事件編【Last File】
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おはなし箱内全共通のお名前変換「夢語ノ森」では基本、おはなしの中で主人公の娘っこの性格や年齢を書き綴っていく形にしていますが、特別設定がある場合もございます。
そういったおはなしでは説明頁の設置や特記事項がありますので、ご参考までにどうぞ。
当森メインの夢創作を楽しめますよう、先ずは是非、井宿さんにお名前を教えていって下さいませ
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――待ちに待った翌日。
マスコミの目を忍んで無事に辿り着く事が叶ったのは幸いだったと思う。
事務所の昼食休憩に入る時間を見計らい、愛羅と共に訪れた事務所で、華音は早々に芳幸に気持ちをぶつけた。
「芳幸さん、昨日のあれはどういう事ですかっ」
「…華音」
「父が頼み込んだわけでもないですよね…?」
「華音、少し落ち着きなさい」
「お姉ちゃんは黙っていて…!」
人目も憚らずに、感情のままに芳幸へ詰め寄る華音を見かねたのか、愛羅が声を掛けてきたが、それを制し畳み掛ける。
「ただでさえ芳幸さんにはいつも迷惑かけているのに、これ以上は大きな迷惑をかけたくないって…そう思ったから我慢もしていたのに…っ。どうして?どうして自らマスコミの前に出て行ったの!?」
どんっ…と、拳を作って彼の胸を叩く。
「…私…確かに意気地がなくて弱いけど…っ…家の事で芳幸さんを巻き込む事だけはしたくなかった…」
言いながら涙が込み上げてきて、ずるり…と勢いを失うかの如くその場に膝をついた。
「婚約発表なんて…どうしてあんな思い切った事したの…?せめて…相談して欲しかった…」
「華音に最初に自分の想いを告げた時も、今此の時も、オイラが自分の手で華音の事を護りたかった。だから、芹沢社長からの願ってもない提案に喜んで賛成したのだ」
華音に倣うように、芳幸もその場でしゃがみ、父と話した内容を詳しく教えてくれた。
――…は?今、何と?
――華音との婚約を公表する気はないか、と言った。
――…申し訳ありませんが、あまりにも唐突過ぎて思考が追いつきませんのだ…。
――ははっ。すまんすまん。芳幸君は私に言ってくれた。華音とは結婚も視野に入れた上で付き合っていきたい、と。華音と過ごす時間は少しでも多く、大切にしたいと思っている、と。
――はい。その気持ちは今でも寸分も変わりありませんが。
――芳幸くんがそこまで思ってくれているならば、もうこの際だ、こそこそせずにマスコミに君の存在をカミングアウトしてしまってはどうか、と思ってな。但し、華音には話さずに、だ。
――……本気で…仰っていらっしゃいますか?
――…私も冗談でこんな大きな駆け引きは持ち出さない。勿論本気だよ。
「勝手に決めた事は悪かったと思ってる。でもそれが君のお父さんの意思でもあったから」
姉が朱雀探偵事務所でのアルバイトの話を持ってきたあの時と同じように、華音の知らない所で事が進んでいた。
だが、その時と明らかに違うのは、今の華音の心には不安が大半を占めているという事。
彼の存在を華音に縛り付けてしまう事になるのでは…と、その事をどうしても不安に感じてしまう。
「…でも…ここまで公にしてしまって…後悔、しない?芳幸さんの気持ちを疑うわけじゃないけど……絶対に負担に思う事はない、って…言い切れるものじゃないと思うから…」
「華音の事が好きだから…華音に一人きりで背負い込ませるのはオイラが嫌なのだ。もうオイラも遊び呆ける歳でもないし、華音が居てくれればそれで十分なのだ。二人で一緒に今を乗り切るのだ?」
――誰かとならば、乗り越えていけるのかもしれないのだ――
――一人だったら出来ない事も二人でなら出来る事もあるかもしれないし――
