出逢い編・前篇
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「…すまないのだ。当たらなかったのだ?」
アルバイトを始めて数日。
まだ慣れない動きで事務所の掃除をしていた華音の後方から、バサバサと何かが床に落ちる音がする。
そちらの方に視線を向けると、やってしまった…というような少し困った表情を浮かべる沢井芳幸の姿があった。
彼の足元には、大量…とまではいかないものの、それなりの量の書類や資料と思われる紙が散乱している。
「私は大丈夫です」
掃除を一時中断し、床に散らばったそれらを拾う事を手伝う。
自分の指先より、少し先の方にある用紙も拾おうと手を伸ばした時。
彼の指先と華音のそれが微かに触れた。
ドキン…と、胸がまた高鳴る。
「…っ…」
驚きと戸惑いとで咄嗟に手を引いた拍子に、紙の端で手を切ってしまったようだ。
指先に血が滲み、痛みが傷口周辺に広がっていく。
「大丈夫なのだ?手当てをしなければ。軫宿、救急箱は何処に置いてあるのだ?」
「書類棚の一番上の隅だ」
返ってきた言葉に礼を言って手早く残りの用紙を片付けた芳幸が、怪我をしていない方の華音の手を引き目的の場所まで誘導する。
近くにあった椅子へ腰掛けるように促されて、それに従った。
「手を貸してくれるのだ?華音」
これもまた、言われる通りに切り傷が出来た方の右手を差し出す。
その手が芳幸の手に包まれて、華音の鼓動はたちまちに早くなる。
「綺麗な手を傷つけてしまったのだ…オイラの不注意で本当に申し訳なかったのだ」
「…すぐに治りますから…大丈夫です」
絆創膏を貼り終えるまでの間、ずっと顔が熱かった。
いつもの熱を出す時のような熱さに似ていて、でも明らかに異なる感覚。
彼といると、感情の抑えが利かないどころか、どんどん溢れ出していく。
「終わり、なのだ」
「ありがとうございます」
いざ、温もりが離れてしまうと、今度は寂しさが華音の心を占める。
あまりの気持ちの変化の激しさに、華音自身もついていくのがやっとだった。
この気持ちは…何?
華音のものであって華音のものではないように思えてしまうそれに、不安を覚える。
それが表情にも表れてしまったのか、芳幸が首を傾げて問うてきた。
「…傷が痛むのだ?」
「だ、大丈夫です…っ」
それ以上、彼の前に留まる事が出来なくて、華音は芳幸から逃れるように立ち上がり、掃除の続きに徹する。
その後もしばらくは、早まる鼓動は簡単に治まってくれなくて、懸命に身体だけは動かして込み上げる気持ちを誤魔化していた。
――そうして夜になると、更に深まるその気持ちたち。
最近は特に、寝る前は彼の事が浮かんでは消え…その繰り返しで、すぐには眠れない日が続いていた。
ゴロン…と、身体の左側を下にして横に向いた時、右手の絆創膏が目に留まる。
入浴後に新しいものへと変える事はしたが、彼の温もりはまだ指先に残っているようにも感じられた。
トクン…トクン―――…。
昼間は少し激しいものであった胸の高鳴りは、今は穏やかなものだった。
苦しい…切ない……でも、温かい。
相反する気持ちであるはずなのに、全ての感情が繋がっている。
「…沢井…さん…」
彼の名前を唇で紡いでみる。
ただそれだけで、胸の内が熱くなった。
『華音』
自分の名を呼んでくれる声を思い出して、頬が火照っていく。
華音の中で大きくなる彼の存在。
どうして…?
何故―――…?
理由はいつも分からないまま。
今日もまた華音は眠りにつく―――…。
**§**
「…井宿。あんた、自分で気付いてるわよね?」
「だ…?」
彼女――芹沢華音のバイトがない平日。
花娟が器用に仕事の手は休めず、何の脈絡もなく芳幸に問うてきた。
問いの真意に気付いていながらも、知らぬ振りをするものの、花娟はそれを許さない。
「華音の事。仕事に影響が出る事だけは勘弁してよね」
「…気持ちの切り替えは出来ている、とは言えないところが、自分でも重症と言わざるを得ないのだ…」
観念して吐いた芳幸の本音に、花娟からため息が一つ漏れる。
「もうさっさと告白でもなんでもしちゃったら?その方が気持ちも整理出来るでしょうに。…まぁ、あの子もたぶん、同じ気持ちでいるんでしょうから?玉砕って事はないわよ」
「…彼女は名のある家の令嬢なのだし、そう簡単に事を運ぶわけにもいかないのだ…」
「え~、お嬢様だからとか気にしなくてもいいじゃん!普通に美男美女でお似合いだと思うんだけどなぁ」
「――み、美朱っ?どうして美朱がいるのだ。学校は…」
自然な会話の流れで割り込んできたその声に、驚く。
だが、それは芳幸だけだったようで、花娟が無言で指し示すものに芳幸の視線が誘われた事で、声の主である美朱がこの場に居る理由を即座に理解した。
同時に、芳幸はいささか自己嫌悪に陥るしかなかった。
「…もうそんな時間なのだ。これは本当にどうにかしなければ…」
時間さえも目に留まる事なく、仕事をしていたのか…。
否、仕事はもうほとんど無意識の内にこなしているだけだ。
ふとした時に彼女の事を考えている…そんな状態から抜け出せずにいるのが現状だった。
額に手を当てて、少しの間思考を巡らせた後、芳幸は静かに言葉を落とす。
「…令嬢なのが問題…というわけでもないのだ。誰よりも自身の身体の事を気にしている彼女だから、こちらから簡単に踏み込んで行ってはいけないような気がして…」
「その人を取り巻く環境もそうだけど…本人が抱える事情だって他人がどうこう出来るもんじゃないんだから、考えたってどうにもならないわよ。あの子の事をちゃんと井宿なりに考えてるなら、それで良いんじゃない?
