【特別篇】—愛の物語—
おはなしを読むためのお名前変換はこちらから
おはなし箱内全共通のお名前変換「夢語ノ森」では基本、おはなしの中で主人公の娘っこの性格や年齢を書き綴っていく形にしていますが、特別設定がある場合もございます。
そういったおはなしでは説明頁の設置や特記事項がありますので、ご参考までにどうぞ。
当森メインの夢創作を楽しめますよう、先ずは是非、井宿さんにお名前を教えていって下さいませ
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
――朱雀と青龍の物語を一部始終知るある者がこう言った。
“朱雀の力は愛”だと。
――ある仲間がこう言った。
“彼の愛は、最大で最強の結界”だと。
そして―――…
ある日の空を貫く、朱色の閃光の柱を見た人々は一様にこう言った。
“あれは凄まじい何かの力だった”と。
奇跡の物語は、必ずしも美しいとは限らない。
様々な感情や思いも複雑に織り混ざっている事だろう。
その全てが今、あなたの目の前で明らかになる―――…
**§**
玄関で仕事に行く夫を見送った妻――沢井華音は、家事に取り掛かろうと踵を返した。
「……っ?」
まただ。
ぞくり…と、何となく嫌な感覚というものを肌が感じ取り、思わず服の上から腕を摩る。
最近、影が怖いと思うようになった。
夜などは、夫である芳幸が共に居るし、気を紛らわす事も出来る。
だが、一人で過ごす朝から夕方までの時間は、“孤独”と“恐怖心”を駆り立てられて仕方がない。
自分は何が一体、“怖い”のか…不安なのか?
そう問われたとしても“何となく”としか答えられない。
「…誰か…いるの…?」
今日に限っては何を思ったのか、そんな問い掛けを誰にするでもなくぽつりと呟くと、応える声が在った。
《…ほぅ?日に日に我らと波長が同化してきて、我らの存在を感じられるようになってきたか。だが、まだだ。“あの者”をいなすには、もっと力を蓄えなければならない。
その為にもお前は…決してあの者に気づかれてはならない。もし途中で気づかれたのなら…お前の命はないと思え》
「…っ…?!…ぁ…」
ドクン…っ。
心臓の音が妙な高鳴り方をした直後に、不規則なリズムで脈打つ。
まるで背中側から何者かに心臓を鷲掴みにされているかのような息苦しさに襲われる。
《力だけを取り込んでお前を消してもいいが…それではいささかつまらない。力でもあの者よりも上だと示せれば、より愉しくなる》
「……ぅ…ぅ」
掛かる力に抗うようにして、手元を胸の方へと引き寄せる。
その瞬間、ほんの一瞬であったが左手の薬指に嵌まる結婚指輪がキラリと光を放ったように見えた。
《…ッ!…忌々しい朱雀の力…。次こそは………》
ふ…と身体が一息に軽くなった。
同時に息苦しさからも解放されて、荒くなった呼吸を自身で宥める。
動けるまでに治まりはしたものの、身体のだるさは治らず、重い体を引きずるようにしながら寝室へと向かう。
そのままベッド上に倒れ込み、華音の意識は直ぐにでも暗転した。
――瞼の裏に差し込んでくる明るさに、ゆっくりと瞳を開く。
すると、華音へ声を掛ける影が現れ、思考が混乱しかけた。
「大丈夫なのだ?昨日、帰ってきたら寝室で静かに眠り込んでいるから驚いたのだ。その後も全く目を覚まさなかったし…何時から眠っていたのだ?」
「……朝から…ずっと…」
「オイラを見送ってからずっとあの状態で眠っていたのか?具合が悪いのでは…?」
額に手が伸びてきて漸く、はっと我に返った気分だった。
勢いよく上半身を起こし、はっきりと言葉を紡ぎ出す。
「どこも…悪くないですっ。身体が少し疲れていただけ…今、何時ですか?」
「7時20分になるところなのだ。…所長に電話をして今日は休みを貰おうとしていたところなのだよ」
心配そうに覗き込んでくる顔には、首を横に振って否の意を示した。
「大丈夫です、お仕事に行って下さい」
「…だが…」
「なら、このままここで行ってらっしゃいでもいいですか?」
「…分かった。もし一人でどうにもならないような事があれば、遠慮なく電話をしておいで?」
「はい。行ってらっしゃい」
