「…
華音姉ちゃん…!」
「光くんっ」
「やっぱり…来ちゃうよね」
「ごめんなさい、お姉ちゃんが来てるって電話があったから思わず…っ」
事務所からショッピングモールまでの道のりを必死に走り、辿り着いた先で未来の光と落ち合う。
これから起こり得る自分の状況を知っている光を前にした安堵もあるのか、一瞬足の力がカクンと抜けた。
身体のバランスを崩しかけた
華音を、光の腕が頼もしく支えてくれる。
「お姉さんは…たぶん大丈夫だと思う。ちょっと休憩しながらこれ見てみて」
地下にも二階にも繋がるエスカレーター脇に設えられたベンチに誘われ、光が
華音へと見せてきたものは、連絡用にと光に貸してある事務所の携帯電話の画面だった。
「…過去では事前にニュースになってた爆破予告が…ないんだ」
今日という日が平日であれども、ショッピングモールという環境もあってそこそこの人気はある。
それを考慮してだろう、
華音にだけに聞こえるように小声で話す光の言葉に耳を傾けながら
華音も画面を確認してみたが、それらしい情報は全く見当たらない。
「…未来が…変わってる…?」
「…かもしれない…。でもなんかあっさり行き過ぎてて…しっくりこないの僕だけかな…」
――
華音姉ちゃんの一大事は免れそうなのに…と、ふぅ…と短い吐息を吐き出す横顔に視線を向ける…つもりだった。
「…光…くん…」
記憶を懸命に辿らせるも、やはり“話になかった事”が起こり始めている…。
華音がそうと確信出来たのは、
華音の視界に美朱とこちらのまだ幼い光の姿が映り込んだからだ。
「
華音姉ちゃん…?――えっ、あっ?母さん…と、僕…っ?」
二人は上の階から来た様子で、下りのエスカレーター口から
華音たちの方に向かって歩いてくる。
「…
華音…!」
「美朱っ?お前、何でここに…」
華音と未来の光を中心にして、店内側からは美朱と光が…店外側からは芳幸、魏、翼の三人が顔を揃えようとしていた。
「あれっ、魏?井宿に翼宿…それに
華音ちゃんと……え、忠栄…くん?」
「パパっ、
のんちゃんっ」
立ち位置的に、魏よりも光に近い方は
華音だった。
まずはこちらへ笑顔を向けて駆け寄ってこようとする光を受け入れるため、ベンチから腰を上げる。
視点が少し上方へとずれた事で、新たな光景が視界にちらつき、
華音の顔から血の気が引いた。
「…光くんっ、私じゃなくてお父さんの方へ走り抜けて…!!」
――爆破予告をした犯人は刃物も隠し持っていたと、後日情報が加わったのだ。細かい事かもしれないが、知っている情報として伝えておくから、
出来るだけ覚えておくのだ、
華音――
未来で聞いた芳幸の言葉が頭に浮かぶ。
「――っ痛っ?ちょっと、ぶつかったら謝りなさ――」
ここでの標的は“地下層に絞った無差別”ではなく、“単なる無差別”。
美朱の後方から勢いよくグレーのパーカーを着込んだ男が
華音たちの間に割り込んできて、
華音は咄嗟に光の背後へ回った。
「……お前…俺の動きを見抜いたのか…?」
驚愕し、たじろぐように吐かれた言葉には、
華音は何も答える事が叶わなかった。
「くそっ…」
脇腹辺りに食い込んだ刃先が抜かれる感覚は、激しい痛みが加わる事で妙な鮮明さで身体に纏わりつく。
「
華音…!!」
「……僕…が…井宿兄ちゃんから…
華音姉ちゃんを…奪った…」
「光、しっかりしろ!
