瞬間
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ガチャ!バタンッッ!ダンダン!パチッ!ドサッ!!
鍵を開ける音、ドアを開ける音、足音、電気をつける音、カバンを床に置く音、以上が仕事から帰ってきた私が出した擬音たちです。勘違いしないでね?いつもはもっと静かだよ?社会人たるもの毎日穏やかに過ごせる訳じゃないのです。むしろ納得いかないことばかりで、怒りが溜まりに溜まる日も多くあるのです。その結果、生活音がいつもの何倍も大きくなってしまうのよ。
ヨロヨロと中腰で歩きながらボスっとソファへ腰掛ける。「はぁ~」と深く、長い溜息を天井へむけ吐き出すと、少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。真っ白な天井がいつもより眩しく感じて目を閉じる。
「……お疲れ様」
自分への労いの言葉をポツリと言ったあと、私はソファから立ち上がり、床に置いてあるカバンのチャックを開ける。そしてその中から小さなポーチを取り出し、ベランダへと向かった。駅から怒りながら歩いてきた身体は少し温まっており、ビュウ…と吹いてきた冬の冷たい風は気にならなかった。むしろ心地よく感じた。
「バカヤロウ」
暴言を吐き、持ってきたポーチの中からタバコを取り出して火をつけたその時、「今日は怒りのタバコタイムですか?」と頭の上から声が聞こえてきた。顔をあげると上の階のベランダに腕を乗せ、軽く身を乗り出している男性がくわえタバコをしてこちらを見ている。
「……聞こえてた?」
「あぁ、バッチリな」
笑いながら空へ向かい、煙を吐くこの人は私の上の階に住んでいる水戸くん。いつ、どんなキッカケでこうなったのかはあまり覚えていないのだけど、いつの日からかこうしてベランダ越しにタバコを吸う間柄になっていた。
年齢とか、どこで働いているかとか、どこ出身とか……そんなお互いの素性を実は私たちは知らない。最近コンビニで買った物、観た映画、明日の天気、まるで学校のクラスメイトと言い合うような事ばかりを話している。タバコを吸っている時だけの会話なんて所詮はそんなものよ。
……けど、なんだか最近はそれだけじゃ物足りないって思い始めてきちゃったんだよね。どうしてかーーなんて事は分かりきっている。気になるのだ、水戸くんの事が。
それなのに一歩踏み出せずにいる。だって本当に素性を知らなさすぎるんだもん。お互いもうタメ口だけど年上かもしれない、定職に就いていないかもしれない、もしかしたら同棲している彼女がいるかもしれない、いろんな想像ばかりが膨らむ一方だ。それならチャッチャと聞けばいいって?それができていたら苦労はしませんよ。いい歳してバカみたいだけど、怖いんだよね。うん、ビビってる、現実を突きつけられるのがさ。かといっていつまでも夢見る少女じゃいられないよねぇ。
そんな私の目を覚ますかのように、チリッと手の甲に熱さと痛みが混ざったような感覚が走った。
「あっつ!!」
「大丈夫か?!」
ベランダに乗せていた手の甲に、自分が吸っていたタバコの灰が落ちたらしい。水戸くんは上から心配そうに声をかけてくれる。私はすっかり短くなったタバコを灰皿に押し付けて、火を消した。
「大丈夫、大丈夫。なんか今日はついてない日なのかも」
乾いた笑いで応える私に「あ」と何かを思い出したかのように声をあげた水戸くん。そして「ちょっと待ってて」と言ってベランダの扉を開ける音が聞こえてきた。手持ち無沙汰の私はもう一本タバコを箱から出すと、カチッとライターで火をつける。夜空に見えるいくつかの小さな星に向かい、白い煙を吐くと、再び上からベランダの扉が開く音が聞こえてきた。
「まなみちゃん甘いもん好きだったよな?」
「え?うん好きだけど」
