家庭教師のハルト先生
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いつからか、ミョウジさんが問題を解く横顔を、つい盗み見てしまう癖が付いた。瞳に影を落とす長い睫毛。小さな唇をわずかに動かしながら思考を整理する癖。
彼女を見ていると、どうしてだろう、無性にくすぐったい気持ちになって堪らなくなる。
(……まずいな、いくら可愛いからって、女子生徒に対して)
気を紛らわすように壁のカウントダウンカレンダーに目をやる。『あと60日』と書かれた紙が下げられている。今度は胸の辺りがチクリと痛んだ。我ながら気分の上下の激しさに嫌気がさす。
……そう、あと60日で共通テストが始まる。そして、彼女と二人で過ごす時間も終わる。ミョウジさんはきっと、受験が終わったらすぐに俺のことなんて忘れてしまうのだろうな。そうして彼女の可愛い横顔を拝むことすらできなくなってしまうのだ。なんて悲しいんだろう。
「できた」
彼女が可愛い顔を上げて、ノートを俺の方へ向けた。酸化還元の問題だ。半反応式を書いて、電子の授受を確認して、全体の反応式を導く。彼女の答案にざっと目を通した。……途中式も含めて、全部合っていそうだ。
「うん、完璧。有効数字もあってるよ」
そう伝えると、彼女はパッと顔を輝かせた。少しだけ下がった目尻に、年相応の幼さと、隠しきれない愛らしさが滲む。その柔らかな笑顔を見るのが、いつの間にか俺の楽しみになっていた。
「ハルト先生」
彼女が俺を呼ぶ。この一年で、彼女の声のトーンも変わった。最初の頃は緊張で少し高かったのに、今では自然で柔らかい。こんな俺に懐いてくれているんだな、と素直に嬉しく思う。
「どうしたの?」
「ちょっと疲れちゃった」
そう言って、彼女は両腕を上に伸ばした。背筋を伸ばして、小さく息を吐く。制服のブラウスが少し持ち上がって、白い肌が僅かに見える。ブラウスが引っ張られて、胸の豊かな膨らみが強調される。
俺は反射的に視線を逸らして、意味もなく自分の手元にある参考書に目を落とした。ページの隅が少し折れている。それを指で直しながら、なんでもないふりをして呼吸を整えた。
「そうだね。もう九時過ぎてるし、少し休憩しようか」
「うん」
彼女は机の横に置いてあった麦茶を手に取った。グラスの表面には、結露した水滴がついている。一口飲む。喉が動く。その仕草を、俺は横目で見ていた。彼女がグラスを唇から離すと、下唇に一粒、水滴が残る。彼女は舌先でそれを舐め取った。……喉の奥が、やけに渇く。
彼女は俺の顔を覗き込んで、そういえば、と平坦な声で口を開いた。
「ハルト先生って彼女いるんですか?」
「……急に、何?」
「気になって」
予想外の質問に、言葉が詰まる。今まで彼女と他愛もない雑談を積み重ねてはきたけれど、恋愛に関する話を振られたことは一度もなかった。
彼女のくりくりとした小動物のような瞳が、上目遣いで俺を見ている。何を考えているんだろう。……教師として、なんて答えるのが正解なんだろう。コンマ数秒の間で考えを巡らせる。グラスの中の氷が、小さく音を立てて揺れた。
「……いないよ」
正直に答えた。嘘をつく理由もない。
「本当に?」
「本当。まあ、何度か告白されたこともあったけど。全部断ってきたから」
そこまで言ってから、少し後悔した。余計な情報だったかもしれない。
「やっぱりモテるんだ」
「別に……、モテないよ?」
「ふーん」
納得してなさそうに肩を竦められ、反応に困る。彼女は麦茶をもう一口飲んでから、グラスを膝の上に置いた。指先が、グラスの表面をなぞっている。爪は綺麗に伸ばされて、やすりで整えられてピカピカと光っていた。受験生と言えども年頃の女の子なんだな、とぼんやりと思う。
「どうして断ったんですか? 告白」