華音を一緒に護りたいならば、余分な事は考えずに動け!」
「――ッ!」
未来の光と本来の光。
二つの存在は、怒鳴り声に近い叱咤に同時に肩を震わせた。
だが、その内の一つはすぐに我に返り、手中にある携帯を操作し始める。
「…きゅ、救急と警察…っ」
「警察の方には俺が連絡するさかい、お前は救急に連絡せえ。出来るか?」
「…出来るっ、やるっ!」
「よっしゃ。魏、お前と俺で行けるか?」
「…光、ごめんな。パパはちょっと一緒にいてやれないけど、ママがいるから大丈夫だよな?」
「……うんっ。わるいやつおいかけるんでしょっ…きをつけてねっ」
「あぁ」
もう一つの存在も、涙を瞳に溜めながらも、強い眼差しで頷いてみせた。
それぞれが出来る事に奔走し始める中で、芳幸は早くも焦りを感じていた。
「…出血が多くて…止血が…っ」
「………き……さ……」
「喋るな、
華音。傷口が広がる」
声を上げようとした
華音を制する芳幸の頬に、震える手が添えられる。
「…わた…し……まだ…死にたく…ない……。芳…幸…さん…と…一緒…に……ま…だ生きた…い」
「必ず助ける!助けるから、持ち堪えろっ…」
――ズル…。
芳幸の声掛けも空しく、
華音の手が力なく床に落ちる。
「…
華音…っ?」
閉ざされた瞼の目尻から、つ…と一筋の涙が零れ落ちていった。
「…井宿兄ちゃんっ、すぐ向かってくれる、って……井宿…兄ちゃん…?」
「………必要…ないのだ…。軫宿なら…まだしも……医者でもない俺に……息を吹き返させる事など…出来ない……」
「……ままー…
のんちゃん…おしゃべりしてくれなくなっちゃった…」
「…撮影でもなんでもない…見世物じゃないんだから…!手を貸す気がないなら、どっか行って…っ!!」
「まま…?」
ざわざわ…。
何事かと人だかりが出来始めていた周囲に堪らず叫ぶ美朱。
つい今しがたまで温もりを感じていた頬に涙を伝わらせる芳幸。
状況を理解しきれていないながらも、空気を察し、泣きじゃくり始める幼い光。
緊急の電話を終えて、目の前に広がる光景に動揺を隠しきれない、未来の存在の光。
「…嘘…だ…。こんな呆気なく終わりを迎えるなんて……っ。こんなこと…っっ」
――光…。
誰かが自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がして、未来の光は耳を澄ませた。
――光。
今度は確かにはっきりと聞こえたその声。
声の源が何処なのかを探り、探し当てたのは、未来の光と同じ世界にあるはずのもの。
預かっている指輪を掌に乗せて、問い掛ける。
「…井宿兄ちゃん…?」
――預けた指輪を
華音に嵌めるのだ、光。
「……でも…
華音姉ちゃん…は…」
――時が経てば経つほど、事を起こすにも難しくなる。急いで欲しい、光。
「何…する気なの?」
――俺と…君にしか出来ない事だ。
声音的にも焦りか…急いているのが分かる。
戸惑う気持ちを残しながらも、光は声のままに動いた。
床に横たわる
華音の身体を挟んで、芳幸が居る方とは反対側に身を置き、跪く。
持っている指輪を嵌める為に
華音の手に触れた光の手がびくりと震えた。
ぐっと溢れ出しそうになる感情を唇を噛み締める事で抑え、手の震えは止まらないままに何とか指輪をつける。
「一緒のところでいいんだよね…?嵌めた、よ」
――あぁ、ありがとう。その指輪に口づけて欲しいのだが、出来るのだ?
「く、口づけ…っ?!ってキス、だよねっ?ぼ、僕じゃないとだめ?こっちの井宿兄ちゃんに頼んでも――」
――時間軸が違う物に他の人間をあまり干渉させるのも良くない。君に頼みたい。
「ご、ごめんっ…井宿兄ちゃんっ!指輪以外の部分はなるべく触れないようにするから見逃して…っ」
何処か恥ずかしい思いもあって、緊急事態でもあるわけだしなるようになれ、と、勢いをつけ、そそくさと行動に移す。
光の唇と、本来であれば揃う事ない全く同じ二つの指輪とが触れた瞬間―――…。
華音の身体を朱色の光が包み込んだ。
「……朱雀の…光…っ?」
「これは…オイラの気…」
光かと思われたものは、次第に煙の筋のように揺らめき立ち始める。
美朱と芳幸から紡がれた言葉を耳にした光は、ようやく未来のその人が何をしようとしているのか理解に至った。
「朱雀の力…“気”って……駄目、だよっ!そんなことしたら井宿兄ちゃんが…っ!!最初からそのつもりだったの!?僕に指輪預けて…っ、万が一があった時は…こうするつもりで…っ!!嫌だっ、
のんちゃんがいなくなって…井宿兄ちゃんまでいなくなるのは嫌だっ…!!」
縋るように、
華音の手ごと指輪が嵌まる部分を握る。
「僕…強くなるから…っ!