「ほりゃ、どーぞ」
いつもより深く身を乗り出した水戸くんは腕を上から下へのばし、白いレジ袋を下の階である私へと降ろしている。彼とは反対に下から上へと腕を伸ばした私はその袋を受け取った。中身を見ると、最近巷で有名なコンビニスイーツが入っている。ご丁寧にスプーン付きだ。
「職場の人にもらったんだけど、オレ甘いもんそんなに得意じゃねーからさ」
「いいの?今なかなか手に入んないんだよ?コレ」
平然を装いながらも(良かった…仕事してたんだ)なんてホッとしたのは秘密。
「別にいーよ。他にあげるよーな人もいねぇし」
「……彼女、とかは?」
まさか今日このタイミングで、気になってた事がいくつか知ることができるなんて…声が震えた、気がする。バレてないよね?大丈夫だよね?そんな事を祈りながらーーううん、祈っているのは別のこと…『いねーよ』って、ただその一言が聞けることを祈ってるんだ。
上を見ることもできずに、私は目の前のタバコの煙だけを見つめている。ーーと、上から声が降ってきた。
「なぁ、こっち向いてくんね?」
思っていた返答と全然違う言葉に私はゆっくりと上を見上げる。そこには困ったように笑う水戸くんの顔、と言っても暗くてあまりハッキリは見えないけど。眉を下げ、目を細めているのはわかった。2人の視線が絡み合い、一気に身体が熱くなる。ドキドキと心臓の音がうるさい。
「いません」
なんだか楽しそうに聞こえた声は、私の気持ちを高ぶらせるのに十分すぎるほどだった。思わずバンザイをしたくなるほど嬉しい気持ちを必死でおさえ、顔を下げて「そーなんだ」と私は小さく言う。意識をして声を小さくした。だってそのままの勢いで言ったら絶対声が弾んじゃうもの。
「気になる女の子に、彼氏がいるかどーかも聞けねぇヘタレ野郎なんでね」
天国から地獄とはこーゆー事言うんだよね。
身をもって知ったわ。いや、知りたかったわけじゃないんだけど…イタイなぁ、私。潰されそうになる胸の痛みと、簡単に喜んだ心への恥ずかしさに逃げ出したくなる。そして今さら気付いてしまったんだ、こんなにも水戸くんへの想いが大きくなっていたって事に。
「……気になる子いたんだね」
もうタバコは吸っていないのに吐いた息は白い。私はベランダの柵の上に置いた腕に顎を乗せて、真っ直ぐに前を向いたまま、2月の夜の闇に消えたくなった。
「でもオレその子の出身地も知らねーの」
「へぇ…」
私もだよ。水戸くんの出身地なんて知らない。
「どこで働いてるかも知らねぇし」
「そうなんだ」
それも一緒。私だって水戸くんの職場なんて知らないもん。
「極めつけは、年齢も知らねーの」
「……え」
さすがにここまでくるとピンとくるよ。今日何度目になるかわからないけど、私は姿勢を正してゆっくりと上を見上げる。その時、チラチラと白く輝くものが目に入ってきた。
ーーー雪だ。
「でも知ってることもたくさんあるんだな」
ニカッと笑い水戸くんはこっちを見たまま、私と同じように白い息を吐いて言葉を続ける。
「甘いものが好き、家の家賃、今日はあまり機嫌が良くなかった………なっ?けっこうあるだろ?」
溶けてしまいそうだよ、そんな笑顔見せられたら。私の不機嫌なんて、あなたに会えたその瞬間から一気に上機嫌に変わった。オセロみたいにクルって。でも、あなたの言葉1つでまた機嫌が裏返りもした、クルクルクルクル…裏表が目まぐるしくて、ホント疲れちゃう。それなのにあなたを想う気持ちだけはずっと変わらない。
「ねぇ、水戸くん」
「ん?」
「もっと話したいんだけどさ、寒いから場所変えない?」
「オレも言おーと思ってました」
2人が同じ部屋のベランダで寄り添いながらタバコを吸う瞬間は、そう遠くないーーーー。
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