たとえ、どんなに
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本当にこれで良かったのかと、後になって悔いるから「後悔」と言うのだろうか。
ただ慰めるつもりで恵君の要求を受け入れて、それで少しでも憂いが晴れるのであればと自らの唇を差し出してしまった。
これに関しては私の落ち度でもあり、自室に招いてしまった事が間違いだったと言わざるを得ない。
幸いそれ以上の事に縺れ込むことは無かったけれど、用事を済ませた先生から連絡を受けて恵君が部屋を去る時に私に告げたのは、懺悔でもする様な謝罪の言葉だけだった。
「……初めてだったんだけどな」
己の唇に無意識に触れると自室で独りごちた音が寂しげに響く。
ファーストキスなんてものに特に強い憧れがあった訳でもない筈なのに、いざその経験をしてしまうとあんな形であった事を惜しく思うのは私も女だと言う事なのだろうか。
数日が経過しても唇に意識を集めたらその感触が蘇り、鼻を掠めた香りまで鮮明に思い出せるのに。
恵君の言葉を思い返す度に鑢 で擦られた様に心がざらついていく。
それは恵君の真意が分かりそうで分からないからなのかも知れない。
ただ慰めが欲しいだけで誰彼構わずあんな事を言う子ではない事は私自身、よく知って居る。
そうなれば恵君の中で自分の立ち位置は何処になるのだろうかと、不安と共に淡い期待が過るのも無理はない。
恋をしてしまった事実が最早どうにもならないのなら。
せめてものけじめをつけなければと、義務教育を終えるまでは健全な関係で居ようと。
そう努めれば努める程に、憎らしい位に年齢という壁の分厚さを実感する。
やはり彼なりにも思うところがあったのか。
今となってはずっと続いて筈の恵君との連絡は途絶えてしまった。
幾度画面を見つめても私が最後に送ったメッセージからその景色は変わる事が無く、だからと言って振り返った所でどうしようもない。
けれど幾ら考えても、あの時の最適解はあれしか無かった様に思う。
その後、先生が調べた資料を見せて貰ったけれど、やはり津美紀ちゃんの状態に関して唯一明確になって居ることは「分からない」と言うことだけ。
日々全国で同じ被呪者の報告だけが増えていき、私も自身の昇級よりも今は其方に専念したいからと情報を共有して貰うと、必然的に呪詛師絡みの線も加味されてそういった案件の任務が増えていった。
既に恵君から状況を聞いて数週間は経過して居る。
その日も、緊急の要請があったかと思えば現場には一級相当の呪霊。
そしてその背後には呪詛師の姿があった。
はっきり言えば準一級の私には荷が重すぎる案件ではあったものの、呪詛師との会敵は津美紀ちゃんの呪いについての手掛かりになるかも知れない。
そう考えた私は応援の要請も出さずに無謀にも一人でその任務を請け負い、結果として呪詛師の討伐には成功したものの満身創痍となって高専に担ぎ込まれ、家入さんの治療を余儀なくされてしまった。
今の私は授業もなければ任務も暫くはお預けとなり、体調に変化は無いかとここ数日家入さんの所に通い詰めて居る。
家入さんの許可が下りるまでは任務を与えられる事も無いらしい。
万全になるまで体調を整えるしか術がなく医務室の扉を叩くとここ数日ですっかり馴染みとなった顔がデスクから視線を私に向けて居た。
「変わった事はないか?」
「はい、今の所大丈夫です」
「それにしても今回はだいぶ無茶をしたな。暫くは安静にするんだよ。君はまだ学生で、みすみす命を投げ出す様な真似はして欲しくないんだ」
「……すみません。どうしても、手掛かりが欲しくて」
