2
(剣心視点)
雪は絶え間なく降り続け、俺の歩いた道もすぐに白く染め上げていく。まるで、何事もなかったかのように――俺が斬り捨てた数多の命も、いつかこの雪の下に隠れてしまうのだろうか。そんなはずはない。俺の記憶の中には、刀を振るうたびに聞こえた叫びや、こぼれ落ちた血の赤が焼きついて離れないのだから。
足を止め、そっと目を閉じる。巴の面影が浮かぶ。雪のように白い着物、紫色の羽織、静かな微笑み、そしてあの夜――。
「お前はまだ、答えを見つけられていないのだな」
不意に、風が囁いたように聞こえた。だが、それは幻聴に過ぎない。
――人を斬らない。
そう決めた。だが、剣を持つ限り、俺はいつか誰かを斬ってしまうのではないか。俺の剣は「守るため」だと自分に言い聞かせても、それは薄氷の上に立つようなものだ。すれ違う旅人に「剣客」と見られれば、人斬り時代の抜刀斎を思い出し、目を背ける者もいる。仕方の無いことだと分かっていてもそんな視線に触れるたび、罪の重さが俺の足をさらに重くする。
「緋村、道はこれから先も長いぞ」
かつて桂先生がそう言った。「お前はよくやった」と――あの言葉は慰めなのか、それとも罰なのか。俺にはわからない。ただ、前を見据えて歩き続けろと言われた気がする。
旅に出て少し経ったある時、ふと、遠くから人の声が聞こえた。雪に閉ざされた村が、静寂を打ち破るような悲鳴に包まれている。俺の身体は自然と動き出していた。
村に着くと、そこには野盗たちが老人や女たちを追い立て、火を放っていた。刀を振るい、笑う彼らの姿が、かつての自分と重なる。
――守るための剣。
俺はゆっくりと刀に手をかける。抜くのは、人を守るためだ。それが、俺の贖罪の答えになるのかはわからない。だが、ただ何もせず見過ごせば、俺はまた別の罪を重ねることになる。
「もうやめろ」
静かな声が雪の中に溶けた。野盗の一人がこちらを向き、嗤う。
「なんだ、お前。剣を持ってるならやってみろ」
その挑発に、俺の手は微かに震えた。剣を抜く。抜かない――そんな葛藤が心を駆け巡る。大丈夫。この逆刃刀ならば、俺と同じく甘っちょろい戯言を信じていたあの人が作った刀ならば。
「人の命を奪う剣ならば、俺には必要ない」
声に出して言った瞬間、飛天御剣流の教えが、俺を動かした。重力を無視するように飛び込み、男の刀を打ち払う。野盗たちは次々と驚き、雪の上に転がった。命は奪わない――だが、彼らの手足を打ち砕くことで戦意を削ぎ、村人たちを守る。
「…助かった…助けてくれてありがとう…」
震える声が背後から聞こえた。振り返ると、老人が涙を流して頭を下げていた。その姿を見て、俺の心にわずかな光が差したような気がした。
――俺の剣は、人を守るためにある。
それが答えになるのかは、まだわからない。だが、少なくとも今日、救われた命があった。それだけで、今は十分だ。
雪はやんで、夜空から月が顔を覗かせている。白銀の世界が光に照らされ、どこか遠くに巴の笑顔が浮かんだ気がした。
「巴……」
呟いた声は風に乗り、消えていく。まだ道は続いている。焦りも絶望も、俺を苦しめ続けるだろう。それでも、俺は進まなければならない。
守るべきものがある限り、この剣を――そして、俺の生を手放すことはできないのだから。
ーお帰りください
……いや、所詮こんなもの自己満足でしかない。俺が斬り捨てた命に何も報いることなど出来ないのだから。
救いとは、償いとは何なのか。いくら考えても答えは出ない。それでも俺は答えを出さなければ。
「……とりあえず今夜の寝床を探すか」
何処か適当に風をしのげるような場所がないか辺りを確認しようとした時、何かが聞こえた。誰かの、子どもの悲鳴のようなそれに気づいた時にはそちらに向かって走り出していた。
こんな夜更けに、まさかまた野盗だろうか。それとも病人か。悲鳴はどんどんと近くなっていき、件の子どもも見えてきたが。
「何だあれは…っ」
