短編
水を抜かれた真夏のプールは、照り返す太陽に揺らめいてどこか現実味を帯びない。高校三年生の夏季休暇、最後の日だった。
八月三十一日、僕とクラスメイトは、額にじわじわ浮かぶ汗をぬぐいながら、デッキブラシでプールの底にこびりついた苔を削ぎ落し続ける。他に数人いた生徒たちは早々に離脱し、涼しい校舎裏なんかでジュースを飲んでいるんだろう。僕は内申点が欲しくて、黙々と手を動かす。たまに浮かぶ、将来成長したら何になるのかもわからない虫の幼虫なんかに嫌気がさしながら、ずり落ちてくる眼鏡にうんざりしながら、終わりのないプール掃除の当番にされてしまったことを愚痴る相手が誰もいないってことからも目を背けて、嫌なにおいのする水を隅っこに押しやる。
ジャージの裾を捲り上げて、なるべく水が跳ねないようにほとんど摺り足みたい移動しながら、少しずつ、少しずつ掃除を進めていると、ふと視界の端にもう一人残ってまじめに掃除をしている生徒が写り込んだ。知らないクラスメイトだ。正確に言えば、見たことはもちろんあるし、何度か話したこともあるかもしれないけれど、興味もなければきっと一生関わることもないだろうという人種だった。いつも明るく笑っていて、たくさんの友人たちに囲まれて、毎日を楽しく過ごしている、典型的な幸せそうな高校生。きっと悩みもなく、平凡で、ありきたりな毎日をなんの疑問もなく教授する人間。
彼女は背が高かった。真っ直ぐに伸ばされた背筋がぴんとして、はっきりとした顔立ちを余計に引き立たせていた。青空を背に、うつむきがちにデッキブラシを動かしていた僕に近付いてくる。汗でべたついた体をおどおどと動かして離れようとすると、彼女はそこで足を止めた。数メートル先に立つ彼女は、いつもの涼しげな笑顔で、額に汗を光らせながら、僕を見て言う。
「足立くんて、彼女とかいるの?」
僕がその言葉に、露骨に嫌そうな顔をすると、彼女は――名前はなんだっけ、思い出せない――少し複雑そうな顔で指先でデッキブラシを弄んだ。
「いるんだ、彼女?」
「いない、けど」
てか、いるように見える? 喧嘩売ってんの? 続きそうになったその言葉はそっと喉の奥に押しやって、胡乱げな目つきで彼女を見つめる。何を考えているのか。何が言いたいのか。もしかして、女子の間で罰ゲームかなにかに利用されているのではなかろうか。だとしたら最悪だ。本当に、世の中はクソだ。
「いないのかあ」
「……」
そっかあ、いないんだあ、とつぶやきながら、彼女は踵を返し、水底を歩いていく。僕と同じで、摺り足みたいに、空に浮くみたいに。
低いところを飛行機が駆け抜けてゆくのが、プールの底に反射している。数歩歩いたところで、彼女は振り返り、デッキブラシに体重を預けて僕を見て笑った。
「じゃあ、わたしと、」
はにかんだ微笑み。夏に染まる頬。じわじわとうるさい蝉の鳴き声。ごうごうと耳をつんざくエンジン音が、僕らの間に横たわる。汗だくの体が浮ついた心地に包まれて、うまく息ができない。
「あは、足立くん、顔真っ赤だね」
「……きみも」
「うん」
そだね、暑いし。そう言って彼女は、僕の返事も、なにも聞かず、戻ってきたクラスメイトたちの輪に消えた。きっと僕がその言葉を聞き取れなかったことをわかっていたのだろう。それを聞き取れていたら、僕の人生はなにか変わっていただろうか。例えば、世の中もまだほんの少し、捨てたものではないとか、そう思えるような出来事と出会えただろうか。
彼女は翌日から、学校に来ることはなかった。親の都合で転校になったのだと担任は言っていた。クラスメイトたちは、人気者だった彼女が去った教室で、どこか寂し気にしていたけれど、それも数日で最初からいなかったみたいに振舞い始めた。僕も別になにもなかったように、ただ勉強をするために学校に通い続けた。
冬になって、春が来て、卒業して、進学をしても、なにも変わらなかった。
あの夏の、八月三十一日を僕はずっと忘れられずにいる。大人になって、あの頃よりももっとずっとひねくれて、たまに思い出すのは名前も思い出せないクラスメイトのあの微笑みだ。
