ビルシャナ戦姫ss
壇ノ浦の戦いから数ヶ月───
平家との戦を終え、
世間的には源義経は死んだと誰もが思っているこの時世。
『源氏』を捨てた私は春玄と共に旅をしていた。
「そろそろ蒸し暑くなってきたな……」
「そうだな……川の音が聞こえる。
春玄、近くに川があるみたいだ。そこで休憩しよう」
「そうか、分かった」
山道を歩いていても感じる夏特有の暑さに、
徒歩 で旅を続けている私達も、
鍛えているとはいえ流石に参っていた。
川の近くならば今いる場所よりも、
少しは涼しいだろうと思い、
水の流れる音に聞き耳を立て、
音が聞こえる方向へ歩いていく。
「見つけた!春玄、こっちだ!」
「あっ、待て遮那!」
視界に川が映し出され、
私は春玄を急かして川の側まで早歩きをした。
流れる水の音は心地よく、
緑豊かなこの場所は心穏やかな気持ちになる。
川辺の側に座り込んだ私の隣に、
当然のように春玄も座り込んだ。
「やっぱり遮那は耳がいいな」
「そうか?」
「俺は先程まで歩いていた参道から、
こうして近くまで来なければ聞こえなかった」
隣に座った春玄が私の顔を覗き込む。
その表情は明るく穏やかで、
そんな春玄の表情を見て私もつい頬が緩んでしまう。
「ここの水は透き通っているな……。
遮那、水分補給はしっかりしておかないと」
「そうだな」
川を緩やかに流れる水を両手で掬い、
それにそっと口をつけ喉奥へ流し込む。
ひんやりと冷たい水は、
この暑い季節にはちょうど良かった。
明るく照り続ける太陽を、
私は木陰からそっと見上げる。
木の葉の隙間から差し込む陽の光は、
どこか幻想的に見えて美しい。
──源氏の御曹司として宿命を背負い生きる。
それが幼い頃から当然のことと思ってきた私にとって、
何よりも大切な春玄と共に、
こうして気ままに旅をする日々は、
まるで夢のようだと感じてしまう。
幼い頃より……いいや、
生まれた頃から付き纏っていたこの宿命に、
悩み苦しんだことは多々あった。
平家への不信感が募る世において、
『源氏の御曹司』へと向けられる、
渇望にも希望にも似た期待は重いものだった。
……いや自分が背負うにはあまりにも重すぎたと言うべきなのかもしれない。
昔からただ静かに暮らす生活を夢見ていた私にとって、
”源氏”は本当に望むものを拒む障壁のようなものだった。
そして何よりも、
本来であれば春玄が名乗るべき名を奪ったと知った時、
どうしようもない感情に襲われた。
自身へ対する憤りというのか……。
言葉にするには難しい感情だった。
源氏の者でないのならば自分が何者なのか。
それは結局今でも分からずじまいだけれど。
「遮那?急に黙り込んでどうした?」
「あ、いや……何でもないんだ。
ただ、この日々が不思議なものだと思って……」
「あぁ……」
俯いた状態で急に黙り込んだ私に、
春玄は心配した顔で私を見つめていた。
あぁ、こんな表情をさせるつもりはなかったのに。
ただこの日々が夢のようだと、
改めて今までの事を振り返ってそう思っただけなのに。
私の言葉に春玄は納得したように一つ小さく頷いた。
その表情からは先程見せていた心配の色はなくなっていた。
「確かに今までの事を思い返せば、
こんな風に自由に暮らせる日々は、
ただ叶わない夢だと思い描いていただけだったからな。
今まで叶わないと思ってきたことが、
こうして実現して不思議な気分になるのは分かる」
「……」
キラキラと陽の光を受けて、
反射する水面を二人揃って見つめ、
感慨深い気持ちに浸る。
春玄と共に旅をして様々なものを見てきた。
鞍馬寺にいたあの頃では、
ただ叶わないことだと夢見ていただけの外の世界は、
