よう実
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誰もいない廊下の隅に、オレは膝を抱えて座っていた。いつからこうしているのか、正確な時間は分からない。視界の端がぼやけ、脈を打つように全身が熱を帯びていた。下腹部がきゅう、と鳴く。──ヒート。
この異常な発熱、息苦しさ、それに伴う焦燥感と、胸の奥を締め付けるような不快な疼き。初めての経験だ。今までは抑制剤なしでも大丈夫だったのに……やはり、αの強い圧に長く晒され過ぎたか。体が限界を迎えていた。これ以上、人目のあるところで倒れるわけにはいかない。立ち上がろうとしたが、膝に力が入らない。手すりを掴もうとしても指が滑る。くそ……。オレはゆっくり目を閉じ、呼吸を整えようとした。
そのときだった。
「……ん?」
誰かの気配が近づいてくる。思わず顔を上げると、宝石のような青い瞳と目が合った。
「……どうした、大丈夫か?」
その声に、心臓がひどく跳ねる。
そこにいたのは南雲雅だった。二年Aクラスの生徒で、生徒会副会長。指導力があり、人望も厚いと評判の人物だ。見たことも会ったこともなかったが、特徴的な容姿については知っていたため、一目見てすぐに分かった。
まさかこんなところで人に遭遇するとは、つくづく運が悪い。今のオレの状態を見てラット状態になっていない……なら、少なくともΩかβだろう、と考える。
少なくともオレが今まで見てきたリーダー格の生徒たちはαだったのだが……南雲雅は、努力型なのだろうか?
「……大丈夫、です」
かろうじて声を絞り出す。だが自分でも、そのかすれた声が説得力を持たないことは分かっていた。
「そうは言ってもな……随分と体調が悪そうだぞ」
視界の中で、彼がこちらに手を伸ばしかけ──そして止める。その瞬間、彼が何かに気づいたことが分かった。……バレたか。
「……立てるか?保健室に……」
「やめてください」
思わず声が出た。掠れた、頼りない声。それでもここだけは譲れなかった。保健室に行けば記録が残る。オレがΩであるという事実が、表に出るかもしれない。今まではβとして振る舞ってきた。今更、それを台無しにするわけにはいかない。
「……どうしてだ?それはヒートだろ。早く対処しないと……」
「βって申告してる、ので……」
「まさか、抑制剤も飲んでないのか?」
「……今までは平気、だったんですが……」
言い訳のような声が自分の口からこぼれる。申告していないのだから抑制剤も貰えるわけがない。
だが──彼は責めなかった。呆れもせず、苛立ちもせず、ただひとつ息を吐いた。
「……分かった。保健室には連れてかない。ただ……だからといってお前を見過ごす訳にもいかない。いつどこのαに襲われるか分かったもんじゃないからな。場所を移そう。俺以外行けないところがある」
その言葉に、警戒心が胸をかすめる。けれど、体にはもう力が入らなかった。視線を落とし、抵抗の意思を示すことすらできず、ただ委ねるしかなかった。ふわりとブレザーを被せられ、抱き上げられる。身体の距離が密接になり、ふわりと彼の匂いが鼻腔に満ちた。
(……あ)
その瞬間、警戒心を緩めて体を預けてしまった。落ち着く……匂いだ。今まで嗅いだことのない、やさしい、心地よい匂い……もっと嗅いでいたい。彼の匂いに包まれてふわふわしていると、オレはいつのまにか柔らかなソファに身を預けていた。
あたりを見回す。校内の割には、生活感のある場所だった。監視カメラはなく、少し薄暗い。備品倉庫……なのだろうか?
