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第1章

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ある日、あの人に似ている子に出会った。
その子はとても静かで強かで弱そうな男の子だったー



彼の誕生日の日、僕は彼を裏切った。
彼が過去に周りからいじめられていたことや知らない人への警戒心が強いってことも知っていた。
だからこそ、付き合うことにしたのだけれど。

彼の誕生日の日、たまたまあの人から連絡が来て日本に帰ってくると言われた。
…それは行くしかない。そう思った。


…僕にとってあの人は、好きな人であり憧れの人であり、ーーただ一人の信頼できる人であった。







母親は有名なヴァイオリニスト、父親は大学教授。
そんな家系に生まれた。
小さな時から期待や圧力、そんなものを恐ろしく感じていた。僕が演奏をミスすると母が殴ってくる。
母親無しに家でピアノの演奏をするとうるさいと父親が殴ってくる。
…痛い、とても痛い、苦しい、辛い。

「お前のピアノは心が落ち着かないんだ!!うるさくてたまらない!!」

その瞬間、僕の中で何かが壊れたような気がした。
父親への思いは踏みにじられ、父親とは会話をしないようになった。
そんな矢先、"ソイツ"が死んだ。
それは僕にとって幸せで、この世に生きててよかったと思えることだった。

それから田舎に引っ越して、方言が強く田んぼだらけのあの田舎に引っ越した。
そこでもピアノの練習は止まらなかった。止まることを知らなかった。

家にピアノがあるのは必然で、練習するのも必然で、母から殴られるのも…必然だった。
そんな変わらない日々…だったはず。

引っ越しして一ヶ月。
隣の家の家族が挨拶をしに来た。
名前は高梨家、ここの地域で随一のアーティスト一家だったそうだ。
しかし僕の家とは違って、高梨家の大人達はとても優しかった。練習ばかりする僕に母親に変わって料理を持ってきてくれたり、買い物に連れて行ってくれたり。