心に刻まれている言葉たちが思い浮かんでくる。
「…私…本当は…心細かった」
「うん」
「…でも…私が弱音を吐いちゃいけないって…我慢しなくちゃって…」
「もう一人で苦しまなくて良いのだ」
「…芳幸さんに傍に居て欲しい…って…望んでたの…」
「居るのだ、華音の傍に」
燻っていたものを吐き出す華音に、全て頷いて答えてくれる芳幸。
華音の頬を手の温もりで包み込んで微笑む姿。
それは華音がずっと求めていたもの。
「…芳…幸さ…ん……芳幸さんっ…」
「華音」
呼ぶ名に応えて呼ばれる名。
その存在を離すまいと必死にしがみつく華音を、芳幸はしっかりと抱きしめてくれた。
「…うっ…っくうぅっ、良かったなぁ、華音…」
「…ちょ…、翼宿、何て顔してんのよっ!」
「せやかてっ…何やドラマ見とるみたいで…感動もんやないかぁ…ッ!」
むせび泣く声とそれを咎める声。
「ひとまずは安心…か?」
「美朱と唯も喜ぶなっ」
「華音はよく頑張っているよ」
「事も早く収束してくれると良いんですが…」
優しく見守ってくれる言葉たち。
――少しの間離れたって…っ…井宿も唯もあたしも皆っ、仲間で華音ちゃんの味方に変わりはないから!――
脳裏に浮かぶ唯と美朱の二人の顔。
…そう。
此処では仮面など必要なかった。
最初から華音という人間を温かく受け入れてくれて、心の拠り所となっていた大切でかけがえのない場所。
何も変わる事なく、華音が戻ってくる事を待っていてくれた。
「…華音…?」
――…だからこそ、張り詰めてきたものは容易く切れてしまうのかもしれない。
「……芳…ゆ…――」
抱きしめて貰っているというのに、身体に力が入らない。
混濁し始める意識。
芳幸の声が遠ざかる。
「華音……華音!」
意識は、深く、闇に引きずり込まれていく―――…。
**§**
力が抜け落ちる華音の身体を、芳幸は咄嗟に抱きとめた。
「っ…やはり…無理をしていたのだ…」
抱きとめた身体の重みは、芳幸が知っているものとは幾分か異なっていた。
色白…というよりは、どちらかといえば血色の悪いと言い表した方がしっくりくる肌の色。
熱感こそはないものの、生気に欠けるその姿にくっと唇を噛み締める。
「顔色が悪いな…貧血、か」
「――この子…食事という食事をろくに摂っていませんでしたの。母も私もいつ倒れてもおかしくないと心配してはいましたけれど…。好きなはずのピアノも少しの気休めにもならなかったみたいで…
弾きかけてはやめている姿が見ていられなかった。…これで良かったのかもしれません。気を張り続けているよりは少しは身体も休まるでしょうから」
「…車まで運びますのだ」
寿一と愛羅の言葉を耳にする中で、華音を腕に抱いたまま立ち上がる。
その様子を見ていた愛羅は、芳幸たちに深々とお辞儀をし事務所の外へ足を向ける。
愛羅の後姿を追いながら、久しぶりに腕に抱く存在を確かめるように、己の腕へとかかるその重みを身体で感じ取る事に意識を集中させていた。
華音が自宅で休養を取っているその間、芳幸は芳幸で己に降りかかってくる事柄と向き合っていた。
「……そっちがプロなら、こっちも伊達に探偵業をやっているわけではないのだ」
此の時ほど探偵という仕事が身になっていると感じた事はないかもしれない。
芹沢社長の目論見どおり、世間に華音との婚約を公表して早々、芳幸の周りではマスコミの姿が多く見られるようになった。
仕事帰りや芹沢家へ赴く際…または、たとえ仕事の最中だろうと、彼らは手を抜かない。
仕事で覚えた路地という路地を選び、入り組んだ道を只管に使えば、彼らもさすがに追いついてはこられないようで芳幸が勝利を収める事となるのだ。
今日も仕事の関係で外出している先で記者と鉢合わせ、何とか無事に撒く事が叶ったところだった。
つい周囲ばかりに気をやり、前方への注意を怠っていた芳幸の前に不意に小柄な影が飛び出してきて、自分にぶつかった事によりバランスを崩しかけた影の腕を咄嗟に掴んだ。
