1
(アリス視点)
午後、薄暗い書斎に差し込む夕陽が古びた書物に黄金色の光を投げかけていた。書棚には、錬金術に関する古書だけでなく、医学書、博物学書、航海図など、当時の学問の多岐にわたる分野の本が並んでいる。その中には「賢者の石」や「錬金術の秘儀」といった言葉が書かれた見出し語がちらりと見える。私は今日届いた奇妙な手紙をもう一度読み返す。差出人は不明、あて名は私の名前。そして添えられていたのは不思議な文様が刻まれた銅鏡のかけらと意味深な言葉。
「真実の心を映す鏡…ね」
と声に出しつつ、どうしても見覚えのある文様に引かれる自分がいた。もう二度と戻れない、前の世界に思いを巡らせていると、扉を軽やかにノックする音が思考を遮った。
「入ってもいいかしら」
「はい。お邪魔しています」
書斎に入ってきたのは、グリーン男爵の妻、トリッシュだった。紅茶とアンズの香りが、緊張した空気を少しだけ柔らかくする。彼女は私の労をねぎらうべく、微笑みを浮かべてトレーを差し出した。
「熱心ねぇ。でもあまり無理をしてはだめよ?時々は休まなきゃ、ね?博物学者さん」
と優しく語りかける。なぜバレたのか疑問に思いつつも心配している様子が伝わるが、私は悟られないようにとなんでもない事のようにはぐらかした。
「...はい。善処します。でも今は…研究とは違うことを調べてましたので、十分趣味として休憩していたので休めました」
「私と同じね。仕事が趣味みたいなものだから、つい空いた時間も資料とか探してしまうのよね。旦那様も同じみたいだけど」
とため息混じりにトリッシュが続ける。書斎のテーブルに置かれた食器は2人分。トリッシュもここでお茶をするようだ。なのに先程から手をつけないということは、私にも休むよう促しているのだろう。トリッシュは案外頑固なので私が休むまで折れることはない。早々に降参した私は先程まで読んでいた本…博物学や自然哲学関連のそれを見られないように机の隅にまとめ、大人しく席についた。
「仕方がありませんよね」
「でも、最近は少しずつリラックスする時間も大切なんだって気づいたのよ」
と穏やかに付け加えた。時代を感じさせるが温かみのある家具と古びた書物が整然と並ぶ室内は、どこかしっとりとした落ち着きを感じさせる。温かい紅茶、温かい人…自分には勿体ないくらいの穏やかな時間。書斎の一角には、錬金術の実験器具が置かれており、フラスコやアランビクなどが太陽光を反射してキラキラと輝いている。
「それはそうと、最近下町で流行っていた喘息の状況はどう?」
優雅にカップを持ち、その琥珀色の液体をゆっくりとすすりながら、違う話題にトリッシュに私は頭を切り替えつつ正直に答えた。
「ああ…根本的には解決してないけれど、マスクをつけてから症状が少し治まったみたいです。でも、一時しのぎですよね」
「…工業地帯や鉄道の煙をどうにかしないと根本的には解決しないから…ああでもマスク作りは内職としてよかったのかもしれないわね。この間のバザーでも人気だったわね」
書斎の窓の外には、工場の煙突から立ち上る黒煙が、夕焼けを暗く染めていた。トリッシュは、その光景を憂いながら、アリスに語りかけた。
「あの煙を見るたびに、娘の顔が浮かぶのよ。こんな時代に生まれてこなければ、もっと長生きできたかもしれないのに…」
とは軽くため息をつきながら、静かにテーブルに紅茶のカップを戻した。彼女の視線は、窓の外に広がる緑豊かな庭に一瞬移る。ノブレス・オブリージュ。貴族や上流階級などの財産や権力、地位を持つ者は、それ相応の社会的責任や義務を負うというその考え。
外には工業地帯の煙が空を曇らせていた産業革命期の環境問題がますます深刻化しているこの時代。トリッシュはその影響を重く受け止め、医学研究に没頭している。
テーブルの片隅に、オオバコで作った茶が置いてある。オオバコは風邪や喘息の咳に効くから。それだけではない。書斎には解剖図や薬草標本なども置かれており、実験台の周りには、様々な種類の薬草や鉱物が並べられ、独特の香りが漂っている。