医務室のソファに腰掛け、体調の確認と共に嗜められると私は項垂れるしか無かった。
運び込まれた当時の状況とここ数日の問診を照らし合わせる様にカルテを眺める家入さんの顔は医師そのもので、連日私の様な怪我人が運び込まれ、苦労が絶えないせいか目の下は明らかに血色が悪い。
禁煙をして久しい彼女の癒しはお酒だと高専に籍を置くものならば知らない人間は居ない程の酒豪だけれど、仕事の相棒になるとそれはコーヒーに変わるらしく愛用のコーヒーメーカーが忠実な仕事を熟す。
常に忙しなく雑務に追われて居る印象が強いけれど、私が訪れた時には共に一息入れようと考えるのか。
カルテをテーブルに置いた家入さんが両手にコーヒーを持ちながらソファの向かいに腰掛け、その内の一つは私の前に置かれていく。
「今回の件、なかなか厄介な案件だったらしいな」
「そうですね。だからこそ別件と絡んでるんじゃ無いかと深追してしまって。本来なら現場でまだ調べたい事もあったんですが、全部先生に押し付ける形になってしまいました。あ、頂きますね」
芳しい香りに誘われて湯気の立つカップを手に取ると、最近缶コーヒーばかり飲み過ぎて居たからか少し違和感を覚えた。
今回の件に関しては数十人の非術師が呪殺されると言う凄惨なもので。
けれどその手段や呪殺されたであろう人々の遺体に関しての情報がほとんど無い。
仲間が居た様子は無かった。
呪詛師も既に私が葬ったとなれば未だ進展のない津美紀ちゃんの件と関わって居る可能性はそれほど高くは無いだろう。
しかし、相変わらず何も分からない現状に業を煮やして居るのは先生や恵君だけでは無く、僅かな足掛かりでも欲しいと思う気持ちは私も同じだった。
それなのに私自身が身動きが取れない今は、五条先生が少しでも情報を持って帰ってきてくれる事を祈るしか無い。
俯きながら握りしめたカップに無意識のうちに力が籠る。
こんなにも歯痒い思いをしたのは本当に久しぶりで、この思いを昇華させる方法が見つからない。
奥歯を噛み締める音に家入さんが溜息を溢し、口を付けたカップを静かにテーブルへと戻した。
「やり切れない気持ちは分かるが、無茶はするなよ。私達の寿命まで縮む」
「肝に銘じます。コーヒーご馳走様です、私そろそろ行きますね」
「ああ、明日も忘れずにな。最近は君が来てくれるから私も良い息抜きになってるんだ」
「はい。じゃあ、今度はお茶請けでも作ってきますね」
「楽しみにしてるよ」
丁度私が席を立つと同時に医務室の扉が開く。
補助監督と共に顔見知りの呪術師が顔を覗かせ、苦悶の表情を浮かべて入室してくる姿を見ると、どうやら家入さんの束の間の一時も終わりを迎えてしまったらしい。
一礼しながら医務室を後にした。
何もする事がなくなってしまった私にとって、これからの時間は如何にやる事を見つけるかが鍵になる。
悪事を働いた訳ではないけれど問題を抱える一年の担任をしながら津美紀ちゃんの呪いに関する調査、そして自身にしかこなせない数々の任務。
更には私の尻拭いまでさせられたとあっては幾ら最強と言う二つ名を持って居る先生であっても疲弊して帰ってくる事は間違い無いだろう。
食堂に行けば以前の材料の残りで何か作れるのではないかと思い至った私は、家入さんとの約束もあって自然と足が其方へと向かった。
幸い材料は買い足す必要もなく、腕枕をして気合いを入れるとお菓子作りに精を出す。
少し甘めにしてもきっと先生なら食べてくれるだろうし、あの人の原動力は糖分と言っても過言ではない。
自分たち用の物とは別に多めにお砂糖を入れた生地は普段の自分ならばその匂いだけでむせかえると言うのに今日に限ってはそんな事はなく、手際よく作った生地がオーブンに向かう頃になると人の姿もちらほらと見受けられる様になる。