「だ、すまないのだ。大丈――君か」
「え…あ、沢井さん」
驚いた表情で見上げてくる彼女からゆっくりと手を離す。
「…そんなに慌てて…マスコミにでも追われていて?」
「まぁ…そんな所なのだ」
マスコミ関係でもなく、偶然に会ってしまった一条茉莉奈との間に何処となく妙な空気が流れる。
自然と生まれた沈黙を破ったのは彼女の方からだった。
「芹沢の名を上回る事は出来ないと思うけれど…でも、もう少ししたら今よりは緩和されると思うわ」
彼女の意図が掴めず首を傾げる芳幸に、彼女は口元を微かに綻ばせた。
「…私、高校を卒業と同時に結婚をする事になったの。一ノ瀬財閥のお孫さんと」
「一ノ瀬、財閥?」
忘れようも無いその名に眉を顰める。
「華音の事で一悶着あったんですってね。彼から聞いたわ。でも安心して。私も彼も別に何かをしようとしているわけではないから。お互いの家の為の縁談よ」
「…君は…それで良いのだ?」
「あら、心配してくれるの?だって、あなたはもう華音の婚約者だし、私には入る隙がないもの――なんて。私、決まった縁談には結構納得しているの。
彼ね、私と似ているような気がして…何だか放っておけないのよ。好きな存在ほど不器用にしかなれない所なんて特にそっくり。話を聞いた時はあまりにも似すぎていて可笑しくて笑ってしまったわ」
“好きな存在”とは、おそらく華音の事を指しているのだろう。
再び繋がろうとした華音との縁を手離したくないと必死になるあまり、自身を見失ってしまった彼女。
華音の存在に執着する余りに、愛というものに歪みを生じさせてしまった彼。
その二人の縁が繋がり、結びつく。
縁とは、本当に何をきっかけに何処で結びつくか分からないものだ。
「…おめでとう、を言うべきか」
「ふふ、ありがとう。華音にも…そうね、私の気持ちと一緒に手紙で伝えようと思っているの。だから…華音があの事務所に戻れる時が来たら、私に連絡を下さる?沢井さん」
ほんの少し思考を巡らせてから彼女の言葉に頷く。
「…分かったのだ」
「嬉しい。最初で最後の沢井さんからの連絡を楽しみにしているわ。お祝いの代わりね」
――私は、あの子にとって永遠に悪者で良いの――
あの時の彼女とはまるで別人のようだと思った。
あくまで強気な姿勢は変わる事はないが、表情をここまで明るく豊かに出せる娘なのだと、芳幸は今初めて知ったように思う。
華音に対して似た境遇を持つ者と出逢い、気持ちも共有する事で彼女の中で何かが変わったのだろうか。
「沢井さんに会えて良かった。華音にどう伝えようか迷っていた所だったから。じゃあ私はこれで。次に会う時が最後になるかしらね」
笑みを残して駆けていく彼女の姿から視線を外し、今の時季はほとんどの葉を落としてしまっている、肌寒そうに地から幹を伸ばした街路樹を見上げる。
「…華音が笑ってあの子の事を話せるのも…近いかもしれないのだ」
独り呟いた言葉に肯定するかの如く、寒気を帯びた風が芳幸の頬を撫でていった。
**§**
自宅待機が解かれ、およそ十日ぶりに高校へと登校した帰りに、顔見せも兼ねて探偵事務所に立ち寄った。
「良かったわねー、華音。学校に行けるようになって!」
「少しずつ周囲も落ち着いてきた兆しでしょうか」
先日、芳幸に婚約発表に至った次第を聞く為に足を運んだ事務所で、途中から意識を失うように倒れてしまったというのに、それよりも何よりも先に事が収束に向かい始めている事に共に喜びを感じてくれている事が嬉しく、華音も笑顔で答える。
「はい。さすがに記者の方たちも事件にこれ以上の発展はない事を理解してくれたみたいで、家への張り込みもほとんどなくなりました。…その分、芳幸さんの所に行ってしまっていないかが心配ですが…」
「オイラは上手くやっているから大丈夫なのだ」