…トリッシュは排気ガスによる喘息で一人娘を亡くしたと言っていた。そしてそれは自分たちだけではなく、市民たちはもっと被害が甚大だと。だからこそ同じ悲劇を繰り返すべきではないと医学についての研究に没頭している。夫であるグリーン男爵もそれを支援している。私を引き取ってくれたのも亡くなった娘に似ていたからだといつか教えてくれた。
助けてくれたならば助ける。等価交換である。だからこそ私はトリッシュの元で助手のように働いているのだが、果たして全ての恩を返せる日が来るのだろうか。錬金術の知識を活かして、新しい薬剤を開発し、多くの人を救いたい。それが、トリッシュへの恩返しになるのかもしれない。周囲の書物を指で軽くなぞりながら考え込んでいる私に何を思ったのかトリッシュはふふっと笑いを漏らした。
「どうかしましたか?」
「結局は真面目な話になっちゃうのよね。のんびりしたくてお茶をしに来たのに」
その笑顔に、私はまたもや心和ませるのであった。
「それは…仕方ありませんね」
グリーン男爵の屋敷の書斎は、柔らかな光がアンティークの家具をやわらかく照らす、落ち着いた空間で壁一面に並ぶ本棚から漂う古書の香りが心地よく、時間の流れを忘れるほどの魅力を持っていた。
その時扉が控えめに音を立てて開き、グリーン男爵が優しげな微笑をたたえて入ってきた。彼は優雅に扉を閉め、そのまま足を進めながら二人に軽やかに声をかけた。
「やあ、二人とも。話が弾んでいるようだね」
と言い、ジャケットを脱ぎつつ、近くの椅子にかけ、リラックスした様子で腰を下ろしました。
「お邪魔しています」
「おかえりなさいあなた」
「ただいま。2人でお茶会をしていたのかな?もう少し早く帰ってくれば良かったよ」
微笑みを浮かべながら、ティーカップを手に取った。
「残念でしたね。また3人でお茶をしましょうね」
と楽しそうに返すトリッシュ。
「はい。トーマスさん、私は帰りますが…また本を借りていっていいですか?」
少し遠慮がちな姿勢で頼むと、彼は紅茶の香りを吸い込みながら、柔らかな声で応じてくれた。
「うちにあるものなら構わないよ。何を読みたいんだい?」
「まず『マリア・プロフェティッサの錬金術書』という本はありますか?」
「…ヨーロッパの本だったかな?今度取り寄せようか…しかし前にも似たような本を読んでいなかったかな?」
椅子から少し身を乗り出し、思案するように視線を天井に向けた。
「前に借りた本も面白かったけれど、あれは哲学的な考えだったので。私は技術的なことを学びたかったのです。特に、材料の精製や変換について知りたいのです」
「相変わらずあなたは博物学が好きなのね。それにしても、アリスの知識への飽くなき追求にはいつも感心してしまうわ」
トリッシュは軽やかに言いながらトーマスに残った果物を皿に取り分けていた。
「学問はどこで繋がっているかわかりませんから何でも読みます。ただ科学が一番興味があっただけです。あとはシルヴィウスのファーマコポエアと古代の芸術と建築と…」
と、一息入れた後まだその他の本に目を移す。どうしよう、まだ読みたい書物はあるが厚かましいだろうか。
「ははは!そんなに持って帰れるのかい?この世界にアリスよりも物知りな人間はいないと思うほど、君は知識の宝庫だと思うよ。医学書と遺跡についての書物なら確かあったはずだから持っていくといい。ただし気をつけて持って帰るんだよ?」
彼の笑い声は書斎に明るさをもたらした。
「ありがとうございます。大丈夫です、力には自信があるので」
「じゃあ次に会うときは、また新しい発見について話してね。どんなことが見つかるのか私も楽しみだわ」
「はい。ではまた今度、お邪魔しました」
私は書斎から目当ての本を腕に抱え、出口に向かった。その心は本に書かれた未知の世界への期待で膨らんでた。
