居残るあの子
ダダダ、と叩きつけるようなミシンの音が廊下にまで響きわたる。音の出どころである家庭科室の明かりをつければ、今日もまた、背中を丸めて布を縫い合わせている彼女。完成すればパジャマになるはずのそれは、まだ端が多少縫われているだけの布だ。他の子はとっくに作り終えているのに彼女だけが一向に終わらない課題を終えるため、毎日放課後に居残りをさせられている。ぷつりとミシンの音が止まったのを見計らって話しかけた。
「お疲れさま」
「あ、きこちゃん」
私を見て、彼女の疲れはてていた顔が少し綻んだ。
「今度はどこ間違えたの?」
「間違えた前提で話さないでよう……今のは斜めになりすぎちゃって」
ガタガタな上にチャコペンで描いた印から外れていく縫い跡が指差された。確かにこのまま縫い進めてしまうと後の行程に支障がでるだろう。彼女はこうして間違えては縫い直す。ただでさえ遅いというのにもはや終わりが見えなくなっている。
「……やっぱり先生についててもらったほうがいいんじゃない? そうすればすぐに気付けるでしょ」
「そうなんだけど、先生どっか行っちゃって。いつ帰ってくるんだろう……」
「ふうん……」
ぷちぷちと、たどる道を間違えた糸が外されていくのを見守る。彼女の白くて細い指が糸を抜いていくが、それすらもなんだかとろく見えてしまう。
「私が代わりにやっといてあげるから、もう帰ろうよ」
「だめだよそんなの! こういうのは自分でやらなきゃ意味ないんだから!」
「ちゃんとあんたに合わせてぶれぶれの縫い目にしとくからさ」
「そういう問題じゃないの!」
提案をきっぱりと断り、糸をセットし直して続きを縫い始めた彼女。学校に置いてある少し古めのミシンもけたたましく動き出す。こうなってしまうと至近距離にいても声が届かないので、小さな手で押さえられた布を見ているしかない。直線と呼べるか怪しい縫い方をしているなあ、と思いながら眺めていると、縫ってはいけない場所まで針が進みそうになっている。すぐさま彼女に伝えれば、ありがとう、と笑みを返された。
「しっかり押さえてもこんなにぶれるなんて、やっぱりミシンが悪いと思うんだよね」
「それ私の作ったやつ見ても言える?」
「きこちゃんは機械に愛されてるから別」
訳の分からない言い訳をして次の直線を縫う彼女にため息をつき、窓の外へと目をやった。冬は日が落ちるのが早いとは言うもので、今日の太陽ももう消えている。気持ちばかりの外灯が、まだ校内に残っている人々を照らしていた。部活をしている人もそろそろ帰りだす時間だというのに彼女の縫い物は終わる気配がない。
「もうこんな時間だよ。帰ろうよ」
「んー、もうちょっと。ききちゃん今日塾あるんでしょ? 先帰ってて」
「……電車無くなっちゃうよ?」
「そんな遅くまでいないって! 大丈夫だよ」
けらけらと笑って私の話は流されていく。それでもまだ粘ろうとした私を遮断するように、ミシンの音が再開した。彼女は頑固なところがある。これ以上誘ったところで無意味だろう。
今日もダメだった。
*
家庭科室の電気を消して出てきた私を、先生が暗い顔で出迎えた。家庭科室の鍵を返すように言われたが、先生に渡したくなくて強く握りしめてしまう。鍵のギザギザとしたところが手のひらに突き刺さっていく。今返せば、先生はもう貸してくれないだろう。
「三島さん、もうやめましょう」
「何の話ですか」
「とぼけないで。分かっているでしょう」
先生の声は少しばかり強ばっていた。
「死んだ人に話しかけるのはもうやめて」
分かっている。分かっている。
*
あの日も彼女は居残りさせられていた。私も今日のようにいっしょに残っていて、たわいもない話をして、塾があるからと先に帰ったのだ。
彼女が交通事故にあったというのは、次の日のホームルームで伝えられた。外灯も無く暗い道を一人歩いていたところを、彼女に気付かなかった車が轢いた。血を流して倒れる彼女を恐れた運転手は何もせずに立ち去った。彼女の命は私が知らないうちに消えていった。
何度連絡しても返信がないことを不思議に思っていたが何の事は無い。事故のときにスマホが壊れていたのだった。
二度と繋がらない彼女の連絡先を放心状態で眺めていた私のもとに、ミシンの音が届いた。壊れそうなほど大きな音が続き、止まり、また縫い始める。そういえば彼女もこんな風に失敗する度にやり直していたな、とふらふら家庭科室に近付いたとき、窓から見えたのは彼女だった。
興奮状態でやってきたおかしな生徒に先生は憐れみの目を向けていたが、そんなことは気にならなかった。一刻も早く彼女と話したかった。先生は思ったよりあっさり鍵を貸してくれた。手が震えて鍵が上手くささらない。なんとかして扉を開き、彼女の名前を叫んだ。
ミシンの音はピタリと止まり、彼女は苦笑いしながら振り向いた。
*
「……私はただ、彼女を家に帰してあげたいだけです。本当にいるんです。ずっと、ずっとミシンの前に座り込んで、まだ終わってないからって、」
「三島さん、それは……あなたの妄想なの。私の目には誰もいない空間に話しかけてるあなたしか映らなかった。それが全てなの」
ほら見て、と窓越しに家庭科室の中を覗かされた。当たり前のように暗闇が広がっている。そんな中、一番端の席にぽつんと座る彼女。今も、ミシンに布をセットしているのに。
「ね、誰もいないでしょう」