八十稲羽に飛ばされて、すべてがもうどうでもよくなって、車検に出した車を恨めしく思いながら歩いて安アパートに帰る途中、蒸し暑い夜にぽつりと浮かぶ自販機で買った缶コーヒーのプルタブを開ける。あの頃の自分はまあ、まだ青春というものの片鱗に触れていたかもしれないな、なんて自嘲気味に口の端を上げた。いつ頃からか飲み始めたブラックコーヒーは、相変わらず味がしない。おいしいと思わない。
「あの頃、何飲んでたっけなあ」
面白みのない缶のラベルを手でもてあそんでつぶやく。あんまり覚えてない。甘いのを飲んでいた気がする。
「リボンシトロン飲んでたよ、足立くんは」
後ろから声をかけられ、驚いて飛び跳ねる。取り落とした缶がアスファルトに落ちて、カツンと高い音を立てた。
「ごめん、驚かせちゃった」
「いや、え、あ?」
長かった髪は短くなって、日に焼けた肌は少し白い。タイトなパンツスーツに身を包んで、そこにいたのはあの夏の日に置いてきた彼女の面影だった。
「……え、っと」
とっさに名前を呼ぼうとして、彼女の名前を自分は覚えていないことを思い出した。ただ、あの夏のプールの底で、ほんのわずかな時間話しただけの相手に、自分はいったい何を思って、何を囚われていたんだろうか。
「あは」
あの頃と変わらない、屈託のない笑い方だった。
「知ってるよ、足立くんがわたしの名前覚えてなかったの」
「ご、ごめん」
「いいの。足立くんあんまり変わってないね」
いやずいぶんと、世渡りはうまくなったと思う、と言いかけて、やめた。彼女はいつも、周りと違うところから僕を見ていたようだった。
「僕が昔飲んでたジュース、なんで知ってるの?」
困ったような笑み。彼女は僕の前を通り過ぎて、自販機に小銭を入れ、ボタンを押した。屈んで取り出したのはリボンシトロンだった。
「好きだから」
「……うん」
「これ、おいしいもんね」
僕は何も言えずに、プルタブを開けてジュースを喉奥に流し込む彼女を見るしかなかった。どうして、あの日あんなことを言ったのか。どうして、何も言わず、何も残さず、いなくなってしまったのか。どうして、今ここで再会することになったのか。
たくさんの疑問が頭をよぎっても、彼女から口を開くのを待つべきだと思った。
「ごめんね」
ひとしきりの沈黙の後、両手で持った缶を見つめながら、彼女は口を開く。
「なにから説明しようかなあ。でも多分、何も、きっと、足立くんは興味ないんだろうなって思うんだけどね。わたし、あの夏のこと忘れたことないよ。八月三十一日。わたしずっと、あの日のこと覚えてる。肝心なこと、伝えられなかったけどね」
どくどくと胸が痛んだ。なんだこの感覚は、と僕は急に不安になる。自分の心が荒らされるような感じがする。恐ろしくて、でも、それを今手放すと、もう二度と手に入らないものなのだということがなんとなくわかって、気づいたら彼女の手に自分の手を重ねていた。夏なのに冷たいその指先には、夜目にわかる程度にうっすらと控えめな色が乗せられていて、ああ、彼女も大人になったんだ、と馬鹿みたいな感想が浮かんだ。
「あのさ」
「うん」
「……今から、間に合う、かな」
「……うん」
「僕……あんま、いいやつじゃないんだけど」
「知ってる」
彼女はいたずらっぽく笑う。
「知ってるんだ」
「うん」
「参ったなあ」
「あは、そういうところ、ちょっと大人になったんだなって思う」
「やめてよ、もう」
彼女が指先を絡める。前は同じくらいだった視線が、今は下からじっと見つめてくる。相変わらず、背筋はぴんとしていて、今ならなんとなく、その姿が愛しいと感じられる。
「とりあえずさ、僕おなかすいたから、ご飯食べに行かない?」
「その前に、わたしの名前、憶えてほしいな」
それもそうか、と思い直して、改めて気恥ずかしさを押し殺し、尋ねる。
「きみの名前を教えてよ」
あの夏を取り戻すみたいに、彼女が笑う。星空を遮るものなんて何もなくて、たまらなくなった僕は、凛とした肩を強く抱きしめた。