午後、薄暗い書斎に差し込む夕陽が古びた書物に黄金色の光を投げかけていた。書棚には、錬金術に関する古書だけでなく、医学書、博物学書、航海図など、当時の学問の多岐にわたる分野の本が並んでいる。その中には「賢者の石」や「錬金術の秘儀」といった言葉が書かれた見出し語がちらりと見える。私は今日届いた奇妙な手紙をもう一度読み返す。差出人は不明、あて名は私の名前。そして添えられていたのは不思議な文様が刻まれた銅鏡のかけらと意味深な言葉。
「真実の心を映す鏡…ね」
と声に出しつつ、どうしても見覚えのある文様に引かれる自分がいた。もう二度と戻れない、前の世界に思いを巡らせていると、扉を軽やかにノックする音が思考を遮った。
「入ってもいいかしら」
「はい。お邪魔しています」
書斎に入ってきたのは、グリーン男爵の妻、トリッシュだった。紅茶とアンズの香りが、緊張した空気を少しだけ柔らかくする。彼女は私の労をねぎらうべく、微笑みを浮かべてトレーを差し出した。
「熱心ねぇ。でもあまり無理をしてはだめよ?時々は休まなきゃ、ね?博物学者さん」
と優しく語りかける。なぜバレたのか疑問に思いつつも心配している様子が伝わるが、私は悟られないようにとなんでもない事のようにはぐらかした。
「...はい。善処します。でも今は…研究とは違うことを調べてましたので、十分趣味として休憩していたので休めました」
「私と同じね。仕事が趣味みたいなものだから、つい空いた時間も資料とか探してしまうのよね。旦那様も同じみたいだけど」
とため息混じりにトリッシュが続ける。書斎のテーブルに置かれた食器は2人分。トリッシュもここでお茶をするようだ。なのに先程から手をつけないということは、私にも休むよう促しているのだろう。トリッシュは案外頑固なので私が休むまで折れることはない。早々に降参した私は先程まで読んでいた本…博物学や自然哲学関連のそれを見られないように机の隅にまとめ、大人しく席についた。
「仕方がありませんよね」
「でも、最近は少しずつリラックスする時間も大切なんだって気づいたのよ」
と穏やかに付け加えた。時代を感じさせるが温かみのある家具と古びた書物が整然と並ぶ室内は、どこかしっとりとした落ち着きを感じさせる。温かい紅茶、温かい人…自分には勿体ないくらいの穏やかな時間。書斎の一角には、錬金術の実験器具が置かれており、フラスコやアランビクなどが太陽光を反射してキラキラと輝いている。
「それはそうと、最近下町で流行っていた喘息の状況はどう?」
優雅にカップを持ち、その琥珀色の液体をゆっくりとすすりながら、違う話題にトリッシュに私は頭を切り替えつつ正直に答えた。
「ああ…根本的には解決してないけれど、マスクをつけてから症状が少し治まったみたいです。でも、一時しのぎですよね」
「…工業地帯や鉄道の煙をどうにかしないと根本的には解決しないから…ああでもマスク作りは内職としてよかったのかもしれないわね。この間のバザーでも人気だったわね」
書斎の窓の外には、工場の煙突から立ち上る黒煙が、夕焼けを暗く染めていた。トリッシュは、その光景を憂いながら、アリスに語りかけた。
「あの煙を見るたびに、娘の顔が浮かぶのよ。こんな時代に生まれてこなければ、もっと長生きできたかもしれないのに…」
とは軽くため息をつきながら、静かにテーブルに紅茶のカップを戻した。彼女の視線は、窓の外に広がる緑豊かな庭に一瞬移る。ノブレス・オブリージュ。貴族や上流階級などの財産や権力、地位を持つ者は、それ相応の社会的責任や義務を負うというその考え。
外には工業地帯の煙が空を曇らせていた産業革命期の環境問題がますます深刻化しているこの時代。トリッシュはその影響を重く受け止め、医学研究に没頭している。
テーブルの片隅に、オオバコで作った茶が置いてある。オオバコは風邪や喘息の咳に効くから。それだけではない。書斎には解剖図や薬草標本なども置かれており、実験台の周りには、様々な種類の薬草や鉱物が並べられ、独特の香りが漂っている。
