、語尾が「ピニョン」になっていたことぐらい。
「久しぶりピニョン」
「お、う…久しぶり」
あれ?今まで深津となにを話してたっけ?
話題がなくなって、思わず黙り込んでしまった。
恐る恐る深津の顔を見ると、深津は無表情のままだった。その視線以外は。なにを考えて、なにを映しているのか分からない墨を落としたような黒い目が、自分をじっと見ている。
「勝吾?」
「あ、ごめ…」
「見すぎピニョン。顔に穴が開く」
「あ…はは。ごめん…」
深津の手はこんなに大きかっただろうか。
見ない間に深津が大人になっているように見えて、身体が強張った。
「今日、部屋に行ってもいいか?」
「へ、部屋?いい、けど…」
自分が妙な態度をとっていることが不自然に思えたのだろう。夏休み前から意識して避けていたのだ、深津からすれば気分のいいものではない。
「ぼうっとして変だピニョン」
勉強し過ぎピョン、深津はそう言うと後輩に呼ばれて離れていく。
深津は以前と変わらないままで話しかけてくれた。自分だけが不自然な反応を返してしまってはいたが、話せたことに胸の奥でひりついていた何かが少しだけ収まったように思えた。
深津の方から気を遣ってくれたのだ。それが余計に申し訳なくなるし、自分がガキすぎると自己嫌悪に陥ってしまう。その一方で、すすのようにこびり付いたものがあった。深津に隠している“あること”があった。
昼間あれほどうるさかった蝉がどこかへ行ったのか、今は蜩が静寂の間を埋めている。
檜山の部屋に入ると、自分と同じ部屋で何も変わらないはずなのに、そこにある彼の私物や部屋に充満する彼の匂いに、それだけでため息をこぼしてしまう。
檜山の様子が変なのはずっと前から気付いていた。学年が上がってから、彼は前ほど話しかけてくることはなかった。
背中を向けたままの彼に、深津はまどろっこしいことを考えずにはっきりと切り出した。
「勝吾、ずっと前から変だピニョン」
「…うっ、」
「何かしたなら、謝るよ」
檜山は振り返ると「違うんだ」と泣きそうになりながら深津に近寄った。
「俺、馬鹿なんだ」
「それはまあ、知ってるピニョン」
「勝手に一成と比べて、俺は違うからって、自分が嫌になって」
「…うん」
「それで俺、…んなこと、…友達に思うのも、最低だって…それで、避けて…」
ごめんなさい、と檜山は途切れ途切れになりながら言うと、大きな目から涙をポロポロとこぼし始めた。寮生活で受験勉強をしていて、一人でいろんなプレッシャーに耐えていたのだろう。とはいえそこまで思い詰めていたとは知らなかった。避けられていたとしても、今日みたいに強気で会うべきだったのかもしれない。
それにしても檜山はやけに泣き止まない。ごめんとしきりに言い続けている。まるで何か悪いことをした子どものようだ。
深津は他に気になっていたことを、そのまま正直に聞く。
「まだ、悩んでることあるピニョン」
「……へ、なんで、…わかるんだ…?」
「……いつも見てるから」
「…はは、やっぱ主将ってすごいな」
「そうじゃない、俺は、ずっと勝吾のことが好きだ」
───言ってしまった。
檜山は深津の顔を見ることができないのか涙を拭うこともせずに顔を赤くして下を向いている。
長い沈黙の後で、深津は耐えきれずに檜山の肩に腕を伸ばした。手を触れた瞬間、檜山はビクッと肩を揺らす。
「…その、勝吾…」
「…んで」
檜山は顔をゆっくりと上げて、深津を見上げる。斜光が深津の顔を半分照らしている。その顔はわずかに微笑んでいた。檜山は部屋の影から目を背けるように顔を歪める。
「…なんで、お前ら揃って、そんなこと言い出すんだよ…」
お前、ら?
深津はわずかに上がった体温が一気に冷めていくのがわかる。足の先から床に向かって、熱が引いていく。それに反して心臓はうるさく動き始めて全身の血管がどくどくと騒いで、檜山の肩を握る手に力が入った。
そのまま、力任せに檜山の肩を押してベッドに突き落とすように押し倒した。いやだ、やめろ。下からそんな悲鳴にも似た声が聞こえてくるが、雑音他ならない。ああうるさいな、そんな気持ちでキスをすると、乱暴なままでぶつかったそれは、歯が当たって唇を噛まれてしまう。
ちく、と針で刺すような痛みに一瞬顔を歪めるも、そのまま流れる血を潤滑油にして檜山の口に舌を滑り込ませた。ぬるりとしたなめくじのような舌の感覚に気持ち悪さを覚えながらも、焦がれた相手の口内の感覚と唾液の感触にこれ以上ない快楽もあった。檜山の潰れた悲鳴に、強い薬か酒でも飲んだみたいに何も考えられなくなる。
その快感から腕を上げられるように覚めたのは、檜山が背中を叩いてきたからだ。ゆっくりと口を離せば、檜山の薄い唇は赤くなっていた。唾液が糸を引いて、ぷつりと切れるとそのまま檜山の口の端から垂れていく。
檜山の身体にのし掛かったまま、お互いに息を荒げていた。制服が皺になっているが、そんなことはもはやどうでも良かった。
「……アメリカ、行っただろ。沢北…」
檜山の口から出てきた男の名前に、深津はそのまま顔の横に手をついた。その先を聞いてはならない気がした。檜山の瞳に映る自分の顔は自分ですら見たことがないほど黒い目で睨んでいた。
「…行く前の日に、同じこと言われた。好きだって」
多分いまの自分は数日前の沢北の姿そのままではないかと思う。暴れて乱れた制服のシャツの隙間から、檜山の首元に赤いあざが見えた。
「俺、そんなふうに見れなかった。だって、友達の後輩だろ。それ以上に見れるわけない」
「そう言ったら、一回だけで良いからって言われて…気付いたら、俺…」
「か、一成のことも…友達なんだ…俺にもったいないぐらいの大事な友達なんだよ……」
深津は檜山がしゃくり上げながら話す言葉を何処か他人事のように聞き流しながら、腹に手を添わせて、シャツをゆっくりとたくし上げた。
腰元に痛々しく指の痕が残っていた。赤黒いそれは触ればいまだに熱を持っていそうだった。胸元には齧り付いたような痕まである。まるで今ここにいない沢北から『この人は俺のもんだ』と言われているみたいだ。
「一成のことまで嫌いになりたくない」
檜山は涙を流しながら懇願するように、深津の制服に縋り付いてそう言った。深津は冷め切った手で檜山を抱きしめた。
「染まらないで欲しかった」
うなじにまで走る赤色を見て、授業中眺めていたまっさらな彼のうなじを思い出す。深津はゆっくりと檜山から離れて「ごめん」と謝った。