のんちゃんのこと井宿兄ちゃんと笑って話せるように…っ、強くなるから!だから、やめてよ!!」
必死で指輪を握り込む光の頭に…。
ふわりと優しい温もりが添えられたように感じて顔を上げた。
『すまないのだ、光。君の健やかな成長を、
華音の元で
華音と一緒に祈っている。さよなら、光』
「…井宿…兄ちゃん…っ」
微笑む姿に手を伸ばした先で、ぱっとその存在が消えた。
同時に、
華音を包み込んでいた朱い光も消失する。
「……ッ
華音…姉ちゃん…っ?」
――今、確かに、光が握る手が僅かに握り返すように反応を見せた。
冷たく感じた体温は、瞬く間に温もりを取り戻していく。
微動だにしなくなっていた表情が、苦痛に歪む。
「…頑張って…
のんちゃん…。未来の井宿兄ちゃんがくれた気で…病院まで行こう」
光の言葉に、光の中に在る手が力強く光の手を握り込んだ。
**§**
「……大丈夫…?」
病院の廊下で、集中治療室のガラス越しに
華音を見つめる光に、美朱が声を掛けてきた。
「…はい…。大丈夫、です…。ありがとう…ございます」
「…一緒に…座っていいんだよ?」
ここに、と、幼い光が座る美朱の傍らの反対側を指差す美朱には、首を横に振って答える。
「いえ…。……井宿兄ちゃん…少しだけ…時間くれる?」
華音に再び生命が宿り直してからあの後すぐに救急隊が到着し、
華音は病院に運ばれて処置を受け、一命を取り戻した。
その結果が“終わり”だという事が分かっていても、光はすぐに元の世界へと戻ろうとしなかった。
…戻りたくなかった。
現実を目の当たりにしてしまうようで、戻る事が怖かった。
でも…。
いつまでもそうしているわけにもいかない。
意を決して自分から芳幸へ声を掛け、病院の屋上に誘う。
「…
華音姉ちゃんの傍に居たいのに…僕に付き合ってもらってごめん」
鉄製の重い扉を開ける光の後ろで、芳幸が無言で首を横に振った。
「…僕、さ、父さん母さんと喧嘩した時、井宿兄ちゃんとこ駆け込んでよく甘えてた」
外の風を身体に受けながら、屋上の突き当りまでゆっくり進む。
「父さんと母さんは僕の親だから、二人の前だとなんか素直になれない時があったけど、井宿兄ちゃんにだけは何でも話せた。たぶん…僕には、
華音姉ちゃんの法事の日の事があったから、余計に井宿兄ちゃんのこと、頼ってたんだと思う」
屋上の手すりに身体を少し預けながら、空を仰ぎ、陽に向かって指輪を掲げる。
指輪に埋め込んである装飾品が、キラッと輝きを放ってとても綺麗だった。
「……向こうに戻る前に…最後にもう一度だけ頭撫でてくれる?井宿兄ちゃん」
どちらの方の芳幸を求めているか、光自身にも分からない。
ただもう一度だけ…その優しい温もりをその人から感じたかった。
「…光…。君、
華音を救ったのは“オイラ”だと思っている、のだ?」
「だってそうじゃん。結局、井宿兄ちゃんが自分で
のんちゃんのこと、助けちゃった。僕はただ見てるだけで何も出来なかった。見てたでしょ?指輪で会話してるのも、
華音姉ちゃんの命が戻った瞬間も。全部井宿兄ちゃんが用意してた事じゃんか…っ」
「違う」
まるで親がそうするかのように。
光の頭ごと抱え込んで、芳幸は光を抱きしめてきた。
「…頭撫でて…って言っただけだよ、僕…」
「でも求めているだろう?温もりと…“答え”を」
ぎく…と、身体が強張った。
「…井宿兄ちゃんは井宿兄ちゃんだけど…同じじゃないじゃん」
「そう。同じじゃないけど、でも分かる。“オイラの考えること”なのだから、全くの見当違いにもならないだろう」
どうして、この人の前ではこんなにも反発心を覚えるのだろう。
こっちの過去の世界に来た直後も、責めるように言葉を吐き出してしまった。
今この時も…素直に受け入れたいのに、素直になり切れない光が居る。