あまりにも広大で自分たちが知らないことがたくさんあった。
それでもほんの一部でしかなく、
まだまだありふれた可能性があるのだということも、
この旅路の中で感じ取ったけれど。
「本当に、毎日が楽しくて仕方ないよ」
「俺もだ。こうして遮那と一緒にいられるだけで、
こんなにも毎日が楽しくて幸せで仕方がない」
そっとお互いの指を絡める。
幼い頃から何度も何度も、
数え切れないほどに触れてきた春玄のその手は、
自分の手よりも大きくて、
まるで包まれているかのように思う。
幸せのまま、隣にいる春玄の肩に自分の頭を預ける。
───安心する。
いつも私の心に安寧をくれる。
迷った時も悲しみに暮れた時も、
不安に思った時もこの手が包み込んでくれた。
傍に引っ付いていれば、
蒸し暑く感じるだろうけれど、
それでも無性に離れたくないと思ってしまった。
そんな私の思いに気付いているのだろう。
春玄は何も言わず、
ただ黙って空いた左手で私の頭を優しく撫でてくれた。
いつの間にか私よりも大きく、
逞しくなった春玄は、
本当に心強くとても頼りがいがある。
そしてここ最近は、
過保護に拍車がかかったような気もするけれど。
それでもこうして春玄の傍にいられる幸福を、
私はただ深く深く噛み締める。
本来の春玄の名も絆も奪った私を、
憎むでもなくただ私という存在を愛してくれる。
いつしか恋焦がれ願った”血縁の絆”などよりも、
深く大きな縁を見知らぬ誰かとではなく、
何よりも大切な人と結べたことが、
私の人生で最大の幸福だと思う。
「──さぁ、遮那。そろそろ町へ向かおう。
暗くなってからでは危ないからな」
「あぁ、そうだな。行こう、春玄」
私たちは立ち上がり、
次の目的の町へ足を進める。
宿へ着いた後はどこへ行こうか。
何をしようかと未来 を思い描いて。
【the end】
平家との戦を終え、
世間的には源義経は死んだと誰もが思っているこの時世。
『源氏』を捨てた私は春玄と共に旅をしていた。
「そろそろ蒸し暑くなってきたな……」
「そうだな……川の音が聞こえる。
春玄、近くに川があるみたいだ。そこで休憩しよう」
「そうか、分かった」
山道を歩いていても感じる夏特有の暑さに、
鍛えているとはいえ流石に参っていた。
川の近くならば今いる場所よりも、
少しは涼しいだろうと思い、
水の流れる音に聞き耳を立て、
音が聞こえる方向へ歩いていく。
「見つけた!春玄、こっちだ!」
「あっ、待て遮那!」
視界に川が映し出され、
私は春玄を急かして川の側まで早歩きをした。
流れる水の音は心地よく、
緑豊かなこの場所は心穏やかな気持ちになる。
川辺の側に座り込んだ私の隣に、
当然のように春玄も座り込んだ。
「やっぱり遮那は耳がいいな」
「そうか?」
「俺は先程まで歩いていた参道から、
こうして近くまで来なければ聞こえなかった」
隣に座った春玄が私の顔を覗き込む。
その表情は明るく穏やかで、
そんな春玄の表情を見て私もつい頬が緩んでしまう。
「ここの水は透き通っているな……。
遮那、水分補給はしっかりしておかないと」
「そうだな」
川を緩やかに流れる水を両手で掬い、
それにそっと口をつけ喉奥へ流し込む。
ひんやりと冷たい水は、
この暑い季節にはちょうど良かった。
明るく照り続ける太陽を、
私は木陰からそっと見上げる。
木の葉の隙間から差し込む陽の光は、
どこか幻想的に見えて美しい。
──源氏の御曹司として宿命を背負い生きる。
それが幼い頃から当然のことと思ってきた私にとって、
何よりも大切な春玄と共に、
こうして気ままに旅をする日々は、
