嘘つき姫【半蔵落ち】
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名無しさん、という女が嫌いだった。彼の女との初めての出会いは二代目服部半蔵の名を襲名する前、十の頃であったか。
当時、名無しさんは五つを過ぎた位の年で、季節の変わり目になると父である先代半蔵を尋ね、両親と共によく伊賀に訪れていた。
この時期の名無しさんは身体が弱く、いつ発作が起こるか分からぬため、薬草の調合が終わるまでの間、客室で過ごすように言いつけられていた。だが、相手は好奇心旺盛な五つの子供。おまけに両親に愛され、我が儘放題で育った箱入り娘でもある。大人しくなどしていられる筈もなく、結局先代半蔵の命により薬理と病に多少の知識のあった自分が名無しさんの子守りをすることになった。
だが、この名無しさんという少女は高慢で他者を……忍である自分を見下す様な振る舞いが多かった。
「正成、毬が向こうに飛んでいってしまったから拾ってきて頂戴」
「草履が修練場の池に落ちてしまったの。拾ってきて」
「あそこの木の枝に可愛い目白がいるわ。飼うから捕まえて」
「………。」
自分より五つも下の少女に従者の様に扱われるのが不愉快で、名無しさんの来訪がある度に辟易していた。そうやって二年、三年と月日が経ち名無しさんが十を超えてからは子守りの必要もなくなった。正成も正式に二代目服部半蔵の名を襲名し、当主としての面目躍如に明け暮れる日々の中で、名無しさんという名の少女の存在は朧気になっていった。
あれから何年経ったであろうか。季節は晩秋。この日は冬の木枯しを思わせる様な冷たい風が吹いていた。手隙であったこともあり、自室で書簡に目を通しながら吹き荒ぶ風の音色に耳を傾ける。
タッタッタッタ……
風の音に混じり、遠くから足早に駆けてくる伊賀者の足音が響いてきた。
急報か
急ぎ足音に向かい駆け出すと息を切らし、目を充血させた配下のくノ一と出会した。
「何があった?」
「頭領!赤子が……赤子が先代様の御池に落ちてしまいました!」
「何っ」
急ぎ廊下を蹴り、池へ向けて疾走する。
先代の御池
質素倹約を好む先代服部半蔵が唯一贅を凝らして作らせた鯉池で、色鮮やかな錦鯉が何十匹と優雅に泳いでいる。父以外の者がその池に触れることは未だに許されておらず、現当主であり息子である半蔵さえ、池の水に触れたことすらなかった。
忍の掟は命よりも重い。
伊賀の忍は誰一人として溺れた赤子を助けることは出来ないであろう。頭領である自分以外は。
鯉池は伊賀を訪れる貴人を持て成すため客間の廊下から見渡せる位置に造設されており、伊賀屋敷最奥の半蔵の部屋からでは全力で駆けたとしても数分はかかってしまう。すでに情報をもたらしたくノ一が半蔵の元に辿り着くために数分の時を要したはずだ。だとしたら赤子に残されている猶予はほとんどない。
くっ……
余計な思考は捨て、ただ駆けることに全神経を集中させる。息を切らしかけた頃、漸く鯉池とそれを囲む大勢の伊賀者の姿が目についた。
赤子は……
伊賀の忍に緊迫した様子はない。
「どうなっている」
「頭領。それが……」
野次馬の如く集まっていた配下は半蔵の姿を見ると一瞬にして整列する。半蔵の目に入ったのは鯉池の前でびしょ濡れになって震える一人の女だった。女は赤地に金糸の黒揚羽が舞う美しい絹の着物を胸元で大きく開き、濡れた赤子を素肌で抱いていた。高価な着物は水を吸っても艶やかさを失わず、女の長い髪からポタポタと垂れる水滴は水晶のように輝いていた。女の顔は見えないが伊賀者でない事は間違いない。纏っている衣装は平民では有り得ない程の豪華絢爛。そして何より誰もが恐れる鯉池へと身体を沈めた豪胆さ。半蔵の知る人物の中でそれに当てはまる女は誰一人として居なかった。
「姫様」
「早くお体をお拭き下さいませ。着替えをこちらに用意してあります」
姫と呼ばれた女は駆け寄ってきたくノ一が差し出す綿織をひったくるように手に取った。
「貴女達、馬鹿なの?私より赤子の心配をする方が先でしょう」
ひったくった布で震えながら濡れた赤子の身体を拭きあげる。女の腕の中で小さく咳込み泣く声が聞こえた。姫とよばれた女は赤子の無事を確認すると、目の前のくノ一にそっと赤子を返してやる。赤子が姫から離れる瞬間に剥き出しになった小振りな乳房が目に付いた。姫は慌てることなく、ゆっくりと襟を整える。