「オイラが逆の立場だったとして…未来の人間だったとしても、丸っきり同じことをした。光に頼みながらも、仲間や過去の者たちに他に方法はなかったのかと責められようとも、俺は“自分を救うために”そうした」
「…え…?」
「光に言われた通り、俺はずるい。…
華音を失う現実を突き付けられた瞬間、俺はもうすでに“同じ過ちは繰り返したくない。この世界では救えなくても、
やがて現れるだろう過去の
華音に“自らを護れ”と、何が何でも伝えよう“と考えた。経過は違えども、最終的に同じ運命を辿るならば、過去に干渉してでも自分が助ける事は厭わない、と。だから驚いた。
あくまで自分がそれを成し遂げる側に立つだけであって、まさか未来の自分に先を越されるとは思わなかったから」
本当に少し可笑しく思えたのだろう。
芳幸が小さく笑う様子が光の身体を伝わってくる。
「光が未来の俺を失うまいと心から叫んでくれた時、“今のこの自分には、
華音を取り戻してもらえる代わりに、残される光と向き合う時間を託されたのだ”とも思った。だから、というわけでもないのだが…。
君と時間を共にしてきた未来の俺は結局、“自身で用意した材料”にしか過ぎなかった。
華音の事を愛して止まず、
華音の元に消え去る存在が俺であって、
華音との未来を与えて過去の俺を救い、
そんな俺にとって
華音のことも救ってくれたのは、間違いなく“未来からきてくれた宿南光”、君なのだ。ありがとう」
――君に頼んで良かった。光の傷は、光がこれから
華音を助ける事で癒えるはず…――
――…井宿…兄ちゃんは…?井宿兄ちゃんの傷は?――
――…オイラは…――
「……僕で…良かった…?」
「あぁ、光だから託せた。
華音の事をずっと慕ってきてくれた光だから…自分が消えた後でも、安心して託せたのだ」
「……井宿兄ちゃん…っ。でも…やっぱり悲しい、よ…!戻ったら…僕は井宿兄ちゃんともうこうやって話せない…話を聞いてもらうことも出来ないんだから…っ」
「すまない、光」
「同じこと…っ、言うなよぉ…!…どうせ…笑ってるんだろっ?見えなくても分かるんだから!」
「…すまない」
謝罪を繰り返すその人の温もりに包まれて、帰る決心がつくまでの間、涙を流した。
そうしながら、腑に落ちた思いが一つ。
この人にあった反発心や抵抗心は、光自身が“全く同じなわけない”と、少なからず否定する部分があったから芽生えていたものだったのだと。
同じじゃないから、思っている事考えている事もきっと違うものなんだと、すんなり認められなくて否定していた、きっと。
だが、自分に寄り添ってくれる存在は、流れる時間が違えども一緒なのだと感じて、泣きながら笑んだ。
――ひどく静かな空間だった。
事務所に降り立った、キュッ…という靴の音が妙に耳につく。
事務所のメンバーは、一つの場所を中心に寄り集まっていた。
それが意味するものを自分の目で確かめる事はまだやっぱり怖かったけど、勇気を持って一歩一歩、その場に向かった。
「…井宿兄ちゃん…。戻った、よ…」
寿一の腕の中に居るその人に向かって言葉を落とす。
「…やっぱりおかえりって…言ってくれないんだね…。満足そうな顔しちゃって…さ…。いつでもずるいよ…井宿兄ちゃん…」
見下ろした顔は微笑んだままただ眠っているような表情で、答えが返ってこない事が不思議なくらいだった。
恐る恐る、
華音と同じ場所に指輪が嵌まっている手を取ると、一度肌で感じ取った事がある冷たさだった。
「……過去の井宿兄ちゃんが…フォローしてくれなかったら……僕…捻くれてたところだったんだから…。過去の自分に感謝しなよ、ね……」
「…ははっ…なんだよ……頼んできたくせに、親として俺の出る幕ねぇじゃん…」
「それなら仕方ないわね…なんて……大目に見てもらえるとでも思ってんの…?ばっかじゃないの…!!」