まるで夢のようだと感じてしまう。
幼い頃より……いいや、
生まれた頃から付き纏っていたこの宿命に、
悩み苦しんだことは多々あった。
平家への不信感が募る世において、
『源氏の御曹司』へと向けられる、
渇望にも希望にも似た期待は重いものだった。
……いや自分が背負うにはあまりにも重すぎたと言うべきなのかもしれない。
昔からただ静かに暮らす生活を夢見ていた私にとって、
”源氏”は本当に望むものを拒む障壁のようなものだった。
そして何よりも、
本来であれば春玄が名乗るべき名を奪ったと知った時、
どうしようもない感情に襲われた。
自身へ対する憤りというのか……。
言葉にするには難しい感情だった。
源氏の者でないのならば自分が何者なのか。
それは結局今でも分からずじまいだけれど。
「遮那?急に黙り込んでどうした?」
「あ、いや……何でもないんだ。
ただ、この日々が不思議なものだと思って……」
「あぁ……」
俯いた状態で急に黙り込んだ私に、
春玄は心配した顔で私を見つめていた。
あぁ、こんな表情をさせるつもりはなかったのに。
ただこの日々が夢のようだと、
改めて今までの事を振り返ってそう思っただけなのに。
私の言葉に春玄は納得したように一つ小さく頷いた。
その表情からは先程見せていた心配の色はなくなっていた。
「確かに今までの事を思い返せば、
こんな風に自由に暮らせる日々は、
ただ叶わない夢だと思い描いていただけだったからな。
今まで叶わないと思ってきたことが、
こうして実現して不思議な気分になるのは分かる」
「……」
キラキラと陽の光を受けて、
反射する水面を二人揃って見つめ、
感慨深い気持ちに浸る。
春玄と共に旅をして様々なものを見てきた。
鞍馬寺にいたあの頃では、
ただ叶わないことだと夢見ていただけの外の世界は、
あまりにも広大で自分たちが知らないことがたくさんあった。
それでもほんの一部でしかなく、
まだまだありふれた可能性があるのだということも、
この旅路の中で感じ取ったけれど。
「本当に、毎日が楽しくて仕方ないよ」
「俺もだ。こうして遮那と一緒にいられるだけで、
こんなにも毎日が楽しくて幸せで仕方がない」
そっとお互いの指を絡める。
幼い頃から何度も何度も、
数え切れないほどに触れてきた春玄のその手は、
自分の手よりも大きくて、
まるで包まれているかのように思う。
幸せのまま、隣にいる春玄の肩に自分の頭を預ける。
───安心する。
いつも私の心に安寧をくれる。
迷った時も悲しみに暮れた時も、
不安に思った時もこの手が包み込んでくれた。
傍に引っ付いていれば、
蒸し暑く感じるだろうけれど、
それでも無性に離れたくないと思ってしまった。
そんな私の思いに気付いているのだろう。
春玄は何も言わず、
ただ黙って空いた左手で私の頭を優しく撫でてくれた。
いつの間にか私よりも大きく、
逞しくなった春玄は、
本当に心強くとても頼りがいがある。
そしてここ最近は、
過保護に拍車がかかったような気もするけれど。
それでもこうして春玄の傍にいられる幸福を、
私はただ深く深く噛み締める。
本来の春玄の名も絆も奪った私を、
憎むでもなくただ私という存在を愛してくれる。
いつしか恋焦がれ願った”血縁の絆”などよりも、
深く大きな縁を見知らぬ誰かとではなく、
何よりも大切な人と結べたことが、
私の人生で最大の幸福だと思う。
「──さぁ、遮那。そろそろ町へ向かおう。
暗くなってからでは危ないからな」
「あぁ、そうだな。行こう、春玄」
私たちは立ち上がり、
次の目的の町へ足を進める。
宿へ着いた後はどこへ行こうか。
何をしようかと
【the end】