にんまりと、獲物を追い詰めたような笑みが彼女の口角に浮かぶ。……あれ、俺これ、からかわれているのかな。覚え始めた一抹の不安をかき消すように、これまでの無機質な学生生活を振り返ってみる。
「……うーん、興味が持てなかったから」
「興味?」
「恋愛とか、そういうのは、あまり。研究の方がずっと面白かったし。それに俺、人と深く関わるの、得意じゃないから」
そう付け加えると、彼女は少し首を傾げた。さらさらとした髪が肩から滑り落ちる。
「でも、ハルト先生、すごく優しいのに」
「優しいって……」
彼女はグラスを見つめたまま、囁くように呟く。指先が、結露したグラスの縁をなぞった。その、艶かしいほどにゆっくりとした動きから目が離せなくなる。
「私と関わるのも、苦手?」
「……!」
これまた予期せぬ角度からの問いに、喉の奥が引き攣る。俺がここで言うべきことはなんだろう。必死に言葉をたぐるが、思考がうまく纏まらない。
「そんなこと、……ないよ。もちろん」
「本当に?」
彼女が顔を上げた。その瞳が、真っ直ぐに俺を見ている。睫毛が長い。瞬きをする度に、その影が頬に落ちる。
「うん。その……、むしろ……」
言葉に詰まる。ここから先を言ってしまったら、もう後戻りできない気がする。無意識に、膝の上で拳を握りしめた。
「むしろ?」
逃げ場を塞ぐかのようにさらに身を乗り出して、続きの返答を促してくる。距離が近い。
「……一緒にいると、楽しいし、居心地がいいと思ってるよ」
彼女の目が、弾かれたように見開かれる。それから、ふっと強張っていた表情が緩んだ。彼女は少し俯いて、髪を耳にかけた。露わになった白い耳たぶが、林檎のように赤く染まっている。なんて可愛いんだろう。好きだ。
「私もそう。ハルト先生と毎週会える日が楽しみなんだ」
屈託のない笑顔を向けられ、胸の奥が熱くなる。何か返さなければと思うのに、喉がせり上がって、言葉が形にならない。視線を落として、グラスを握る手に少し力を込めながら、彼女は続けた。
「だから、受験が終わったらハルト先生に会えなくなると思うと、寂しくって……」
彼女の声が、少し震えている。その震えが、空気を伝って俺に届いた。
「それは……、俺もだよ」
少し迷ったけれど、正直に答えた。視線を上げると、潤んだ彼女の瞳が、俺の言葉を確かめるように揺れていた。
「でも、……その、もしミョウジさんが嫌じゃなければ、また会えるから」
「それって……、デートしてくれるってことですか?」
「デート……、うん。ちゃんと合格したら、ね」
デート、という言葉に過剰に反応をしないよう、平然を装い火照りを逃すように息を吐く。口にした途端、その文字列がひどく不慣れで、気恥ずかしいものに思えて仕方がなかった。そんな俺の動揺を見透かすように、彼女の口角がきゅっと上がった。グラスを持つ手が、膝の上で小さく揺れる。グラスの中の氷が、カラカラと音を立てた。
「でもそれって、一回だけ……? 今まで通りの頻度では会えないですよね……」
寂しそうな声でしゅんと肩を落とす。その表情が、まるで捨てられた子犬のようで、思わず言葉が出てしまった。
「一回だけじゃないよ」
「え……?」
彼女が顔を上げる。その瞳が、大きく見開かれる。睫毛が揺れる。
「もっと、たくさん会いたい。……君が望むならだけど」
その言葉を聞いて、彼女は訝しげに首を傾げた。グラスがテーブルに置かれる。彼女の指先が、少しだけ濡れている。
「……本当に?」
「本当」
たくさんどころか毎日でも会いたいよ、と言いたかったけれど、立場を考えて、流石に口をつぐんだ。
「……私も、そう」
彼女の手が、俺の方に伸びてくる。考える間もなく、ほっそりとした指先が、俺の手の甲を数回、優しく撫でた。それから、躊躇うように一度動きが止まる。なんだろうと息を呑んでいると、彼女の手のひら全体が、俺の手をそっと包みこんだ。