しかし、不思議と安心感があった。空気が違う。匂いも落ち着く。周囲にあったはずのαの強い圧が、ここには存在していなかった。
ブレザーの袖口に鼻先を寄せ、もう一度深く吸い込む。──やっぱり違う。深く吸い込みたくなるような、柔らかい、温かみのある匂い。体の内側がじんわり落ち着いていく。
「……水、持ってきた。飲めるか?」
頭上から彼の声が降ってくる。見上げると、南雲先輩がペットボトルを差し出していた。
「……ありがとうございます」
小さく呟き、手を伸ばす。常温の水が今は冷たく感じる。喉を潤していると、棚を漁るような音がして、彼が戻ってきた。
「ほら、抑制剤だ」
手渡された薬を、しばらく見つめる。この状況を、彼は知ってしまった。それでも、軽蔑も好奇の目も向けてこない。それが、少しだけ嬉しかった。
同じΩなのだろうか……?いや、Aクラスでリーダー、副生徒会長の肩書き。Ωとは考えにくい。なら、もともと彼が偏見を持たないだけか。
「……ありがとうございます」
もう一度呟いて、薬を口に含む。
「ん。ほら、これでも羽織っとけ」
ふわりとブランケットが膝にかけられる。その温もりと、彼の手の動きが、やけに優しかった。……これも、南雲先輩の匂いがする。
「ここに俺以外来ることはないから、抑制剤が効くまで休め。効いたら帰るんだぞ。じゃあ、俺は行く」
その言葉に、無意識に手が伸びていた。
「え……行くん、ですか」
声が震えていた。手が、彼の袖を掴んでいた。南雲先輩が瞳を瞬かせ、困ったような顔をする。
「……あー……気づいてないのか?俺、一応αなんだが」
「……え?でも、匂いも、ラット状態にもなってない……のに」
αのラット状態については、何度も頭に叩き込まれている。Ωのヒートに充てられたαは、ラット状態になる。本能が剥き出しになり、その状態のΩを襲ってしまう……理性もほとんど効かず、力も強くなるため抵抗出来ることはない。
「俺はちょっと特殊……らしいんだよ」
彼はそう言って、軽く肩をすくめた。α……?オーラもなく、オレのヒートにも充てられず、落ち着く匂いの人が……?不思議だった。確かに彼はαだと言った。それなのに──なぜか、怖くない。むしろ、安心する。こんなふうに、αのそばにいても、心が静かでいられるなんて──初めての感覚だった。
「……少しだけ、ここに居てくれませんか」
その言葉は、ほとんど無意識に口をついて出た。声に頼りなさが混じっていることにも気づかず、ただ、そばにいてほしいという本能のままに。
南雲先輩の青い瞳が、驚いたように瞬いた。
数秒間見つめあう。
南雲先輩がこちらをじっと見ていた。青い瞳は淡々としていて、けれどどこか迷いの色を含んでいた。やがて彼は小さく息を吐き、観念したように椅子を引き寄せる。
「……分かったよ」
その声音は諦めというよりも、むしろ覚悟のように聞こえた。
「時間が経てば、薬も効いて落ち着くだろ。……寝てろ。責任持って見張っててやる」
安堵と、少しだけ残念な気持ちが胸の奥に入り混じった。出来れば同じソファーに座ってくれればいいのに、そうすれば距離が近くて、安心できる気がしたのに。
──いや、オレは何を考えているんだ。
特殊だとはいえ、完全にヒートの影響を受けないわけではないのかもしれない。もし近づきすぎれば、彼に余計な負担をかけることになるのか。そう思うと、余計なことは言えなかった。
「それで……えーと。遅くなったが、俺は南雲雅、2年Aクラスだ。お前は?」
そこでようやく気づいた。オレは南雲先輩のことを知っていたのに、自分は名乗ってはいなかった。この人は、ただただ名も知らぬ生徒を助けただけなのだ。
「……1年Dクラスの、綾小路清隆です」
「そうか、綾小路か」
南雲先輩が頷く。その声は不思議と耳に心地よかった。名前を呼ばれるだけで、胸の奥が少し軽くなる。
