【はぐれ噺集】
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おはなし箱内全共通のお名前変換「夢語ノ森」では基本、おはなしの中で主人公の娘っこの性格や年齢を書き綴っていく形にしていますが、特別設定がある場合もございます。
そういったおはなしでは説明頁の設置や特記事項がありますので、ご参考までにどうぞ。
当森メインの夢創作を楽しめますよう、先ずは是非、井宿さんにお名前を教えていって下さいませ
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「…おかえり、華音」
「……芳幸…さん?」
「中へおいで。リビングは分かるのだね?」
「…えっと…はい…」
知っているはずなのに、何かが違うと思った。
そんな感覚に戸惑いながらも、目の前に現れた彼に誘われるまま、彼と生活を共にしている部屋へ上がる。
言われた通りにリビングに足を運ぶと、彼はテーブル前にある椅子を引いて待っていた。
「どうぞ?」
「ありがとう…ございます」
椅子に座る華音の前に、コト…と湯気が立ち上る飲み物が置かれた。
「まずはそれをゆっくり飲むといいのだ」
「…いただきます…」
口元に近付けるカップから甘い香りが漂う。
一口口に含んだそれは、仄かな苦みと甘みが程よく混ざり合っている味だった。
「オイラはもう…今年で44になるのだが…」
「…年齢の話…ですか?」
「あぁ」
二口…三口。
ココアを口にする華音の様子を見やりながら話題を出す彼があまりにもさり気なさすぎて、思わずそのまま聞き流すだけになりそうだった。
「…44?」
上げられるその数字を元に計算するとなると、自分の年齢が合わない事に気が付いて、華音は首を傾げた。
「華音も34の歳を迎える…“はずだったのだ”」
「…芳幸さん?」
「…おいで」
華音が持つカップに彼も手を添えながら、華音の手を外していく。
彼の手によってリビングのテーブルの上にカップが戻されると、今度は彼は華音の手を取って、また違う場所へと誘った。
リビングと続く畳の部屋へ足を踏み入れるに伴い、独特の香りが鼻につく。
「…よく…お聞き」
華音の手から離れた彼の手が、綺麗に彼自身のもう片方の手と揃え合わせられた後で言葉の続きが紡がれる。
「この世界にいるはずの君は…十一年前に亡くなっているのだ」
「……っ?」
「君にとっては未来に…命を落とすほどの危険が待っているということ」
彼が真剣に手を合わせるものの対象が彼越しに垣間見えて、足元が掬われる感覚に陥った。
「…芳幸…さんを……一人残して…?」
「…結果的にはそういう事にもなるが…。…君がここに居るという事は、この世界の華音も“未来”に行ったのだ。その事を華音から聞いたオイラは、華音に降りかかる危険を回避しようと策を講じた。
だが、それは実を結ばず、華音を逝かせる事になってしまった。この世界でも救いきれなかった…また…」
「…芳…幸…さん…」
「こちらの華音が病室で息を引き取る間際に…約束したのだ。ここに来る華音の未来は必ず守ると。“君には”何としてでも生きてもらわなければならない」
「…でも…どうすれば…」
背中ばかりを見せていた芳幸が、ゆっくりと華音に向き合う。
「君は難しく考えなくていい。華音の身に降りかかる事柄を話すから、それを理解しておいてくれれば…それだけでいい」
「…芳幸さん…?」
なんだろうか…。
微笑みの形を作る目尻に浮かぶ、ほんの小さな皺を見て苦しい気持ちになる。
「…過去の自分には申し訳ないのだが…一度だけ触れてもいいのだ?」
華音が返答するよりも早く、芳幸の唇が華音の頬に寄せられた。