冷たかった。グラスの結露が移ったのか、それとも別の理由か。その細い指の重さが、手の甲からじわじわと腕の内側へ、血管を伝うように上っていく気がした。振り払えない。振り払う言葉を探すより先に、その温度を確かめてしまっている自分がいる。
「ハルト先生」
呼ばれた。今までと全く同じ呼び方なのに、声の質がまるで違う。彼女の声は綿を濡らしたように重くなっていて、喉の奥に引っ掛かるように響いた。
「私のこと、好き……?」
心臓が、一拍だけ大きく鳴った。——だめだ、と。立場的に言わなければならないはずだった。でも、その言葉が、唇の手前で止まったまま、形にならない。頭の中で何かが言語になろうとして、なれないまま霧散していく。
その間に、彼女が身をそっと傾けた。
シャンプーの香りが鼻腔をかすめる。甘くて、かすかに柔軟剤の匂いが混じっている。彼女の影が俺の視界を覆う。その動きがひどくゆっくりに見えて、瞬きを忘れてしまう。
己の唇に、彼女の唇が重ねられたことに気づくのに数秒かかった。柔らかさを知覚したと同時に、唇の割れ目を、柔らかな『何か』がこじ開けてくる。にゅるり、と熱さを持ったそれが歯列をなぞり、俺の舌先に触れた。抵抗する間もなく絡め取られ、下をじゅるりと吸われた。思考の輪郭がドロドロと溶けていく。部屋の明かりも、カレンダーも、すべてが情報の体をなさず、ただ熱い粘膜の感触だけが脳を支配する。
ダメだ、どうしよう、拒否しないと。という理性の声が一瞬脳裏をよぎったが、どうしても抵抗ができない。
「……っ、ん…」
気づけば、握りしめていた拳を解き、彼女の細い肩を壊しそうなほど強く抱き寄せていた。逃がしたくない。立場も、罰も、未来も、どうでもよくなった。
今度は俺の方から、重なり合った唇を深く、深く、食らいつくように押し返す。鼻腔を抜ける彼女の甘い香りに理性が白く濁り、喉を鳴らして彼女の熱を吸い上げた。彼女の華奢な背中に回した腕に、さらに力を込める。柔らかな胸の感触が胸板に押しつけられ、鼓動がうるさいほどに共鳴した。
「……は、」
どちらからともなく唇が離れる。銀の糸が引くほどの、浅ましいほどに濃厚な口付けだった。
離れて、向かい合う。彼女の頬がうっすらと赤い。でも視線は揺れていない。ただ、奪い去られた酸素の代わりに、彼女の熱だけが肺の奥に居座っている。その事実に、じわりと遅れて思考が追いつき始めた頃、彼女が静かに口を開いた。
「……大学、合格したら。デートの時にちゅーのつづき、してくれますか?」
感情を持て余した様子もなく、ただ確かめるような静かな声だった。自分の手の甲に残る指の冷たさと、唇に残る熱さが、どちらも現実のものとして処理しきれないまま、ただその問いだけが部屋に漂っていた。
合格したら。その言葉の意味を、ゆっくりと噛み砕く。……つまり今はまだ、だめだということだ。俺自身も、それは十分にわかっている。
「……うん」
自分の声が、ひどく掠れていた。
返事を聞くと、彼女は満足そうに目を細め、まるで魔法が解けたかのようにあっさりと問題集を開いて、ペンを握り直した。さっきまで俺の舌を絡めとっていた熱情はどこにもなく、そこには再び『真面目な受験生』の横顔があるだけだった。ミョウジさんは、一体何を考えているんだろう。必死に目を凝らしても、色も形も、相変わらず何も見えることはなかった。
シャーペンがノートの繊維を削る規則的な音が、また部屋に戻ってくる。自分の手の甲を、もう一度だけ見る。彼女の指先は、もうそこにない。それでも、確かにあったのだという事実だけが、皮膚の下にじわりと沈んでいた。
──やってしまった。俺たちの関係は、どうなってしまうのだろう。まだ、もう暫くは、俺は教師で、彼女は生徒なのに。
(こんなんじゃクビ、切られちゃうかもな……)
