花は咲く
薄汚れた植木鉢に水のあとができる。ペットボトルでできた簡易的なジョウロで水をやりながら、少女はうれしそうに言った。
「お母さーん! あともう少しで花咲きそう!」
「そう、よかったね」
少女の母親はそう言って軽くあしらうと家に戻るよう促し、すぐに隣人との会話に戻ってしまった。
少女は不満げに母親を見てから、言い付け通り家に戻っていく。
「そういえばまた地震があったでしょう」
「最近多いよね、怖いわあ」
眉をひそめて言う母親に、隣人は話を続ける。
「ニュースじゃ何の問題もないって言うけど、ねえ」
「どんどん大きくなっているのに、何の問題もない訳ないじゃないの、ねえ」
語尾を揃えて言う彼女らの表情は、言葉とは裏腹に明るい。話題はすぐに近所の話へと移っていった。
帰りの会が終わってすぐに、少女の元へ友人がかけてきた。堰をきったように捲し立てる。
「これからずーっと休校だって! ねえ、なにして遊ぶ?」
「みっちゃん地震あるのに遊ぶ気なの!?」
「あったり前でしょう! これしきの地震じゃ私を止められないよ!」
少女は困ったように笑う。これしき、というにはあの揺れは大きすぎると思ったのだ。揺れるたびに水槽の水がちゃぷちゃぷいうし、古い校舎はかなり危ない音をたてている。学校が休みになるのは嬉しいけれど、これでは少し怖い。目の前の友人はこれっぽっちもそう思っていないようだが。
「たぶんお母さんに止められちゃうから無理かなぁ」
母親は最近神経質になっている。避難所に行こうと言いだして、荷物をまとめだしたのだ。ちょっと前まではそこまで気にしてなかったのにな、と不安になる。
「いつもみたいにすぐに収まると思うけどなー。」
友人は不思議そうに言う。少女もそうだね、とだけ言った。
帰り支度を終えた少女は、思い出したように咲きかけの花の話を始めた。
汚れが増し、フチが少しかけてしまった植木鉢をみて少女は悩んでいた。
「……せっかく花が咲いたのに……」
植木鉢がどれだけ汚くなろうと、中に植えられた花の美しさは変わらなかった。今まさに咲き誇っている時期だ。けれども少女が水をやれなくなればすぐに萎れて枯れてしまうだろう。少女は近くで荷物を運ぶ母親に声をかけた。
「お母さん、やっぱり避難所に持っていっちゃダメ? 私が世話しなきゃ枯れちゃうよ」
「だめよ。花にあげる水なんてないの、分かるでしょう?」
母親にたしなめられ、少女は「それはそうだけど」と口をすぼめる。ここ最近、周辺の地域が断水しているのだ。原因はさらにひどく、頻繁になってきた地震だろう、と父親が言っていた。ギリギリまで家にいたかったが、さすがに危険だということで今日避難所へ移る。近所の人達もほとんどが避難所だという。
「……すぐに戻ってくるからね! それまで枯れちゃだめだよ!」
少女は母親を説得するのを諦めて花にそう宣言すると、貴重な水をくすねられるだけくすねたペットボトルを差し込んだ。たいしてもちはしないだろう。けれど、一日でも長く咲いていてほしい。未練を残しつつも少女は車へと乗り込んだ。
*
みし、みしりとコンクリートに亀裂が走る。ベキッと大きな音と共に割れる。ほんの少しの割れ目から、うろこのついた”なにか”がのぞいた。
*
そこは地獄絵図だった。建物という建物が壊され、瓦礫と化していた。鉄筋コンクリートも木造もそこには関係なかった。みな等しく潰され、引きずられていった。人気のなくなった住宅街に入り込んだその生き物は一つ一つ壊していく。子供のおもちゃも、車も、毎日囲んでいたテーブルも、全て踏み潰されていく。
生き物は大きすぎた。大きすぎたあまり、踏み潰した植木鉢に気がつかなかった。すりつぶされた枯れかけの花は、生き物の足の裏にへばりついた。もう形を維持していない。花とすら分からないかもしれない。細切れになった花は足裏のくぼみへと押し込まれた。
開けた視界によって生き物は大きな箱を見つけた。
たくさんの人が収納されている、恐怖に包まれた避難所を。
カメラを構えながら青年は人生で最もと言えるほど興奮していた。周囲の怒号も、泣き叫ぶ声も、彼の耳には入ってこなかった。ただ窓から見える怪物だけを見つめていた。
テレビでしか見たことのないような”それ”は、避難場所まであと少しという所まで近づいてきていた。怪物が一歩進むたびに立てなくなるほどの揺れが襲う。なぜ他の人達は逃げようとするのだろう。もうみんな分かっているはずだ。逃げ場なんてない。みんな死ぬのだ。この揺れが、あの近づいてくる影がその証じゃないか!