「そうだな。井宿がどうかわしているかまでは分からないが、事務所に支障をきたしているような事は今のところない」
芳幸に頷き、添えられた賁絽のその言葉を聞いて胸を撫で下ろす。
「体調も落ち着いたみたいだな」
「…ご心配をおかけしました…。食事も喉を通るようになったのでもう大丈夫です」
「元気になったならそれで良い」
「せやせや。動けんかったら何も出来んさかいな!」
「華音、食欲に関しては美朱を見習った方がいいぞ。あいつ寝込む時でも食べ物の事を考えるのは忘れないからなー」
「……美朱ちゃんをお手本にするのは、私には難しそうです…」
「――お話中に申し訳ないけれど、失礼します」
不意に会話に割って入ってきた凛とした声に、ハッとして振り返る。
事務所の出入り口には背を向けていた為にそれまでは気づかなかったが、一条茉莉奈がこちらへと歩んでくる姿があった。
「…茉莉奈…」
「今日、華音が此処に寄ると聞いていたから、オイラが呼んだのだ」
そう言葉を紡いだ芳幸に視線を向ける華音へ、す…と一通の封筒が差し出される。
芳幸から茉莉奈へと視線を戻し、差し出されている封筒を戸惑いながらも受け取った。
「私の気持ちを書いてみたの。気が向いたらでもいいから読んでちょうだい。…私ね、縁談が決まったの。今日はその報告に来たのよ」
「…縁談?」
「そう。華音が断った縁談相手の一ノ瀬悠斗さんと結婚するの、私」
彼女と再会してからは、いつも唐突な事ばかりで思考がすぐに追いつかない。
瞬きを繰り返して彼女の事を見つめていると、華音も知っている微笑を浮かべて茉莉奈は更に言葉を紡いだ。
「今週末にはマスコミにも公表をする予定になっているから、沢井さんに向けられている興味も少しは薄れると思うわ。芹沢の名みたいにごっそりというわけにはいかないでしょうけれど、それなりに効果は得られるはずよ」
「………」
礼を言うべきか…それとも祝福の言葉を述べるべきか…何から言葉を返して良いのか分からず、言葉無く手に収まる白い封筒に視線を落とす。
「これからは環境も変わって忙しくなると思うから、私はもう華音の前には現れない。今日で最後にするわ」
ふわりと、彼女の髪が華音の前で舞うと同時に、耳元で紡がれる言葉。
「…沢井さんとお幸せに…」
そのままくるりと優雅な身のこなしで身体の向きを変え、茉莉奈は華音に背を向けて歩き出す。
「…待っ、てっ…」
華音は咄嗟に彼女を追いかけて手首を掴んだ。
華音の行動に驚いたのか、茉莉奈が振り返った拍子に自然と彼女を掴む手は離れた。
「……私……私―――…」
伝えるならば今だと思った。
今回の騒動を通して気づいた事がまた一つある…。
自分の意思を伝えようと思うのに、震える身体。
彼女に気持ちを伝えようと思うならば、これではいけないと自分を叱咤し、とにかく言葉を紡いだ。
「…私さえいなければ…って…何処かで思ってた。そうすれば、お父さんもお母さんもお姉ちゃんも…私に迷惑を掛けられないですむのかなって…そう思ってたの。
だから、茉莉奈に言われた時…中学の教室を飛び出して家に戻った後で、
自分が存在する意味を見失った私は、自分にカッターの刃を向けた」
「…華音…」
「たまたま家に居たお父さんが部屋に飛び込んできてくれたから、傷一つ負わずに済んだけど。でも、今回の騒動があって…あの時の自分がどれだけ自分勝手だったのか良く分かった。
もし本当に私があの時に命を絶っていたら、お父さんの仕事も人生も――ううん、父だけじゃない、家族や茉莉奈…あなたの生活まで狂わせていたかもしれないって、そう考えたら怖かった。
でも、それが芹沢華音なんだってそうも思ったの。だったら、もう“芹沢”の人間として押し通せば良いって…そうする事で私にも護れるものもあるって気づいたの。それに、たとえ“芹沢”の人間で在っても、
今の私には“華音”として見てくれる人たちが居てくれるから、どんな自分でも構わないってそう思える」