「行ってきます、なのだ」
華音から離れかけて今一度華音の事を見やった芳幸は、いよいよ寝室を後にした。
寝室の扉と、少しの間があってから玄関の扉を閉める音までを耳で確認し、ふぅ…と一つ長い息を吐く。
《…よく交わした。あの者もお前の様子に感づき始めているようだし、そろそろ我らと共に来い》
「――っっ!!」
肩がずしりと重くなった。
その重さに抗う事は出来ず、華音の意識が急速に沈められていく。
「……芳…ゆ…き…さ……」
最後に伸ばされかけた震える腕へ、不気味な黒色をした木の幹のような影が絡みつき、やがては華音の後方から伸びた黒い影が華音の身体をすっぽりと呑み込む。
“これは邪魔だ”と言わんばかりに、芳幸と対である結婚指輪が華音の指元から弾かれ、ベッドの上に寂しく転がり落ちた。
そして。
何事もなかったかのようにして、華音の存在を取り込んだ色濃い影の気配は、寝室から消え去った。
**§**
マンションを出てからもずっと後ろ髪引かれる思いを抱えていた芳幸の足が、ついにぴたりと止まった。
「…華音…?」
微かな声で名を呼ばれたような気がしたが、もちろん、近くに華音の姿があるはずもない。
やはり何と思われようとも“今日は”とにかく華音の傍にいようか、などと巡らせていた芳幸の思考を遮る着信音が鳴り響く。
鞄から携帯電話を取り出すと、電話の主は宿南魏からだった。
「――魏?」
『あぁ、悪いな、芳幸。こんな朝の時間帯に電話して。……あのさ。光の様子が…おかしいんだ』
「光が?具合でも悪いのだ?」
『そういうのじゃなくて…。その…今いきなり起きてきたかと思ったらテレビをつけ始めてさ。ニュース番組を見て画面の上の方を指しながら“ここにのんちゃんがいる”って言い出して…。今からお前んとこ行くって聞かないんだ』
「……!!」
とてつもなく嫌な予感がした。
電話を切る間さえも惜しく、操作をしないままに握り込むだけ握り込んでマンションまでの道を急いで戻る。
玄関を入り、大きめの声で名を呼びかけるも、答える声はなかった。
具合が悪くて倒れているだけかもしれない…今だけは、その方が幾分もマシな状況かもしれないとさえ思えた。
そんな芳幸の気持ちとは裏腹に、先ほど別れたばかりの寝室に足を運んだ芳幸は、息を呑んだ。
「…華音?」
姿どころか、気配さえも感じ取れなかった。
その存在ごと忽然と消えていた。
――否、存在は確かに在ったという証に、唯一結婚指輪が取り残されていた。
ベッドへと近づき、指輪を拾い上げ、空いている方の掌の中に握り込む。
「……華音が消えた…」
『…港だ、芳幸。ニュースもどんどん大きくなり始めてる。俺は光と美朱を連れて向かうから、お前は先に行ってろ。皆にも俺が連絡しとく』
「頼むのだ、魏」
魏との電話を切った後、芳幸は強い後悔の念に苛まれる。
一時でも離れてはいけなかった。
離れたその一瞬で“華音を連れて行かれた”。
華音の様子が何処か違うと気づいていたというのに、だ。
「…待っているのだ、華音。必ず助ける」
――港だ、芳幸。……俺は光と美朱を連れて向かうから、お前は先に行ってろ
今度こそ迷いはなかった。
芳幸の足は、港の方向を目指し、駆ける。
途中、港方面までまだまだある距離を稼ぐ為にも、大通りへ出てタクシーを拾った。
目的地は港である事を伝えれば、訝しんで返ってくる運転手の表情。
車内でも、異常事態に在る港の様子を伝える速報として、ラジオが流れていた。
「…お客さん、本当に港へ向かうんですか?」
「行かなければならないので。付近まででもいいので、お願いします」
最後に一度、バックミラーでこちらの様子を窺ってきた後、運転手は車を発進させる。
以降、運転手との会話は特になかった。
沈黙の時間をやり過ごして、港口が目に入る位置まで来たところで芳幸の方から“ここでいいです”と声を上げた。
料金を払い、丁寧に礼を言ってタクシーから降りた芳幸は、再び駆け出した。
**§**
時折、海の方から撫でつけるようにして吹き抜けてくる潮風に紛れ、肌を刺激する“気配”がまるで芳幸を誘い込んでいるかのように感じられた。
(…何故気づけなかった?ここまでの闇の気配に…っ!)
