Novel

名前を呼ぶだけで


境内へと続く石段の下は、すでに人でごった返していた。焼きそばの油が焦げる匂い、綿菓子の甘い匂い、屋台の裸電球が放つ熱っぽい光。太鼓の音が遠くから響いて、浴衣の裾が擦れる音や下駄の音がその隙間を埋めていく。空はまだ夕焼けの名残でわずかに赤く、それが提灯の朱色と混ざり合って、街全体がぼんやりと火照っているように見えた。

待ち合わせの神社の鳥居の前には、すでに冬人ふゆとが来ていた。いつも通りの私服姿。藍色の髪と黒縁眼鏡。周りの喧騒や熱気の中でも、そこだけ体温が違って見える。

「冬人、早いな」

「僕が早いんじゃない。お前らが遅いんだよ」

言いながら、冬人はスマホの画面に視線を落とした。時間を確認しているのか、それとも別の何かか。表情からは読み取れない。

美月みづきはいつも時間ぎりぎりか、少し遅れてくる。今日もどうせそうだろうと思っていた矢先。

奏太そうたー! 冬人ー! お待たせ!」

声のした方を振り返って、奏太は一瞬、言葉に詰まった。

紺地に朝顔の柄が散った浴衣。いつものポニーテールは高い位置でまとめられていて、うなじのあたりがやけに白く見える。帯は淡い黄色で、歩くたびにふわりと揺れていた。

「……お前、浴衣なんて着るんだな」

「今年は気分転換! 毎年私服ばっかだったし、たまにはいいかなって」

美月はくるりと一回転してみせた。裾がふわりと持ち上がって、また落ち着く。

「似合ってないなら、もう脱ぐけど」

「いや、そういうわけじゃ……」

似合いすぎて困る、とはさすがに言えなかった。奏太は視線を泳がせて、誤魔化すように歩き出した。

「似合ってるよ」

冬人が横から、事実を告げるみたいに淡々と言った。感情のこもらない一言だからこそ、変に取り繕われた褒め言葉より素直に届く。美月は「でしょ!」と笑ったが、奏太は内心、先を越された気がして少しだけ悔しかった。

「ほら、早く行くぞ」

「あ、待ってよ!」

石段を上りきると、参道の両脇に屋台が並んでいた。金魚すくい、りんご飴、型抜き、射的。祭りの喧騒が一段と近くなって、太鼓の音が腹の底まで響いてくる。三人並んで歩くのは、毎年恒例のことだった。

「奏太、見て見て、金魚すくい!」

美月に服の袖を引っ張られ、奏太は屋台の方へ半ば引きずられるように歩いた。美月のポニーテールが揺れるたびに、夜風がふわりと匂いを運んでくる。石鹸みたいな、それでいて少し甘い匂い。小学生の頃から知っているはずの匂いなのに、今日はいつもと違う気がして、奏太は少しだけ距離を取った。

冬人はといえば、少し離れたところで金魚すくいの水槽を眺めていた。射的や輪投げには目もくれず、興味があるのかないのか分からない顔で立っている。

「三匹も取ったのかよ、すごいな」

「でしょ! あたし運動神経だけはいいから」

得意げに笑うと、八重歯がちらりと覗く。ビニール袋の中で金魚が跳ねて、水面がちゃぷんと音を立てた。奏太はその顔を見るたびに、喉の奥に小さな石が詰まったような感覚になる。もう十年以上もこうして隣にいるのに、いまだに、だ。

「あたし、あっちの型抜きも見てくる!」

言うが早いか、美月は人混みの中へ駆けていった。浴衣の裾がひらりと翻って、すぐに屋台の陰に消える。

「そういえば」

残された奏太の隣に、冬人がいつの間にか並んでいた。

「美月、もうすぐ誕生日だろ」

「げっ……冬人、なんで」

「毎年この時期になると、お前がそわそわし始めるからだ。何年見てると思ってるんだ」

抑揚のない声だからこそ、余計に的確に刺さる。冬人は視線だけ美月の消えた方へ向けて、淡々と続けた。

「今年は言うのか」

「いや、それとこれとは……」

「話が違う、っていつも言うよな」

感情を乗せずにそう言われると、からかわれているはずなのに、なぜか静かに諭されている気分になる。奏太は頭をがしがしと掻いて、視線を逸らした。

「……別に、急かしてるわけじゃない」

冬人は小さく息をついて、眼鏡の位置を軽く直した。

「ただ、後悔してからじゃ遅いだろ、お前の場合」

それだけ言うと、ちょうど型抜きの屋台から美月が戻ってくるのが見えた。冬人は表情も変えないまま、ポケットから財布を取り出す。

「僕、飲み物買ってくる」

「え、一緒に——」

「二人は先に行っててくれ」

冬人は一拍置いてから、小さく付け足した。

「人が多いところ苦手なんだ」

それだけ言うと、静かに人混みの中へ歩いていった。

「あれ、冬人は?」

「飲み物買いに行くって」

「ふうん、まあいいや」

美月はあっさり納得すると、また屋台の方に視線を戻した。特に気にした様子もない。

けれど奏太の方は、内心でひとつ気づいてしまっていた。——気づけば、二人きりだ。毎年三人で来ていたはずの祭りで、こんな風に美月と二人だけになるのは、たぶん初めてだった。当たり前すぎて意識したこともなかった距離感が、急に輪郭を持ち始める。