八月三十一日、僕とクラスメイトは、額にじわじわ浮かぶ汗をぬぐいながら、デッキブラシでプールの底にこびりついた苔を削ぎ落し続ける。他に数人いた生徒たちは早々に離脱し、涼しい校舎裏なんかでジュースを飲んでいるんだろう。僕は内申点が欲しくて、黙々と手を動かす。たまに浮かぶ、将来成長したら何になるのかもわからない虫の幼虫なんかに嫌気がさしながら、ずり落ちてくる眼鏡にうんざりしながら、終わりのないプール掃除の当番にされてしまったことを愚痴る相手が誰もいないってことからも目を背けて、嫌なにおいのする水を隅っこに押しやる。
ジャージの裾を捲り上げて、なるべく水が跳ねないようにほとんど摺り足みたい移動しながら、少しずつ、少しずつ掃除を進めていると、ふと視界の端にもう一人残ってまじめに掃除をしている生徒が写り込んだ。知らないクラスメイトだ。正確に言えば、見たことはもちろんあるし、何度か話したこともあるかもしれないけれど、興味もなければきっと一生関わることもないだろうという人種だった。いつも明るく笑っていて、たくさんの友人たちに囲まれて、毎日を楽しく過ごしている、典型的な幸せそうな高校生。きっと悩みもなく、平凡で、ありきたりな毎日をなんの疑問もなく教授する人間。
彼女は背が高かった。真っ直ぐに伸ばされた背筋がぴんとして、はっきりとした顔立ちを余計に引き立たせていた。青空を背に、うつむきがちにデッキブラシを動かしていた僕に近付いてくる。汗でべたついた体をおどおどと動かして離れようとすると、彼女はそこで足を止めた。数メートル先に立つ彼女は、いつもの涼しげな笑顔で、額に汗を光らせながら、僕を見て言う。
「足立くんて、彼女とかいるの?」
僕がその言葉に、露骨に嫌そうな顔をすると、彼女は――名前はなんだっけ、思い出せない――少し複雑そうな顔で指先でデッキブラシを弄んだ。
「いるんだ、彼女?」
「いない、けど」
てか、いるように見える? 喧嘩売ってんの? 続きそうになったその言葉はそっと喉の奥に押しやって、胡乱げな目つきで彼女を見つめる。何を考えているのか。何が言いたいのか。もしかして、女子の間で罰ゲームかなにかに利用されているのではなかろうか。だとしたら最悪だ。本当に、世の中はクソだ。
「いないのかあ」
「……」
そっかあ、いないんだあ、とつぶやきながら、彼女は踵を返し、水底を歩いていく。僕と同じで、摺り足みたいに、空に浮くみたいに。
低いところを飛行機が駆け抜けてゆくのが、プールの底に反射している。数歩歩いたところで、彼女は振り返り、デッキブラシに体重を預けて僕を見て笑った。
「じゃあ、わたしと、」
はにかんだ微笑み。夏に染まる頬。じわじわとうるさい蝉の鳴き声。ごうごうと耳をつんざくエンジン音が、僕らの間に横たわる。汗だくの体が浮ついた心地に包まれて、うまく息ができない。
「あは、足立くん、顔真っ赤だね」
「……きみも」
「うん」
そだね、暑いし。そう言って彼女は、僕の返事も、なにも聞かず、戻ってきたクラスメイトたちの輪に消えた。きっと僕がその言葉を聞き取れなかったことをわかっていたのだろう。それを聞き取れていたら、僕の人生はなにか変わっていただろうか。例えば、世の中もまだほんの少し、捨てたものではないとか、そう思えるような出来事と出会えただろうか。
彼女は翌日から、学校に来ることはなかった。親の都合で転校になったのだと担任は言っていた。クラスメイトたちは、人気者だった彼女が去った教室で、どこか寂し気にしていたけれど、それも数日で最初からいなかったみたいに振舞い始めた。僕も別になにもなかったように、ただ勉強をするために学校に通い続けた。
冬になって、春が来て、卒業して、進学をしても、なにも変わらなかった。
あの夏の、八月三十一日を僕はずっと忘れられずにいる。大人になって、あの頃よりももっとずっとひねくれて、たまに思い出すのは名前も思い出せないクラスメイトのあの微笑みだ。