それまでは顔を俯かせていたが、此の先からは茉莉奈の瞳を捉えて自分の思いを告げる。
「今回の事は、最初に茉莉奈から話を聞いていたから、その後で父から話された事も、テレビから流れてくる情報も…不安はあったけど、素直に受け入れる事が出来たんだと思う。私の事を心配…してくれてありがとう。私は、芳幸さんが知っている茉莉奈も信じたい」
驚きに動きを止めていた彼女の表情が、ふ…と柔らかなものに変わる。
「…もし…もしも、よ。芹沢グループと一ノ瀬財閥…それと一条の名で提携を組む事があったとしたら…その時は華音、あなたが間を取り持ってくれる?私も彼も…あなたの家からは信用に欠ける立場でしょうから」
華音に向けて茉莉奈の右手が差し出される。
その手に自分の右手を重ね、華音は頷いた。
「縁があったその時は…受け入れるわ」
「……私、やっぱりあなたの事を嫌いになんてなれない。昔も今もずっと…――今まで苦しめてばかりでごめんなさい。…さようなら、華音」
手が離れ、背中も離れてゆく。
「…華音」
茉莉奈の姿を見送っていた華音は、ゆっくりと身体の向きを変えた。
「…私…ずるい、ですよね。今更過去を曝け出して…婚約を取り消されても仕方な――」
「よく…自分とも彼女とも向き合ったのだ。何を聞いても、オイラの心は華音の傍に在る」
抱きしめられる腕の中で、涙が零れ落ちる。
「私、茉莉奈に嫌われたんだと思っていた。私が茉莉奈の時間を奪ってしまったから…二人で過ごした時間が楽しかったのは私だけだったのかなって。
でも、入学式の日に声を掛けてきてくれたのは茉莉奈の方からだったから。お互いに同じ気持ちはあったって…信じていても良いですよね?」
「気持ちがすれ違っていたのは一時だけなのだ。華音の記憶に在る彼女を信じて大丈夫なのだよ」
「…はい」
目を閉じて、茉莉奈から貰った封筒を胸にそっと抱きしめた。
**§**
――それから三ヶ月という月日が流れ…。
世間の熱というのは、話題のピークが過ぎ去ってしまえば何ともあっけないもので、華音の周りにはすっかり元の平穏さが取り戻された。
高校生活最後の冬も二月に差しかかった頃。
ある私立大学の敷地内にて、華音は唯と共に臨時で設けられた掲示板の前に立っていた。
周囲では、歓声と嘆声、相反する反応が飛び交う中、手の内にある受験番号と同じ番号を掲示板の張り紙に見つけて、安堵の溜息を漏らす。
受験前に色々とあり、どうなるかとも思われた大学受験も無事に合格出来たのを確認した後、隣に居る唯の方を見るとVサインが返ってきた。
「四月から一緒に電車通学だね」
「うん」
唯と両の掌を合わせ、お互いの合格を喜び合う。
その後に合格発表を終えた足で向かった朱雀探偵事務所では、美朱を含めた皆が顔を揃えて待ってくれていた。
「華音ちゃん、唯ちゃん、どうだったっ?」
「二人でばっちり合格」
「ほんとっ?おめでとう!」
華音と唯との双方に手を伸ばしてきた美朱にぎゅっと抱きしめられる。
そんな彼女の肩越しに、芳幸が華音の元へ歩み寄ってくるのが見えた。
「華音」
「…美朱」
「うんっ。ふふふ~♪」
「……?」
芳幸の口から華音の名が呼ばれると、唯から目配せを受けた美朱は、華音から身体を離し華音の肩をそっと押した。
美朱の行為によって華音も芳幸に歩み寄る形となり、芳幸との距離は数十センチ程までに縮まる。
「合格祝いなのだ」
そう言って芳幸が掌に包んでいたものを華音に見せるようにして開き、華音の右手を取る。
「…公表の方が先になってしまったから、オイラのちゃんとした気持ちなのだ」
右手の薬指に嵌められる一つの指輪。
途中から緩やかにカーブを描く様に輪の形を作る細身の銀色のリングの先が行き着くのは、ピンクダイヤモンドか…透き通った薄桃色が輝く控えめな大きさの宝石だった。
「…これって…」
「エンゲージリング」
「井宿に頼まれて、あたしと唯ちゃんと柳宿も一緒に探したんだよ」
