たとえ、どんなに
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短い夏が終わりを迎え、いつのまにか蝉の音は息を潜めた。
残暑は厳しいものの連日続いた茹る様な暑さからは解放され、やっと少しは過ごしやすい日々が訪れる様になる。
折角貰った水風船は一週間もするとすっかり萎んでしまったけれど、あの日私が寂しかったと溢したからか、少しずつではあったけれど携帯の番号を交換した事も相まって恵君とのやり取りが増えていく。
それはほんの些細なことで、秋の虹が出ていたとか、やっと繁忙期が終わったとか、もうすぐ試験があるとか。
どれも話題を見つけては私から発信するものばかり。
文面になるとより一層愛想のない返事ばかりが返ってきたけれど、そんなやり取りすら最近の私の楽しみになりつつあった。
まだ正式な高専の学生では無く、個人的に五条先生から任務を割り当てられている恵君は当然学校を終えてから任務に赴く事になる。
言ってしまえば授業の一環として任務に赴く私よりも遥かに多忙だ。
そんな中でも先日の私の言葉を気に掛けてくれて居るのか、今日の午後には高専に来てくれる事になり、私は約束のクッキーの材料を大量に買い込み、型抜きを終えた生地が食堂のキッチンを占拠している。
その切っ掛けは唐突に私が作ったクッキーを五条先生が食べたいと言い始め、即席で作ったそれを自慢するために恵君に連絡をした事から始まったらしい。
珍しく恵君発信の連絡が来たかと思えば実に彼らしい文面で、次の休みは空けておいて下さいと要件のみのメッセージを受け取った時には思わず携帯を二度見してしまった位だ。
妙なところで恵君と張り合おうとする先生の子供っぽさには少し呆れたものの、彼が高専に来る契機を作ってくれた事に私は人知れず感謝している。
「ふふ。楽しみだなぁ」
熱したオーブンの窓を覗き込みながら私の顔は緩んでいたに違いない。
既にテーブルには可愛らしいクロスを敷き、お皿の上には既に焼き上がったクッキーが並べられ、ティータイムの準備は万端と言ってもいい。
先生に見つかればまた揶揄われる事は必至だろうけれど、そんな事は今の私にとっては気に留める程のことでもなくて。
タイマーの音が鳴ると同時に、取り出した最後のクッキーの粗熱が取れるのを待ちながらテーブルに舞い戻る。
その席は昔恵君と初めて会った時に使った席であり、いつからかこの場所は私にとって特等席へと変わっていた。
あの頃はまだ身長も全然低くて、椅子に腰掛けても脚が床につくかどうかだった筈なのに。
先日背負われた背中は私よりも遥かに大きかった。
個人差はあるのだろうけれど、まだ成長過程の彼ならばもっと大きくなる可能性は高いだろう。
高専に入る頃になればきっと見上げなければ顔を見ることすら出来なくなってしまいそうだとさえ思う。
約束の時間まではまだゆとりがあるというのに早く来ないかと逸る気持ちだけが私の視線を何度も時計へと導く。
つい先程までは晴れていた筈の空は少し曇りがちになり、今にも雨が降り出しそうなどんよりとしたものへと変わりつつあった。
恵君はちゃんと天気予報を見てきているだろうか。
そういえば台風が接近しているなんて話を数日前にはニュースでやっていた気もする。
次第に窓に雨粒がポツポツと打ち始め、一気に降り出し始めた雨はしんとした部屋の中に波紋を呼んだ。
早く来ないかとテーブルに寝そべった私はその音に耳を傾け、少しでも時間が早く過ぎる事を願っていた。
けれど次第に話し相手もいない静けさは私に微睡を齎し、重たくなった瞼がゆっくりと伏せられていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
誰かに名前を呼ばれた気がする。
その音はとても優しくて、心地が良くて、もっと聴いて居たいとさえ思える様な暖かいものだった。