八十稲羽に飛ばされて、すべてがもうどうでもよくなって、車検に出した車を恨めしく思いながら歩いて安アパートに帰る途中、蒸し暑い夜にぽつりと浮かぶ自販機で買った缶コーヒーのプルタブを開ける。あの頃の自分はまあ、まだ青春というものの片鱗に触れていたかもしれないな、なんて自嘲気味に口の端を上げた。いつ頃からか飲み始めたブラックコーヒーは、相変わらず味がしない。おいしいと思わない。
「あの頃、何飲んでたっけなあ」
面白みのない缶のラベルを手でもてあそんでつぶやく。あんまり覚えてない。甘いのを飲んでいた気がする。
「リボンシトロン飲んでたよ、足立くんは」
後ろから声をかけられ、驚いて飛び跳ねる。取り落とした缶がアスファルトに落ちて、カツンと高い音を立てた。
「ごめん、驚かせちゃった」
「いや、え、あ?」
長かった髪は短くなって、日に焼けた肌は少し白い。タイトなパンツスーツに身を包んで、そこにいたのはあの夏の日に置いてきた彼女の面影だった。
「……え、っと」
とっさに名前を呼ぼうとして、彼女の名前を自分は覚えていないことを思い出した。ただ、あの夏のプールの底で、ほんのわずかな時間話しただけの相手に、自分はいったい何を思って、何を囚われていたんだろうか。
「あは」
あの頃と変わらない、屈託のない笑い方だった。
「知ってるよ、足立くんがわたしの名前覚えてなかったの」
「ご、ごめん」
「いいの。足立くんあんまり変わってないね」
いやずいぶんと、世渡りはうまくなったと思う、と言いかけて、やめた。彼女はいつも、周りと違うところから僕を見ていたようだった。
「僕が昔飲んでたジュース、なんで知ってるの?」
困ったような笑み。彼女は僕の前を通り過ぎて、自販機に小銭を入れ、ボタンを押した。屈んで取り出したのはリボンシトロンだった。
「好きだから」
「……うん」
「これ、おいしいもんね」
僕は何も言えずに、プルタブを開けてジュースを喉奥に流し込む彼女を見るしかなかった。どうして、あの日あんなことを言ったのか。どうして、何も言わず、何も残さず、いなくなってしまったのか。どうして、今ここで再会することになったのか。
たくさんの疑問が頭をよぎっても、彼女から口を開くのを待つべきだと思った。
「ごめんね」
ひとしきりの沈黙の後、両手で持った缶を見つめながら、彼女は口を開く。
「なにから説明しようかなあ。でも多分、何も、きっと、足立くんは興味ないんだろうなって思うんだけどね。わたし、あの夏のこと忘れたことないよ。八月三十一日。わたしずっと、あの日のこと覚えてる。肝心なこと、伝えられなかったけどね」
どくどくと胸が痛んだ。なんだこの感覚は、と僕は急に不安になる。自分の心が荒らされるような感じがする。恐ろしくて、でも、それを今手放すと、もう二度と手に入らないものなのだということがなんとなくわかって、気づいたら彼女の手に自分の手を重ねていた。夏なのに冷たいその指先には、夜目にわかる程度にうっすらと控えめな色が乗せられていて、ああ、彼女も大人になったんだ、と馬鹿みたいな感想が浮かんだ。
「あのさ」
「うん」
「……今から、間に合う、かな」
「……うん」
「僕……あんま、いいやつじゃないんだけど」
「知ってる」
彼女はいたずらっぽく笑う。
「知ってるんだ」
「うん」
「参ったなあ」
「あは、そういうところ、ちょっと大人になったんだなって思う」
「やめてよ、もう」
彼女が指先を絡める。前は同じくらいだった視線が、今は下からじっと見つめてくる。相変わらず、背筋はぴんとしていて、今ならなんとなく、その姿が愛しいと感じられる。
「とりあえずさ、僕おなかすいたから、ご飯食べに行かない?」
「その前に、わたしの名前、憶えてほしいな」
それもそうか、と思い直して、改めて気恥ずかしさを押し殺し、尋ねる。
「きみの名前を教えてよ」
あの夏を取り戻すみたいに、彼女が笑う。星空を遮るものなんて何もなくて、たまらなくなった僕は、凛とした肩を強く抱きしめた。
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