初恋は純白であれ
それから檜山とは友達になった。
部は違うけど、会話をしていて楽しかった。
バスケをしている時も楽しい。心臓が跳ねて、うまく息がつかないが苦しいものではない。心地よい昂揚感がある。
それに近いようで違う。檜山と話していると、楽しいと思う感情の裏で、もっと、と自分の知らないどこか深いところから欲が出てくる。それに気付いて欲しいし、気付かれてはならない。彼の知る由のない、自分の中の密かな攻防戦だ。
そんなこんなであっという間に2年に上がると、檜山とはまた同じクラスになった。『檜山勝吾』『深津一成』と、校舎に張り出された名簿表に、二つ並んだ名前を見て、思わず口が弛んでいないか手で覆ったぐらいだ。
「今年も同じクラスでよかった〜!」
「でも2年は流石に宿題見せないベシ」
「ハイ…気をつけマス」
「自分でやれベシ」
「厳しい」
檜山が笑顔で肩を組んでくる。息が、声が、熱が。すぐそばで伝わってくる。
お互い一年間部活に励んで、成長期も加わって、一年の時より体躯が変わったのが目に見えて分かる。自分の肩にぶら下がる檜山の腕の筋肉が、制服のジャケット越しに伝わってくる。そして自分も、檜山より背を軽く越した。一年の時は同じぐらいだったが、それから5センチほどさらに伸びた。檜山は175センチと言っていたっけ。
「もうバスケ部で主力選手なんだよな。インターハイ決まってんだっけ」
肩に腕を回したまま次の話題を話す檜山は、こういう時、少しだけ上目になる。他より色の薄い瞳が見上げてくると、虹彩に自分だけが反射しているのがよく分かる。俺しか知らない景色だ。
「檜山もスタメン入りって聞いたベシ」
「3年が引退したからね。野球はバスケより人数多いからさ、3年が抜けたとこにただ入っただけだよ」
檜山は手を振って謙遜する。
「深津こそあんだけ部員数いるのに凄いよな。次キャプテン候補じゃねーの?本当すごいよ。部違うけど、俺も頑張ろうって思えんだよね」
カッコいいよな。
何気ない檜山の一言にいちいち身体の熱がカッと上がりかける。平常心を心掛けていても、こうした熱は寝る前の、布団に包まった時にまたもう一度ぶり返してきて困るのだ。
「深津!」
ある日の部活終わりに体育館の出口で檜山が手を振っているのが見えた。野球部とバスケ部は練習の時間がそう噛み合うことはない。だから待ち合わせるとかはあまりしないが、今日の檜山は制服のままだった。何か忘れ物でもしたかと檜山のところへ寄る。
「檜山?どうした?」
「ごめん、お疲れさん。練習終わりそう?」
「最後にメニューの仕上げやって、片付けて…明日に向けて5分ミーティング…で、終わりベシ」
「さすが、大変だな」
「部活は?」
「こっちは顧問が急きょ出張になっちゃってさ、練習も早めに切り上げたんだよ。もし終わってたらな、って思ったけど…まー、ウチみたいに暇じゃないよな」
彼を引き留めたい。しかし引き留めたところで。
頭の中でいまからすることを超駆け足でやったとしても、彼をいくらか待たせてしまうのが目に見えて分かる。
「檜山、」
「深津さーん、言われてたぶんのメニュー、一年終わりました」
檜山、と発した言葉の先を言う前に、後輩の何気ない報告で遮られてしまう。
「あれ、もしかしてサボってたり?ダメですよ」
入部したてほやほやのスーパーエースと名高い後輩が、軽々と練習を終わらせて涼しげな顔をしながら近づいて来る。深津の背中で隠れていた檜山に気が付かなかったのか、脅威の一年生は深津の隣に並んだ瞬間「うわ!びっくりした!」と大声を上げた。
「お前の声の方がびっくりするベシ、沢北」
「いや、まさかここに人がいるなんて」
沢北はふー、と胸を抑えて大袈裟なふりを挟んだ後、檜山のことを遠慮なしにジロジロと上から下まで見た。
「……先輩、スか?それとも入部希望者…?」
「違う。こいつは俺のクラスメイトベシ、バスケ部じゃない」
「あー!そうなんですか!」
どうりで見たことねー顔だと思った!と沢北は遠慮のないリアクションを繰り返す。深津は今日一番長いため息をついた。この後輩がここに来ると調子が狂う。