…トリッシュは排気ガスによる喘息で一人娘を亡くしたと言っていた。そしてそれは自分たちだけではなく、市民たちはもっと被害が甚大だと。だからこそ同じ悲劇を繰り返すべきではないと医学についての研究に没頭している。夫であるグリーン男爵もそれを支援している。私を引き取ってくれたのも亡くなった娘に似ていたからだといつか教えてくれた。
助けてくれたならば助ける。等価交換である。だからこそ私はトリッシュの元で助手のように働いているのだが、果たして全ての恩を返せる日が来るのだろうか。錬金術の知識を活かして、新しい薬剤を開発し、多くの人を救いたい。それが、トリッシュへの恩返しになるのかもしれない。周囲の書物を指で軽くなぞりながら考え込んでいる私に何を思ったのかトリッシュはふふっと笑いを漏らした。
「どうかしましたか?」
「結局は真面目な話になっちゃうのよね。のんびりしたくてお茶をしに来たのに」
その笑顔に、私はまたもや心和ませるのであった。
「それは…仕方ありませんね」
グリーン男爵の屋敷の書斎は、柔らかな光がアンティークの家具をやわらかく照らす、落ち着いた空間で壁一面に並ぶ本棚から漂う古書の香りが心地よく、時間の流れを忘れるほどの魅力を持っていた。
その時扉が控えめに音を立てて開き、グリーン男爵が優しげな微笑をたたえて入ってきた。彼は優雅に扉を閉め、そのまま足を進めながら二人に軽やかに声をかけた。
「やあ、二人とも。話が弾んでいるようだね」
と言い、ジャケットを脱ぎつつ、近くの椅子にかけ、リラックスした様子で腰を下ろしました。
「お邪魔しています」
「おかえりなさいあなた」
「ただいま。2人でお茶会をしていたのかな?もう少し早く帰ってくれば良かったよ」
微笑みを浮かべながら、ティーカップを手に取った。
「残念でしたね。また3人でお茶をしましょうね」
と楽しそうに返すトリッシュ。
「はい。トーマスさん、私は帰りますが…また本を借りていっていいですか?」
少し遠慮がちな姿勢で頼むと、彼は紅茶の香りを吸い込みながら、柔らかな声で応じてくれた。
「うちにあるものなら構わないよ。何を読みたいんだい?」
「まず『マリア・プロフェティッサの錬金術書』という本はありますか?」
「…ヨーロッパの本だったかな?今度取り寄せようか…しかし前にも似たような本を読んでいなかったかな?」
椅子から少し身を乗り出し、思案するように視線を天井に向けた。
「前に借りた本も面白かったけれど、あれは哲学的な考えだったので。私は技術的なことを学びたかったのです。特に、材料の精製や変換について知りたいのです」
「相変わらずあなたは博物学が好きなのね。それにしても、アリスの知識への飽くなき追求にはいつも感心してしまうわ」
トリッシュは軽やかに言いながらトーマスに残った果物を皿に取り分けていた。
「学問はどこで繋がっているかわかりませんから何でも読みます。ただ科学が一番興味があっただけです。あとはシルヴィウスのファーマコポエアと古代の芸術と建築と…」
と、一息入れた後まだその他の本に目を移す。どうしよう、まだ読みたい書物はあるが厚かましいだろうか。
「ははは!そんなに持って帰れるのかい?この世界にアリスよりも物知りな人間はいないと思うほど、君は知識の宝庫だと思うよ。医学書と遺跡についての書物なら確かあったはずだから持っていくといい。ただし気をつけて持って帰るんだよ?」
彼の笑い声は書斎に明るさをもたらした。
「ありがとうございます。大丈夫です、力には自信があるので」
「じゃあ次に会うときは、また新しい発見について話してね。どんなことが見つかるのか私も楽しみだわ」
「はい。ではまた今度、お邪魔しました」
私は書斎から目当ての本を腕に抱え、出口に向かった。その心は本に書かれた未知の世界への期待で膨らんでた。
