初恋は純白であれ
『初恋 は純白であれ』
昔、小学校の図書館にあった小説にそんな一行があったのを覚えている。読書感想文を書くために借りた本だった。当時はその言葉の意味が分からなくて家に帰って母に聞いた。母は困ったように笑って「いつか分かる日が来るわよ」と言った。
それから月日は流れに流れて、高校生になった。
バスケットボール部が強い山王工業高校に進学した。
頭の中は、学校生活や学業よりも部活のことでいっぱいで、クラスのやつがどうかなんて興味もなかった。
黒板に張り出されたA4ほどの白紙には、教室の机の間取りが書かれており、そこに五十音順で名前が記されていた。
(は、ひ、ふ………あった)
『深津』と書かれた自分の欄を見て、席が後ろから3番目であるのを確認して、そこにさっさと腰を落とした。場所はちょうど良かった。
鞄を机の横にかけて、中から筆記用具の入った筆箱代わりのポーチを取り出す。鞄の中にはタオルと体育館シューズが入っていて、その隙間からバスケットボールの雑誌が覗いていた。流石に浮かれすぎか?これ出して読んでたらちょっとな。出すかどうか迷った後、タオルで覆って鞄のチャックを閉めた。
周りの生徒たちは初めて見る顔に緊張と期待が入り混じった笑顔で、ぎこちなく挨拶を交わしていた。
どこの中学出身だ、なんの部活に入るのか、中学は何をしていたのか。そんなありきたりな質問でお互いを探ろうとしている。他人事のように見ていた深津だったが、自身も例外ではなかった。
トントンと肩を叩かれて深津は反射的に見上げると、眼鏡をかけた男子生徒がガチガチに固まった状態で「お、おはよう」と挨拶をしてきた。声が少し裏返っている。
「…おはようベシ」
「……ベシ、ってどっかの訛り?」
「………」
「あ、あの、もしかしてバスケ部?髪型…」
「…まあ。そっちもバスケ部に入るとか?」
「いや、僕は別に…」
「……」
深津といえば、この変わった口調がチャームポイント…といっていいのか。そんな特徴があるが、お互い初対面でそんな深津の特性など知るはずもない彼は、一度その語尾に戸惑う。しかし目の前の生徒はそんなことよりも、途切れた話題に気まずくなったのか、「うちのバスケ部強いもんね、頑張って」と会話を無理やり締めくくると、仲間内のところへ一目散に走って行った。
話題に詰まるぐらいなら初めから話しかけなきゃ良いのに。こっちが話を膨らますとでも思ったのか。
「……はあ」
ため息をつくつもりもなかったが、自然と息が溢れてしまう。こういう場面では第一印象が肝心だと雑誌やテレビでうるさく言われるのを思い出す。
そうすると今の俺の態度は最悪か?そうだったとしても、好きに思えばいい。
深津はこれからクラスメイトとなる彼らの挙動には興味が湧かなかった。
「よーし、席つけよ〜。ホームルーム始めるぞ」
そうしているとすぐに担任らしき教師が教室へ入ってきた。教壇に立って手に持っていた生徒名簿らしきものをトントンと叩いて響かせる。
「お前らちゃんと自分の席確認できたか?間違って座ったやついないか〜……よし、確認も兼ねて自己紹介でもするか……んだお前ら、嫌そうな顔すんな。どうせ遅かれ早かれやるんだから。さっさとした方が楽だろ?」
その前に、と教師はまず自分の自己紹介を済ませた。
名前と年齢と好きな食べ物と、担当科目を冗談混じりで話して生徒の緊張をいくらか和らげたようだった。
一人ずつ起立して名前を言っていく。
順番が近づいてきてるみたいで、ハットリです、とか聞こえてくる。そのハットリの自己紹介が済んで、パチパチパチと乾いた拍手の音が教室で響いた後、深津の前に座る男が勢いよく椅子をガタン!と引いて立ち上がった。
深津の机に椅子が当たって、深津はついそこを凝視してしまう。
「檜山勝吾です。好きな食べもんは、…えーと、まあ、なんでも食べます。部活は、野球部に入ろうと思ってます。頭丸いから、バスケ部志望か?ってめっちゃ聞かれますけど。実は野球部なんです。バスケはからっきしダメです。一年間よろしくお願いします」
4月の真新しさをひっくるめたかのような、明朗な声が教室中に響き渡る。檜山と名乗った深津の前の男は一礼すると勢いよく椅子を引いて座る。確かに頭は坊主だった。体格も良いらしく、これはバスケ部入部希望者かと聞かれてもしょうがないだろう、そんな見た目だった。
それにしてもバスケじゃなくて実は野球部と前に言われた後で「俺はバスケ部希望」と言うのはなんだか小っ恥ずかしく感じた。深津はまだこの新しい空気に慣れきれていなかった。
名前だけ言って、他に何も言わなかった奴もいる。これで行こう、深津はゆっくりと立ち上がった。
「深津一成です。…一年間よろしくお願いします」