唇同士で触れ合わないのは、芳幸なりの配慮だったのだろう。
「もう少しゆっくりしたら、事務所に一緒に来て欲しいのだ」
「探偵…事務所?」
「そう。君の事を皆も待っている」
線香の細い煙がくゆる部屋を出て、再び芳幸とリビングへ戻ってくる。
芳幸が入れてくれた一杯のココアで身体を温めてから、陽の光が在る外へと踏み出した―――…。
**§**
「皆には華音の事は共有したのだが…一人、まだ関わっていない者がいるのだ。新たな未来を作るには、新しい要素が必要だと思っている」
「うん、僕、華音姉ちゃんと一緒に過去に行くから心配しないで!」
ニッと、華音の向かいで笑顔を見せる顔は、魏ととてもよく似ている。
事務所に足を運んで早々に華音に駆け寄ってきた彼は、宿南光。
華音が知っている光よりも成長し、もう中学生になるらしい。
「…十一年…」
芳幸と華音の歳の差分ほどの歳月だ。
時の流れの感覚を想像しながら、華音は芳幸に視線を向けた。
「……芳幸さんは……この先もずっと一人でいるつもりですか…?」
外されずに指に嵌められたままの結婚指輪。
絞り出すような声で問い掛けたその言葉には、静かな声音が答える。
「…華音との誓いは、オイラの命が終えるまでなのだ」
「……ごめんなさい……ごめんなさいっ…」
「…君は君なのだね…。こちらの華音も最期まで謝り続けていた」
頭を撫でられ、抱きしめられる。
よく知る温もりに…香りに包み込まれながら、話に聞いた華音の身に降りかかる出来事を頭の中に繰り返し、刻んでいた―――…。
「光、これを君に預けるのだ」
「井宿兄ちゃん…これって…」
眠りに誘われた華音の頭上で、彼女の身体を支えつつ光に一つの物を差し出す。
驚いて芳幸を見つめてくる瞳に頷くと、光はそれを掌に握り込んだ。
「華音の形見の指輪なのだ。戻ってくる時に少しでも世界が繋がりやすいように…媒介、なのだ。君のお母さんやお父さんもそうして二つの世界を行き来していたのだろう?気休め程度だが、ないよりはましかもしれない」
「……井宿兄ちゃん……。僕が帰ってきた時…井宿兄ちゃん、ちゃんといるよね?」
「…光…」
「こうやって話せるのが井宿兄ちゃんとの“最後”じゃないよね?華音姉ちゃん――のんちゃんの時も僕は何も分からなくて…のんちゃんがいきなりいなくなっちゃって…悲しくて…辛くて…。
僕、今でもはっきり覚えてることがあるんだ…。法事の席で井宿兄ちゃん、誰も責めてなかったのに、華音姉ちゃんの家の人に何度も頭下げて謝ってたよね?
井宿兄ちゃんも悲しかったはずなのに、皆が泣いてる中、井宿兄ちゃんだけ泣いてなくていつ泣いてるんだろうって…」
「オイラが昔から…悔やみ続けてきたように、君も華音の事で傷を負っているのだね…?君に頼んで良かった。光の傷は、光がこれから華音を助ける事で癒えるはず…」
「…井宿…兄ちゃんは…?井宿兄ちゃんの傷は?」
「…オイラは…」
ぽぅ…と、華音の身体が淡く光り、姿が少しずつ薄らいでいく。
「光くん…!あなたに手渡しておいた機械を華音さんから発せられる光に向けて下さい!行く時と戻る時の二回しか使えないですから…
タイミングを間違わないように気を付けて」
「張宿兄ちゃん…。うん、分かった…行ってくるね。父さん、母さんに宜しく言っておいてね」
「…あぁ」
素煇と光と魏の間で交わされる会話は耳で聞き入れ、口では華音に向けて言葉を落とす。
「さよなら、華音。どうか幸せに」
「…井宿兄ちゃん…」
華音と同じ光りを身に纏う光の視線と芳幸の視線が宙で交わる。
だが、芳幸はその時は何も言葉にしなかった。
朱雀探偵事務所から二人の存在が消えたその後で、ようやく口を開く。