井宿のその想いが伝われば、華音だって嬉しいはずよ。あたしも告白告白って簡単に言ってはいるけど…想いを口にする事には色んな意味があると思うわ。皆まで語らなくても、あんたの方が何年かは多く生きてるんだから、そのくらい分かるでしょ?」
彼女を困らせたくないとか…想いを告げる事で変に混乱させてしまわないだろうか、とか、そんな考えに囚われてばかりで、肝心な事を忘れていたかもしれない。
花娟の言うとおり、“告白”とは、ただ単に相手に想いを告げるだけのものでもないと、芳幸も思う。
告白した結果はどうであれ、自身にも相手にも、与えるもの得るものは何かしらあるはず。
気持ちの押し売りではない、という事を前提にした話ではあるが。
「…しっかり気持ちの切り替えをする為にも、自分の想いは伝えるのだ…」
「井宿ー、いっちょ気張ったり!」
「両思いだと思うから、心配はいらないと思うけどな」
「可愛いですよね、華音さん。井宿さんの前では明らかに反応が違いますから。僕でも分かってしまいます」
「張宿にそこまで言わせてしまう彼女も、本当に微笑ましいものだな」
「ある意味、井宿に染められないか、少し不安なところはあるが…」
「軫宿…どういう意味なのだ、それは」
想いを伝える事で、彼女に少しでも多く手を差し伸べる事が出来るだろうか。
儚く脆い存在でもある彼女を、少しでも護ってやる事が出来るだろうか。
自分とて、結局見ているだけではもどかしいのだ。
出来る事ならば、己のこの手で護りたいと、そう思うから―――…。
**§**
「おはようございます。今日も宜しくお願いします」
挨拶をしながら探偵事務所の中へ足を運ぶと、多種多様の挨拶が返ってくる。
それが華音には、心地良く感じられていた。
「今日は事務所の掃除からお願いねー」
「はい、荷物を置いたらすぐに取りかかります」
姉にアルバイトの話を持ちかけられた時は、正直、自分には勤まるはずがない…と思っていたが、環境に馴染む事さえ出来てしまえれば、それからは案外充実し、楽しくアルバイトの時間を過ごせていた。
学校でもまた、こんな風にスムーズに人間関係を築く事が出来れば良いのに…と華音は思う。
だが、それはやはり難しい事だろうか…。
この朱雀探偵事務所で上手く環境に馴染めているのは、働いている人たちが皆、最初から華音の事を別段、特別視せずに接してくれているという事が一番大きい。
“唯の一人の人間”として迎え入れてくれた事は、華音にとってとても嬉しいものであった。
事務所の奥にある、和室の部屋に設えられたロッカーの中へ鞄を置き、簡単に身なりを整える。
不安要素の一つであった体調の方も、最近は特に問題なく過ごせていた。
自然とアルバイトへの意欲も高まり、その心持ちのままに事務所の方へと再び足を運ぶ。
しかし、その半面では自分でも気づいていないところで新しい環境に馴染もうと必死になっていた部分もあったのか…。
華音自身も少し油断してしまっていたのかもしれない。
その日の仕事として任された掃除に思わず熱が入り、気になる箇所を見つけては身体を動かしていた。
最初はそのせいで身体が温まったのだろうと思っていた。
明らかにそうではない、と感じたのは、掃除を一通り終えて身を屈めていた状態から身体を起こそうとした時だった。
「…っ…」
一瞬、目の前の視界が歪み、その場に膝をつく。
「華音ちゃん、大丈夫?!」
近くで他の雑務をしていた美朱が、華音の異変にすぐさま気づいて駆け寄ってくる。
「…大丈…夫…」
彼女に支えてもらいながら何とか立ち上がろうとしたが、案の定上手く身体に力が入らない。
「疲れが溜まったんだろう。今日は早退してゆっくり休んだ方が良い」
スッ…と横から、大きな手が伸びる。
軫寿一――医療の知識を持っているとの事で、華音がこの事務所でアルバイトをするようになってから華音の身体を気に掛けてくれている青年。
「…はい」
自分としても、これ以上、大丈夫と言い通しても、結局は更なる迷惑をかけるに過ぎない事は分かっていた。
華音は寿一の言葉に素直に頷く。
改めて自分の身体の弱い面を突きつけられた瞬間であった。