彼は椅子に腰を下ろし、腕を組んで黙り込んだ。淡い光が窓の外から差し込み、室内の空気を静かに照らしている。ヒートの熱に揺らぐ意識の中で、その背中がやけに頼もしく見えた。
この狭い部屋の中で、ただ一人、オレを守ってくれている。そう思うだけで、息苦しさが少しずつ和らいでいく。薬が効き始めたのか、それとも彼の存在のせいなのか。自分でも判別がつかなかった。
南雲先輩はオレのことを何も聞かない。ただ見張ると告げ、そこに座り続けている。その沈黙が、責めるでも憐れむでもなく、ただ静かに受け入れてくれているようで、妙に落ち着いた。
ヒートのせいで体はまだ火照り、頭の奥では微かな痛みが続いている。それでも、南雲先輩の落ち着いた気配がこの部屋を満たし、外の世界と切り離されたような静けさを作っていた。
こんなふうに、誰かに守られる感覚は初めてだった。
薬が効き、熱が引いたとしても、この静けさの中にもう少しだけいたいと、心のどこかで思ってしまった。
――――――
額に触れた冷たさで目が覚めた。
瞼をゆっくりと持ち上げると、視界いっぱいに南雲先輩の顔が飛び込んできた。至近距離。思わず心臓が跳ね、全身の体温が一気に上昇していく。
「おっと…起きたか。体調はどうだ?」
落ち着いた声色に、僅かに下がった眉尻。安堵が滲むその表情は、まるでオレの不調を自分のことのように心配しているかのようだった。
危うく見惚れそうになるのを堪えて、乾いた喉を無理やり震わせる。
「……さっきよりは、マシです」
掠れながらも、なんとか言葉を紡ぐ。薬が効き始めたのだろう、さっきよりも確かに体の奥の疼きが和らいでいる気がした。
「そうか、良かった」
ふっと笑んだ先輩は、オレの顔から少し離れた。安堵するべきなのに、胸の奥にぽつりと物寂しさが落ちる。無意識に視線で追いかけてしまう自分に気づき、慌てて目を逸らした。
額に残る感触へと手を伸ばす。そこには水を含んだタオル。冷たさがじんわりと皮膚に染み込んで、熱を引いていく。
「…タオルまでありがとうございます」
「ん、気にすんな。随分と汗かいてるようだったから気になってな」
「……南雲先輩」
思わず声をかけると、彼は軽く応じるように首を傾けた。
「ん?」
咄嗟に制服の袖を掴んでいた。
「その、もうちょっと、こっちに……」
言葉を吐き出した自分に驚く。けれど、その想いは抑えられなかった。
南雲先輩は瞳を瞬かせて、わずかに形の良い眉を下げる。
「…あのな…綾小路。俺は別にヒートが完全に効かないって訳じゃないんだぞ?」
たしなめるような声に、罪悪感が胸を刺す。
「……すみません」
掠れる謝罪。すると先輩はしばし沈黙し、困ったように微笑んだ。
「……そんな顔すんなよ」
低く、優しい声。その声色だけで、胸の奥が温まる。袖を掴んだオレの手のすぐ傍に、彼の掌が重ねられた。
ゆっくりと腰を下ろし、距離を詰めてくる。
「ほら、これでいいか」
穏やかな声。隣に腰を下ろした南雲先輩は、手を伸ばせば触れられるほど近かった。体温が伝わってくる距離。思わず息を呑む。
(……やっぱり…いい匂いだ)
嗅覚が、意識よりも先に反応していた。
微かに漂う、落ち着いた香り。石鹸のような清潔さに、ほんのりとした温かみが混じる。夏の夕暮れに吹く風のように爽やかで、それでいて穏やかな甘さを含んでいる。不思議と、胸のざわめきが静まっていく。
もっと深く吸い込みたい衝動に駆られ、無意識に体を寄せた。
鼻先でその空気を確かめると、すぐ隣で先輩の肩が小さく跳ねる。
「ちょ…こら」
「……」
「おいこら綾小路、お前無言で匂い嗅ぐんじゃない。聞いてるか??」
焦った声音。けれど不思議と怒気はなく、どこか困惑した優しさが滲んでいる。そして、引き剥がすこともなく、オレをそのまま受け入れていた。
「…せんぱい…いい匂いですね」
本音が零れた。