空間が一部分だけ歪みを生じているのではないかと思うほどに、渦巻く濃い闇の気配。
その頂きには、華音の気配も在った。
海中に根を張る、闇色を纏った巨大な木の上空では、プロペラ音を周囲に鳴り響かせながらヘリコプターが数機飛んでいる。
「――…井宿ーっ…!!」
息を切らしながら、宿南魏が芳幸の元へ向かってくる姿が見えた。
魏の後からは、少し遅れながらも美朱と光が到着する。
「華音、は…っ」
「……今はマスコミ関係だけだからいいが…国が危険だと判断して動き出してしまえば、華音の身も危険に晒される。そうなる前に…片をつけなければならないのだ」
「“上”に居るはずの華音を護りながら…あんな巨大な木をどうやって片すんだ…」
魏が漏らす言葉に、芳幸は言葉なく拳を握りしめる。
そうしている間にも、朱雀の者らが一人、また一人と着実に港へと集結し終える頃、皆の少し後方に止まった一台の銀色の車から、一人の青年と一人の中年男性が降りてきた。
「やっぱり集まってたかぁ~。さすが四神天地書のレギュラー、俺の勘冴えまくりぃ!」
「お、お兄ちゃん!と……あれ?その人何処かで」
見た事あるような…と、首を傾げて悩み出す美朱の傍らで芳幸が口を開く。
「“お義父さん”…。あなたもいらっしゃいましたか」
「久しぶりだな、芳幸くん。テレビで見て来ずにはいられなかったんだよ。芹沢家の代表としてね」
「…あ!そっか、結婚式の時に見たから、華音ちゃんのお父さんだっ」
“でも何でお兄ちゃんと一緒に…?”と再び首を傾げ出す美朱を横目に、芳幸が我先にと一歩を踏み出し、その者に向かって頭を下げた。
「申し訳ありません。自分がついていながら、大切なお嬢さんを危険な目に合わせて…あなたまで巻き込む事になりました。華音の事は……自分が必ず護ります。…もしもの時は…あなたとの約束を違える事にもなりますが…」
「頭を上げなさい、芳幸くん」
最後にぼそりと小さく付け加えた声がよく聞こえなかったのか、彼は僅かに首を傾げて見せた。
親子だからか、その仕草は華音とよく似ている、と、こんな時でもふとそんな事を思った。
芳幸が身体の向きを港の方へと戻すと、ゴゴゴ……という不気味な音が響き始める。
「何…あれ…っ!海の水が暴れてこっちに……!」
華音の父親でもある芹沢社長の方へ歩み寄っていた事で、誰よりも海側に近い位置に身を置く事となっていた美朱の肩を引き、魏の方へとその身体を押しやる。
「…井宿?」
「誰一人として、今から俺よりも前に絶対に出るな」
芳幸のその言葉を合図にするかの如く、海水の一部が港に顔を揃えた者たちに大きな波となって襲い掛かる。
誰もが身を固くして思わず目を瞑ったが、予測した衝撃はやって来なかった。
代わりに感じたのは、キ…ンという少し耳に痛い耳鳴りのような音と束の間の静けさ。
「……芳幸くん…君は一体……」
何か特別な能力を持っていなければ、目の前の光景は説明できない。
突然に目にする事となった不思議な光景を見つめながら、芹沢社長は目を何度か瞬かせた。
皆は朱色の光の膜に護られていた。
芳幸が負けじと懸命に突っ張らせている両腕の先で、海の水の流れは塞き止められている。
「華音の弱さを…履き違えるな…っっ」