壁のカレンダーが、遠くから俺を見下ろしている。あと60日。その数字が今夜は、罰のように感じられた。
彼女を見ていると、どうしてだろう、無性にくすぐったい気持ちになって堪らなくなる。
(……まずいな、いくら可愛いからって、女子生徒に対して)
気を紛らわすように壁のカウントダウンカレンダーに目をやる。『あと60日』と書かれた紙が下げられている。今度は胸の辺りがチクリと痛んだ。我ながら気分の上下の激しさに嫌気がさす。
……そう、あと60日で共通テストが始まる。そして、彼女と二人で過ごす時間も終わる。ミョウジさんはきっと、受験が終わったらすぐに俺のことなんて忘れてしまうのだろうな。そうして彼女の可愛い横顔を拝むことすらできなくなってしまうのだ。なんて悲しいんだろう。
「できた」
彼女が可愛い顔を上げて、ノートを俺の方へ向けた。酸化還元の問題だ。半反応式を書いて、電子の授受を確認して、全体の反応式を導く。彼女の答案にざっと目を通した。……途中式も含めて、全部合っていそうだ。
「うん、完璧。有効数字もあってるよ」
そう伝えると、彼女はパッと顔を輝かせた。少しだけ下がった目尻に、年相応の幼さと、隠しきれない愛らしさが滲む。その柔らかな笑顔を見るのが、いつの間にか俺の楽しみになっていた。
「ハルト先生」
彼女が俺を呼ぶ。この一年で、彼女の声のトーンも変わった。最初の頃は緊張で少し高かったのに、今では自然で柔らかい。こんな俺に懐いてくれているんだな、と素直に嬉しく思う。
「どうしたの?」
「ちょっと疲れちゃった」
そう言って、彼女は両腕を上に伸ばした。背筋を伸ばして、小さく息を吐く。制服のブラウスが少し持ち上がって、白い肌が僅かに見える。ブラウスが引っ張られて、胸の豊かな膨らみが強調される。
俺は反射的に視線を逸らして、意味もなく自分の手元にある参考書に目を落とした。ページの隅が少し折れている。それを指で直しながら、なんでもないふりをして呼吸を整えた。
「そうだね。もう九時過ぎてるし、少し休憩しようか」
「うん」
彼女は机の横に置いてあった麦茶を手に取った。グラスの表面には、結露した水滴がついている。一口飲む。喉が動く。その仕草を、俺は横目で見ていた。彼女がグラスを唇から離すと、下唇に一粒、水滴が残る。彼女は舌先でそれを舐め取った。……喉の奥が、やけに渇く。
彼女は俺の顔を覗き込んで、そういえば、と平坦な声で口を開いた。
「ハルト先生って彼女いるんですか?」
「……急に、何?」
「気になって」
予想外の質問に、言葉が詰まる。今まで彼女と他愛もない雑談を積み重ねてはきたけれど、恋愛に関する話を振られたことは一度もなかった。
彼女のくりくりとした小動物のような瞳が、上目遣いで俺を見ている。何を考えているんだろう。……教師として、なんて答えるのが正解なんだろう。コンマ数秒の間で考えを巡らせる。グラスの中の氷が、小さく音を立てて揺れた。
「……いないよ」
正直に答えた。嘘をつく理由もない。
「本当に?」
「本当。まあ、何度か告白されたこともあったけど。全部断ってきたから」
そこまで言ってから、少し後悔した。余計な情報だったかもしれない。
「やっぱりモテるんだ」
「別に……、モテないよ?」
「ふーん」
納得してなさそうに肩を竦められ、反応に困る。彼女は麦茶をもう一口飲んでから、グラスを膝の上に置いた。指先が、グラスの表面をなぞっている。爪は綺麗に伸ばされて、やすりで整えられてピカピカと光っていた。受験生と言えども年頃の女の子なんだな、とぼんやりと思う。
「どうして断ったんですか? 告白」
にんまりと、獲物を追い詰めたような笑みが彼女の口角に浮かぶ。……あれ、俺これ、からかわれているのかな。覚え始めた一抹の不安をかき消すように、これまでの無機質な学生生活を振り返ってみる。
「……うーん、興味が持てなかったから」
