Novel
まだ知らない名前
七月十八日。
カーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚めた。まだ夏休み前だというのに、蝉はすでに全力で鳴いている。布団の中でスマホを引き寄せると、通知が一件だけ点いていた。
『誕生日おめでとう』
それだけ。飾り気も絵文字もない、いかにも冬人らしい文面に、
(今年も、これで一つ歳を取るのか)
特別な感慨があるわけでもない。ただ、毎年この日になると、少しだけ自分が違う人間になったような、そんな錯覚がある。
制服に着替えて、洗面所の鏡の前でいつものポニーテールを結う。使い古した黒いヘアゴムは、もう随分と伸びてしまっている気がした。
学校に着くと、教室はいつも通りだった。誕生日だからといって、何か特別なことが起きるわけでもない。休み時間に友達に「おめでとう」と言われて、少しだけくすぐったい気分になる。それくらい。
放課後のチャイムが鳴ると、教室のあちこちで椅子を引く音が重なる。いつものように
「美月、帰るぞ」
「はーい」
いつも通りの声。いつも通りの帰り道。
校門を出ると、夏の夕方特有の、じっとりとした熱がまだアスファルトに残っていた。日差しは少し傾いて、電柱の影が長く伸びている。蝉の声が、少しずつオレンジ色に染まっていく空に吸い込まれていくようだった。
「……誕生日、おめでとう」
不意に、奏太が鞄から小さな紙袋を取り出した。ぶっきらぼうに差し出してくる仕草は、いつもとあまり変わらない。それでも、心なしか足取りがぎこちなかった。
「え、何?」
「見りゃわかるから」
受け取って中を覗くと、小さな箱が入っていた。開けてみると、淡い黄色のリボンがついたヘアゴムが一つ。地味だけれど、丁寧に選ばれた感じのする色だった。日の光を透かすと、リボンの端がわずかに金色に光る。
「……これ」
「お前、いつも同じ黒いやつ使ってるだろ。たまには違う色もいいかなと思って」
目を合わせずに、奏太は早口でそう言った。耳のあたりが、心なしか赤い。手持ち無沙汰なのか、鞄の持ち手を意味もなく握り直している。
美月は手のひらの上のヘアゴムを、しばらく黙って見つめた。いつも見ている奏太のはずなのに、今日はどうしてか、いつも通りの声が少しだけ違って聞こえる。
「……ありがと」
いつもよりワントーン低い声で言ってしまって、自分でも驚いた。
柄にもない、と思う。誰かに何かをもらって、こんな風に胸のあたりがそわそわするなんて。掌の中のリボンをきゅっと握ると、指の間からリボンの端がはみ出した。
「つけてくれよ」
「え、今?」
「今」
急かされて、美月は仕方なく、その場でポニーテールを結び直した。使い古した黒いゴムを外して、代わりに淡い黄色のリボンを通す。風もないのに、ふっと涼しい感触が首筋を撫でた気がした。淡い黄色が、夕焼けの色に馴染んで、いつもよりやわらかい印象になる。
「……似合ってる」
ぼそっと、独り言みたいな声だった。
美月は一瞬、聞き逃しそうになるくらい小さなその一言に、思わず足を止めた。
奏太もつられて立ち止まる。
一瞬だけ目が合う。
胸の奥が、ひどく落ち着かなかった。
「え、なんて?」
「……何でもねぇ」
「今なんか言ったじゃん!」
「気のせいだろ」
誤魔化すように、奏太は歩くスピードを上げる。美月は小走りで追いかけながら、追及するのをやめた。追及するのをやめた理由を、自分でもうまく説明できない。
ただ、なんとなく。
今日だけは、無理に聞き出さない方がいい気がした。
しばらく無言で歩く。
いつもならすぐに何か話しかけるはずの美月が、今日はなぜか言葉が出てこない。隣を歩く奏太も、いつもより静かだった。
(……変なの)
二人分の足音だけが、アスファルトの上に規則正しく重なっていく。夕焼けが少しずつ濃くなって、蝉の声が遠のいていく。
「なあ」
沈黙を破ったのは、奏太の方だった。
「ん?」
「……いや、なんでもない」
「なにそれ」
美月は笑ったけれど、心臓が少しだけ速く動いているのに気づいていた。理由はわからない。
わからないまま、指先でそっと、新しいヘアゴムの感触を確かめる。結び目のあたりに触れると、まだ慣れない硬さが指先に返ってくる。
いつもと同じ帰り道のはずなのに。
今日だけは、隣にいる奏太のことが、いつもよりほんの少しだけ、近くに感じた。
夕焼けが二人の影を長く伸ばす。その影は、いつの間にか、重なりそうなくらい近づいていた。
——この気持ちに、まだ名前はついていない。
それでも。
新しいヘアゴムを結ぶたび、今日の帰り道を思い出す気がした。
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