そんな時、ようやく紹介されたのがあの人だった。彼女は僕の四歳上でその当時にはもう既に全国大会で優勝するような人だった。

「璃子出てきなさい。仲良くしてくれてる隣の家の真斗くんよ〜」
高梨家の二階の一番奥にある閉ざされた部屋の中から人が出てきた。

「……こんにちは」
白いワンピースを着た彼女がふわっと笑って僕に微笑んだ。ーその瞬間、きっと僕は恋に落ちたんだと思う。

それからは彼女とデュエット練習をするようになって、アドバイスをもらったりして段々と僕もピアノが上達していた。

「真斗、ピアノはね練習しても上手くなるものではないの。…私は心がこもっていると必ず上手くなると思ってる。」

そういう彼女の目が本気だと僕に訴えていた。そうか彼女は本気なんだと実感したと同時に彼女への強い憧れや尊敬を感じた。

…その歳でそんなことを考えるなんて、僕と違って心まで美しいなんて。

彼女に煌めきを感じた。
彼女が大天使ミカエルに見える、
彼女の後ろに大きな羽が見える、
ゆっくりと膝が重力に倣うように落ちる、





ーその日から僕は彼女が一番で、彼女が唯一だった。


**

「ねえねえ、真斗さん。真斗さんってコーヒー飲みそうなのに意外だよね」

「そうかなあ…僕は断然紅茶派なんだよね」

**

彼女はよく紅茶を飲んでいた。
僕のピアノを聞く中で紅茶を静かに飲んでいた。
いつも彼女の部屋から紅茶の匂いがした。

…華やかに香る花の蜜のような匂いが充満していた。






あの日、僕は彼女を迎えに行った。
空港へ行くと東京着のフランスからの飛行機があと十分で着くそうだ。

…彼との待ち合わせまではあと五分。
彼もきっと帰るだろうと思った。
彼が怒ったら機嫌を取ればいいと思った。


「璃子さん、おかえり。」

「ただいま、真斗。久々の日本は空気が綺麗ね」

会えなくなって十年、彼女は大きく変わった。彼女は結婚して子供も生まれた。
大人っぽくて優しそうな旦那さんに恵まれて。

…けれど僕と彼女の関係は歪だ。
また今日もそこになだれ込む、そこに、底に。




翌日、僕はチェックアウトして部屋へ帰る。
彼には…機嫌取りに指輪でもあげればいいかとホテルの部屋にあった指輪を拾って持つ。

「ごめんな、本当にごめん。急に用事ができて…」

薄っぺらい謝罪の言葉を並べて彼に喋りかける。

「あ、ううん…いいよ」


彼は二言で許してくれた。
…簡単だな、としらを切った。

「お詫びというか、昨日渡すはずだった…」

ポケットから雑に出したのはその辺に落ちてた銀の指輪。別に大したものでもない。

「…え、これ僕に?…ありがとう…」

彼が受け取って自ら指に嵌る。
嬉しそうな顔を確認して、その場を治めた…つもりだった。


















翌日、僕のマネージャーから電話があって雑誌を今すぐ買いに行けと言われ大人しく買いに行った。

そのページには璃子さんと顔を隠された僕の写真があった。

「は!?なんだこれ」

あの日、僕はきちんと彼女に会うときの約束を守って身を隠してたはず。
帽子をつけてサングラスをかけてマスクをしている。
…僕のことはバレていないみたいだ。
けど、けど!!

「璃子さん…!!」

僕のせいで璃子さんのこれまで積んだ功績がなし崩しにされてしまう…!

璃子さんに急いで連絡する。

「真斗…」

憔悴し切ったような声で名前を呼ばれた。
急いで行かないと…そんな思いしか無かった。

璃子さんの元へ向かうと何もなくなったようにただ椅子に座っていた。

「璃子さん!!ごめんなさい、俺のせい」
言葉を遮ったのは言葉だった。

「真斗、ごめん…こんなこともう続けられない。…私には娘とあの人が必要なの…っ」








また泣き崩れたのは璃子さんで僕は呆然としていた。
やっぱり現実を突きつけられるのはつらくて悲しかった。
泣き崩れる璃子さんの前で僕は立ち尽くした
そこにはもう…僕が感じた煌めきは消えていた。
彼女の目が弱く下を向いていた。
あの頃の力強さがない、
僕が憧れたあの目がない、
その目はとっくに僕ではない人にもう向いている。



全身の力が抜けて、ふらふらと家に向かう。
その間、何も考えられなかった。

タクシーを呼んでマンションの前で降りた。

自宅に帰ると安心して涙が止まらなくなった

今までのこと、小さい時のこと、璃子さんのこと。なんだか失恋したみたいだ。
酒を煽ってベロベロによって抜け殻のように寝た。


ようやく起きたのは朝日がもう一番高く登っている頃。
目が覚めて紅茶を作って座ると何かが置いてあることに気づいた。

黒の光沢のテーブルにキラリと光る銀色のものがあって、そこには

「持ち主に返してください…」

…どういうことだ?と理解ができずに理斗に電話をする。

ツーツー、なんど連絡しても繋がらない。
永遠にコールが鳴るだけ。

察した。別れようということか、と。

「そうかー…」

第一に理斗はただの身代わりで、別に好きじゃなかったから大丈夫だ。




ーーー最初は、そう思っていた。






あの人と縁を切って、
彼と連絡が取れなくなってもう一ヶ月。

あの人のことはさっぱり忘れられた。
彼女はフランスに返って記者会見を開いて、
事実だと認めた上で夫とやり直すことを宣言した。






ポットを出して中に紅茶の茶葉を入れる。
ふわっと香る匂いに、ようやく気がつく。





「理斗のにおい…」





彼は優しかった。
優しいが故に傷つけられることが多かった。
僕がドタキャンしようと、すっぱ抜かそうと
彼はいつも僕だけを信じていた。

「僕は…真斗さんの紅茶を飲んでる時の表情が好き」


彼はそう言った。

…思い出したのだ。
彼と買い物に行った時僕が紅茶の匂いが好きだというと僕の手を取ってある場所に連れて行ってくれた。

**

「ここ、オーダーメイドで自分の香水作れるんだよ!
すごいよね…」

そんな風に言って僕の好みの匂いになるように、
僕と二人で彼は調合した。

「…ん〜紅茶の匂いに似た花みたいな匂いだね!」


**

あの紅茶の少しだけ後に残る爽やかな匂い、
少しだけうざったらしい甘さ。


「僕は…彼の匂いが好きだったんだ…」

…確かに小さい頃のあの想い出がそうさせてるのかもしれないけれど。
理斗は花のような匂い
あの人のは蜜のような匂いだった。

僕は…大きな勘違いをしていたんだ。
彼があの人に似ているから好きだったわけじゃなくて、彼が好きだったんだ。


あの匂いも
あの笑顔も
あの声も
あの健気さも
全部、全部…

自分の手で離してしまった。
でも、…僕だけのものにしたい。



「りと…りと…っ」



叫んでも叫んでも
呼んでも呼んでも
帰ってくることはない彼を
待ち続けている。







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