練習へ戻って欲しい、河田に呼び出してもらおうか。そんな気持ちで後ろを振り返った時、沢北は檜山の顔をまじまじと見てつぶやく。
「だってこんな綺麗な顔、見たら忘れないもん」
調子が狂うのではない。腹の調子が悪いみたいに気分が落ち着かなかったのは、これは多分何か直感めいたものだ。沢北の言葉を聞き逃さなかった。
何を言われたのか分からずに固まっている檜山といつの間にか距離を詰めている沢北に、深津は何かがぞわりと背筋を走り抜けた。
「…や、ごめん!邪魔したわ。とりあえずこれ、差し入れ。ただのポカリだけど」
「え、いいんスか!」
「時間通りに終わったし、ちょっと余ったからさ。こんだけしかないけど終わった後にでも飲んで!それ渡しに来ただけだから」
「嬉しい、ありがとうございます!」
「いやいや、温くなってねーかな」
檜山は沢北から少し目を逸らしながらも、いっぱいに入って膨らんだビニール袋をぐいと深津へ押し付ける。檜山の反応に少しだけ生温い安心感が広がっていく。
「ごめん、練習邪魔して。また明日」
深津に向けて言ったのだと分かる、檜山のまた明日という一言で、さっきまでの不安な感情が少しだけ水で薄めたように軽くなる。
「どうせあとちょっとで部活終わるのにね。深津さん」
まるで深津がさっき言おうとしていたことを見抜いているようにそう言った沢北は、大きなスポーツバッグを抱えて帰る檜山の背中を最後まで見送ることはなかった。深津の持ったビニール袋から勝手に一缶取り出して「ゴチです」と言って練習へ戻って行った。
部活が終わった後、寮の自室へ戻る前に檜山の部屋の扉を叩いた。中から檜山が気怠げそうに顔を見せる。
「あ、おつかれ」
「…お疲れベシ」
自販機の前にあるベンチに二人並んで座る。
今日のポカリの礼で、檜山にコーヒー缶を渡した。甘いのは苦手らしい。
「…今日」
「うん?」
「後輩が、困らせたベシ」
「ん、…んー!あれか。いや、いいよいいよ。気にしてない。たまにいるよな、コミュニケーションの神様みたいなやつ」
缶を煽りながら相槌を打つ檜山は、昼間のことを思い出して吹き出しそうになっていた。沢北がコミュニケーションの神様…か、どうか分からないが、あの物言いは流石に誰が言われても困るだろう。沢北にほの字の女子以外は。
「びっくりはしたけどさ」
「言い聞かせておくベシ」
「ははは、まあ面白い後輩ってことで良いんじゃない」
「…でも」
「ん?」
「…綺麗だとは思う」
「何が?」
「…お前の顔」
そう言うと檜山は少し固まって、「ぶはは!」と大声で笑い始めた。
「なんだよ、そんな冗談言うキャラだっけ?」
「前言撤回ベシ」
「まさか本気?」
「もう思ってないベシ」
「悪いって、あはは。深津の口から綺麗とか、くくく…」
冗談と思われている。本心のつもりで言ったが、彼が笑っているならそれで良い。
「でも俺は、深津の方が綺麗でかっこいいと思うぜ」
「…は?」
「他校の子が深津を探してたの見たことあるし。何なら俺、他校の女の子から『深津君に』ってバレンタインのチョコ渡されちゃったしな。去年一緒に食ったじゃん。あれ本命だぜ?多分」
「知らない女子が本命渡すわけないベシ」
「あー!なんつー言い方…女の子の勇気をよ……罪な男め」
「檜山も貰ってたベシ」
「俺のは友達の姉ちゃんから貰ったやつだよ!義理だよ義理…なに、傷抉るのやめてくれる?深津君…」
檜山はそう言うとこちらに身体を向けて、覗き込むように見つめた後、「うん。確かにかっけえ顔だよな」と言った。心臓が痛いほど騒ぎ立てる。昼間の沢北の仕草を真似してるかのようだ。
「まつ毛長いし、目はパッチリしてるしさ。なんていうか…賢くてクールって顔だろ?俺みたいに馬鹿っぽい顔してねーじゃんか」
「いや、…」
「お、何?照れてる?あの深津が?これ雪降るな」
照れてるとかじゃない。気付けば目で追いかけて、日頃喋って触れ合うだけじゃ足りなくて、もっとと求めてしまう相手から、こうも自分のことを真正面から褒められてまともでいれるわけがない。平常心は初めから存在してないみたいにどこかへ行ってしまっている。子どものように笑う檜山は、ベンチから立ち上がって飲み干したコーヒーの缶をゴミ箱に入れた。