後方に居る美朱と唯、少し離れた所に居る花娟に順番に視線を移し、それから芳幸を見上げて、最後に右手に輝く指輪をもう一度見つめた。
「…エンゲージ…リング…」
芳幸の言葉を自分の唇でも繰り返す。
指輪はひんやりと冷たくて、華音の指で存在を主張していた。
これは決して夢などではなく、確かに現実に起きている事で…。
「…私…本当に芳幸さんと婚約、したんですね…」
目まぐるしい変化を伴って押し寄せてきた日々が落ち着いた今になって、漸く“婚約”という言葉を噛み締めることが出来たような気がする。
それでもやはり、まだ何処か夢見心地でいた華音の身体がふわりと抱き上げられる。
誰よりも高い位置から皆を…芳幸さえも見下ろす空間に華音は身を置く事となった。
「…芳幸さんっ…私、重いです…っ」
「華音を抱き上げられるくらいの力はあるのだ。怖いか?」
「…いえ、怖くは…」
ないです、という言葉は、至近距離で交わる芳幸の瞳に呑み込まれていくようだった。
身体全体に伝わり来る芳幸の温もりを感じながら、芳幸の言葉を聞く。
「華音が嫌だと言っても離さないから覚悟しておくのだ」
「芳幸さん…」
「おめでとうっ、華音ちゃん、井宿!」
「幸せにならなくちゃね、華音」
「…もう結婚までもまっしぐらって感じ?今度は大学卒業と同時に結婚発表かしら…」
「…柳宿、気が早いだろ。まだ大学も受かったばっかだってんのに」
「短大なんてあっという間でしょ」
「華音が此処に来てからのこの一年半程も早かったように思うからな」
「美朱さんと魏さんの結婚式ももうすぐですし、御目出度い事が続いていくようで嬉しいですね」
「よっしゃあぁ!今日は祝い酒やッ。ぱ~っと騒ぐでー!華音らも酒は解禁じゃっ」
「…華音たちはまだ駄目だ。未成年だぞ」
華音の周りに出来上がっていく輪。
その中心に居るのは紛れもなく自分自身で…。
「…私、今凄く幸せです。芳幸さんも…少しでも同じように感じてくれていますか…?」
「幸せなのだよ?華音と居る時間は何にも代え難いものだから…二人で幸せになるのだ」
どちらかに偏る幸せではなく、二人で同じ分の幸せを分かち合いたい。
そう思うから―――…。
「はい」
芳幸の言葉に笑顔で頷いて答えた。
**§**
雪の季節から桜が芽吹く季節へ。
足早に季節が移り変わった、春の麗らかな日の午後。
「…華音の席は、今日は此処」
高等学校の卒業式を終えた華音は、朱雀探偵事務所に呼ばれた。
受付で華音が来るのを待っていたらしい花娟に誘〔いざな〕われて腰掛けた場所は、食事休憩をするテーブルの前。
しかし、いつも座る席とは異なるその場所。
華音だけではなく、皆が座る席もそれぞれ違っていた。
皆の中に美朱と唯の姿は見当たらない。
魏、賁絽、花娟、芳幸、翼、寿一、素煇。
華音が一人で事務所の入り口側を背にして座ったのに対し、華音から向かって左側からその順で座る芳幸たち。
芳幸が中心に座っているのは珍しいと思う。
どちらかといえば、芳幸はさり気なく皆を見渡せる位置…輪の端に身を置いている印象が強い。
「ねぇ、華音。この世界とはまた違う異世界の物語を華音にはその内話すって、前に芳幸が言ってた事、覚えてる?」
「…はい、覚えてます」
「高校を卒業して新たな道を歩き始める華音に、今日、その話を聞いてもらおうと思って」
「え、でも、お客様が来てしまったら…」
「臨時休業のプレートが外に掛けてあったの見なかった?」
「疑問に思いました…けど…」
「あたしたちの大切な出逢い、よ。あたしたちが華音に聞いて欲しいの」
外の道路に面する窓にはブラインドが半分ほど降りており、ガラス戸の入り口には、華音を席へと案内する前に花娟の手によって閉められたカーテン。
ほの暗い室内を照らすのは、蛍光灯ではなく、テーブル上に置かれたアジアンテイストの照明。