それは誰に向けて放った言葉なのか。
彼には珍しく、激しい感情を纏っているのか、彼の一言一句と動きの全てに力強さが伴っていて、横一線に薙ぎ払われるように動いた腕に、海の水も怯む様に退く。
「俺に気づかれないよう、密かに華音の気を取り込んでいたな。それを餌にして俺を打ち負かそうとでも考えたか。…華音が俺の為に最後まで抗おうとしているのは俺には視えている。それに俺は応える!!」
「ダメ…!!」
勢いよく最前線から飛び出そうとした様子の芳幸の身体を、芳幸よりも小さな身体が必死に引き留めた。
「やだ、一人でいっちゃやだ!!井宿にいちゃんがいくなら、ぼくもつれてってっ!のんちゃんのためにいきたいんじゃないよ、のんちゃんをまもる井宿にいちゃんをぼくがまもるから…っ!ぼくもうえまでいっしょにいく!!」
「駄目なのだ。パパとママと…皆と、いい子にここで待っておいで」
それまでの緊迫した空気を払拭して彼は柔らかく優しく微笑んだ。
くしゃり…と光の髪を一撫でした手はあっという間に離れて、その存在までもが独り、仲間らの元を離れていく。
「まって…っ、おねがいだから、もうすこしだけ……!!」
芳幸に続いて飛び出そうとした光の身体を、今度は父親である魏が止めた。
「お前が行っても危ないだけだから一緒に待ってような?」
魏の言葉に、光が勢いよく魏の胸元をどん…と叩き、泣きながら声を上げる。
「どうして…っ。パパもママもみんな…すざくのなかまでしょ!?なんでぼくにしかわからないの?!あのままじゃ、井宿にいちゃん、しんじゃうんだよっ!?井宿にいちゃんをとめて!
しんじゃうってわかってるのに、ぼくのおねがいもきいてくれなかった…!井宿にいちゃんをまもれるほうほうがわかるまでまってもくれない…!のんちゃんだって…かえってきても井宿にいちゃんがいなかったらないちゃうでしょっ!?」
「…光…お前……。そんな事言ったって…どうすりゃいいんだ。全くの考えなしに井宿も飛び込んでいってるわけじゃないだろうし、俺らには信じて待つしか…」
「光くんには、何が危ないかも見えていますか?原因が分かれば…井宿さんを助ける方法も見つかると思うんですけど」
「…張宿にいちゃん…。ん、わかる」
流れる涙を手で拭き、頷く光は、素煇を真っ直ぐに見つめて言葉を紡ぎ出す。
「ここ、あっちよりも“もの”がおおいでしょ…?だから、井宿にいちゃんのなかでぜんぶ、すざくのちからをつくりださなくちゃいけないんだ。ちからをつくるためには、井宿にいちゃんの“き”がいっぱいひつようで、
つかったらつかっただけなくなっちゃうんだよ。それをぜんぶつかったら……ガソリンがなくなったくるまみたいにうごかなくなっちゃうよね…。そういうことだよ」
「難しい事もよく分かっていて、それを分かりやすく伝える事が出来てすごいですね」
「だって井宿にいちゃんがそうやってぼくにおしえてくれるから。ぼくがしってることにたとえてむずかしいことでもちゃんとおしえてくれるから…ぼくもまねしてるだけ。……だから…」
“たすけたいんだ”。
もっともっと色々な事が知りたいし、まだまだ一緒に居て教えてもらうんだ。
僕は井宿兄ちゃんの事も大好きだし、皆もそうでしょ?