コーヒー一缶分の時間。本当はまだ話していたいが、彼の瞼が重そうにしているのが分かる。
「そういやさ。さっき何言いかけてたんだよ?」
体育館でのことだろう。彼を引き留めようと思って檜山と名前を呼んだ。何を言うつもりだったのかと聞かれても、今更それを答えられない。あの時多分、彼をここで引き留めるのは無理だと思って、「部屋で」と言おうとしたのだ。今みたいに少し話したかったから。
「……一成でいい」
突拍子もないことを言った、と思う。自分でも。
「え?」
檜山は目を丸くして何を言われたか分かってないような顔をしている。
「もういいベシ」
「い、や…ちょっと待って、ビックリしてる…」
「……」
「違う違う、なんつーか、嬉しいんだよ。深津…が、なんか…そんなふうに言ってくれるの…」
檜山は手のひらで口を覆いながら、目線を泳がせてこちらを見上げる。若干の眠気と笑ったせいで、うるんだ目が自分を見ている。
「呼んでいいの?」
「…別に、たかが名前ベシ」
「でもほら、深津ってクールだしさ…こう言っちゃなんけど、なに考えてるか分からないみたいなとこあるだろ」
「……」
「その深津から名前で呼んでいいって言われんの、ちょっと特別感出るじゃん」
「お前の特別、しょぼいベシ」
「うるせ、ちょっと待って……ん、…んん゛っ!ごほん」
檜山は少し頬を染めて、目を逸らした。
「…か、かず、なり……サン」
「……さんって」
「…いや、今更下の名前で呼ぶの、想像以上に恥ずいぞ?…結構緊張すんだよ、なんか…」
「だからってさん付けは余計に変ベシ」
「うるせえな…フェアじゃねーぞ、俺のことも下の名前で呼んでみろよ!」
「明日やるベシ。別に今やれとは言ってないベシ」
「は?なんだそれ、ずるいだろ」
人の顔をカッコいいだとか素面で言いながら、名前を呼ぶことは恥じらうらしい。変なやつだ、と深津は思う。この妙な浮遊感と、吐き出したくなるような甘ったらしさを飲み干すように、缶に残ったぬるい液体を勢いよく煽る。もはや味は分からない。
「んじゃ、…また明日な。おやすみ、…一成」
檜山は、照れ臭いのか早口でそう言うとそそくさと廊下を早歩きで歩いて行った。あんな顔で廊下を歩いて大丈夫だろうか。
空になった缶を持ってゴミ箱に捨てて、さっきまで座っていたベンチが目に入る。彼が座っていた場所に手を伸ばした。こんなことをして変態かと自覚はある。手のひらに微かに感じる熱に、彼の表情を思い出した。
「…勝吾」
名前を呼んだ自分の声が、今まで聞いたことがないほど熱に浮かされていた。もう綺麗事で済ませられないほどにこの感情が膨らんでいるのだ。こんな感情も、要らなくなった缶のように捨ててしまえれば良いのにと自分を笑った。
「お…おはよ、一成」
「おはようベシ」
翌朝、檜山は少し挙動不審だった。口元を妙に歪めて、目線は明後日の方を向いている。
「なに変な顔してるベシ」
「おま…、お前だって、昨日照れてたくせに!」
「無いベシ、気のせいベシ」
ポーカーフェイスと先輩や監督によく言われるが、心底良かったと思う。
授業が始まって、彼の後ろは特等席だと思う。彼の背中を眺める60分が教師のつまらない話を退屈させずにいてくれる。白いシャツ越しに、背中の筋肉と骨が浮き出ているのが分かる。その背中に手を触れたら一体どんな反応をみせるんだろう。
彼に自分の名前を呼ばせた。彼に自分の顔を褒められた。嬉しいと言われた。昨日のことが頭の中で流れていく。
授業中だと言うのに、頭は妙な妄想に耽ようとする。
例えばこれからもっと、いろんなことを二人の間だけでやるとしたら。彼はどんな反応を見せるだろうか。例えば彼の名前を呼びながらその真っ白のシャツをたくし上げたら、一体どんな顔をするだろう。どんな恥じらい方をするだろう。彼は俺になんと言うだろう。彼自身すら知らない彼を、俺が教えてみたい。そんな気持ちが湧き上がる。彼に自分以外の色を染め付けたくない。
隣の席の男子は、その時の深津の顔を見て内心怯えていた。普段は無表情な彼が、目尻を蕩けさせながら目の前の男を睨んでいたのだから。