その瞬間、隣の気配が止まる。息遣いすらも消えたように感じられるほどの沈黙。
やがて、小さなため息が零れた。
「お前な……危機感とかもう少し持ってくれないか?俺は一応αなんだが」
言葉とは裏腹に、彼の声は呆れと苦笑を混ぜたように柔らかかった。
オレはその匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、答えを返せずに目を伏せる。
──危機感なんて、持てるはずがない。
この匂いに包まれている限り、ただ安心していたくなるのだから。
そしてオレはまたひとつ、抗いがたい衝動に囚われていくのを感じていた。
この異常な発熱、息苦しさ、それに伴う焦燥感と、胸の奥を締め付けるような不快な疼き。初めての経験だ。今までは抑制剤なしでも大丈夫だったのに……やはり、αの強い圧に長く晒され過ぎたか。体が限界を迎えていた。これ以上、人目のあるところで倒れるわけにはいかない。立ち上がろうとしたが、膝に力が入らない。手すりを掴もうとしても指が滑る。くそ……。オレはゆっくり目を閉じ、呼吸を整えようとした。
そのときだった。
「……ん?」
誰かの気配が近づいてくる。思わず顔を上げると、宝石のような青い瞳と目が合った。
「……どうした、大丈夫か?」
その声に、心臓がひどく跳ねる。
そこにいたのは南雲雅だった。二年Aクラスの生徒で、生徒会副会長。指導力があり、人望も厚いと評判の人物だ。見たことも会ったこともなかったが、特徴的な容姿については知っていたため、一目見てすぐに分かった。
まさかこんなところで人に遭遇するとは、つくづく運が悪い。今のオレの状態を見てラット状態になっていない……なら、少なくともΩかβだろう、と考える。
少なくともオレが今まで見てきたリーダー格の生徒たちはαだったのだが……南雲雅は、努力型なのだろうか?
「……大丈夫、です」
かろうじて声を絞り出す。だが自分でも、そのかすれた声が説得力を持たないことは分かっていた。
「そうは言ってもな……随分と体調が悪そうだぞ」
視界の中で、彼がこちらに手を伸ばしかけ──そして止める。その瞬間、彼が何かに気づいたことが分かった。……バレたか。
「……立てるか?保健室に……」
「やめてください」
思わず声が出た。掠れた、頼りない声。それでもここだけは譲れなかった。保健室に行けば記録が残る。オレがΩであるという事実が、表に出るかもしれない。今まではβとして振る舞ってきた。今更、それを台無しにするわけにはいかない。
「……どうしてだ?それはヒートだろ。早く対処しないと……」
「βって申告してる、ので……」
「まさか、抑制剤も飲んでないのか?」
「……今までは平気、だったんですが……」
言い訳のような声が自分の口からこぼれる。申告していないのだから抑制剤も貰えるわけがない。
だが──彼は責めなかった。呆れもせず、苛立ちもせず、ただひとつ息を吐いた。
「……分かった。保健室には連れてかない。ただ……だからといってお前を見過ごす訳にもいかない。いつどこのαに襲われるか分かったもんじゃないからな。場所を移そう。俺以外行けないところがある」
その言葉に、警戒心が胸をかすめる。けれど、体にはもう力が入らなかった。視線を落とし、抵抗の意思を示すことすらできず、ただ委ねるしかなかった。ふわりとブレザーを被せられ、抱き上げられる。身体の距離が密接になり、ふわりと彼の匂いが鼻腔に満ちた。
(……あ)
その瞬間、警戒心を緩めて体を預けてしまった。落ち着く……匂いだ。今まで嗅いだことのない、やさしい、心地よい匂い……もっと嗅いでいたい。彼の匂いに包まれてふわふわしていると、オレはいつのまにか柔らかなソファに身を預けていた。
あたりを見回す。校内の割には、生活感のある場所だった。監視カメラはなく、少し薄暗い。備品倉庫……なのだろうか?