「興味?」
「恋愛とか、そういうのは、あまり。研究の方がずっと面白かったし。それに俺、人と深く関わるの、得意じゃないから」
そう付け加えると、彼女は少し首を傾げた。さらさらとした髪が肩から滑り落ちる。
「でも、ハルト先生、すごく優しいのに」
「優しいって……」
彼女はグラスを見つめたまま、囁くように呟く。指先が、結露したグラスの縁をなぞった。その、艶かしいほどにゆっくりとした動きから目が離せなくなる。
「私と関わるのも、苦手?」
「……!」
これまた予期せぬ角度からの問いに、喉の奥が引き攣る。俺がここで言うべきことはなんだろう。必死に言葉をたぐるが、思考がうまく纏まらない。
「そんなこと、……ないよ。もちろん」
「本当に?」
彼女が顔を上げた。その瞳が、真っ直ぐに俺を見ている。睫毛が長い。瞬きをする度に、その影が頬に落ちる。
「うん。その……、むしろ……」
言葉に詰まる。ここから先を言ってしまったら、もう後戻りできない気がする。無意識に、膝の上で拳を握りしめた。
「むしろ?」
逃げ場を塞ぐかのようにさらに身を乗り出して、続きの返答を促してくる。距離が近い。
「……一緒にいると、楽しいし、居心地がいいと思ってるよ」
彼女の目が、弾かれたように見開かれる。それから、ふっと強張っていた表情が緩んだ。彼女は少し俯いて、髪を耳にかけた。露わになった白い耳たぶが、林檎のように赤く染まっている。なんて可愛いんだろう。好きだ。
「私もそう。ハルト先生と毎週会える日が楽しみなんだ」
屈託のない笑顔を向けられ、胸の奥が熱くなる。何か返さなければと思うのに、喉がせり上がって、言葉が形にならない。視線を落として、グラスを握る手に少し力を込めながら、彼女は続けた。
「だから、受験が終わったらハルト先生に会えなくなると思うと、寂しくって……」
彼女の声が、少し震えている。その震えが、空気を伝って俺に届いた。
「それは……、俺もだよ」
少し迷ったけれど、正直に答えた。視線を上げると、潤んだ彼女の瞳が、俺の言葉を確かめるように揺れていた。
「でも、……その、もしミョウジさんが嫌じゃなければ、また会えるから」
「それって……、デートしてくれるってことですか?」
「デート……、うん。ちゃんと合格したら、ね」
デート、という言葉に過剰に反応をしないよう、平然を装い火照りを逃すように息を吐く。口にした途端、その文字列がひどく不慣れで、気恥ずかしいものに思えて仕方がなかった。そんな俺の動揺を見透かすように、彼女の口角がきゅっと上がった。グラスを持つ手が、膝の上で小さく揺れる。グラスの中の氷が、カラカラと音を立てた。
「でもそれって、一回だけ……? 今まで通りの頻度では会えないですよね……」
寂しそうな声でしゅんと肩を落とす。その表情が、まるで捨てられた子犬のようで、思わず言葉が出てしまった。
「一回だけじゃないよ」
「え……?」
彼女が顔を上げる。その瞳が、大きく見開かれる。睫毛が揺れる。
「もっと、たくさん会いたい。……君が望むならだけど」
その言葉を聞いて、彼女は訝しげに首を傾げた。グラスがテーブルに置かれる。彼女の指先が、少しだけ濡れている。
「……本当に?」
「本当」
たくさんどころか毎日でも会いたいよ、と言いたかったけれど、立場を考えて、流石に口をつぐんだ。
「……私も、そう」
彼女の手が、俺の方に伸びてくる。考える間もなく、ほっそりとした指先が、俺の手の甲を数回、優しく撫でた。それから、躊躇うように一度動きが止まる。なんだろうと息を呑んでいると、彼女の手のひら全体が、俺の手をそっと包みこんだ。
冷たかった。グラスの結露が移ったのか、それとも別の理由か。その細い指の重さが、手の甲からじわじわと腕の内側へ、血管を伝うように上っていく気がした。振り払えない。振り払う言葉を探すより先に、その温度を確かめてしまっている自分がいる。