黒い手が、まるで生きた蛇のように蠢き、少年を絡みつける。その異様な光景に、血が凍りつく。まるで地獄絵図の一コマを切り取ったかのようだった。恐怖が全身を駆け巡り、心臓が鼓動を早める。息をするのも忘れてしまうような、重苦しい空気が辺りを覆う。しかし、その場で怯えているわけにはいかない。この瞬間に動かなくては大切なものを守れないと、自分に言い聞かせて立ち上がる。
「痛い…っ誰か、助けて…!」
少年のかすれた声が耳に届く。その声は心の芯まで鋭く突き刺さる。何を怯んでいる。決めたはずだろう、この目に映る人を守ると!急いで駆け寄り今にも子どもの頭を掴もうとしていたその手を斬り捨てる。
その声は喉元を芯まで貫くように響き渡る。少年が抱える「かけら」、その正体を知らない俺は、絶え間なく襲い来る手を一心不乱に振り払う。
「あれ、何か分かるか?」
「わ、わかんない…っ」
「ヨコセ…カケ、ラ…オレ、ノ…ォォォ!!」
「かけら…?それのことか?」
少年の腕の中に何かが抱かれている。その存在が不気味な手を引き寄せているのか。これを捨てさえすれば…。
「だめ!これは姉ちゃんの!お嫁に行くときに大事なやつ!」
「だが、あいつらはそれを狙っている!お前よりもそれが大事だという姉ではないだろう、今は捨てるんだ!」
「いやだ!」
キィィンという音が空気を張り詰めさせ、俺は腐心しながら計画を変更する。俺が少年を抱えて逃げれば、その速度は遅くなる。あの不気味な手の群れがこちらに迫る。
「すまん!」
「え、わあ!」
「しばらく借りる!お前は安全な場所へ逃げるんだ!」
俺はかけらを少年から奪い、少年を地面に転ばせる。俺一人の方が速く逃げられる。そして、この手の群れがあきらめるのか、俺の力が尽きるのかの耐久戦だ。手を切り払いながら、頭の中では朝通った広い川の方向を目指す。そこでなら、誰にも迷惑をかけることなく戦えるかもしれない。
しばらく息を切らしながら走ると、手の数は次第に減ってきた。奴らが諦めて去ったのか、別の意図があるのかは分からないが、周囲に警戒を怠らないよう注意しながら呼吸を整える。
刹那。
凄まじい水しぶきの音と共に、川から無数の手が現れた。
「アハハハハ!!」
「くっ…先回り、していたのか?!」
川から這い出てきた者たちと、先ほどまで追いかけてきた者たちに、挟み撃ちされてしまった。迎撃を試みるも、消耗した体力ではどれほど持ちこたえられるか分からない。
「ヨコセ!」
「断る!」
このかけらは、あの少年のものだ。渡すわけにはいかない。
「オネガイソノカケラヲチヨウダイ!タスケテ!」 「…え?」
助けて、という声に一瞬気を取られてしまった。これが俺の運命の分かれ道だった。
「ソレガアレバアノコヲタスケラレルノ!チョウダイチョウダイ!ヨコセ!」
「…っしま…っ」
脚に他の手が絡みつき、あっという間に川に引きずり込まれてしまった。逆刃刀を必死に握りしめるも、脚から胴体、腕へと侵食する手に押さえ込まれていく。それは、生きているかのように蠢く黒い手。まるで、俺が奪った命たちが地獄の底から這い上がり、復讐しに来たかのようで。その感触は、過去に自らが握りしめた幾多の命に似ている。あの時、何もかもが許されることはないと知った。何をしても救われない。焦りと恐怖が頭をかすめ、全てが暗闇へと沈めていく。水底に沈み込むにつれて、視界が次第に狭まっていく。まるで、深淵へと引きずり込まれるようだった。過去の悪夢が次々と蘇り、俺を苛む。
「これは罰か…」
血しぶき、絶叫、そして、巴の悲しみの顔が鮮明に浮かぶ。奪った命たちが一つ一つ重みとなり、ますます沈んでいく。無力感に打ちひしがれ、体中の力が抜けていく。この冷たい水の中に永遠に閉じ込められてしまうのではないか、そんな恐怖が心を支配する。もう、誰も俺を救ってくれない。罪深き者の末路は、ただこの暗闇の中で消え去ることしかないのか。意識が遠のく中、すべてが霞んでいく。自らの罪が許されることのないことを悟っていた。それでもなお、何もできない。無理だと。ごめん、ごめん。
「……と、もえ…」
この絶望は、ただ沈み込むばかり。俺の声は、水中で泡となって消えていった。