焼き上がった生地を冷まし、またしてもやることをなくしてしまった私はトークアプリの履歴を見返してはすっかり沙汰の無くなってしまった恵君に思いを馳せていた。
「……どうしてるかな」
「何がですか?」
「……えっ、わっ!!」
突然此処に居る筈のない人物に声を掛けられ、驚きに私は大きく身体を跳ねさせる。
弾みで椅子から転げ落ちそうになると、咄嗟に伸びた手に腕を引かれて尻餅をつく事こそ免れたものの、目は大きく見開かれ空いた口は塞がらない。
言葉すら出てこなかった。
今日は平日で、恵君は学校があって。
抑連絡さえずっとなくて、先生も出張続きなのだから恵君が態々高専を訪れる理由なんて無い筈なのに。
今、私の目の前には確かに彼が居て、その腕の中に収まって居るのだと思うと何とも言えない感覚に襲われる。
「…っぶね。何してんですか」
「……ごめん。びっくりして。ありがとう」
気まずい雰囲気すらあまりにも唐突なハプニングに息を潜めた。
幸い先程まで見受けられた筈の人の姿は今は見当たらず、だだっ広い食堂には今は私と彼の二人だけ。
けれど私の目線は無意識に恵君の唇に向かってしまい、先日のことを思い出すと羞恥に襲われ顔を背けてしまう。
いつも通り涼しい顔をして居る彼にはきっとあれは瑣末な出来事で、気に留める程の事でも無かったのかとそんな不安すら胸を過ぎる。
手を借りて立ち上がった所で、その指先にすら意識が向いて仕舞えば以前の様に何の気なしに手を繋ぐ事すら満足に出来なくなる。
振り払う様にして手を自分の胸元へと引き寄せると、私に向けて放たれたのは重苦しい溜息だった。
こんなの、相手にだって自分があからさまに意識して居る事を伝える様なものだ。
恵君の表情がほんの一瞬歪んだ気がする。
頭を掻き乱し、言葉を探す様にその眉間には深く皺が刻まれていた。
「その、この前のは……俺が悪かったです。完全にアンタに八つ当たりした」
「それは、良いんだけど……。今日は何か用事でもあったの?先生なら出張と私の任務の後処理で暫く留守にしてるけど」
「知ってますよ。でも、アンタが大怪我したって聞いたから……」
尻すぼみになった言葉は照れ臭さの現れだったのだろうか。
此方を一瞥した視線は私の状態を確認する素振りすら伺えて、首を傾げる私に耳まで赤くなった恵君は顔を晒して行く。
元気そうで良かったと、今にも消えそうな程の声が聞こえた気がする。
それは間違いなく私の安否を気遣うものであり、恐らく五条先生から私の様子を聞いて態々脚を運んでくれたのだろう。
「心配して、来てくれたの?」
「悪いですか?」
「いや、そうじゃなくて……はは。そっかぁ。私、嫌われちゃったかと思った」
「あり得ねぇだろ」
「だってあの日から連絡来なくなっちゃったし。これでも悩んだんだよ?」
「色々考えてたんですよ。アンタにとっては俺の我儘に付き合っただけかも知れないけど、俺にとってはそうじゃないんで」
まるで私は既にそんな事は経験済みだと決めつける様な棘のある物言いに些か腹が立った。
私にとってもあれは一大決心であり、現に今もこんなにも目の前の恵君に対して心が揺さぶられて居ると言うのに。
あの時の高鳴りは本物で、今思い出しただけでもこんなに鼓動が意思を持ったかの様に弾んでいる。
恵君の僅かな言動で晴天にも吹雪にも変わるであろう気持ち。
それを否定された様な被害妄想にさえ陥ると、少し年上だからと何でもかんでも自分より先に進んでいると思われるのはどうにも癪に思えて。