少し暗さを帯びているとはいえども、部屋内の明るさを保つのにその照明の明かりだけで十分だった。
今までにない何処か神秘的な空気が事務所を占める中で、華音は花娟の言葉に頷いた。
華音の反応を合図にするように、芳幸たちから言葉が紡がれる。
「鬼宿」
「星宿」
「柳宿」
「井宿」
「翼宿」
「軫宿」
「張宿」
「オイラたちは…朱雀の星の下に宿命を持って生まれた七星士」
いつか華音が見た夢。
あれは美朱は結婚式の夢だと言っていた。
似ているようで違う空間。
ふわり。
ふわり…。
朱の鳥のような羽が彼らに舞い降りるのを、華音は確かに見た。
「……井宿…」
美朱や彼らがお互いに呼び合っているその名が、華音の口からも零れる。
仕事上で呼ばれるあだ名だと思っていた。
だが、今の彼にはその名が最も相応しいように思えて、声となって紡がれた。
「華音もその名で呼んでくれるのだ?」
はっと芳幸の声に我に返り、彼の方を見る。
――シャン…。
鈴のような、金属同士が奏でる独特の音。
風に靡く大きな布。
それらを持ち合わせる者の姿が華音の中に流れ込んでくる。
「…ッ…」
――涙が零れて瞳を伏せた。
あまりにも胸の内が痛くて…。
彼が抱えている傷も痛みも苦しみも…きっと華音には計り知れないもの。
それを感じ取るように、溢れ出す涙は止まらなくて、知らず知らずの内に自分の左目を自分の手で覆っていた。
おそらく彼の心に潜む傷に繋がるであろう場所と同じ部分―――…。
「君には参るのだね。話をする前に感じ取ってしまったか…」
「…すみません…お話を…続けて下さい…」
決して…。
御伽噺のような綺麗な物語ではない。
芳幸たちの口から語られたのは、多くのものを護る為に戦いへと身を投じた、巫女と戦士たちの壮絶な物語だった。
「……ありがとう、華音」
長くもあったであろう物語を聞き終えながら机に頭を預けて眠りに落ちた彼女の肩へ、薄手のブランケットを掛けた芳幸はそっと華音の柔らかな髪を撫でた。
「…ん……井、宿…」
「この子、一体どんな夢見てるのかしらね。何処までも感性豊かな子」
「そっくりそのまんま夢に見てんのとちゃうか?」
「…美朱と唯ちゃんが巫女なら…華音は宝なのだ」
「磨く事で輝きを増していく…未知なる可能性を秘めたダイヤの原石といったところでしょうか」
「さっすが張宿だな~」
「今までは…彼女の存在が遠すぎて多くの者が気づけなかったのだろう」
「まだこれからですね、華音は」
愛おしげに華音の事を見つめる芳幸に、仲間の彼らも温かな眼差しを向ける―――…。
**§**
さわさわさわ―――…。
緑豊かな草原が風に揺れる地に立ち、華音は小高い丘の上から見知らぬ町並みを見下ろす。
少し離れた場所には、城のような大きく立派な建物が存在しているのもよく見えた。
「華音」
名を呼ばれてゆっくりと振り返る。
「…芳幸…さん…?」
「オイラたちのもう一つの世界へようこそ、なのだ」
「…あなたは―――…」
そよぐ風に巴の紋様が描かれた布を靡かせるその者が大きく腕を広げる。
左眼に傷跡を刻んだ彼の腕の中へ、地を蹴って思い切り飛び込んだ。
――おわり――
◇あとがき+ちょこっとおまけstory◇
お、終わった…(脱力)
四神天地書の世界とちらほらシンクロはさせていましたが、まさか最後の最後にこうなろうとは―――…。
少し前までどう終わらせようか管理人も悩みまくっていたんですが、ふと、本当に不意に思い浮かんだ勢いで完結させました、はい。
「ふしぎ遊戯」のファンとしましては、やはり四神天地書に入る事は夢でもあり、憧れですしねっ。
主人公が芳幸ともに一時でも実際にあちらの世界へ行けたのか、それとも単純に主人公が見る夢だったのかは読み手様方のご想像にお任せします♪
とはいえ。
実は肝心な問題点が一つありますよね。
魏――こと、鬼宿以外の七星士は“四神天地書”の世界を“本の中の世界”として理解しているのか?