父も花娟も、頬に涙を伝わせながらそんな憎まれ口を零す。
光も…過去の世界の芳幸の前でも泣いてきたというのに、まだ零れる涙は残っていたらしい。
「……さよ…なら……井宿兄ちゃん…」
――さよなら、光。
――光、元気で…。
華音を護りに来てくれてありがとう。さよなら…。
涙と笑い顔でする別れがすっかり身についてしまった…と、光はふと思った。
**§**
穏やかな風が病室の窓から入り込む、昼下がり。
集中治療室から個室へと部屋を移ってしばらくしても、
華音が目を覚ます気配はなかった。
「…井宿兄ちゃっ、うさぎ、つくって…っ」
「こら、光。井宿にはもう何回も作ってもらってるだろ?たまにはママに頼んだらどうだ?」
「えー…ママのうさぎじゃない…ただのリンゴだもん…。ぼく、うさぎのリンゴがいい…」
「そうよねぇー?井宿の方が手先器用だしー?魏、余計な事言わないで」
「…何で俺、怒られてんだ?」
「いくつ欲しいのだ?」
「5羽!」
「…えらいのだね、光。オイラがこの前数えていた数え方をちゃんと覚えていたのだ?」
「うん!」
少々の騒がしさと。
和やかな会話。
華音にもこれらは届いているのだろうか…?
一つの林檎を剥く音が止んだ後に響くのは、嬉しそうに兎の形に模した林檎を頬張る音。
そして満足そうな笑顔で、たたっと、窓の方からベッドの傍らへ回り込み、光が彼女に声を掛ける。
「…
のんちゃん、うさぎのりんご、おいしいよ?はやくいっしょにたべようよ」
「光、
華音ちゃんはまだ駄目だよ。もう少し待ってあげようね?」
「……でもママ…
のんちゃんのおくち、いまうごいたよ。ずっとねむってておなかすいてるかも…」
「えっ?!」
「ママもみて、井宿兄ちゃをよんでるみたい…」
「…
華音?」
林檎を切り終えた後の後片付けをしていた手を止めて、芳幸は
華音へと視線を移した。
「……よ……き…さ…」
酸素マスクの下からくぐもった声が紡がれる。
程なくして、閉ざされていた瞼がゆっくりと上げられた。
「……夢…を……見て…ました…」
焦点の合わないような瞳で見つめていた天井から、
華音を覗き込んだ芳幸へと視線が移る。
「…笹船に…乗って……長く…河を渡って……。彼岸花が…咲き乱れる……ところに…着いたら……歳を重ねた…“私”が……困った顔で…迎えてくれて……。しばらく…そのまま……二人で…歩いていました……。
それが…どのくらいか…分からなかった…けど……。…私たちの…ところに……未来で会った…芳幸さんが…来て…。……私だけに…帰れって……背中を押されて……。また…笹船に…乗りました…。…今度は…暗闇の中を…渡って……。
でも…怖くはなかったんです……。朱い光が……笹船を包んでいて……進む方向は…もう…決まっているように……笹船が…進んでくれる…ままに…身を委ねて……。
最後に…白い光が…見えてきたら……芳幸…さんが…おかえり…って…手を引いて…笹船から……降ろして…くれました…」
「……俺、担当医呼んでくるな」
「光、途中までパパと一緒に行って、ママと光は休憩室に寄ってちょっとジュース飲んでこよっか」
「…うん…」
部屋を出て行こうとする魏に続いて、何処か名残惜しそうな表情をしながらも、光も美朱に連れられて、3人で廊下の方へと歩いていく。
「光」
「…なぁに?」
「ありがとうなのだ」
「……?」
「…行こう、光」
「え…まってよー、ママー…?」
廊下の向こう側へ消えていく後姿を視線で見送った芳幸は、再び
華音と向き直る。
「……一緒に…居てくれた…光くん…は?」
「帰ったのだ…自分の世界に」
「…そう…ですか……」
華音の顔が窓の方に向けられる。
「…私…も…。芳幸さんの…ところに…帰って…こられた…んですね……。…どのくらい…待ちました…か…?」