恥を晒すのと同義だから決して言うまいと思っていた秘密さえも口から溢れでてしまった。
「私だって!!あれがファーストキス、だったんだから……」
「は?」
「あ、ごめん。今のなしっ!なしだから!!」
「……マジかよ」
目元を手のひらで覆いながら恵君が項垂れた。
あわあわと慌てふためく私は違う、嘘だからと弁解を繰り返しては見たものの、今となっては後の祭りだ。
混乱に陥り青くなったり赤くなったりを繰り返す私を見て、次第に恵君は手を腹部に押し当て背を丸めて笑い始めた。
その笑い様は声こそ出ていないもの、以前私の寝跡を見て笑っていた様とよく似ていて。
私の恨めしい視線を見て、また笑い始めた彼の目尻には薄ら涙さえ見える気がした。
「慌てすぎでしょ」
「だって。そう言うこと慣れてないし……」
「じゃあ、オレがアンタの初めての男ですね」
「ねぇ、言い方。先生みたいになってる。あのさ、無理はしてほしくないけど少しは元気になった?」
「余計なお世話ですよ。まぁ、あん時よりは大分マシになりました。津美紀も今は高専の保護下に置いてもらってるんで。けど、また慰めて欲しいって言ったら、アンタはキスしてくれるんですか?」
その刹那、先ほどまで笑っていた筈の恵君の表情が一転していった。
熱を孕んだ瞳に見据えられて、蛇に睨まれた蛙のように私の身体が微動だにしなくなる。
頬に触れた指先に身体は強張り、少しずつ近づいてくる最短な顔に抗議の声すら上げられない。
冗談めいたものならはぐらかす事も出来たのに、指先があまりにも優しく肌を撫でるから、瞳をギュッと閉じて身構えた。
けれどやってくると思った感触は私の唇ではなく、額に一度触れたのみで。
恐る恐る私が目を開くと眼前には意地悪く口角を釣り上げた悪戯小僧が居た。
「期待しました?」
「か、揶揄わないでよっ!」
「アンタがあんまり良い反応するからでしょ。今はこっちで我慢します」
グリグリと額に指先を押し付けられて悔しさから私がその手を払い除けると先程までとは比べ物にならない程、優しい笑みを浮かべた恵君に毒気が抜かれていく。
そんな所で顔の良さを発揮するのは卑怯だと、そう言ってやりたいのに。
滅多に見ることのないその笑顔にずっと鼓動が歓喜の音を奏でて居る。
本当に悔しくて堪らない。
それなのに歯軋りしそうな程の苛立ちはあるものの、連絡すら満足に取れずに携帯を眺めては溜息を零していた日々を思えば現状はよほどマシと言える。
「色々言いたいことが溢れてるんだけど」
「文句以外なら聞きます」
「じゃあ、クッキー作ったから味見して」
私はテーブルに視線を向けた。
そこには焼き上がって粗熱をとったクッキーがまだオーブンシートの上に乗せられており、恵君はうんもすんもなくテーブルに手を伸ばすとその内の一つをとって口の中に放り込んだ。
いつも食べて居るもの故の安心感もあったのだろう。
けれど今日に限ってなのか。
小気味いい咀嚼案と共に首を捻る恵君は怪訝な顔をしており、どうかしたのかと問いかけると喉を鳴らした後、少し言いにくそうに口を開いた。
「……なんか、いつもと違う」
「え?うそ。ちゃんと作った筈なのに……」
レシピなんてとうに頭の中に入っている。
それでもお菓子は料理と違い分量をしっかりしなければならないからと常に本を片手に作るのにそんな事があるのだろうか。
味見を頼んでおきながら予想外の反応をされた事に驚きながら私も同じものに手を伸ばす。
けれどバターの香りも、香ばしさも確かに感じるのに私が食べたそれは一切の味を感じさせなかった。
この時、自分の身に降りかかり始めた異変に気づけていたのなら。
もっと私達の未来は違っていたのだろうか。