これは敢えて答えを出しません。
じゃあ問題点として触れるなよって感じですが、鬼宿含め七星士にとってはあちらの世界も“自分たちの故郷”ですから、
“本の世界”と知っても知らなくても誰もが同じ思いに行き着くと思うんです。
鬼宿も実際そんな感じですよね?確か。
なので、理解しているのか?については白黒はっきりさせないままにしておきます。
まぁ、結局は現代パラレルのくせに下手に四神天地書の世界の記憶とシンクロさせた管理人の自業自得なんですけどね(笑)
でも、井宿のあの過去なくして“井宿”というキャラクターは成り立たないと思っている管理人なので、そこは管理人の意地なのですっ。
ところで、これは少し余談になりますが。
今回、最終回のBGMは佐藤朱美さんの「わかっていたはず」です。
主人公と芳幸が離れている間とか、歌詞も所々マッチしている部分もあってオススメです!(笑)
そして最後の最後…芳幸たちから話を聞き終えた主人公が眠る辺りからでしょうか、アニメで言えばスタッフロール的なものが流れてきそうな部分からは、管理人の中でTHTC(翼宿&井宿)の「青い自由。白い望み」が何気なく流れていました。
歌詞でいうと“君がいて 僕がいて 皆がいて”の部分がフェイドインして入ってくる感じです(どれだけ細かい妄想なんだ…!)
さてさて、お話はこれくらいに留めておきまして。
前篇から合わせて大事件を通しての完結となりましたが、いかがでしたでしょうか?
芳幸、花娟、賁絽、翼、素煇、寿一(魏、は原作でも存在しているのでこの六人ですね)。
この名前たちともお別れなのが何とも名残惜しい思いではありますが、次の長編作品へ頭を切り替えますっ。
今度は原作ベース+オリジナル傾向で四神天地書の世界が主な舞台です。
宜しければ、またそちらでもお付き合い下さい。
最後になりましたが、朱雀探偵事務所へようこそ!を最後まで読んで下さりありがとうございましたm(_)m
(↓ギャグ的なおまけはこの下です↓芳幸のちょっとした受難話↓)
【朱雀探偵事務所へようこそ!完結(2014.11月)】
―管理人*響夜月 華音―
**§****§****§**
華音の事を分かっているつもりでも、彼女が身に付けるものとなれば、やはり自分だけではどうにも心もとない。
そう考えた芳幸は、華音に贈る為の婚約指輪なるものを共に選んで貰おうと花娟、美朱、唯の三人に声を掛けたのだが…。
「…あの…つかぬ事をお聞きいたしますが、どちらの方が本命でしょう?」
何軒かの店舗を回り、行く先々で店員から申し訳なさそうに同じ質問を切り出されて、さすがの芳幸も頭を抱えたい心境だった。
「本命は他にいるのだ…」
「…普段は慎重なくらいまで気を回せるのに、こういった事には疎いっていうか…。気をつけた方がいいわよ、芳幸。大丈夫…だとは思うけど、万が一変な誤解でも生んでみなさい?
華音はあの通りの性格だし、あの子の方から身を引こうものなら一気に破談よ。シャレにもなんないわ」
「……破談…」
花娟に悪気がない事は分かってはいるが、その言葉に過去の記憶が脳裏を掠めていき、思った以上に芳幸の胸の内に重くのしかかった。
「花娟さん…今のは禁句だったんじゃ…」
「…え?…あぁ、そういえば婚約者にトラウマでもあるんだった?やぁねぇっ、本気にしないでよっ。たとえばの話じゃない」
「…ごめん、井宿…あたしも一回やってるんだよね…」
「美朱、あんたもかっ…」
「――あっ、思い出しましたっ。お客様何処かで見覚えのある顔だと思ったら、芹沢グループの御令嬢のご婚約者様ですよねっ?エンゲージリングとご一緒に是非マリッジリングも……あの…お客様…?大丈夫ですか?」
珍しくも大層沈んだ空気を漂わせる芳幸が回復するまでには、それなりの時間を要したそうな。
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※美朱に関しては、確かアニメの温泉バスツアーか何かのおまけ話(超曖昧)で、術で女装した井宿に「それ亡くなった婚約者さんがモデル?」とか何とか突っ込んでいたような…。
微妙なところから引っ張ってきたネタですみませんorz
あ、言っておきますが、これは愛あるいじりですのでっ!
石は投げないでくださいねっ。