――言葉にせずとも、そんな思いが光から伝わってくるようだった。
「そうですね。そういう事でしたら、方法、ちゃんとありますよ」
「ほんとっ!?」
“さすが張宿にいちゃんだねっ。すぐにわかっちゃうなんて!”と、期待を込めた瞳で見つめられた素煇は、少しだけ答えにくそうにしながらも考えを口にする。
「…井宿さんが何故、僕たちを素直に頼ろうとしてくれなかったのかはまだちょっと引っ掛かりますが…。ガソリンを補給するように、井宿さんに朱雀の力を僕たちから流すのはどうでしょうか」
「そっか!ぼく、すざくのしんざほうだし、ぼくから井宿にいちゃんにちからをとどけていいっ?」
「ここから、ですよね?」
「うん!ちかくにいきたいっていっても、みんなにとめられるもん」
むすっと、頬を膨らませてむくれて見せる光の姿に、緊迫が続く空気に少しだけ柔らかさが加わった。
「…あ、でもまって。そのまえに、あれ…どうにかしなくちゃ、かも」
“あれ”と言って光の指が指したのは、今起こっている事をリアルタイムに世間に伝えようとしている、記者を乗せたヘリコプターだ。
「…おとがおおきいし…井宿にいちゃんのじゃまになっちゃうんじゃないかな…」
「…よし、そういう事なら私が力を貸そう」
それまで夕城圭介と共に事の成り行きを見守っていた男が機敏に動いた。
ジャケットの内胸ポケットから携帯電話を取り出すや否や、機器の画面を自身の方に向けて何やら表情固く言葉を発し始める。
「各放送局に告ぐ。今、都内の港で起きている事件の鎮圧には、既に優秀な部隊が取り掛かってくれている。その者たちが事の解決に集中して励めるよう、空からの中継は遠慮願いたい」
ピ…ッという短い機械音を響かせてから、芹沢社長は携帯電話の持ち方を電話を掛ける時の形にし、何処かに電話をかけ始めたようだった。
「…あぁ、寺島くん。今から送る動画のデータを、要の放送局数か所にすぐに転送して欲しい。私からのメッセージだという表記も忘れずに宜しく頼むよ」
『……社長、くれぐれもご無理はなさらずに』
「心配しなくても大丈夫だ。愛羅にもそう伝えておいてくれ」
電話さえも早々に終わらせた芹沢社長の傍ら、圭介が感心の声を漏らす。
「はぁー、有名な人の発言力はすごい…」
しばらくして、空を飛んでいた数台のヘリコプターは名残惜しそうに旋回しながら捌けていき、圭介の言葉を証明する光景となったのだった。
**§**
光の見事な細やかな気遣いの下、芳幸は港口に根を張り聳え立つ“黒い巨木”を根元からじっと見上げていた。
(登り切らなくていい……とりあえずは半分まで辿り着ければ何とかなる)
精神力は人並み以上に備わっているかもしれなくとも、筋力自体にはそう自信があるわけでもない。
故に“最低ライン”を自分の中で事決める事で、それは絶対に成し遂げなければならないと己を奮い立たせる。
深呼吸を行い、意を決して枝元に手をかけ、足を掛けられる箇所を目視で探りながら木を登っていく。
先ずは一つ目の枝の上に立ち、更なる上方を目指す途中、ブン…と大きく空気を裂く音が耳に響いた。
枝先がしなやかに蠢き、どうやら芳幸の行く手を阻もうとしているらしい。
最初の一発目に対しては、逃げ場を確保しながら行く先を見据えねばならないか…という思考も働いたが、そんな事をしなくても進む事は叶うようだ。
というのも、仲間の気を周囲に感じると同時に、向かい来る枝を一掃してくれる様子が窺えたからだ。
(…有難い……さて、この辺りでもう一つ、か)
下方からの距離を目で確認してから、芳幸はその場で目を閉じ木の表面に右手を宛がう。
(よし。これで残すはあと一つ)
後に、己の言霊で陣を発動出来るだけの気を、根元部分とこの場所、そして木の中腹に込めておきたい、と、芳幸は考えていた。
そもそもの木の高さがあるため、“残すは一つ”といえども、今まで登って来た分くらいの高さをまだ登らねばならない。
(体力の消耗は……思っていたより少ないな)
少し余裕があるのも仲間のお陰だ。
ふ…と、芳幸が小さく笑みを漏らし、今一度気合を入れなおす一方、地上では…。
宿南光は一人、どうしよう…と焦りを感じていた。
芳幸が木の上を目指し始めると、それを邪魔する為に枝も動き始めたので、そちらは父親も含む朱雀七星士らが対応してくれているわけだが。
そうなると、芳幸への力の補給は光と光の母親である美朱とで必然的に担わなければならなくなる。
元々、自らそうしようと素煇に頷いて見せてはいたのだが、光には何せ“何かと戦う”という経験がないのだ。
“助けたい”“護りたい”というその思いが力になると思っていたのだが、さすがにそれだけでは済まないらしい。
「…光。焦らずに落ち着いて」
「わかってる…けど、でも…っ、こうしてるあいだに井宿にいちゃんの“き”はへってるんだから、どうにかしないと…っ」
――何が足りないんだろう…?あと何があれば井宿にいちゃんを助けられる!?