けれど全てはなるべくしてなった結末でしかなく、私が恵君の側に居られなくなってしまったのもまた、残酷で不平等な現実なのだろう。
ただ慰めるつもりで恵君の要求を受け入れて、それで少しでも憂いが晴れるのであればと自らの唇を差し出してしまった。
これに関しては私の落ち度でもあり、自室に招いてしまった事が間違いだったと言わざるを得ない。
幸いそれ以上の事に縺れ込むことは無かったけれど、用事を済ませた先生から連絡を受けて恵君が部屋を去る時に私に告げたのは、懺悔でもする様な謝罪の言葉だけだった。
「……初めてだったんだけどな」
己の唇に無意識に触れると自室で独りごちた音が寂しげに響く。
ファーストキスなんてものに特に強い憧れがあった訳でもない筈なのに、いざその経験をしてしまうとあんな形であった事を惜しく思うのは私も女だと言う事なのだろうか。
数日が経過しても唇に意識を集めたらその感触が蘇り、鼻を掠めた香りまで鮮明に思い出せるのに。
恵君の言葉を思い返す度に
それは恵君の真意が分かりそうで分からないからなのかも知れない。
ただ慰めが欲しいだけで誰彼構わずあんな事を言う子ではない事は私自身、よく知って居る。
そうなれば恵君の中で自分の立ち位置は何処になるのだろうかと、不安と共に淡い期待が過るのも無理はない。
恋をしてしまった事実が最早どうにもならないのなら。
せめてものけじめをつけなければと、義務教育を終えるまでは健全な関係で居ようと。
そう努めれば努める程に、憎らしい位に年齢という壁の分厚さを実感する。
やはり彼なりにも思うところがあったのか。
今となってはずっと続いて筈の恵君との連絡は途絶えてしまった。
幾度画面を見つめても私が最後に送ったメッセージからその景色は変わる事が無く、だからと言って振り返った所でどうしようもない。
けれど幾ら考えても、あの時の最適解はあれしか無かった様に思う。
その後、先生が調べた資料を見せて貰ったけれど、やはり津美紀ちゃんの状態に関して唯一明確になって居ることは「分からない」と言うことだけ。
日々全国で同じ被呪者の報告だけが増えていき、私も自身の昇級よりも今は其方に専念したいからと情報を共有して貰うと、必然的に呪詛師絡みの線も加味されてそういった案件の任務が増えていった。
既に恵君から状況を聞いて数週間は経過して居る。
その日も、緊急の要請があったかと思えば現場には一級相当の呪霊。
そしてその背後には呪詛師の姿があった。
はっきり言えば準一級の私には荷が重すぎる案件ではあったものの、呪詛師との会敵は津美紀ちゃんの呪いについての手掛かりになるかも知れない。
そう考えた私は応援の要請も出さずに無謀にも一人でその任務を請け負い、結果として呪詛師の討伐には成功したものの満身創痍となって高専に担ぎ込まれ、家入さんの治療を余儀なくされてしまった。
今の私は授業もなければ任務も暫くはお預けとなり、体調に変化は無いかとここ数日家入さんの所に通い詰めて居る。
家入さんの許可が下りるまでは任務を与えられる事も無いらしい。
万全になるまで体調を整えるしか術がなく医務室の扉を叩くとここ数日ですっかり馴染みとなった顔がデスクから視線を私に向けて居た。
「変わった事はないか?」
「はい、今の所大丈夫です」
「それにしても今回はだいぶ無茶をしたな。暫くは安静にするんだよ。君はまだ学生で、みすみす命を投げ出す様な真似はして欲しくないんだ」
「……すみません。どうしても、手掛かりが欲しくて」
医務室のソファに腰掛け、体調の確認と共に嗜められると私は項垂れるしか無かった。