雪は絶え間なく降り続け、俺の歩いた道もすぐに白く染め上げていく。まるで、何事もなかったかのように――俺が斬り捨てた数多の命も、いつかこの雪の下に隠れてしまうのだろうか。そんなはずはない。俺の記憶の中には、刀を振るうたびに聞こえた叫びや、こぼれ落ちた血の赤が焼きついて離れないのだから。
足を止め、そっと目を閉じる。巴の面影が浮かぶ。雪のように白い着物、紫色の羽織、静かな微笑み、そしてあの夜――。
「お前はまだ、答えを見つけられていないのだな」
不意に、風が囁いたように聞こえた。だが、それは幻聴に過ぎない。
――人を斬らない。
そう決めた。だが、剣を持つ限り、俺はいつか誰かを斬ってしまうのではないか。俺の剣は「守るため」だと自分に言い聞かせても、それは薄氷の上に立つようなものだ。すれ違う旅人に「剣客」と見られれば、人斬り時代の抜刀斎を思い出し、目を背ける者もいる。仕方の無いことだと分かっていてもそんな視線に触れるたび、罪の重さが俺の足をさらに重くする。
「緋村、道はこれから先も長いぞ」
かつて桂先生がそう言った。「お前はよくやった」と――あの言葉は慰めなのか、それとも罰なのか。俺にはわからない。ただ、前を見据えて歩き続けろと言われた気がする。
旅に出て少し経ったある時、ふと、遠くから人の声が聞こえた。雪に閉ざされた村が、静寂を打ち破るような悲鳴に包まれている。俺の身体は自然と動き出していた。
村に着くと、そこには野盗たちが老人や女たちを追い立て、火を放っていた。刀を振るい、笑う彼らの姿が、かつての自分と重なる。
――守るための剣。
俺はゆっくりと刀に手をかける。抜くのは、人を守るためだ。それが、俺の贖罪の答えになるのかはわからない。だが、ただ何もせず見過ごせば、俺はまた別の罪を重ねることになる。
「もうやめろ」
静かな声が雪の中に溶けた。野盗の一人がこちらを向き、嗤う。
「なんだ、お前。剣を持ってるならやってみろ」
その挑発に、俺の手は微かに震えた。剣を抜く。抜かない――そんな葛藤が心を駆け巡る。大丈夫。この逆刃刀ならば、俺と同じく甘っちょろい戯言を信じていたあの人が作った刀ならば。
「人の命を奪う剣ならば、俺には必要ない」
声に出して言った瞬間、飛天御剣流の教えが、俺を動かした。重力を無視するように飛び込み、男の刀を打ち払う。野盗たちは次々と驚き、雪の上に転がった。命は奪わない――だが、彼らの手足を打ち砕くことで戦意を削ぎ、村人たちを守る。
「…助かった…助けてくれてありがとう…」
震える声が背後から聞こえた。振り返ると、老人が涙を流して頭を下げていた。その姿を見て、俺の心にわずかな光が差したような気がした。
――俺の剣は、人を守るためにある。
それが答えになるのかは、まだわからない。だが、少なくとも今日、救われた命があった。それだけで、今は十分だ。
雪はやんで、夜空から月が顔を覗かせている。白銀の世界が光に照らされ、どこか遠くに巴の笑顔が浮かんだ気がした。
「巴……」
呟いた声は風に乗り、消えていく。まだ道は続いている。焦りも絶望も、俺を苦しめ続けるだろう。それでも、俺は進まなければならない。
守るべきものがある限り、この剣を――そして、俺の生を手放すことはできないのだから。
ーお帰りください
……いや、所詮こんなもの自己満足でしかない。俺が斬り捨てた命に何も報いることなど出来ないのだから。
救いとは、償いとは何なのか。いくら考えても答えは出ない。それでも俺は答えを出さなければ。
「……とりあえず今夜の寝床を探すか」
何処か適当に風をしのげるような場所がないか辺りを確認しようとした時、何かが聞こえた。誰かの、子どもの悲鳴のようなそれに気づいた時にはそちらに向かって走り出していた。
こんな夜更けに、まさかまた野盗だろうか。それとも病人か。悲鳴はどんどんと近くなっていき、件の子どもも見えてきたが。
「何だあれは…っ」
黒い手が、まるで生きた蛇のように蠢き、少年を絡みつける。その異様な光景に、血が凍りつく。まるで地獄絵図の一コマを切り取ったかのようだった。恐怖が全身を駆け巡り、心臓が鼓動を早める。息をするのも忘れてしまうような、重苦しい空気が辺りを覆う。しかし、その場で怯えているわけにはいかない。この瞬間に動かなくては大切なものを守れないと、自分に言い聞かせて立ち上がる。