――宿南光にではない。
光の親である、彼に…。
「…光が戻ってきた後のフォローは頼むのだ、魏」
「井宿…。華音と何を約束したんだ?」
「あれは“約束”ではない。華音がオイラの為に残してくれた“一つの選択肢”に過ぎない。それを選び取るかはあくまで“オイラ”なのだ。光のせいにはならない……オイラの――俺の心が弱いだけ…昔も今も変わらず…そう伝えておいて欲しい」
「たまちゃんに頼まずに自分で光に言ってあげなさいよ。本当はこんな事も考えてしまっていたのだーって」
「そうだな。お前の気持ちも分からないでもないが…仲間としては最後まで信じていたいからな」
皆の視線が自分に注がれている事を分かっていながら、芳幸はただ、そっと笑んでいた。
**§**
「…華音姉ちゃん……華音姉ちゃん…?」
「……ん……光…くん」
身体を揺すられる感覚に瞳を開けると、中学生の光が心配そうに華音を覗き込んでいた。
「身体…苦しいとかない?」
「…大丈夫」
「良かった。僕を事務所まで案内してくれる?…場所は変わってないと思うけど…さ」
光が言わんとしている事を汲み取り、華音は光に頷く。
光を連れ立ち、その場所を訪れれば、事務所内の者らは、光の姿に驚きを隠せないでいるようだった。
一方、華音の傍らに居る光もまた、驚きの表情を張りつかせていた。
「……父さん、そんな変わらないけど…やっぱり若い…」
「父さんって…お前…光なのか…?」
「うん、未来の宿南光だよ」
「未来?どういう――」
「芳幸さんに…皆さんにお話したい事があります」
魏の言葉を遮り、頭を下げる。
「私は未来に行ってきました。信じてもらえないかもしれないけれど…でも私は私を…芳幸さんとの未来を護らなくちゃいけないんです。その為には光くんの協力や芳幸さん、皆さんの協力が必要で……」
「井宿兄ちゃん」
何をどう切り出せばいいのか、戸惑い、言葉を切ってしまった華音の肩に光の手が触れた。
それには顔を上げる華音の傍らで、光は芳幸に向かってあるものを見せた。
「僕の世界の井宿兄ちゃんが預けてくれたものだよ。僕がちゃんと帰れるようにって、媒介として持たせてくれたけど…でもきっと、こっちの皆からの信頼を得やすくする為にも預けてくれたって僕は思ってる」
「……そんな物的証拠がなくても…たまちゃんとそっくりの顔があるんじゃあ、ねぇ?信じないわけにはいかないでしょ」
呆れたように笑う花娟に対して、光もまたふっと笑う。
「さすが柳宿姉」
「…顔はたまちゃんでも…性格は美朱かしら。そんなとこにいつまでも突っ立ってないでこっちに来なさい」
応接席が並ぶ空間と皆のデスクが並ぶ空間とを隔てるパーテーションに区切りをつけている腰扉を開け、華音と光の二人を花娟が誘う。
皆が顔を突き合わせて話をするとなると、やはり木製の大テーブルが適しているのか、花娟を筆頭にして皆でそれぞれの位置に腰を下ろす。
「華音姉ちゃんもまだ混乱してると思うから、華音姉ちゃんの隣には井宿兄ちゃんが居てあげて。華音姉ちゃんと同じように、僕も話に聞いていた事を僕がそのまま皆に話すね。
その間、華音姉ちゃんは少しでも確実に気持ちの整理しておいた方が最善だと思うし」
前置きをして、未来では芳幸が語った内容を光が今一度皆の前で語った。
光の口が未来の全容を語り終わり、静寂が訪れる。
しばらく音のない空間が続いた後で、芳幸が静かに口を開いた。
「…君は…君自身がいなくなる未来がある事をどう知ったのだ…」
「事の流れは事務所に連れて行ってもらってから聞きました…。でも最初は…部屋の玄関に居たんです。何かが違うって感じていたら、芳幸さんが出迎えてくれて…。“私の遺影”に手を合わせながら芳幸さんが教えてくれました…。