しかし、不思議と安心感があった。空気が違う。匂いも落ち着く。周囲にあったはずのαの強い圧が、ここには存在していなかった。
ブレザーの袖口に鼻先を寄せ、もう一度深く吸い込む。──やっぱり違う。深く吸い込みたくなるような、柔らかい、温かみのある匂い。体の内側がじんわり落ち着いていく。
「……水、持ってきた。飲めるか?」
頭上から彼の声が降ってくる。見上げると、南雲先輩がペットボトルを差し出していた。
「……ありがとうございます」
小さく呟き、手を伸ばす。常温の水が今は冷たく感じる。喉を潤していると、棚を漁るような音がして、彼が戻ってきた。
「ほら、抑制剤だ」
手渡された薬を、しばらく見つめる。この状況を、彼は知ってしまった。それでも、軽蔑も好奇の目も向けてこない。それが、少しだけ嬉しかった。
同じΩなのだろうか……?いや、Aクラスでリーダー、副生徒会長の肩書き。Ωとは考えにくい。なら、もともと彼が偏見を持たないだけか。
「……ありがとうございます」
もう一度呟いて、薬を口に含む。
「ん。ほら、これでも羽織っとけ」
ふわりとブランケットが膝にかけられる。その温もりと、彼の手の動きが、やけに優しかった。……これも、南雲先輩の匂いがする。
「ここに俺以外来ることはないから、抑制剤が効くまで休め。効いたら帰るんだぞ。じゃあ、俺は行く」
その言葉に、無意識に手が伸びていた。
「え……行くん、ですか」
声が震えていた。手が、彼の袖を掴んでいた。南雲先輩が瞳を瞬かせ、困ったような顔をする。
「……あー……気づいてないのか?俺、一応αなんだが」
「……え?でも、匂いも、ラット状態にもなってない……のに」
αのラット状態については、何度も頭に叩き込まれている。Ωのヒートに充てられたαは、ラット状態になる。本能が剥き出しになり、その状態のΩを襲ってしまう……理性もほとんど効かず、力も強くなるため抵抗出来ることはない。
「俺はちょっと特殊……らしいんだよ」
彼はそう言って、軽く肩をすくめた。α……?オーラもなく、オレのヒートにも充てられず、落ち着く匂いの人が……?不思議だった。確かに彼はαだと言った。それなのに──なぜか、怖くない。むしろ、安心する。こんなふうに、αのそばにいても、心が静かでいられるなんて──初めての感覚だった。
「……少しだけ、ここに居てくれませんか」
その言葉は、ほとんど無意識に口をついて出た。声に頼りなさが混じっていることにも気づかず、ただ、そばにいてほしいという本能のままに。
南雲先輩の青い瞳が、驚いたように瞬いた。
数秒間見つめあう。
南雲先輩がこちらをじっと見ていた。青い瞳は淡々としていて、けれどどこか迷いの色を含んでいた。やがて彼は小さく息を吐き、観念したように椅子を引き寄せる。
「……分かったよ」
その声音は諦めというよりも、むしろ覚悟のように聞こえた。
「時間が経てば、薬も効いて落ち着くだろ。……寝てろ。責任持って見張っててやる」
安堵と、少しだけ残念な気持ちが胸の奥に入り混じった。出来れば同じソファーに座ってくれればいいのに、そうすれば距離が近くて、安心できる気がしたのに。
──いや、オレは何を考えているんだ。
特殊だとはいえ、完全にヒートの影響を受けないわけではないのかもしれない。もし近づきすぎれば、彼に余計な負担をかけることになるのか。そう思うと、余計なことは言えなかった。
「それで……えーと。遅くなったが、俺は南雲雅、2年Aクラスだ。お前は?」
そこでようやく気づいた。オレは南雲先輩のことを知っていたのに、自分は名乗ってはいなかった。この人は、ただただ名も知らぬ生徒を助けただけなのだ。
「……1年Dクラスの、綾小路清隆です」
「そうか、綾小路か」
南雲先輩が頷く。その声は不思議と耳に心地よかった。名前を呼ばれるだけで、胸の奥が少し軽くなる。
彼は椅子に腰を下ろし、腕を組んで黙り込んだ。淡い光が窓の外から差し込み、室内の空気を静かに照らしている。ヒートの熱に揺らぐ意識の中で、その背中がやけに頼もしく見えた。
この狭い部屋の中で、ただ一人、オレを守ってくれている。そう思うだけで、息苦しさが少しずつ和らいでいく。薬が効き始めたのか、それとも彼の存在のせいなのか。自分でも判別がつかなかった。