頭を撫でる指先は何処か覚えがあって、頬に触れた柔らかい感触は何なのだろうか。
自分のものではない香りに包まれて、誰かに優しく抱きしめられている様にも感じるのと同時に、それは心地よく水面を揺蕩う小舟のような錯覚さえ抱かせ、ずっとこうしていたいとさえ思う。
けれど、私は何か思い出さなければならないことがあったのではないかと靄の掛かる頭を回転させた。
辿り着けそうで辿り着けない迷路に迷い込んだ様な思考の中で、誰かの匂いに混じる少し甘い香り。
まるで連想ゲームの様に浮かび上がるワードがパズルの様に組み合わさると頭の中に絵を描き、それは恵君と一緒に過ごしている筈の己の姿だった。
「……めぐみ、くん」
そう言葉にした途端、今の自分の状況を明確に理解した気がする。
浮かれ、楽しみすぎて、時間が早く経たないかと考えるうちに私はどうやら転寝をして居たらしい。
時間を確認しなければとのそのそと上体を起こすと、目の前に人影を見つけて私は瞬きを繰り返す。
よくよく見れば肩には冷えない様に気を遣ってくれたのか恵君の中学のブレザーが掛けられて居た。
テーブルに対して少し斜めに腰掛け、自身の手元に視線を落とす恵君の長い睫毛が揺れる。
自分で用意したのかコーヒーに手を伸ばし、残り僅かであろうページが捲られる音がして。
やがて暫しの沈黙の後、静かに本が閉じられた。
「よく寝れましたか?」
「……ごめんね。いつのまにか寝ちゃってたみたい。もしかしてずっと待っててくれたの?」
「そんなに長い間じゃないですよ。丁度読みかけの本が終わった所なんで」
週末だと言うのに以前の様に外で会うわけではないからか、制服姿の恵君は同じく通学に使っていると思われる薄いカバンに本を押し込むと私に向き直る。
けれどその表情は僅かに眉根が寄せられており、私の顔を凝視するとやがて口元を押さえながら笑いを堪える様にして背けられて行った。
「どうしたの?」
「寝跡、ついてる」
「えっ!?やだ、うそっ」
咄嗟に頬に手を当てると左側の頬だけに不自然な凹凸を感じるのは腕を枕代わりにして眠ってしまったからなのだろう。
笑いを噛み殺そうと必死になるものの肩が大きく揺れる恵君の姿に私は顔を赤らめるしか無く、少しでも早く治らないものかと頬を摩りながら無駄な足掻きを繰り返す。
それさえもツボに入ってしまったのか、恵君は一層顔を背けて口元を抑えて居ても時折くぐもった声が漏れて居た。
そのうち身体はテーブルに突っ伏し、声を荒げて笑うところなんて見た事はないから、彼にすればこれは爆笑の部類なのだろう。
不貞腐れて頬を膨らませてもまるで効果はない。
恨めしい視線を向けるとまだその肩は揺れて居り、何とも悔しい気持ちになった私は口を尖らせて居た。
「意地悪。起こしてくれたらよかったのに」
「起こしましたよ。爆睡してたのはそっちでしょ」
「うそ。ほんとに?……あ、制服ごめんね。ありがとう」
「風邪引かれたら困るんで」
「そういう所は優しいのに。じゃあ、もしかしたら頭撫でたりしてくれた?ほっぺにも何か当たった気がしたんだけど」
一頻り笑い終えたのか、やっと身体を起こした恵君は上着を受け取りながら私の言葉に一瞬苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる。
その視線は彷徨い、私が首を傾げると否定とも肯定とも取れない様な微妙な反応をするだけで額に手のひらを押し当てながら一度息を吐き出すと私に視線を向けた。
それはまるで私を射抜く様に鋭く、何かを探られている様な。
試されている様な錯覚さえ抱かせるものだった。
僅かに恵君の口の端が上がり、固まった様に動かなくなった私に、挑発的な言葉が向けられる。
「何かしたって言ったら、どうします?」
「え……落書き、とか?」