そんな未来が待ってるってショックだったけれど……でも…私は…“私が死ぬこと”よりも、未来の芳幸さんが一人で居る姿を見ている事の方が苦しかった…っ。寂しそうに笑う顔をさせているのは私なんだって感じたら、
何が何でも生きなくちゃって…!自分がいなくなった後の事を知ってしまったら…自分がいなくなるって事がこんなにも怖いって初めて感じて…っ。だから…だから、どんなに迷惑をかける事になっても私…!」
「分かったのだ。華音がオイラを想ってくれる気持ちは、十分過ぎるほどに伝わった…ありがとう」
自分の気持ちを話す内に感情が昂り、涙を流しながら立ち上がった身体を宥めるように抱きしめられる。
「華音を失う事を考えた時の恐れは、オイラもある。だが、護る術が一つでもあるのならば、護り通す覚悟も出来ている」
「……ッ!」
「…光?」
ガタンッという音を響かせたらしい者の名を魏が呼んだ。
皆の視線もそちらへと注がれる。
「……井宿兄ちゃんは…ずるいよ…。もうこの時から“覚悟”決めてた…なんてさ…。結局子どもの僕だけ…また蚊帳の外じゃん。
“のんちゃん”のこと、僕だけ何も知らなかった……“のんちゃん”がいなくなった事実だけ知らされた僕の傷だって、そんな簡単に癒えるものじゃないんだ!!」
「…光…くんっ」
「光、華音の前で言い過ぎだ」
「…父さんは“今の僕”の父親じゃないんだし黙っててよ!」
「悪かった…!――のだ」
不穏な空気になりかけたのを遮ったのは、滅多に声を張り上げないはずの芳幸だった。
何か言葉をかけようとした華音の前に立ち、光を見据える。
「井宿…兄ちゃん?」
「未来のオイラが、君に何を言ったのかはもちろん分からない…。だが、華音を護る術を持っているのは、今オイラたちの目の前にいる“光”だという事は確かなのだ。君が居なければ、
華音自身もオイラも皆も…不安の方が大きかったかもしれない…。やはり魏と美朱の子なのだね?名前の通り…不思議と希望を持たせてくれるような気がして…。だから、君と華音の話も信じるし、成し遂げようと“覚悟”も決められるのだ」
芳幸が光の方に近付き、彼の頭をふわりと手で撫でた。
「……違…う…。あの時…華音姉ちゃんの法事の席で泣いてなかったの…井宿兄ちゃんだけじゃない…。“あの人”も泣いてなかった…」
…話の繋がりがない。
それでも光は、芳幸の顔をぼーっと見やりながらぽつりぽつりと言葉を落とす。
「…僕…泣かない井宿兄ちゃんが心配で…時々目で追ってたんだ…。そんな僕の視線に井宿兄ちゃんが気が付いて、部屋の移動の時に井宿兄ちゃんが僕を呼んで“いつかちゃんと本当の事を話すから、
それまで待っていて欲しい”って言いながら、今みたいに頭撫でてくれた…。その時にあの人――華音姉ちゃんのお父さんも来て…」
――その子はもしかして…華音がよく話していた“光くん”かい?
――はい
――そうか。……芳幸くん
――はい?
――華音の事は君のせいではない、と、皆言うが、いくら芳幸くんのせいではないと言っても、芳幸くんの責任の取り方もあるだろうから、私は、君のせいではない、とは言わないでおこう。
――…ありがとうございます
――本当に律儀な人間だ。…だが、芳幸くんらしいな。華音も少し頑固なところはあったが、そういうところは二人して似た者同士だったかもしれない。
仮に逆の立場だったとして…華音もこういう場では泣かなかったかもしれんな…。“自分を押し殺してまで相手を気遣う”だろうからな。実は私も…同じ気持ちなんだよ、芳幸くん。
私がなりふり構わずに涙を見せるとしよう…そうしたら、芳幸くんの謝罪の数はおのずと増えるだろう?