「…今日で…11日目、なのだ」
「……長かった…ですよね…?」
「…あぁ」
顔をこちらに戻してから、
華音は小さく微笑んで言った。
「…ただい…ま」
「おかえり、
華音」
華音の左手と芳幸の左手が、互いの意思で繋がり、握り合わせられた。
**§**
「…う、わー…何これ…。律儀というか…用意周到だなぁ…井宿兄ちゃん…。…あれ?でも僕宛がないっ!嘘だっ、ひどいっっ」
がーん、と、影を背負って項垂れる光の傍らから、花娟の手が伸びる。
「…えっとー…?“マンションを引き払う準備は整っているので、鍵の返却だけお願いします”…って…。あたしたちにもこれだけよ…。あってもなくても同じじゃない…」
手にする白い封筒に“仲間たちへ”と書かれた筆跡を見やりながら、花娟は不機嫌そうな声を漏らした。
「でもこれ…時期をきっかり計算して色々用意してたってこと?」
「…あー…過去の井宿兄ちゃん曰く、
華音姉ちゃんが未来に来る事実はあるはずだから、その時に伝えることは伝えて、どんな経過を辿っても
華音姉ちゃんの運命が変わらない時は、
自分が助ける事は厭わないって…
華音姉ちゃんを失う瞬間には考えてたみたいだからね…」
光からの言葉を聞いた花娟がいよいよ堪え切れない怒りをぶつけるように、“簡易的な遺書”なるものを中紙と封筒とを重ねた状態で破り裂こうと手を掛ける。
「待て待てっ、柳宿っ。気持ちは分かるけど、一応故人の意思だから、な?」
「…ねぇ、父さん…ところでこっちはどうするの?」
居なくなった彼の持ち物やらの整理を手伝う為に事務所を訪れている光が、芳幸のデスクの引き出しを確認していたところ、二つの封筒が出てきて、デスク上にまだ残っている一つを指差し、花娟の行動を何とか留めようと奮闘している父親を振り返る。
「…
華音の家と関わり合いを持ってたのは、主に井宿だったからな…。うーん…愛羅さんに連絡取る――あ…」
父が言葉を切り、視線が事務所の出入口へと注がれた。
「…密葬を終えたばかりのタイミングで失礼する」
一人の男性だった。
光の中の記憶に在る面影とその男性がぴたりと重なった。
「…あのっ…!」
皆が現れた男性に驚きの眼差しを注ぐ中、光は誰よりも先に彼の元へ駆け寄った。
「僕…宿南光って言います…!これ…井――芳幸兄ちゃんからなんですけど…」
「…光?あぁ、あの時小さかった子どもがもうこんなに大きくなるほど、時が経つのか…。私もどうりで歳を取ったはずだ。…
華音の葬儀以来だね」
「は、はいっ。覚えていてもらえて嬉しいですっ」
「…忘れるわけない…」
何か意味深に笑んだ彼――
華音の父親は、光から受け取ったばかりの封筒に視線を注ぐ。
「…あれだけ頑なだったのに…こういう時はあっさりと呼んでくれるのか…」
“お義父さんへ”と宛書された達筆な文字に目元を柔らかく細め、
華音の父親の手が封を開けた。
――お義父さんへ
私の望み通り身内のみの密葬だったと思いますが、あなたをお呼びせずに申し訳ありません。あなたにはどうしても私の姿を見せたくなかったのです…。
私の我がままだとでも思っていて下されば幸いです。
私は、
華音の元へ行きます。
たとえ誰に許されなくとも、私が
華音の元にどうしても行きたかったのです。あなたが…いえ、あなた方家族が一心に愛情を注ぎ、大事に育てて下さった娘さんは、人一倍寂しがり屋で…でもそれを自らは口にしない…。
そんな彼女だから、私が一番の理解者であって寄り添いたい。互いに最後を迎えたその後も…。
今までありがとうございました。謝謝。沢井芳幸〔李芳准〕――
「…娘の
華音以上に…手のかかる“息子”だ。君が素性をさり気なく教える、という事は、この場所がどういった場であるのかという事さえも少しでも教える事になるじゃないか…。不器用でずるいな、芳幸くんは」