「んな訳ないでしょうが。まぁ、いつか分かりますよ。これ、貰います」
私が起きるまでコーヒー飲みで我慢して居てくれたのか、お皿に並べたクッキーを一つ摘むと恵君は口の中へと放り込む。
その後には少し冷め始めたコーヒーに手を伸ばし、いつになく意地悪な態度に対して不貞腐れる私に視線を向けた。
けれどその手は止まる事がなく、身体の成長と共にどうやら食欲も旺盛になったらしい。
見栄えを良くするために少量を綺麗に並べたお皿はいつの間にかその殆どが彼の胃袋の中に収まってしまい、私が慌てて席を立ち、お代わりを用意する頃には手間を省いてやったと言わんばかりに綺麗になったお皿だけが取り残されて居た。
「もう食べちゃったの?」
「久々に食ったら止まらなくなりました」
「そっか。昔もよく食べてくれたもんね。あ、こっちの方が好みかも。ちょっと味、変えて見たんだけど」
テーブルにお皿を置くと、自信作のそれを私が一つ手に取り恵君に向けて手を伸ばす。
てっきり手で受け取ってくれるかと思いきや、返した制服を着ている最中だったらしく彼が顔だけをこちらに向けて口を開いた。
その瞬間。
先ほどの仕返しをするなら今しかないと思った私がきっと馬鹿だったのだろう。
何の気なしに彼の口元に指を近づける振りをして私はその手を引っ込める。
よくある悪戯の延長の筈だったのに、勘のいい彼は私のやりそうな事など見透かしていたのか。
引っ込めようと思った手は勢いよく伸びた恵君の手に囚われて、そのまま立ち上がった恵君がテーブル越しに私の手を引き寄せるとクッキーを奪い去って行く。
その時、ほんの僅か。
恵君の唇が指先に触れた気がした。
それはきっと本人すらも気づかない様な刹那の出来事。
けれど、その感触がやけに先ほど感じた頬の柔らかさと暖かさに似て居て。
勢いよく手を振り払った私は動揺を隠しきれなくなり、驚きに目を見開いた恵君の視線は私の行動に傷ついたものの様に思えて、その場に俯くしか出来なかった。
「あ……ごめん」
「いや、別に。……俺も、調子乗りました」
戯れて楽しかった筈の雰囲気が、沈黙を誘って突如重たいものへと変わってしまった気がする。
それは掴まれた際の手の大きさとか、力強さとか。
幼かった筈の目の前の男の子が異性なのだという事を突きつけてきた気がしたから。
痛いほどに心臓が鳴り響き、呼吸さえ苦しくなった気がする。
赤らんだ顔の熱が一向に引いてくれる気配は無く、折角時間を作ってくれて、私自身今日を楽しみにして居たというのに気まずくなってしまった雰囲気に恵君が帰ると言い出してしまったらどうしようかと、暗雲が立ち込める様に不安に襲われていく。
こっそり盗み見た恵君もまた同じ気持ちなのか、どうしたものかと考えあぐねてある様子で眉根を寄せながら頭を掻き乱す。
何か話題を逸らせるものはないかと視線を泳がせる中で、私の頭に一つの案が浮かぶと私はその場の雰囲気を誤魔化すために大袈裟なまでに声を張り上げて居た。
「あっ!そ、そうだ。津美紀ちゃんにもお土産にクッキー持ってくよね?私、沢山作ったんだ。
部屋にラッピング用の袋とリボン置いてきちゃったから取ってくるね!!待ってて!」
恵君が何か言おうとした言葉を遮り、踵を返した私は食堂から学生寮までの道を全力で駆け抜けた。
途中出会した補助監督に何事だと訝しげな顔をされても、気にも止めず。
走って走って、見慣れた部屋の扉を勢いよく開くと安全地帯を見つけたと言わんばかりに、扉を閉めた瞬間にへなへなとその場に崩れ落ちて居た。
「あれって……唇、だったの?私、もしかしてキス、された……?」
思わずその場で自身の右の頬に手を当てる。
夢見心地の勘違いだったのかも知れない。
けれど考えれば考える程に、あの時の感触は指先に感じたものと酷似して居て、それ以外に思い当たる節がない。
けれど本人にそれを改めて問いただす勇気なんて私が持ち合わせている訳がない。