濡れた髪をかきあげた所で半蔵と目が合った。
数年振りに見た名無しさんは、もう子供ではなかった。
当時、名無しさんは五つを過ぎた位の年で、季節の変わり目になると父である先代半蔵を尋ね、両親と共によく伊賀に訪れていた。
この時期の名無しさんは身体が弱く、いつ発作が起こるか分からぬため、薬草の調合が終わるまでの間、客室で過ごすように言いつけられていた。だが、相手は好奇心旺盛な五つの子供。おまけに両親に愛され、我が儘放題で育った箱入り娘でもある。大人しくなどしていられる筈もなく、結局先代半蔵の命により薬理と病に多少の知識のあった自分が名無しさんの子守りをすることになった。
だが、この名無しさんという少女は高慢で他者を……忍である自分を見下す様な振る舞いが多かった。
「正成、毬が向こうに飛んでいってしまったから拾ってきて頂戴」
「草履が修練場の池に落ちてしまったの。拾ってきて」
「あそこの木の枝に可愛い目白がいるわ。飼うから捕まえて」
「………。」
自分より五つも下の少女に従者の様に扱われるのが不愉快で、名無しさんの来訪がある度に辟易していた。そうやって二年、三年と月日が経ち名無しさんが十を超えてからは子守りの必要もなくなった。正成も正式に二代目服部半蔵の名を襲名し、当主としての面目躍如に明け暮れる日々の中で、名無しさんという名の少女の存在は朧気になっていった。
あれから何年経ったであろうか。季節は晩秋。この日は冬の木枯しを思わせる様な冷たい風が吹いていた。手隙であったこともあり、自室で書簡に目を通しながら吹き荒ぶ風の音色に耳を傾ける。
タッタッタッタ……
風の音に混じり、遠くから足早に駆けてくる伊賀者の足音が響いてきた。
急報か
急ぎ足音に向かい駆け出すと息を切らし、目を充血させた配下のくノ一と出会した。
「何があった?」
「頭領!赤子が……赤子が先代様の御池に落ちてしまいました!」
「何っ」
急ぎ廊下を蹴り、池へ向けて疾走する。
先代の御池
質素倹約を好む先代服部半蔵が唯一贅を凝らして作らせた鯉池で、色鮮やかな錦鯉が何十匹と優雅に泳いでいる。父以外の者がその池に触れることは未だに許されておらず、現当主であり息子である半蔵さえ、池の水に触れたことすらなかった。
忍の掟は命よりも重い。
伊賀の忍は誰一人として溺れた赤子を助けることは出来ないであろう。頭領である自分以外は。
鯉池は伊賀を訪れる貴人を持て成すため客間の廊下から見渡せる位置に造設されており、伊賀屋敷最奥の半蔵の部屋からでは全力で駆けたとしても数分はかかってしまう。すでに情報をもたらしたくノ一が半蔵の元に辿り着くために数分の時を要したはずだ。だとしたら赤子に残されている猶予はほとんどない。
くっ……
余計な思考は捨て、ただ駆けることに全神経を集中させる。息を切らしかけた頃、漸く鯉池とそれを囲む大勢の伊賀者の姿が目についた。
赤子は……
伊賀の忍に緊迫した様子はない。
「どうなっている」
「頭領。それが……」
野次馬の如く集まっていた配下は半蔵の姿を見ると一瞬にして整列する。半蔵の目に入ったのは鯉池の前でびしょ濡れになって震える一人の女だった。女は赤地に金糸の黒揚羽が舞う美しい絹の着物を胸元で大きく開き、濡れた赤子を素肌で抱いていた。高価な着物は水を吸っても艶やかさを失わず、女の長い髪からポタポタと垂れる水滴は水晶のように輝いていた。女の顔は見えないが伊賀者でない事は間違いない。纏っている衣装は平民では有り得ない程の豪華絢爛。そして何より誰もが恐れる鯉池へと身体を沈めた豪胆さ。半蔵の知る人物の中でそれに当てはまる女は誰一人として居なかった。
「姫様」
「早くお体をお拭き下さいませ。着替えをこちらに用意してあります」
姫と呼ばれた女は駆け寄ってきたくノ一が差し出す綿織をひったくるように手に取った。
「貴女達、馬鹿なの?私より赤子の心配をする方が先でしょう」
ひったくった布で震えながら濡れた赤子の身体を拭きあげる。女の腕の中で小さく咳込み泣く声が聞こえた。姫とよばれた女は赤子の無事を確認すると、目の前のくノ一にそっと赤子を返してやる。赤子が姫から離れる瞬間に剥き出しになった小振りな乳房が目に付いた。姫は慌てることなく、ゆっくりと襟を整える。
濡れた髪をかきあげた所で半蔵と目が合った。
数年振りに見た名無しさんは、もう子供ではなかった。