南雲先輩はオレのことを何も聞かない。ただ見張ると告げ、そこに座り続けている。その沈黙が、責めるでも憐れむでもなく、ただ静かに受け入れてくれているようで、妙に落ち着いた。
ヒートのせいで体はまだ火照り、頭の奥では微かな痛みが続いている。それでも、南雲先輩の落ち着いた気配がこの部屋を満たし、外の世界と切り離されたような静けさを作っていた。
こんなふうに、誰かに守られる感覚は初めてだった。
薬が効き、熱が引いたとしても、この静けさの中にもう少しだけいたいと、心のどこかで思ってしまった。
――――――
額に触れた冷たさで目が覚めた。
瞼をゆっくりと持ち上げると、視界いっぱいに南雲先輩の顔が飛び込んできた。至近距離。思わず心臓が跳ね、全身の体温が一気に上昇していく。
「おっと…起きたか。体調はどうだ?」
落ち着いた声色に、僅かに下がった眉尻。安堵が滲むその表情は、まるでオレの不調を自分のことのように心配しているかのようだった。
危うく見惚れそうになるのを堪えて、乾いた喉を無理やり震わせる。
「……さっきよりは、マシです」
掠れながらも、なんとか言葉を紡ぐ。薬が効き始めたのだろう、さっきよりも確かに体の奥の疼きが和らいでいる気がした。
「そうか、良かった」
ふっと笑んだ先輩は、オレの顔から少し離れた。安堵するべきなのに、胸の奥にぽつりと物寂しさが落ちる。無意識に視線で追いかけてしまう自分に気づき、慌てて目を逸らした。
額に残る感触へと手を伸ばす。そこには水を含んだタオル。冷たさがじんわりと皮膚に染み込んで、熱を引いていく。
「…タオルまでありがとうございます」
「ん、気にすんな。随分と汗かいてるようだったから気になってな」
「……南雲先輩」
思わず声をかけると、彼は軽く応じるように首を傾けた。
「ん?」
咄嗟に制服の袖を掴んでいた。
「その、もうちょっと、こっちに……」
言葉を吐き出した自分に驚く。けれど、その想いは抑えられなかった。
南雲先輩は瞳を瞬かせて、わずかに形の良い眉を下げる。
「…あのな…綾小路。俺は別にヒートが完全に効かないって訳じゃないんだぞ?」
たしなめるような声に、罪悪感が胸を刺す。
「……すみません」
掠れる謝罪。すると先輩はしばし沈黙し、困ったように微笑んだ。
「……そんな顔すんなよ」
低く、優しい声。その声色だけで、胸の奥が温まる。袖を掴んだオレの手のすぐ傍に、彼の掌が重ねられた。
ゆっくりと腰を下ろし、距離を詰めてくる。
「ほら、これでいいか」
穏やかな声。隣に腰を下ろした南雲先輩は、手を伸ばせば触れられるほど近かった。体温が伝わってくる距離。思わず息を呑む。
(……やっぱり…いい匂いだ)
嗅覚が、意識よりも先に反応していた。
微かに漂う、落ち着いた香り。石鹸のような清潔さに、ほんのりとした温かみが混じる。夏の夕暮れに吹く風のように爽やかで、それでいて穏やかな甘さを含んでいる。不思議と、胸のざわめきが静まっていく。
もっと深く吸い込みたい衝動に駆られ、無意識に体を寄せた。
鼻先でその空気を確かめると、すぐ隣で先輩の肩が小さく跳ねる。
「ちょ…こら」
「……」
「おいこら綾小路、お前無言で匂い嗅ぐんじゃない。聞いてるか??」
焦った声音。けれど不思議と怒気はなく、どこか困惑した優しさが滲んでいる。そして、引き剥がすこともなく、オレをそのまま受け入れていた。
「…せんぱい…いい匂いですね」
本音が零れた。
その瞬間、隣の気配が止まる。息遣いすらも消えたように感じられるほどの沈黙。
やがて、小さなため息が零れた。
「お前な……危機感とかもう少し持ってくれないか?俺は一応αなんだが」
言葉とは裏腹に、彼の声は呆れと苦笑を混ぜたように柔らかかった。
オレはその匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、答えを返せずに目を伏せる。
──危機感なんて、持てるはずがない。
この匂いに包まれている限り、ただ安心していたくなるのだから。
そしてオレはまたひとつ、抗いがたい衝動に囚われていくのを感じていた。