自分よりも四つも年下の男の子だった。
ずっと弟の様に接して来て、恵君だって私を姉の様に思っていたとばかり思って居たのに。
いつから、あんなに大人になってしまったのだろう。
いつから、幼子だと思って居た筈の彼が少年となり男を意識させる様な片鱗を見せ始めたのだろう。
今更になって夏祭りでの己の行いを思い返せば、穴があったら入りたいほどの衝動に駆られる。
私を易々とおんぶした背中は大きくて、線が細いと思ってもそれは確かに異性のものだった。
「……どうしよ。私、恵君の事。好きなのかも……」
この不思議な感覚に「恋」と言う名前がついた瞬間。
恵君の名前を紡いだだけで胸が締め付けられる様に苦しくなった気がした。
恋とはいつも唐突で、必ずしもその切っ掛けが劇的な出来事から始まるとは限らない。
ただ、一つ言えるのは今日のこの些細な出来事は私にとっては劇的なものと同義であり、これまで避けられていると思って覚えた寂しさも、連絡を取れる様になった喜びも、それらの全てが恋だと言うのならば納得がいってしまう。
ただ、十代の年齢差というのはあまりにも大きく、例えばこれが成人した大人同士だったとしたのならきっと違って居たのだろう。
恵君の思いに確信が持てない状況の中、後一歩を踏み込む勇気はこの時の私には無かった。
足早になった夕暮れの日差しが窓から差し込む。
ふらりと足を運べば夕月夜が顔を出し、顔の熱を冷ますために窓を開けると湿気を帯びた温い風が髪を揺らした。
この思いは傷つくだけのものなのかも知れない。
だって、彼は自分よりずっと年下で…。
この先きっと呪術師としても頭角を現すであろう最強の愛弟子なのだから。
でも私は気づいてしまった。
この想いを自覚してしまった。
歯止めを掛けたとしても、もう引き返すことなんて出来やしない。
無愛想な所も、時折呆れた様に口元を緩める姿も、眉根を寄せながらも結局手を差し伸べてくれる優しさも。
きっと私はもう、その全てに惹かれているのだから。
残暑は厳しいものの連日続いた茹る様な暑さからは解放され、やっと少しは過ごしやすい日々が訪れる様になる。
折角貰った水風船は一週間もするとすっかり萎んでしまったけれど、あの日私が寂しかったと溢したからか、少しずつではあったけれど携帯の番号を交換した事も相まって恵君とのやり取りが増えていく。
それはほんの些細なことで、秋の虹が出ていたとか、やっと繁忙期が終わったとか、もうすぐ試験があるとか。
どれも話題を見つけては私から発信するものばかり。
文面になるとより一層愛想のない返事ばかりが返ってきたけれど、そんなやり取りすら最近の私の楽しみになりつつあった。
まだ正式な高専の学生では無く、個人的に五条先生から任務を割り当てられている恵君は当然学校を終えてから任務に赴く事になる。
言ってしまえば授業の一環として任務に赴く私よりも遥かに多忙だ。
そんな中でも先日の私の言葉を気に掛けてくれて居るのか、今日の午後には高専に来てくれる事になり、私は約束のクッキーの材料を大量に買い込み、型抜きを終えた生地が食堂のキッチンを占拠している。
その切っ掛けは唐突に私が作ったクッキーを五条先生が食べたいと言い始め、即席で作ったそれを自慢するために恵君に連絡をした事から始まったらしい。
珍しく恵君発信の連絡が来たかと思えば実に彼らしい文面で、次の休みは空けておいて下さいと要件のみのメッセージを受け取った時には思わず携帯を二度見してしまった位だ。
妙なところで恵君と張り合おうとする先生の子供っぽさには少し呆れたものの、彼が高専に来る契機を作ってくれた事に私は人知れず感謝している。
「ふふ。楽しみだなぁ」
熱したオーブンの窓を覗き込みながら私の顔は緩んでいたに違いない。