青年は死ぬことは怖くなかった。実感がわいていなかっただけかもしれない。だから彼は窓の外が塞がれた時、カメラを構えたままだった。そのカメラで映したものを見る人なんていないと、考えてもいなかったのだ。
屋根がぎしぎしと鳴り出した。悲鳴がひときわ大きくなる。そして――――
怪物ははたと気がついた。何もない。自分が歩くのを阻むものは、もう何もない!怪物は嬉しさのあまり駆け出した。このまま走り続ければ、きっといつか分かり合える存在に出会えるはずだ!
怪物の未来は希望に満ちていた。そりゃあ寝ぼけて暴れたり、寝起きは少しイライラして地面を踏みしめてみたりしたけれど、今は最高の気分なのだ。楽しくお話しよう。いっしょに遊ぼう。怪物の胸部分は期待でいっぱいだ。
怪物に悪気なんてなかった。ただ一ついけなかったのは、足元にいた生命体に気が付かないことぐらいだった。
怪物が走り抜けたあとに、瓦礫とすりつぶされた大量の何かが残った。その中でも、比較的形が残っている”それ”は小さな少女のものにも見えた。本当に少女のものかは分からない。彼女が、彼女らが起き上がることは、二度とない。
枯れかけた花は、花として最後までやりぬいていた。運よく怪物の足の隙間に入り込んだ花には、種が含まれていた。走り続ける怪物によって種は遠くにまで運ばれていき、やがて土のある場所へとたどり着いた。
雨が降る。流れた血を洗い流して、種の栄養となっていく。
静まりかえったその町で、一輪の花が咲いた。
「お母さーん! あともう少しで花咲きそう!」
「そう、よかったね」
少女の母親はそう言って軽くあしらうと家に戻るよう促し、すぐに隣人との会話に戻ってしまった。
少女は不満げに母親を見てから、言い付け通り家に戻っていく。
「そういえばまた地震があったでしょう」
「最近多いよね、怖いわあ」
眉をひそめて言う母親に、隣人は話を続ける。
「ニュースじゃ何の問題もないって言うけど、ねえ」
「どんどん大きくなっているのに、何の問題もない訳ないじゃないの、ねえ」
語尾を揃えて言う彼女らの表情は、言葉とは裏腹に明るい。話題はすぐに近所の話へと移っていった。
帰りの会が終わってすぐに、少女の元へ友人がかけてきた。堰をきったように捲し立てる。
「これからずーっと休校だって! ねえ、なにして遊ぶ?」
「みっちゃん地震あるのに遊ぶ気なの!?」
「あったり前でしょう! これしきの地震じゃ私を止められないよ!」
少女は困ったように笑う。これしき、というにはあの揺れは大きすぎると思ったのだ。揺れるたびに水槽の水がちゃぷちゃぷいうし、古い校舎はかなり危ない音をたてている。学校が休みになるのは嬉しいけれど、これでは少し怖い。目の前の友人はこれっぽっちもそう思っていないようだが。
「たぶんお母さんに止められちゃうから無理かなぁ」
母親は最近神経質になっている。避難所に行こうと言いだして、荷物をまとめだしたのだ。ちょっと前まではそこまで気にしてなかったのにな、と不安になる。
「いつもみたいにすぐに収まると思うけどなー。」
友人は不思議そうに言う。少女もそうだね、とだけ言った。
帰り支度を終えた少女は、思い出したように咲きかけの花の話を始めた。
汚れが増し、フチが少しかけてしまった植木鉢をみて少女は悩んでいた。
「……せっかく花が咲いたのに……」
植木鉢がどれだけ汚くなろうと、中に植えられた花の美しさは変わらなかった。今まさに咲き誇っている時期だ。けれども少女が水をやれなくなればすぐに萎れて枯れてしまうだろう。少女は近くで荷物を運ぶ母親に声をかけた。
「お母さん、やっぱり避難所に持っていっちゃダメ? 私が世話しなきゃ枯れちゃうよ」
「だめよ。花にあげる水なんてないの、分かるでしょう?」