自分がこんなに意識しているのに、美月の方はいつも通りだ。隣にいるのが当たり前すぎて、特別だとすら思われていないのかもしれない。

屋台の明かりが途切れるあたりで、美月がふと足を止めて帯の結び目を直した。その拍子に、朝顔柄の裾がふわりと揺れる。

言おうと思えば、最初に会った時に言えた。

『似合ってる』

その一言だけなのに、喉まで出かかった言葉は何度も飲み込んでしまった。

——今しかない。

「……なあ」

「ん?」

「浴衣、似合ってる」

声が思ったより小さくなった。美月がきょとんとした顔でこちらを見る。

「え、今さら?」

「……言うタイミング逃した」

不貞腐れたように言うと、美月は一瞬言葉に詰まってから、視線を少しだけ逸らした。帯の端を指先でもぞりとつまみ、小さく息をつく。
祭りの明かりのせいなのか、それとも別の理由なのか、頬がじわじわと赤く染まっていく。

「……ありがと」

いつもの威勢のいい調子は鳴りを潜めて、意外なほど小さな声だった。二人の間に、少しだけ気まずいような、それでいて悪くない沈黙が落ちる。

「……思ったこと言っただけだ」

「そういうところ、奏太らしいね」

美月はすぐにいつもの調子を取り戻して笑った。奏太は誤魔化すように歩き出しながら、内心でひとつ思う。——今のは、素直に嬉しかったくせに。

参道を抜けると、川沿いの土手に出た。祭りの音が少しだけ遠くなって、代わりに虫の声と川のせせらぎが聞こえてくる。橋のたもとまで来ると、遠くの空に最初の花火が上がった。ずん、と低い音が腹に響いて、少し遅れて色とりどりの光が夜空いっぱいに広がる。

美月が 欄干らんかんに手をかけて空を見上げる。花火が弾けるたびに、浴衣姿の横顔が一瞬だけ赤や青に照らされた。風で乱れた後れ毛が、白いうなじに一本だけ張り付いている。

「奏太、来年もこうやって花火見ようね」

「え?」

「なんとなく。奏太と見る花火が一番落ち着くから」

なんてことない口調で言われた一言が、思ったよりも深く刺さった。特別な意味なんてないのはわかっている。それでも、こういう瞬間の積み重ねが、自分をここまで動けなくさせているのだと奏太は思う。

「……誕生日、何か欲しいものあるか」

「え? 急だなぁ。うーん…特にないかな。一緒に遊べたら、それでいいよ」

軽く言われたその言葉に、心臓が跳ねる。深い意味なんてない、わかっている。わかっているのに。

「美月」

「なに?」

花火の光が、美月の横顔を一瞬だけ照らした。

名前を呼んだだけで、続きが出てこなかった。伝えたい言葉は喉のところで渋滞していて、結局出てくるのは。

「……誕生日、楽しみにしとけよ」

「なにそれ、気になるじゃん」

笑う美月の顔を、また花火が照らす。光の残像が消えるまでの短い間、二人の影が川面に並んで揺れていた。今年もまた言えなかった。けれど、来年も隣にいられるのなら——奏太はそう思いながら、こっそり拳を握った。

次の花火が上がるまでの静けさの中で、奏太はもう一度だけ、隣の浴衣姿を盗み見た。

「あ、冬人だ」

美月の声で振り返ると、両手にラムネの瓶を持った冬人が土手を歩いてくるところだった。

「遅かったな、迷子か?」

「列が長かっただけだ」

冬人はラムネを二本、無言で差し出してきた。奏太と美月がそれぞれ受け取ると、冬人はふと二人を交互に見て、それから川の方へ視線を移した。

「……何かあったのか」

「別に、何も」

少し早口に答えた奏太を、冬人はしばらく黙って見ていた。眼鏡の奥の瞳が、いつもよりわずかに細くなる。それが冬人にとっての、精一杯の含み笑いなのだと奏太は知っている。

「そうか」

それだけ言うと、冬人はラムネの栓を親指で押し込んで、ひとくち飲んだ。何も追及してこない。けれどその「そうか」には、奏太にしかわからない重さがあった。

——後悔してからじゃ遅いだろ、お前の場合。

さっきの言葉が、また耳の奥で響く。

「次の花火、大きいの上がるらしいぞ」

冬人が話題を変えるように言った。
美月が「え、ほんと!」と身を乗り出す。
その横顔を見つめながら、奏太は小さく息を吐いた。

「美月」

花火の音に紛れて、小さくその名前を呼ぶ。

今度こそ、その続きまで届くように。

次こそは、ちゃんと。
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