既にテーブルには可愛らしいクロスを敷き、お皿の上には既に焼き上がったクッキーが並べられ、ティータイムの準備は万端と言ってもいい。
先生に見つかればまた揶揄われる事は必至だろうけれど、そんな事は今の私にとっては気に留める程のことでもなくて。
タイマーの音が鳴ると同時に、取り出した最後のクッキーの粗熱が取れるのを待ちながらテーブルに舞い戻る。
その席は昔恵君と初めて会った時に使った席であり、いつからかこの場所は私にとって特等席へと変わっていた。
あの頃はまだ身長も全然低くて、椅子に腰掛けても脚が床につくかどうかだった筈なのに。
先日背負われた背中は私よりも遥かに大きかった。
個人差はあるのだろうけれど、まだ成長過程の彼ならばもっと大きくなる可能性は高いだろう。
高専に入る頃になればきっと見上げなければ顔を見ることすら出来なくなってしまいそうだとさえ思う。
約束の時間まではまだゆとりがあるというのに早く来ないかと逸る気持ちだけが私の視線を何度も時計へと導く。
つい先程までは晴れていた筈の空は少し曇りがちになり、今にも雨が降り出しそうなどんよりとしたものへと変わりつつあった。
恵君はちゃんと天気予報を見てきているだろうか。
そういえば台風が接近しているなんて話を数日前にはニュースでやっていた気もする。
次第に窓に雨粒がポツポツと打ち始め、一気に降り出し始めた雨はしんとした部屋の中に波紋を呼んだ。
早く来ないかとテーブルに寝そべった私はその音に耳を傾け、少しでも時間が早く過ぎる事を願っていた。
けれど次第に話し相手もいない静けさは私に微睡を齎し、重たくなった瞼がゆっくりと伏せられていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
誰かに名前を呼ばれた気がする。
その音はとても優しくて、心地が良くて、もっと聴いて居たいとさえ思える様な暖かいものだった。
頭を撫でる指先は何処か覚えがあって、頬に触れた柔らかい感触は何なのだろうか。
自分のものではない香りに包まれて、誰かに優しく抱きしめられている様にも感じるのと同時に、それは心地よく水面を揺蕩う小舟のような錯覚さえ抱かせ、ずっとこうしていたいとさえ思う。
けれど、私は何か思い出さなければならないことがあったのではないかと靄の掛かる頭を回転させた。
辿り着けそうで辿り着けない迷路に迷い込んだ様な思考の中で、誰かの匂いに混じる少し甘い香り。
まるで連想ゲームの様に浮かび上がるワードがパズルの様に組み合わさると頭の中に絵を描き、それは恵君と一緒に過ごしている筈の己の姿だった。
「……めぐみ、くん」
そう言葉にした途端、今の自分の状況を明確に理解した気がする。
浮かれ、楽しみすぎて、時間が早く経たないかと考えるうちに私はどうやら転寝をして居たらしい。
時間を確認しなければとのそのそと上体を起こすと、目の前に人影を見つけて私は瞬きを繰り返す。
よくよく見れば肩には冷えない様に気を遣ってくれたのか恵君の中学のブレザーが掛けられて居た。
テーブルに対して少し斜めに腰掛け、自身の手元に視線を落とす恵君の長い睫毛が揺れる。
自分で用意したのかコーヒーに手を伸ばし、残り僅かであろうページが捲られる音がして。
やがて暫しの沈黙の後、静かに本が閉じられた。
「よく寝れましたか?」
「……ごめんね。いつのまにか寝ちゃってたみたい。もしかしてずっと待っててくれたの?」
「そんなに長い間じゃないですよ。丁度読みかけの本が終わった所なんで」
週末だと言うのに以前の様に外で会うわけではないからか、制服姿の恵君は同じく通学に使っていると思われる薄いカバンに本を押し込むと私に向き直る。
けれどその表情は僅かに眉根が寄せられており、私の顔を凝視するとやがて口元を押さえながら笑いを堪える様にして背けられて行った。
「どうしたの?」
「寝跡、ついてる」
「えっ!?やだ、うそっ」