母親にたしなめられ、少女は「それはそうだけど」と口をすぼめる。ここ最近、周辺の地域が断水しているのだ。原因はさらにひどく、頻繁になってきた地震だろう、と父親が言っていた。ギリギリまで家にいたかったが、さすがに危険だということで今日避難所へ移る。近所の人達もほとんどが避難所だという。
「……すぐに戻ってくるからね! それまで枯れちゃだめだよ!」
少女は母親を説得するのを諦めて花にそう宣言すると、貴重な水をくすねられるだけくすねたペットボトルを差し込んだ。たいしてもちはしないだろう。けれど、一日でも長く咲いていてほしい。未練を残しつつも少女は車へと乗り込んだ。
*
みし、みしりとコンクリートに亀裂が走る。ベキッと大きな音と共に割れる。ほんの少しの割れ目から、うろこのついた”なにか”がのぞいた。
*
そこは地獄絵図だった。建物という建物が壊され、瓦礫と化していた。鉄筋コンクリートも木造もそこには関係なかった。みな等しく潰され、引きずられていった。人気のなくなった住宅街に入り込んだその生き物は一つ一つ壊していく。子供のおもちゃも、車も、毎日囲んでいたテーブルも、全て踏み潰されていく。
生き物は大きすぎた。大きすぎたあまり、踏み潰した植木鉢に気がつかなかった。すりつぶされた枯れかけの花は、生き物の足の裏にへばりついた。もう形を維持していない。花とすら分からないかもしれない。細切れになった花は足裏のくぼみへと押し込まれた。
開けた視界によって生き物は大きな箱を見つけた。
たくさんの人が収納されている、恐怖に包まれた避難所を。
カメラを構えながら青年は人生で最もと言えるほど興奮していた。周囲の怒号も、泣き叫ぶ声も、彼の耳には入ってこなかった。ただ窓から見える怪物だけを見つめていた。
テレビでしか見たことのないような”それ”は、避難場所まであと少しという所まで近づいてきていた。怪物が一歩進むたびに立てなくなるほどの揺れが襲う。なぜ他の人達は逃げようとするのだろう。もうみんな分かっているはずだ。逃げ場なんてない。みんな死ぬのだ。この揺れが、あの近づいてくる影がその証じゃないか!
青年は死ぬことは怖くなかった。実感がわいていなかっただけかもしれない。だから彼は窓の外が塞がれた時、カメラを構えたままだった。そのカメラで映したものを見る人なんていないと、考えてもいなかったのだ。
屋根がぎしぎしと鳴り出した。悲鳴がひときわ大きくなる。そして――――
怪物ははたと気がついた。何もない。自分が歩くのを阻むものは、もう何もない!怪物は嬉しさのあまり駆け出した。このまま走り続ければ、きっといつか分かり合える存在に出会えるはずだ!
怪物の未来は希望に満ちていた。そりゃあ寝ぼけて暴れたり、寝起きは少しイライラして地面を踏みしめてみたりしたけれど、今は最高の気分なのだ。楽しくお話しよう。いっしょに遊ぼう。怪物の胸部分は期待でいっぱいだ。
怪物に悪気なんてなかった。ただ一ついけなかったのは、足元にいた生命体に気が付かないことぐらいだった。
怪物が走り抜けたあとに、瓦礫とすりつぶされた大量の何かが残った。その中でも、比較的形が残っている”それ”は小さな少女のものにも見えた。本当に少女のものかは分からない。彼女が、彼女らが起き上がることは、二度とない。
枯れかけた花は、花として最後までやりぬいていた。運よく怪物の足の隙間に入り込んだ花には、種が含まれていた。走り続ける怪物によって種は遠くにまで運ばれていき、やがて土のある場所へとたどり着いた。
雨が降る。流れた血を洗い流して、種の栄養となっていく。
静まりかえったその町で、一輪の花が咲いた。
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