そんな思いが光の中でぐるぐると渦巻いていた。
…と、そんな時。
光の視線が芳幸の頭上に縫い留められた。
「光?」
他の七星士たちは自身の気を飛ばし、芳幸の左右を狙う枝先を薙ぎ払う事に必死で、光以外は“それ”に気づいていないようだった。
巨木に目とか口とか、そういうものは見当たらないのに、巨木全体が何故か“不気味に笑った”ような気がした。
「井宿にいちゃんのじゃまするなぁっっ…!!!」
何よりも強い思いだった。
ただただ、“井宿にいちゃんの邪魔をするのは許さない”その一心であったと思う。
唯一、芳幸の頭部を狙っていた枝の先が朱色の閃光に断ち切られて、霧散していく。
「…光、今のって……鬼宿と同じように“気を飛ばした”の…?!」
母親が驚いてこちらを見ていたが、光本人も驚き、掌を開いては閉じて…という行為を何度か繰り返す。
“出来る”と思った。
この感覚で合っているならば、今なら出来るという確信に行きついた。
「…ぼくは…井宿にいちゃんにちからをおくる…。それだけでいいんだっ。井宿にいちゃんの“気”がなくならないように、井宿にいちゃんへぼくとママの“気”をおくる…!!」
ゆらゆら…と、光の周りに蜃気楼が立ち上るかのようにして朱色のひかりが滾る。
美朱も光の姿を見て祈る。
“どうか朱雀よ、護って”と…。
光が“気を扱う感覚”を掴んでからそう時間は経たぬ内に、芳幸が瞬時に巨木から光たちの前へと舞い戻って来た。
それには思わず気を送る力を止めた光が、“なんで!?”と驚きの声を上げた。
「いちばんうえまでいくんじゃないのっ?ちから…たりなかった?!」
「俺の目標は最初から頂上じゃない、“地上で迎え撃つ”ことだ。力は十分だったから…“瞬間移動”が使えたのだよ」
「…え?」
「俺は…君のパパや翼宿程に体力はないから…。けれど、俺にとっては今からが本番だ。……光」
不意に、芳幸が顔だけを振り返らせて光の名を呼び、華音にも向けるようなこの上なく優しく柔らかな笑みを浮かべる。
「華音の事を大好きでいてくれてありがとう」
「…井宿にいちゃん…?」
何それ…と、何で今そんな事を言うのか、と、疑問をぶつける時間は与えられなかった。
“いくぞ”と、咄嗟に気を引き締められるほどの声が掛かり、胸の内に思いを込める。
そうしていると、カッ…!と身体中が熱くなり、光の周囲に集まり出したひかりの欠片が、ある物の形を成す。
恐る恐るそれに手を触れてみると、ひかりが弾けて金色の錫杖が光の手元に収まった。
「これ…ぼくがつかっていいの?」
「…あぁ」
光の背丈の倍近くはある錫杖をものともせず、光はくるりと地面と垂直に構えた後でそのままコンクリート上に突き立てる。
錫杖の細長い末端はコンクリート材に負けるどころか、亀裂を走らせ、溢れんばかりの朱色のひかりをその部分に流していく。
それは、芳幸の足元にも確かに伝わり、流れ込んでくる気を芳幸自身の身で受け取る。
ここでも深呼吸を一つ。
パンっ!と一度だけ小気味よく打ち鳴らした後の掌の合間から生まれ出る、一つの短剣。
手に取り、早速鞘から抜いた刀身の刃部分を躊躇なく左手の甲に宛がい、浅くゆっくりと剣の柄を右手で引いた。
芳幸が取る行動に、誰も何も言わなかった。