多くの謝罪よりも、華音の事を惜しんでくれた方が、華音も幸せを見出せるだろう。故に私も、君の前では泣かないと決めているんだ。
――芹沢…社長
――いつまでそう呼び通すつもりだい?私は華音を君に託した時からずっと、家の者と思っているが
――…お義父さん…
「…二人だけ…笑ってた…。あの時の光景が…今でも忘れられなくて…。…そうだ、父さんや母さん、事務所の皆でさえ、僕に華音姉ちゃんのことを話すの躊躇ってたのに…僕の心の叫びに気づいて…
ちゃんと本当の事を話すって言ってくれたのは井宿兄ちゃんだけだった…。…僕…しっかりしなくちゃ…。華音姉ちゃんを護る為にこっちに来たんだから…僕が過去がどうだったかに囚われてたら何も出来ない。
ごめんなさい、僕が出来る事をちゃんとするので、僕も華音姉ちゃんの傍に居させて下さい。お願いします」
「光くん…」
華音が光の名を呼んだ事で、華音の前に立っていた芳幸が傍らへと立ち位置を変える。
「ごめんね、光くんにも苦しい思いさせちゃったね、私」
「…華音…姉ちゃん…」
「芳幸さんが言ってくれた通り、だね?一人きりで未来から戻ってきていたら、私、やっぱり不安だったと思う。だから、芳幸さんたちと一緒に、
光くんも私の傍に居て下さい。宜しくお願いします」
「……っ井宿兄ちゃん…、ごめん、ちょっとだけ…のんちゃん貸して…っ」
芳幸からの返答を待たずに、光は華音の身体に必死にしがみついてきた。
「…のんちゃんっ……のんちゃん…!」
光の叫びのような呼びかけに、華音もまた頭を撫でて応える。
「のんちゃん…っ」
過去と未来が重なったその日。
まだ見ぬ未来を得る為に、それぞれの闘いが始まりを見せる。
それまでのほんの束の間の時で…。
光が垣間見せた気持ちの欠片を、過去の者たちの眼差しと温もりとが包み込んでいた。
**§**
命運を分かつその時は、時の流れに沿って確実に訪れようとしていた。
華音は事務所奥の和室スペースに身を置き、強い緊張感を抱きながらも、静かに時間をやり過ごそうとしていた。
そんな中、不意に音を発した携帯電話に驚きつつも、鞄からその機器を取り出す。
『…華音?お母さんから話を聞いて気になったから、一応話しておこうと思って電話したのだけれど。急遽、仕事の用事でショッピングモールに出向いて…――』
姉からの着信だった。
電話先で語られていくその内容に、華音の鼓動が大きく跳ねる。
「地下…地下だけには行かないで…お姉ちゃんっ!」
『…何かあるの?お母さんにも行く用事がないか確かめていたようだけれど…でも、地下フロアーでないと用事が済ませられないのよ。だから来ている事をあなたに伝えておこうと…』
華音が動かなければ…。
“他の代わり”が必要なのか?
話に聞いていた内容にはない事が起こり始めていて、居ても立ってもいられなくなった華音は、事務所の方へと向かう。
「…ごめんなさい、芳幸さん…。私、行かなくちゃ…。もしこの世界でも駄目でも…芳幸さんのせいにはならないです」
口早にそうとだけ言葉を落として芳幸に背を向ける。
「華音…待つ、のだ…っ」
容易くこの場を離れられないだろう事は予想出来る事だ。
気持ちは急いていながらも、華音の意識は背後に在る芳幸の方へとまだ向いていた。
伸びてくる腕の気配から身を翻す事で避け、もう一度芳幸に向き直り、困惑に揺れる瞳を捉える。
「芳幸さんとの未来よりも…結局は本来の未来を選び取るのは“私”です。そんな私を嫌ってしまえば…あなたの傷は深くならずに済みます」
泣き笑いに近い表情を芳幸の瞳に焼き付けて、華音は事務所を後にした。
「…っどうすれば…護れる…っ。どうすれば…!」
「井宿、少し落ち着けって。こういう時の為に光を現地に送り込んでるんだ。まだ策が尽きたわけじゃないだろ?」
「……せやけど…。俺らも華音の後を追っといた方がええんとちゃう…?」
「過去にあった話と同じ経過を出来るだけ辿りたくはないが…」
「“全く同じ”でもありませんしね…。…今のところ、まだそれらしき情報がニュース番組でも流れていませんから」
“策”ばかりに囚われて、“やはりあの時ああしていれば良かった”という後悔はしたくない。
華音が“行かねばならない状況”にあるように、芳幸にも“追いかけない選択”はきっと最初から無いも同然。
華音に遅れて、芳幸もまた、自身の気持ちのままに事務所を飛び出した。