「痛い…っ誰か、助けて…!」
少年のかすれた声が耳に届く。その声は心の芯まで鋭く突き刺さる。何を怯んでいる。決めたはずだろう、この目に映る人を守ると!急いで駆け寄り今にも子どもの頭を掴もうとしていたその手を斬り捨てる。
その声は喉元を芯まで貫くように響き渡る。少年が抱える「かけら」、その正体を知らない俺は、絶え間なく襲い来る手を一心不乱に振り払う。
「あれ、何か分かるか?」
「わ、わかんない…っ」
「ヨコセ…カケ、ラ…オレ、ノ…ォォォ!!」
「かけら…?それのことか?」
少年の腕の中に何かが抱かれている。その存在が不気味な手を引き寄せているのか。これを捨てさえすれば…。
「だめ!これは姉ちゃんの!お嫁に行くときに大事なやつ!」
「だが、あいつらはそれを狙っている!お前よりもそれが大事だという姉ではないだろう、今は捨てるんだ!」
「いやだ!」
キィィンという音が空気を張り詰めさせ、俺は腐心しながら計画を変更する。俺が少年を抱えて逃げれば、その速度は遅くなる。あの不気味な手の群れがこちらに迫る。
「すまん!」
「え、わあ!」
「しばらく借りる!お前は安全な場所へ逃げるんだ!」
俺はかけらを少年から奪い、少年を地面に転ばせる。俺一人の方が速く逃げられる。そして、この手の群れがあきらめるのか、俺の力が尽きるのかの耐久戦だ。手を切り払いながら、頭の中では朝通った広い川の方向を目指す。そこでなら、誰にも迷惑をかけることなく戦えるかもしれない。
しばらく息を切らしながら走ると、手の数は次第に減ってきた。奴らが諦めて去ったのか、別の意図があるのかは分からないが、周囲に警戒を怠らないよう注意しながら呼吸を整える。
刹那。
凄まじい水しぶきの音と共に、川から無数の手が現れた。
「アハハハハ!!」
「くっ…先回り、していたのか?!」
川から這い出てきた者たちと、先ほどまで追いかけてきた者たちに、挟み撃ちされてしまった。迎撃を試みるも、消耗した体力ではどれほど持ちこたえられるか分からない。
「ヨコセ!」
「断る!」
このかけらは、あの少年のものだ。渡すわけにはいかない。
「オネガイソノカケラヲチヨウダイ!タスケテ!」 「…え?」
助けて、という声に一瞬気を取られてしまった。これが俺の運命の分かれ道だった。
「ソレガアレバアノコヲタスケラレルノ!チョウダイチョウダイ!ヨコセ!」
「…っしま…っ」
脚に他の手が絡みつき、あっという間に川に引きずり込まれてしまった。逆刃刀を必死に握りしめるも、脚から胴体、腕へと侵食する手に押さえ込まれていく。それは、生きているかのように蠢く黒い手。まるで、俺が奪った命たちが地獄の底から這い上がり、復讐しに来たかのようで。その感触は、過去に自らが握りしめた幾多の命に似ている。あの時、何もかもが許されることはないと知った。何をしても救われない。焦りと恐怖が頭をかすめ、全てが暗闇へと沈めていく。水底に沈み込むにつれて、視界が次第に狭まっていく。まるで、深淵へと引きずり込まれるようだった。過去の悪夢が次々と蘇り、俺を苛む。
「これは罰か…」
血しぶき、絶叫、そして、巴の悲しみの顔が鮮明に浮かぶ。奪った命たちが一つ一つ重みとなり、ますます沈んでいく。無力感に打ちひしがれ、体中の力が抜けていく。この冷たい水の中に永遠に閉じ込められてしまうのではないか、そんな恐怖が心を支配する。もう、誰も俺を救ってくれない。罪深き者の末路は、ただこの暗闇の中で消え去ることしかないのか。意識が遠のく中、すべてが霞んでいく。自らの罪が許されることのないことを悟っていた。それでもなお、何もできない。無理だと。ごめん、ごめん。
「……と、もえ…」
この絶望は、ただ沈み込むばかり。俺の声は、水中で泡となって消えていった。
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