欠片
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私には最近気になる人がいる。
今日もその人は重そうなダンボールなのに、それをヒョイと軽く抱え、階段をのぼっている。
「こんちは」
柔らかな笑顔で挨拶をするこの人。
今日も同じ時間にやってくる。
私の職場に置いてある自販機の補充と点検をしに彼は今日もやってくる。
たまたま私が飲み物を買いに行く時間と、彼がここへ来る時間がかぶっていた。
それがきっかけ。
「今日もお先にどうぞ」
私はいつも点検の前に飲み物を買わせてもらう。そりゃ、営業マンとして「後にしてください」なんて言えないだろう。
これが連日続いたのだ。
気がつくと私は彼が来る時間が近づくとソワソワして、トイレで化粧を確認したりするようになった。
……完全に意識している。
というより、恋をしてしまったようだ。
名前も知らない彼に。
けれど、自分から名前すら聞くこともできないでいるこの恋にどんな進展があろうか。
結局何も出来ずに今日も一言「こんにちは」と挨拶を交わすだけで精一杯だ。
けれど、今日は違った。
「いつもこのルーティンなんすね」
いつものように彼が自販機にやって来たのを見計らって私は飲み物を買いに行く。
すると挨拶を交わした後、彼は私に言ってきたのだ。
「そ、そうなんです。入社してからずっとこの時間に飲みたくなるんですよねぇ」
私は苦し紛れに笑いながら言う。けれど、まったくの嘘…という訳でもない。入社してからというのは嘘だけれど、だいたい決まった時間に買いに行っていたのは本当だ。
ここ最近は完全にこの時間を狙っているけれど…。
「オレはココ最近この時間を狙って来てるんすけどね」
ーーーえ?
それってどういう意味で…。
私が口を開こうとした瞬間、彼が持っている携帯電話が鳴った。
彼は「すいません」と私に対し軽く頭を下げ、電話に出た。
「はい、水戸です。お疲れ様です」
水戸……って言うんだ。
私は電話をしながら作業をしている彼…水戸さんにぺこりと頭を下げ、買ったミルクティーをギュッと握りしめながら自分のデスクがあるフロアへと戻った。
自分のデスクに戻ってからというもの、私はさっきの水戸さんの言葉が頭の中でグルグルとまわっていた。
「この時間を狙って来てる」
それは私が思っている事と同じ。
けれど、意味が同じとは限らない。
社会人うん年目のいい大人は疑り深いのだ。
……それでも、ほんの少し、1ミリだけでも淡い期待をしてしまうのはどうしようもない。
少しの欠片でも希望があるのであれば、それにすがってしまう。
それが恋というものだ。
ー次の日ー
最悪…最悪だ……。
私は長びく会議の中、会議室の壁にかかっている時計を睨んでいる。
その時計の針はいつも水戸さんが来る時間を指していた。正直会議の内容なんて後半から頭に入っていない。社会人として最低なのはよくわかっている。重々承知だ。
……けれど、それ以上に私が水戸さんに対する想いは膨れ上がっていた。
会議が終わった瞬間、急いで席をたち誰よりも先に会議室から出たい気持ちを私はどうにか抑えた。
さすがに上司より先に出る訳には行かない。
そこはグッとおさえ、上司が会議室を出たあと急いで会議室を出た。
バタバタと廊下を走っていくと、結局先に出た上司を追い抜いてしまったことはもう気にしないでおくことにしよう。
いつもの自販機へ走って向かっていると、目的地へ着く前の廊下で作業を終えたであろう水戸さんにバッタリ出くわした。
「佐藤さん」
「え?!」
水戸さんが私の名前を言ったことに私は驚きを隠せない。走ってきた事以上に私の心臓は苦しく、鼓動はうるさく身体全身に鳴り響く。
驚く私を察してか、水戸さんは私に向かって指を指した。その先には私がぶら下げているネームプレートだ。
「あ…」
「そっ。さすがに覚えるでしょ」
水戸さんはそう言うと私に何かを差し出した。
それは私がいつも買っているミルクティー。
「これ買うために走ってきたってことでいい?」
「は、はい!待って、今お金…」
私は気付く。
お財布を持ってきていないことに。
そして私は頭の中が真っ白になっていく。
ーーやばい。さすがにバレる。
私がミルクティーを買うためじゃなく、水戸さんに会うために走ってきたという事が。
「金がねぇと買えねぇよ?」
水戸さんはクックックと笑いながら私に言った。
けれどその後、思いもよらない言葉を続ける。
「…よかった。てっきり昨日のオレの言葉で、もう会いたくねぇと思われたんだと……」
水戸さんは眉を八の字にして、困ったような笑顔で笑った。
「そんな訳ないです!!」
思わず勢いよく言った私に水戸さんは目を丸くして驚いた。そして私の手を掴み、水戸さんが私に差し出していたミルクティーを持たせた。
私は恥ずかしくなり、ミルクティーを持ち直し、いつも見ているミルクティーのラベルをじっと見ることしかできない。
「あのさ、別の飲み物もご馳走させて欲しいんだけど?」
私はミルクティーから水戸さんへと視線をうつす。
「ははっ、伝わんねーかな。デートのお誘いってやつなんだけど」
たった一つの挨拶から始まり、ほんの小さな欠片だった期待があっという間に大きくなることもある。
それが恋というものだ。
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