運び込まれた当時の状況とここ数日の問診を照らし合わせる様にカルテを眺める家入さんの顔は医師そのもので、連日私の様な怪我人が運び込まれ、苦労が絶えないせいか目の下は明らかに血色が悪い。
禁煙をして久しい彼女の癒しはお酒だと高専に籍を置くものならば知らない人間は居ない程の酒豪だけれど、仕事の相棒になるとそれはコーヒーに変わるらしく愛用のコーヒーメーカーが忠実な仕事を熟す。
常に忙しなく雑務に追われて居る印象が強いけれど、私が訪れた時には共に一息入れようと考えるのか。
カルテをテーブルに置いた家入さんが両手にコーヒーを持ちながらソファの向かいに腰掛け、その内の一つは私の前に置かれていく。
「今回の件、なかなか厄介な案件だったらしいな」
「そうですね。だからこそ別件と絡んでるんじゃ無いかと深追してしまって。本来なら現場でまだ調べたい事もあったんですが、全部先生に押し付ける形になってしまいました。あ、頂きますね」
芳しい香りに誘われて湯気の立つカップを手に取ると、最近缶コーヒーばかり飲み過ぎて居たからか少し違和感を覚えた。
今回の件に関しては数十人の非術師が呪殺されると言う凄惨なもので。
けれどその手段や呪殺されたであろう人々の遺体に関しての情報がほとんど無い。
仲間が居た様子は無かった。
呪詛師も既に私が葬ったとなれば未だ進展のない津美紀ちゃんの件と関わって居る可能性はそれほど高くは無いだろう。
しかし、相変わらず何も分からない現状に業を煮やして居るのは先生や恵君だけでは無く、僅かな足掛かりでも欲しいと思う気持ちは私も同じだった。
それなのに私自身が身動きが取れない今は、五条先生が少しでも情報を持って帰ってきてくれる事を祈るしか無い。
俯きながら握りしめたカップに無意識のうちに力が籠る。
こんなにも歯痒い思いをしたのは本当に久しぶりで、この思いを昇華させる方法が見つからない。
奥歯を噛み締める音に家入さんが溜息を溢し、口を付けたカップを静かにテーブルへと戻した。
「やり切れない気持ちは分かるが、無茶はするなよ。私達の寿命まで縮む」
「肝に銘じます。コーヒーご馳走様です、私そろそろ行きますね」
「ああ、明日も忘れずにな。最近は君が来てくれるから私も良い息抜きになってるんだ」
「はい。じゃあ、今度はお茶請けでも作ってきますね」
「楽しみにしてるよ」
丁度私が席を立つと同時に医務室の扉が開く。
補助監督と共に顔見知りの呪術師が顔を覗かせ、苦悶の表情を浮かべて入室してくる姿を見ると、どうやら家入さんの束の間の一時も終わりを迎えてしまったらしい。
一礼しながら医務室を後にした。
何もする事がなくなってしまった私にとって、これからの時間は如何にやる事を見つけるかが鍵になる。
悪事を働いた訳ではないけれど問題を抱える一年の担任をしながら津美紀ちゃんの呪いに関する調査、そして自身にしかこなせない数々の任務。
更には私の尻拭いまでさせられたとあっては幾ら最強と言う二つ名を持って居る先生であっても疲弊して帰ってくる事は間違い無いだろう。
食堂に行けば以前の材料の残りで何か作れるのではないかと思い至った私は、家入さんとの約束もあって自然と足が其方へと向かった。
幸い材料は買い足す必要もなく、腕枕をして気合いを入れるとお菓子作りに精を出す。
少し甘めにしてもきっと先生なら食べてくれるだろうし、あの人の原動力は糖分と言っても過言ではない。
自分たち用の物とは別に多めにお砂糖を入れた生地は普段の自分ならばその匂いだけでむせかえると言うのに今日に限ってはそんな事はなく、手際よく作った生地がオーブンに向かう頃になると人の姿もちらほらと見受けられる様になる。