「ハルト先生」
呼ばれた。今までと全く同じ呼び方なのに、声の質がまるで違う。彼女の声は綿を濡らしたように重くなっていて、喉の奥に引っ掛かるように響いた。
「私のこと、好き……?」
心臓が、一拍だけ大きく鳴った。——だめだ、と。立場的に言わなければならないはずだった。でも、その言葉が、唇の手前で止まったまま、形にならない。頭の中で何かが言語になろうとして、なれないまま霧散していく。
その間に、彼女が身をそっと傾けた。
シャンプーの香りが鼻腔をかすめる。甘くて、かすかに柔軟剤の匂いが混じっている。彼女の影が俺の視界を覆う。その動きがひどくゆっくりに見えて、瞬きを忘れてしまう。
己の唇に、彼女の唇が重ねられたことに気づくのに数秒かかった。柔らかさを知覚したと同時に、唇の割れ目を、柔らかな『何か』がこじ開けてくる。にゅるり、と熱さを持ったそれが歯列をなぞり、俺の舌先に触れた。抵抗する間もなく絡め取られ、下をじゅるりと吸われた。思考の輪郭がドロドロと溶けていく。部屋の明かりも、カレンダーも、すべてが情報の体をなさず、ただ熱い粘膜の感触だけが脳を支配する。
ダメだ、どうしよう、拒否しないと。という理性の声が一瞬脳裏をよぎったが、どうしても抵抗ができない。
「……っ、ん…」
気づけば、握りしめていた拳を解き、彼女の細い肩を壊しそうなほど強く抱き寄せていた。逃がしたくない。立場も、罰も、未来も、どうでもよくなった。
今度は俺の方から、重なり合った唇を深く、深く、食らいつくように押し返す。鼻腔を抜ける彼女の甘い香りに理性が白く濁り、喉を鳴らして彼女の熱を吸い上げた。彼女の華奢な背中に回した腕に、さらに力を込める。柔らかな胸の感触が胸板に押しつけられ、鼓動がうるさいほどに共鳴した。
「……は、」
どちらからともなく唇が離れる。銀の糸が引くほどの、浅ましいほどに濃厚な口付けだった。
離れて、向かい合う。彼女の頬がうっすらと赤い。でも視線は揺れていない。ただ、奪い去られた酸素の代わりに、彼女の熱だけが肺の奥に居座っている。その事実に、じわりと遅れて思考が追いつき始めた頃、彼女が静かに口を開いた。
「……大学、合格したら。デートの時にちゅーのつづき、してくれますか?」
感情を持て余した様子もなく、ただ確かめるような静かな声だった。自分の手の甲に残る指の冷たさと、唇に残る熱さが、どちらも現実のものとして処理しきれないまま、ただその問いだけが部屋に漂っていた。
合格したら。その言葉の意味を、ゆっくりと噛み砕く。……つまり今はまだ、だめだということだ。俺自身も、それは十分にわかっている。
「……うん」
自分の声が、ひどく掠れていた。
返事を聞くと、彼女は満足そうに目を細め、まるで魔法が解けたかのようにあっさりと問題集を開いて、ペンを握り直した。さっきまで俺の舌を絡めとっていた熱情はどこにもなく、そこには再び『真面目な受験生』の横顔があるだけだった。ミョウジさんは、一体何を考えているんだろう。必死に目を凝らしても、色も形も、相変わらず何も見えることはなかった。
シャーペンがノートの繊維を削る規則的な音が、また部屋に戻ってくる。自分の手の甲を、もう一度だけ見る。彼女の指先は、もうそこにない。それでも、確かにあったのだという事実だけが、皮膚の下にじわりと沈んでいた。
──やってしまった。俺たちの関係は、どうなってしまうのだろう。まだ、もう暫くは、俺は教師で、彼女は生徒なのに。
(こんなんじゃクビ、切られちゃうかもな……)
壁のカレンダーが、遠くから俺を見下ろしている。あと60日。その数字が今夜は、罰のように感じられた。
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