簡潔に済まされた自己紹介に、担任が少し驚いた表情をしていたのを覚えている。“同じ坊主なのにノらないのか”、みたいな。ノリが悪いとか良いとかじゃない、俺の前にいたやつが変なハードル上げたせいだ。深津は内心そう思った。
ホームルームではいろいろレジュメのようなものを配られた。その中には仮だが、入部届もあった。
もう書いてしまおう。ここに来た理由ははじめからこれしかない。筆箱からボールペンを取って書き出そうとした時、深津は声をかけられた。
「なあなあ」
「……」
声をかけてきたのは目の前に座る檜山だった。
「深津君…だっけ。えっ、もう入部届書いてんの?」
「俺は野球じゃなくてバスケ部に入る」
「あっ!そうなの!?…やっぱそーか…バスケ、強いしな…」
デスヨネ…と檜山は勝手に落ち込んでいる。
やはり髪型の雰囲気だけで若干淡い期待を持っていたのだろう。
「つか…言いづらくさせちゃってたら、ごめんな」
「気にしてない」
「…そ?なら、いいけど…」
深津は入部届にペンを走らせながら、檜山を見ることはなかった。さっきの自分の自己紹介で妙な空気を作ってしまったと謝られたが、もうそれは済んだことで、どうでもいい。投げやりに返した返事にも関わらず、檜山の視線を変わらず感じて顔を上げた。何見てるんだと言ってやるつもりだった。
檜山と目が合った瞬間、言うつもりだった言葉が出てこなかった。喉の奥で何か詰まりでもしたかのように、息苦しさを感じた。
定規で引いたような鼻筋に、大きくて虹彩の薄い目。自分とは反した薄くて形の良い唇が弧を描いて、人当たりのいい笑顔をこちらに見せていた。
一目見た感想は、綺麗、だった。こんな感想を持ってしまうのは違っている。どうせなら男前だとか、そう思えば良いのに。理由は無いが悪いことをした気分で、漠然と否定する。咄嗟に目を逸らした。
ドクンと大きな音がする。体育館の床に響くボールの弾ける音のような、そんな音が聞こえてくる。
「深津君?え、もしかして鼻毛とか出てる?俺」
「いや。なんでもないベシ」
「逆に気になるよ、なんかついてた?」
「何もないベシ。見た目だけなら、……えっと」
名前を忘れた、みたいに誤魔化すのは少しでも気持ちを落ち着けたかったから。
「あ、檜山」
「…檜山こそ」
「バスケ部みたいって?いやー、俺バスケは全然でさ…同じ球技なのにな。変だよな、はは」
檜山は白い歯を見せて笑う。笑う姿まで絵になる男だ。人生で初めてこんな感情を抱いた。
昔、小学校の図書館にあった小説にそんな一行があったのを覚えている。読書感想文を書くために借りた本だった。当時はその言葉の意味が分からなくて家に帰って母に聞いた。母は困ったように笑って「いつか分かる日が来るわよ」と言った。
それから月日は流れに流れて、高校生になった。
バスケットボール部が強い山王工業高校に進学した。
頭の中は、学校生活や学業よりも部活のことでいっぱいで、クラスのやつがどうかなんて興味もなかった。
黒板に張り出されたA4ほどの白紙には、教室の机の間取りが書かれており、そこに五十音順で名前が記されていた。
(は、ひ、ふ………あった)
『深津』と書かれた自分の欄を見て、席が後ろから3番目であるのを確認して、そこにさっさと腰を落とした。場所はちょうど良かった。
鞄を机の横にかけて、中から筆記用具の入った筆箱代わりのポーチを取り出す。鞄の中にはタオルと体育館シューズが入っていて、その隙間からバスケットボールの雑誌が覗いていた。流石に浮かれすぎか?これ出して読んでたらちょっとな。出すかどうか迷った後、タオルで覆って鞄のチャックを閉めた。
周りの生徒たちは初めて見る顔に緊張と期待が入り混じった笑顔で、ぎこちなく挨拶を交わしていた。
どこの中学出身だ、なんの部活に入るのか、中学は何をしていたのか。そんなありきたりな質問でお互いを探ろうとしている。他人事のように見ていた深津だったが、自身も例外ではなかった。
トントンと肩を叩かれて深津は反射的に見上げると、眼鏡をかけた男子生徒がガチガチに固まった状態で「お、おはよう」と挨拶をしてきた。声が少し裏返っている。
「…おはようベシ」
「……ベシ、ってどっかの訛り?」
「………」
「あ、あの、もしかしてバスケ部?髪型…」
「…まあ。そっちもバスケ部に入るとか?」
「いや、僕は別に…」
「……」
深津といえば、この変わった口調がチャームポイント…といっていいのか。そんな特徴があるが、お互い初対面でそんな深津の特性など知るはずもない彼は、一度その語尾に戸惑う。しかし目の前の生徒はそんなことよりも、途切れた話題に気まずくなったのか、「うちのバスケ部強いもんね、頑張って」と会話を無理やり締めくくると、仲間内のところへ一目散に走って行った。
話題に詰まるぐらいなら初めから話しかけなきゃ良いのに。こっちが話を膨らますとでも思ったのか。
「……はあ」