焼き上がった生地を冷まし、またしてもやることをなくしてしまった私はトークアプリの履歴を見返してはすっかり沙汰の無くなってしまった恵君に思いを馳せていた。
「……どうしてるかな」
「何がですか?」
「……えっ、わっ!!」
突然此処に居る筈のない人物に声を掛けられ、驚きに私は大きく身体を跳ねさせる。
弾みで椅子から転げ落ちそうになると、咄嗟に伸びた手に腕を引かれて尻餅をつく事こそ免れたものの、目は大きく見開かれ空いた口は塞がらない。
言葉すら出てこなかった。
今日は平日で、恵君は学校があって。
抑連絡さえずっとなくて、先生も出張続きなのだから恵君が態々高専を訪れる理由なんて無い筈なのに。
今、私の目の前には確かに彼が居て、その腕の中に収まって居るのだと思うと何とも言えない感覚に襲われる。
「…っぶね。何してんですか」
「……ごめん。びっくりして。ありがとう」
気まずい雰囲気すらあまりにも唐突なハプニングに息を潜めた。
幸い先程まで見受けられた筈の人の姿は今は見当たらず、だだっ広い食堂には今は私と彼の二人だけ。
けれど私の目線は無意識に恵君の唇に向かってしまい、先日のことを思い出すと羞恥に襲われ顔を背けてしまう。
いつも通り涼しい顔をして居る彼にはきっとあれは瑣末な出来事で、気に留める程の事でも無かったのかとそんな不安すら胸を過ぎる。
手を借りて立ち上がった所で、その指先にすら意識が向いて仕舞えば以前の様に何の気なしに手を繋ぐ事すら満足に出来なくなる。
振り払う様にして手を自分の胸元へと引き寄せると、私に向けて放たれたのは重苦しい溜息だった。
こんなの、相手にだって自分があからさまに意識して居る事を伝える様なものだ。
恵君の表情がほんの一瞬歪んだ気がする。
頭を掻き乱し、言葉を探す様にその眉間には深く皺が刻まれていた。
「その、この前のは……俺が悪かったです。完全にアンタに八つ当たりした」
「それは、良いんだけど……。今日は何か用事でもあったの?先生なら出張と私の任務の後処理で暫く留守にしてるけど」
「知ってますよ。でも、アンタが大怪我したって聞いたから……」
尻すぼみになった言葉は照れ臭さの現れだったのだろうか。
此方を一瞥した視線は私の状態を確認する素振りすら伺えて、首を傾げる私に耳まで赤くなった恵君は顔を晒して行く。
元気そうで良かったと、今にも消えそうな程の声が聞こえた気がする。
それは間違いなく私の安否を気遣うものであり、恐らく五条先生から私の様子を聞いて態々脚を運んでくれたのだろう。
「心配して、来てくれたの?」
「悪いですか?」
「いや、そうじゃなくて……はは。そっかぁ。私、嫌われちゃったかと思った」
「あり得ねぇだろ」
「だってあの日から連絡来なくなっちゃったし。これでも悩んだんだよ?」
「色々考えてたんですよ。アンタにとっては俺の我儘に付き合っただけかも知れないけど、俺にとってはそうじゃないんで」
まるで私は既にそんな事は経験済みだと決めつける様な棘のある物言いに些か腹が立った。
私にとってもあれは一大決心であり、現に今もこんなにも目の前の恵君に対して心が揺さぶられて居ると言うのに。
あの時の高鳴りは本物で、今思い出しただけでもこんなに鼓動が意思を持ったかの様に弾んでいる。
恵君の僅かな言動で晴天にも吹雪にも変わるであろう気持ち。
それを否定された様な被害妄想にさえ陥ると、少し年上だからと何でもかんでも自分より先に進んでいると思われるのはどうにも癪に思えて。
恥を晒すのと同義だから決して言うまいと思っていた秘密さえも口から溢れでてしまった。
「私だって!!あれがファーストキス、だったんだから……」
「は?」