咄嗟に頬に手を当てると左側の頬だけに不自然な凹凸を感じるのは腕を枕代わりにして眠ってしまったからなのだろう。
笑いを噛み殺そうと必死になるものの肩が大きく揺れる恵君の姿に私は顔を赤らめるしか無く、少しでも早く治らないものかと頬を摩りながら無駄な足掻きを繰り返す。
それさえもツボに入ってしまったのか、恵君は一層顔を背けて口元を抑えて居ても時折くぐもった声が漏れて居た。
そのうち身体はテーブルに突っ伏し、声を荒げて笑うところなんて見た事はないから、彼にすればこれは爆笑の部類なのだろう。
不貞腐れて頬を膨らませてもまるで効果はない。
恨めしい視線を向けるとまだその肩は揺れて居り、何とも悔しい気持ちになった私は口を尖らせて居た。
「意地悪。起こしてくれたらよかったのに」
「起こしましたよ。爆睡してたのはそっちでしょ」
「うそ。ほんとに?……あ、制服ごめんね。ありがとう」
「風邪引かれたら困るんで」
「そういう所は優しいのに。じゃあ、もしかしたら頭撫でたりしてくれた?ほっぺにも何か当たった気がしたんだけど」
一頻り笑い終えたのか、やっと身体を起こした恵君は上着を受け取りながら私の言葉に一瞬苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる。
その視線は彷徨い、私が首を傾げると否定とも肯定とも取れない様な微妙な反応をするだけで額に手のひらを押し当てながら一度息を吐き出すと私に視線を向けた。
それはまるで私を射抜く様に鋭く、何かを探られている様な。
試されている様な錯覚さえ抱かせるものだった。
僅かに恵君の口の端が上がり、固まった様に動かなくなった私に、挑発的な言葉が向けられる。
「何かしたって言ったら、どうします?」
「え……落書き、とか?」
「んな訳ないでしょうが。まぁ、いつか分かりますよ。これ、貰います」
私が起きるまでコーヒー飲みで我慢して居てくれたのか、お皿に並べたクッキーを一つ摘むと恵君は口の中へと放り込む。
その後には少し冷め始めたコーヒーに手を伸ばし、いつになく意地悪な態度に対して不貞腐れる私に視線を向けた。
けれどその手は止まる事がなく、身体の成長と共にどうやら食欲も旺盛になったらしい。
見栄えを良くするために少量を綺麗に並べたお皿はいつの間にかその殆どが彼の胃袋の中に収まってしまい、私が慌てて席を立ち、お代わりを用意する頃には手間を省いてやったと言わんばかりに綺麗になったお皿だけが取り残されて居た。
「もう食べちゃったの?」
「久々に食ったら止まらなくなりました」
「そっか。昔もよく食べてくれたもんね。あ、こっちの方が好みかも。ちょっと味、変えて見たんだけど」
テーブルにお皿を置くと、自信作のそれを私が一つ手に取り恵君に向けて手を伸ばす。
てっきり手で受け取ってくれるかと思いきや、返した制服を着ている最中だったらしく彼が顔だけをこちらに向けて口を開いた。
その瞬間。
先ほどの仕返しをするなら今しかないと思った私がきっと馬鹿だったのだろう。
何の気なしに彼の口元に指を近づける振りをして私はその手を引っ込める。
よくある悪戯の延長の筈だったのに、勘のいい彼は私のやりそうな事など見透かしていたのか。
引っ込めようと思った手は勢いよく伸びた恵君の手に囚われて、そのまま立ち上がった恵君がテーブル越しに私の手を引き寄せるとクッキーを奪い去って行く。
その時、ほんの僅か。
恵君の唇が指先に触れた気がした。
それはきっと本人すらも気づかない様な刹那の出来事。
けれど、その感触がやけに先ほど感じた頬の柔らかさと暖かさに似て居て。
勢いよく手を振り払った私は動揺を隠しきれなくなり、驚きに目を見開いた恵君の視線は私の行動に傷ついたものの様に思えて、その場に俯くしか出来なかった。
「あ……ごめん」
「いや、別に。……俺も、調子乗りました」