ため息をつくつもりもなかったが、自然と息が溢れてしまう。こういう場面では第一印象が肝心だと雑誌やテレビでうるさく言われるのを思い出す。
そうすると今の俺の態度は最悪か?そうだったとしても、好きに思えばいい。
深津はこれからクラスメイトとなる彼らの挙動には興味が湧かなかった。
「よーし、席つけよ〜。ホームルーム始めるぞ」
そうしているとすぐに担任らしき教師が教室へ入ってきた。教壇に立って手に持っていた生徒名簿らしきものをトントンと叩いて響かせる。
「お前らちゃんと自分の席確認できたか?間違って座ったやついないか〜……よし、確認も兼ねて自己紹介でもするか……んだお前ら、嫌そうな顔すんな。どうせ遅かれ早かれやるんだから。さっさとした方が楽だろ?」
その前に、と教師はまず自分の自己紹介を済ませた。
名前と年齢と好きな食べ物と、担当科目を冗談混じりで話して生徒の緊張をいくらか和らげたようだった。
一人ずつ起立して名前を言っていく。
順番が近づいてきてるみたいで、ハットリです、とか聞こえてくる。そのハットリの自己紹介が済んで、パチパチパチと乾いた拍手の音が教室で響いた後、深津の前に座る男が勢いよく椅子をガタン!と引いて立ち上がった。
深津の机に椅子が当たって、深津はついそこを凝視してしまう。
「檜山勝吾です。好きな食べもんは、…えーと、まあ、なんでも食べます。部活は、野球部に入ろうと思ってます。頭丸いから、バスケ部志望か?ってめっちゃ聞かれますけど。実は野球部なんです。バスケはからっきしダメです。一年間よろしくお願いします」
4月の真新しさをひっくるめたかのような、明朗な声が教室中に響き渡る。檜山と名乗った深津の前の男は一礼すると勢いよく椅子を引いて座る。確かに頭は坊主だった。体格も良いらしく、これはバスケ部入部希望者かと聞かれてもしょうがないだろう、そんな見た目だった。
それにしてもバスケじゃなくて実は野球部と前に言われた後で「俺はバスケ部希望」と言うのはなんだか小っ恥ずかしく感じた。深津はまだこの新しい空気に慣れきれていなかった。
名前だけ言って、他に何も言わなかった奴もいる。これで行こう、深津はゆっくりと立ち上がった。
「深津一成です。…一年間よろしくお願いします」
簡潔に済まされた自己紹介に、担任が少し驚いた表情をしていたのを覚えている。“同じ坊主なのにノらないのか”、みたいな。ノリが悪いとか良いとかじゃない、俺の前にいたやつが変なハードル上げたせいだ。深津は内心そう思った。
ホームルームではいろいろレジュメのようなものを配られた。その中には仮だが、入部届もあった。
もう書いてしまおう。ここに来た理由ははじめからこれしかない。筆箱からボールペンを取って書き出そうとした時、深津は声をかけられた。
「なあなあ」
「……」
声をかけてきたのは目の前に座る檜山だった。
「深津君…だっけ。えっ、もう入部届書いてんの?」
「俺は野球じゃなくてバスケ部に入る」
「あっ!そうなの!?…やっぱそーか…バスケ、強いしな…」
デスヨネ…と檜山は勝手に落ち込んでいる。
やはり髪型の雰囲気だけで若干淡い期待を持っていたのだろう。
「つか…言いづらくさせちゃってたら、ごめんな」
「気にしてない」
「…そ?なら、いいけど…」
深津は入部届にペンを走らせながら、檜山を見ることはなかった。さっきの自分の自己紹介で妙な空気を作ってしまったと謝られたが、もうそれは済んだことで、どうでもいい。投げやりに返した返事にも関わらず、檜山の視線を変わらず感じて顔を上げた。何見てるんだと言ってやるつもりだった。
檜山と目が合った瞬間、言うつもりだった言葉が出てこなかった。喉の奥で何か詰まりでもしたかのように、息苦しさを感じた。
定規で引いたような鼻筋に、大きくて虹彩の薄い目。自分とは反した薄くて形の良い唇が弧を描いて、人当たりのいい笑顔をこちらに見せていた。
一目見た感想は、綺麗、だった。こんな感想を持ってしまうのは違っている。どうせなら男前だとか、そう思えば良いのに。理由は無いが悪いことをした気分で、漠然と否定する。咄嗟に目を逸らした。
ドクンと大きな音がする。体育館の床に響くボールの弾ける音のような、そんな音が聞こえてくる。
「深津君?え、もしかして鼻毛とか出てる?俺」
「いや。なんでもないベシ」
「逆に気になるよ、なんかついてた?」
「何もないベシ。見た目だけなら、……えっと」
名前を忘れた、みたいに誤魔化すのは少しでも気持ちを落ち着けたかったから。
「あ、檜山」
「…檜山こそ」
「バスケ部みたいって?いやー、俺バスケは全然でさ…同じ球技なのにな。変だよな、はは」
檜山は白い歯を見せて笑う。笑う姿まで絵になる男だ。人生で初めてこんな感情を抱いた。
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