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短編

 あの箱庭の生活がどこか懐かしく思えるほどに、季節の過ぎ去るのは早くて、大切な人のいない世界は色がなくて、こぼれる涙だってすぐに乾いてしまった。ずっと溺れるみたいにもがいて、彼女を探した。見つけたその目はかつてを見てはいなかった。それがどれほどの傷を残したか、その傷がいつまでもじくじくと熱を持ち膿を吐き出し続けるのか、きっとこの世の誰も知ることはない。私はその傷を隠し、彼女と生きることを選んだからだ。誰も知らない痛みを彼女の笑顔で塗り替えて、ごまかすように指を絡めた。
「イライくんはどうしてわたしのこと、なんでもわかっちゃうの?」
 きみにきっと似合う、と告げて耳飾りを渡した。彼女はずっと、青い石を耳元に飾っていたから、青が好きなのだろうと思って、だから渡した。
「わたし、青色が好きなの」
「うん」
「イライくんの目も青いね」
「私の目も好いてくれるかい?」
「好きだよ。すごく。海の底みたいな色。ちょっと悲しくてさみしい色だけど、わたしはそれがとても好き」
「は、はは。悲しくて、さみしい色? あんまり言われないな。きみだけだ、そういった表現をするのは」
 夜明けの空、知啓の瞳。そういわれた天眼を、彼女はいつも海に例えた。あの頃もそうだった。ずっと深く沈んで、とんと背中が砂の浜について、そうして見上げた色なのだと。微笑む姿になにも変わりはない。天眼という授かりものを失った今でも、その先に続く言葉を私は知っている。
「海に落ちて、泳げないの。あんまり体が重くて、でもそれが心地いいの。全部青く染まるの。染み込んでくるみたいに、肌も、心も。イライくんの目は、そういう目なの。ほかのものは全部、手放してもいいなって思える色、してるの」
 月のない夜も、雨降りの朝も、彼女を見ていた。左手に光る銀の輪に、私はいつも懺悔をした。ああ、きっともう会うことのできない、誓いを交わしたきみとの未来を、私はここで捨ててしまう。すべてをささげるという言葉を過去にして、運命を違えてしまう。
 かつての情景がよみがえる。鮮明に、今に重なる。
「“だから、あなたがいればそれでいい”」
 その音を一つ一つ胸に刻んで、私は生きた。私たちは、生きた。私はずるくて、弱くて、誓いの証を取り去ることを彼女に願った。彼女はその時初めて泣いた。ごめんなさい、と泣いて、同じように涙を流す私の手を取り、光る銀の輪を飲んだ。ああなんてことを、私はますます泣いた。彼女は泣いて、泣いて、これがわたしの誓いになるのと顔を覆って、私と、名も知れぬ私の愛したひとのためにその身を差し出した。自ら贄になるような、深く優しすぎる残酷な愛に、情けない私はただ抱きしめるほかなかった。小箱のような部屋の中、くたびれたシーツに丸くなって、ずっと、ずっと、何があってもそばにいるのだと、輝くような肌と髪に触れて、たくさんの愛と眠った。
 永遠はあるのだと思っていた。永遠のようなものかもしれなかった。私はずっと夢を見ていて、まどろみのなかで手を引かれて、心地いい方へと流されてゆくだけの淡い深海の魚なのかもしれない。彼女は私と過ごした日々を知らない。彼女の永遠は終わってしまった。私だけが取り残された。何かがあふれる感覚。けれどすぐに、彼女の手のぬくもりが、私の頬を包む。
「すごいねえ、イライくん。わたしのこと、本当に、なんでもわかっちゃうんだね」
 今ね、そう言おうとしてたんだよ。海の底だという私の瞳を愛しそうに見つめて、彼女は背伸びをする。
「海の底で一人ぼっちで、溺れるみたいに眠るときでも、きっとそこにはイライくんがいるんだって思えるから、だから、なんにも怖くない。怖くないの、ねえ、泣かないで」
 私は、彼女の言葉に従うことは出来ず、小さな体を抱きしめて泣いた。彼女が彼女の誓いをたてた、あの日のことを思い出していた。私にこの愛を受ける資格があるのかと、そんなことを考えてしまって、それからすぐに震えるぬくもりに気づいて、腕にもっと力を込めた。私以外に向けられることのない、溺れるほどの愛だ。ならば二人で抱き合って、ずっと底に沈んで、思い出も、誓いも、未来も、もしかしたら待ち受けているかもしれない罰だって、甘んじて受け入れようと思った。分け合う空気であれば、きっとほんのわずかな一瞬だって、永遠のように長くなると、それを知っているから、生きていける、これからも。
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