「あ、ごめん。今のなしっ!なしだから!!」
「……マジかよ」
目元を手のひらで覆いながら恵君が項垂れた。
あわあわと慌てふためく私は違う、嘘だからと弁解を繰り返しては見たものの、今となっては後の祭りだ。
混乱に陥り青くなったり赤くなったりを繰り返す私を見て、次第に恵君は手を腹部に押し当て背を丸めて笑い始めた。
その笑い様は声こそ出ていないもの、以前私の寝跡を見て笑っていた様とよく似ていて。
私の恨めしい視線を見て、また笑い始めた彼の目尻には薄ら涙さえ見える気がした。
「慌てすぎでしょ」
「だって。そう言うこと慣れてないし……」
「じゃあ、オレがアンタの初めての男ですね」
「ねぇ、言い方。先生みたいになってる。あのさ、無理はしてほしくないけど少しは元気になった?」
「余計なお世話ですよ。まぁ、あん時よりは大分マシになりました。津美紀も今は高専の保護下に置いてもらってるんで。けど、また慰めて欲しいって言ったら、アンタはキスしてくれるんですか?」
その刹那、先ほどまで笑っていた筈の恵君の表情が一転していった。
熱を孕んだ瞳に見据えられて、蛇に睨まれた蛙のように私の身体が微動だにしなくなる。
頬に触れた指先に身体は強張り、少しずつ近づいてくる最短な顔に抗議の声すら上げられない。
冗談めいたものならはぐらかす事も出来たのに、指先があまりにも優しく肌を撫でるから、瞳をギュッと閉じて身構えた。
けれどやってくると思った感触は私の唇ではなく、額に一度触れたのみで。
恐る恐る私が目を開くと眼前には意地悪く口角を釣り上げた悪戯小僧が居た。
「期待しました?」
「か、揶揄わないでよっ!」
「アンタがあんまり良い反応するからでしょ。今はこっちで我慢します」
グリグリと額に指先を押し付けられて悔しさから私がその手を払い除けると先程までとは比べ物にならない程、優しい笑みを浮かべた恵君に毒気が抜かれていく。
そんな所で顔の良さを発揮するのは卑怯だと、そう言ってやりたいのに。
滅多に見ることのないその笑顔にずっと鼓動が歓喜の音を奏でて居る。
本当に悔しくて堪らない。
それなのに歯軋りしそうな程の苛立ちはあるものの、連絡すら満足に取れずに携帯を眺めては溜息を零していた日々を思えば現状はよほどマシと言える。
「色々言いたいことが溢れてるんだけど」
「文句以外なら聞きます」
「じゃあ、クッキー作ったから味見して」
私はテーブルに視線を向けた。
そこには焼き上がって粗熱をとったクッキーがまだオーブンシートの上に乗せられており、恵君はうんもすんもなくテーブルに手を伸ばすとその内の一つをとって口の中に放り込んだ。
いつも食べて居るもの故の安心感もあったのだろう。
けれど今日に限ってなのか。
小気味いい咀嚼案と共に首を捻る恵君は怪訝な顔をしており、どうかしたのかと問いかけると喉を鳴らした後、少し言いにくそうに口を開いた。
「……なんか、いつもと違う」
「え?うそ。ちゃんと作った筈なのに……」
レシピなんてとうに頭の中に入っている。
それでもお菓子は料理と違い分量をしっかりしなければならないからと常に本を片手に作るのにそんな事があるのだろうか。
味見を頼んでおきながら予想外の反応をされた事に驚きながら私も同じものに手を伸ばす。
けれどバターの香りも、香ばしさも確かに感じるのに私が食べたそれは一切の味を感じさせなかった。
この時、自分の身に降りかかり始めた異変に気づけていたのなら。
もっと私達の未来は違っていたのだろうか。
けれど全てはなるべくしてなった結末でしかなく、私が恵君の側に居られなくなってしまったのもまた、残酷で不平等な現実なのだろう。