「…僕も思わずそう言っちゃったら、“すまない”って言われました」
手紙から顔を上げた
華音の父親と光。
二人は互いに顔を見合わせて笑った。
芳幸からの遺書を大事そうに背広の内へと仕舞い込んだ後、
華音の父親は光を見つめて口を開く。
「
華音は…身体が弱い部分と常に向き合っていた。だから…芳幸くんとの子どもは望まない、芳幸くんもそれを承知してくれているから、私たちに孫の顔を見せるとかそういう親孝行は自分には出来ない、と、話してくれた事があった。
だが、親になる事は出来なくても、自分を慕ってくれる小さな命に、娘なりの愛情で精一杯応えていこうとしていた…その存在が君だ、光くん。嬉しそうに君の事をよく話していたよ。だからとてもよく覚えている」
「…
華音姉ちゃん…」
「芳幸くんも…。
華音の葬儀の時に私と顔を合わせる前に君と接していたところを見かけたが…君をとても大事に想って大事だからこそ敢えて対等な姿勢で向き合っている、そんな表情をしていたな。
一瞬だったが、いくら仲間内の子どもとはいえ、それなりの愛情を持っていなければあんなふうに接する事はなかなか難しい。
華音と芳幸くんにとって、光くんの存在はとても大きかった事だろう」
「…井宿…兄ちゃん…」
思わぬ人物から思いがけない言葉をかけられて、思わず目頭が熱くなった。
泣くもんか、と、唇を引き結び、溢れそうになる思いを必死に自分の中に留めた。
そんな光の前に、スッ…と
華音の父親の右手が差し出される。
「
華音も芳幸くんも居なくなってしまって…私が此処に顔を出すのはこれが最初で最後になると思っていたんだが。時々君に会いに来てもいいか?
私も愛羅に会社の経営を譲って引退する事に決めてな…持て余しそうなくらいの時間をどう使おうか考えていたところだったんだ。君と、
華音や芳幸くんの事をもっと話したい」
「…はいっ、喜んでっ。僕もあなたともっと色んな話もしたいです…!」
以前に、芳幸とも固い握手を交わした事のある芹沢家の主人の右手を、宿南光も自身の右手で取る。
光と確かな約束を交わした
華音の父親が事務所を後にしていった後。
事務所のメンバーとまた芳幸のデスク周りの整理を開始し、数時間ほどかかってようやく区切りがついた。
ふぅ、と、一汗かいた額を腕で拭う光。
「…空の上でも…二人で幸せに笑ってるのかな…――あ、そうだ!」
小奇麗に片付いてしまった芳幸のデスク上に飾られる、仲間の厳しい審査によって選び抜かれた
華音と芳幸の挙式の時の一枚の写真が収まった写真立ての前に。
光が自分のズボンのポケットを探って取り出した一対の指輪が、コトン…と置かれる。
「僕、二人の分まで長生きしてみせるから。ちゃんと見守っててよね」
芳幸が嵌めていた結婚指輪の上に、
華音が嵌めていた結婚指輪の左端が重なって寄り合っているような仕上がりに、光は満足げな笑顔を浮かべた。
事務所の窓から差し込む陽の光が、二つの笑顔を眩しく照らし出す。
その笑顔の下で、銀製の指輪もまた、負けじと輝きを放った。
―おわり―
**§****§****§**
“知った未来に辿り着かないよう、戻ってきた元の時間軸の世界で奔走する”。
このネタは、実は、昔に千ちひの二次創作で一度書き上げていたりします。
今度はふしぎ遊戯を舞台とするならどういうお話になっていくんだろう…
という妄想から始まり、新たに書き始めてこのお話となりました。
読む方によっては、不快な描写があると感じさせてしまったら申し訳ありません…。
自己満足する用として書いて、パソコンの中で中途半端に眠るんだろうなぁ~
なんて思っていたのに…
途中、筆が止まり、空いた期間はあれども、後半の方からは勢いが出てきてお話が纏まってくれたので、一つのIf storyとしてupしておきます!