戯れて楽しかった筈の雰囲気が、沈黙を誘って突如重たいものへと変わってしまった気がする。
それは掴まれた際の手の大きさとか、力強さとか。
幼かった筈の目の前の男の子が異性なのだという事を突きつけてきた気がしたから。
痛いほどに心臓が鳴り響き、呼吸さえ苦しくなった気がする。
赤らんだ顔の熱が一向に引いてくれる気配は無く、折角時間を作ってくれて、私自身今日を楽しみにして居たというのに気まずくなってしまった雰囲気に恵君が帰ると言い出してしまったらどうしようかと、暗雲が立ち込める様に不安に襲われていく。
こっそり盗み見た恵君もまた同じ気持ちなのか、どうしたものかと考えあぐねてある様子で眉根を寄せながら頭を掻き乱す。
何か話題を逸らせるものはないかと視線を泳がせる中で、私の頭に一つの案が浮かぶと私はその場の雰囲気を誤魔化すために大袈裟なまでに声を張り上げて居た。
「あっ!そ、そうだ。津美紀ちゃんにもお土産にクッキー持ってくよね?私、沢山作ったんだ。
部屋にラッピング用の袋とリボン置いてきちゃったから取ってくるね!!待ってて!」
恵君が何か言おうとした言葉を遮り、踵を返した私は食堂から学生寮までの道を全力で駆け抜けた。
途中出会した補助監督に何事だと訝しげな顔をされても、気にも止めず。
走って走って、見慣れた部屋の扉を勢いよく開くと安全地帯を見つけたと言わんばかりに、扉を閉めた瞬間にへなへなとその場に崩れ落ちて居た。
「あれって……唇、だったの?私、もしかしてキス、された……?」
思わずその場で自身の右の頬に手を当てる。
夢見心地の勘違いだったのかも知れない。
けれど考えれば考える程に、あの時の感触は指先に感じたものと酷似して居て、それ以外に思い当たる節がない。
けれど本人にそれを改めて問いただす勇気なんて私が持ち合わせている訳がない。
自分よりも四つも年下の男の子だった。
ずっと弟の様に接して来て、恵君だって私を姉の様に思っていたとばかり思って居たのに。
いつから、あんなに大人になってしまったのだろう。
いつから、幼子だと思って居た筈の彼が少年となり男を意識させる様な片鱗を見せ始めたのだろう。
今更になって夏祭りでの己の行いを思い返せば、穴があったら入りたいほどの衝動に駆られる。
私を易々とおんぶした背中は大きくて、線が細いと思ってもそれは確かに異性のものだった。
「……どうしよ。私、恵君の事。好きなのかも……」
この不思議な感覚に「恋」と言う名前がついた瞬間。
恵君の名前を紡いだだけで胸が締め付けられる様に苦しくなった気がした。
恋とはいつも唐突で、必ずしもその切っ掛けが劇的な出来事から始まるとは限らない。
ただ、一つ言えるのは今日のこの些細な出来事は私にとっては劇的なものと同義であり、これまで避けられていると思って覚えた寂しさも、連絡を取れる様になった喜びも、それらの全てが恋だと言うのならば納得がいってしまう。
ただ、十代の年齢差というのはあまりにも大きく、例えばこれが成人した大人同士だったとしたのならきっと違って居たのだろう。
恵君の思いに確信が持てない状況の中、後一歩を踏み込む勇気はこの時の私には無かった。
足早になった夕暮れの日差しが窓から差し込む。
ふらりと足を運べば夕月夜が顔を出し、顔の熱を冷ますために窓を開けると湿気を帯びた温い風が髪を揺らした。
この思いは傷つくだけのものなのかも知れない。
だって、彼は自分よりずっと年下で…。
この先きっと呪術師としても頭角を現すであろう最強の愛弟子なのだから。
でも私は気づいてしまった。
この想いを自覚してしまった。
歯止めを掛けたとしても、もう引き返すことなんて出来やしない。
無愛想な所も、時折呆れた様に口元を緩める姿も、眉根を寄せながらも結局手を差し伸べてくれる優しさも。
きっと私はもう、その全てに惹かれているのだから。