美朱と七星士は気を送る事に集中しなければならなかったし、何よりも、この緊張感漂う空気を絶対に壊してはならないと、誰もがそう思ったからかもしれない。
手の甲についた傷より、滴る赤い雫。
それを指先まで導いた芳幸は、己のすぐ足元に“井”の字を左手で書きあげる。
その文字よりも少し上に短剣の先を突き立て、ゆっくりと口を開いた。
「流るる気、流るる血、我は主なり。天帝の下、“井宿”の名を許された我が命ずる。井宿の血印を以て、我が陣の内に蔓延る闇を抹消せよ」
“井”の字が朱雀の光を受けて朱色に輝き出すと、それに呼応した“気”が陣の形を巨木の表面上に作り出す。
《…これ、は…っ。禁忌を自ら犯してまで護るなど…貴様、正気か…?!》
空気を揺さぶりながら地の底を這ってくるような…おぞましい声が皆の元に届く。
それには更に空気を裂く程の芳幸の怒りの声が答えた。
「わざわざ禁忌を犯してまで迎え撃たなければならないのは誰のせいだと思っている!…だが、残念だったな。そもそも自然の理を捻じ曲げて闇を増幅させる事こそが“禁忌”。禁忌を正す為に“禁忌”を以てして制するのは“正当”だ」
《そんな横暴がまかり通るわけない》
「“通常”ならばな。俺は天帝直々に唯一“正当な禁忌”を教え込まれた人間だ。まさか人生の中でそれを使う時が訪れるなど夢にも思わなかったが」
《どうせ血迷い事だ》
「そうか…。“開破”」
芳幸の口からは、淡々とその言霊が告げられただけだというのに…。
“朱雀の力を伴って開き破られた陣”の力は凄まじい威力だった。
――ドオオオォォンッ!!!という、地上に轟く爆音と爆風。
一本の太い柱が空を裂くかのようにして打ち上がった。
無論、その光の柱の中、港口におどろおどろしく根を張っていた黒い巨木は一瞬にして木っ端みじんと化す。
何処よりも凄まじい力の衝撃波を受けるはずの者たちの周りだけは、相変わらず無音の世界だったが…。
「……のんちゃんは…っ?」
そうだ。
“巨木の頂上に捕らえられていた”華音の存在さえもまさか、巨木と共に消え去ったのか…?
華音の事を一心に愛している芳幸が、そんな事をするわけがないだろうと誰もが思う半面で、最悪のシナリオが頭をちらつくのは何故なのか…。
――否、それはさすがに杞憂というものだった。
キラ……キラッ。
砂煙がまだ晴れ切らない中、上空から淡い朱色を帯びた光の球がゆったりと下りてくる。
光の球は芳幸の前までやって来ると、小気味よい音を立てて消えた。
芳幸の腕の中には華音の存在があった。
自分を取り巻く状況に理解が追い付いていないのか、目の前に在る芳幸の姿だけをぼーっと見つめているようだった。
「華音」
名を呼ばれた瞬間。
夢うつつを彷徨っていた意識がはっきりと覚めたように、瞳を見開く。
横目に過ぎる、芳幸の苦痛に歪んだ表情。
口元から吐き出される鮮血の赤。
自分の身体に折り重なって倒れてくる芳幸の身体。
「……芳…幸、さ……?」
芳幸の身体と共に倒れ込み、尻もちをつく形になったというのに、そこへの痛みを全く感じない。
「…え…だって、今……“華音”って…」
呼んでくれたのに、と、独り呟いても答える声はない。
コロ…コロ……コツンと、微かな力で何かが足元に転がって来た。
そちらを見やると、芳幸から華音に渡してくれるつもりだったのか、寝室に置き去りにしてしまったはずの結婚指輪が在った。