私は何も言わなかった。窓の外から見つめられているなんて気付きもしない彼女はミシンの電源ボタンを押した。また、叩きつけるような音が響いていた。
「お疲れさま」
「あ、きこちゃん」
私を見て、彼女の疲れはてていた顔が少し綻んだ。
「今度はどこ間違えたの?」
「間違えた前提で話さないでよう……今のは斜めになりすぎちゃって」
ガタガタな上にチャコペンで描いた印から外れていく縫い跡が指差された。確かにこのまま縫い進めてしまうと後の行程に支障がでるだろう。彼女はこうして間違えては縫い直す。ただでさえ遅いというのにもはや終わりが見えなくなっている。
「……やっぱり先生についててもらったほうがいいんじゃない? そうすればすぐに気付けるでしょ」
「そうなんだけど、先生どっか行っちゃって。いつ帰ってくるんだろう……」
「ふうん……」
ぷちぷちと、たどる道を間違えた糸が外されていくのを見守る。彼女の白くて細い指が糸を抜いていくが、それすらもなんだかとろく見えてしまう。
「私が代わりにやっといてあげるから、もう帰ろうよ」
「だめだよそんなの! こういうのは自分でやらなきゃ意味ないんだから!」
「ちゃんとあんたに合わせてぶれぶれの縫い目にしとくからさ」
「そういう問題じゃないの!」
提案をきっぱりと断り、糸をセットし直して続きを縫い始めた彼女。学校に置いてある少し古めのミシンもけたたましく動き出す。こうなってしまうと至近距離にいても声が届かないので、小さな手で押さえられた布を見ているしかない。直線と呼べるか怪しい縫い方をしているなあ、と思いながら眺めていると、縫ってはいけない場所まで針が進みそうになっている。すぐさま彼女に伝えれば、ありがとう、と笑みを返された。
「しっかり押さえてもこんなにぶれるなんて、やっぱりミシンが悪いと思うんだよね」
「それ私の作ったやつ見ても言える?」
「きこちゃんは機械に愛されてるから別」
訳の分からない言い訳をして次の直線を縫う彼女にため息をつき、窓の外へと目をやった。冬は日が落ちるのが早いとは言うもので、今日の太陽ももう消えている。気持ちばかりの外灯が、まだ校内に残っている人々を照らしていた。部活をしている人もそろそろ帰りだす時間だというのに彼女の縫い物は終わる気配がない。
「もうこんな時間だよ。帰ろうよ」
「んー、もうちょっと。ききちゃん今日塾あるんでしょ? 先帰ってて」
「……電車無くなっちゃうよ?」
「そんな遅くまでいないって! 大丈夫だよ」
けらけらと笑って私の話は流されていく。それでもまだ粘ろうとした私を遮断するように、ミシンの音が再開した。彼女は頑固なところがある。これ以上誘ったところで無意味だろう。
今日もダメだった。
*
家庭科室の電気を消して出てきた私を、先生が暗い顔で出迎えた。家庭科室の鍵を返すように言われたが、先生に渡したくなくて強く握りしめてしまう。鍵のギザギザとしたところが手のひらに突き刺さっていく。今返せば、先生はもう貸してくれないだろう。
「三島さん、もうやめましょう」
「何の話ですか」
「とぼけないで。分かっているでしょう」
先生の声は少しばかり強ばっていた。
「死んだ人に話しかけるのはもうやめて」
分かっている。分かっている。
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あの日も彼女は居残りさせられていた。私も今日のようにいっしょに残っていて、たわいもない話をして、塾があるからと先に帰ったのだ。
彼女が交通事故にあったというのは、次の日のホームルームで伝えられた。外灯も無く暗い道を一人歩いていたところを、彼女に気付かなかった車が轢いた。血を流して倒れる彼女を恐れた運転手は何もせずに立ち去った。彼女の命は私が知らないうちに消えていった。
何度連絡しても返信がないことを不思議に思っていたが何の事は無い。事故のときにスマホが壊れていたのだった。
二度と繋がらない彼女の連絡先を放心状態で眺めていた私のもとに、ミシンの音が届いた。壊れそうなほど大きな音が続き、止まり、また縫い始める。そういえば彼女もこんな風に失敗する度にやり直していたな、とふらふら家庭科室に近付いたとき、窓から見えたのは彼女だった。
興奮状態でやってきたおかしな生徒に先生は憐れみの目を向けていたが、そんなことは気にならなかった。一刻も早く彼女と話したかった。先生は思ったよりあっさり鍵を貸してくれた。手が震えて鍵が上手くささらない。なんとかして扉を開き、彼女の名前を叫んだ。
ミシンの音はピタリと止まり、彼女は苦笑いしながら振り向いた。
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「……私はただ、彼女を家に帰してあげたいだけです。本当にいるんです。ずっと、ずっとミシンの前に座り込んで、まだ終わってないからって、」
「三島さん、それは……あなたの妄想なの。私の目には誰もいない空間に話しかけてるあなたしか映らなかった。それが全てなの」
ほら見て、と窓越しに家庭科室の中を覗かされた。当たり前のように暗闇が広がっている。そんな中、一番端の席にぽつんと座る彼女。今も、ミシンに布をセットしているのに。
「ね、誰もいないでしょう」
私は何も言わなかった。窓の外から見つめられているなんて気付きもしない彼女はミシンの電源ボタンを押した。また、叩きつけるような音が響いていた。