事件編【Last File】
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おはなし箱内全共通のお名前変換「夢語ノ森」では基本、おはなしの中で主人公の娘っこの性格や年齢を書き綴っていく形にしていますが、特別設定がある場合もございます。
そういったおはなしでは説明頁の設置や特記事項がありますので、ご参考までにどうぞ。
当森メインの夢創作を楽しめますよう、先ずは是非、井宿さんにお名前を教えていって下さいませ
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何度も廻ってくる縁とは…。
果たして、何を意味しているのだろう。
それだけ深く繋がっているのか?
それとも―――…。
彼女との縁が、また華音の元に繋がる。
世の中をも巻き込む大きな事件の始まりを携えて…。
**§**
朱雀探偵事務所の入り口はガラス戸だ。
入り口周辺の様子は中からでも良く見える。
来客が途絶えた午後の時間。
唯と共に受付周りの掃除を担っていた華音は、ガラス戸の向こうに見えた一つの人影に気がついて、咄嗟に唯の後方へと身を隠した。
「…華音?」
「……どう…して…」
「え…?」
「井宿」
唯との間で飛び交う言葉を聞いていた花娟の瞳が、事務所の外を見つめながらすっと細められた。
名を呼ばれて花娟からの目配せを受けた芳幸がデスクを離れ、華音と唯の傍らまで歩んでくる。
ガラス戸を隔てて佇むその者は、顔を俯かせ、中へと入る事を躊躇っているようだった。
華音には一目見るだけで分かってしまったその姿。
ちらりと、華音の方に視線を投げかけた後で芳幸の足が動いた。
「…入るのだ?」
入り口の扉を身体で支え、芳幸が佇むばかりの者に言葉を投げかける。
少ししてその彼女からも声が上がった。
「……華音と…話をしたくて…」
「…っ何を話すって言うの…?私は…」
唯の背中の影に隠れさせて貰いながら言葉を搾り出すようにして口を開く。
それには、事務所を訪れた彼女は、顔を上げて華音の事を真っ直ぐに見つめてくる。
「…二人きりでなくても構わないわ。そう思ったから学校が休みの日を選んで来たの。…自分勝手な事も良く分かっているけれど…お願い、華音。私と話す時間を作って欲しいの」
「……この場所を貸して頂けるのなら…」
強気な口調は彼女らしいものだったが、必死さは十分に汲み取る事が出来るが故に、華音は小さく頷いた。
「ちょうどお客さんもいないし、うちは構わないわよ。宜しいですわよね?星宿様」
「華音が使いたいように使うと良い」
「…ありがとうございます…」
唯から離れて僅かに彼女――一条茉莉奈の方へ歩み寄る。
「一番奥に行くのだ?」
「はい」
芳幸が彼女との間に立つ形を取ってくれている事で、自然と華音を先頭として事務所の最も西側に位置する応接席まで移動する運びとなった。
華音は壁側に近いソファーへ腰を下ろし、その向かいに茉莉奈が座る。
二人の間には芳幸が立ったままで沈黙が流れる中、茉莉奈は何処か重い口を少しずつ開いた。
「……父の会社の取引先の人から…変な噂を聞いたのよ。芹沢グループ会社の支社の内の一社に刑事が出入りしているっていう噂。華音、あなたは知っていて?」
「…刑、事…?」
予想もしていなかった単語が彼女の口から語られて、そっくりそのまま聞き返す事しか出来なかった。
「その噂は確かなのだ?少しでも信憑性がなければ、ただ華音の不安を煽るだけだという事は君にも分かるだろう」
「…沢井さんの言う通り、華音に話を切り出そうか正直迷ったわ。けれど…話を聞いてから胸騒ぎがして仕方がないのよ。…信じて貰えないかもしれないけれど……私…その…華音の事が心配で…」
「…嘘…よ。そんなのただの噂に決まってるっ。いくら仕事の話だからって、大変な事になっていれば私にだって話してくれるはず…――そうよ、お姉ちゃん。今日は家に居るし電話で…っ」
ソファーから立ち上がり、携帯電話を取りに行こうとした華音の手を芳幸に引き止められる。
「待つのだ、華音。携帯ならオイラのが此処にあるからこれを使えばいい」
「……すみ…ません。お借りします…」
少しでも早く不安を取り除きたい…。
差し出された携帯電話を躊躇なく借りる事にした。
姉と電話が繋がり、多くは語らず、聞いた内容から重要性のありそうな言葉を二つ三つ口にしただけだったが、電話越しでも一瞬にして張り詰めた空気が漂った事が華音にも分かった。
「…お姉ちゃんが…来るそうです…」
僅かな時間で電話を終え、芳幸へ携帯を返しながら力なくソファーへ再び座る。
姉がわざわざ来るという事は、噂は嘘でもないという事か…。
華音が抱いた不安は、消えるどころか少しずつ育っていく。
数十分した後、事務所に“失礼します”という声が響き、また一人応接席の空間に新たな存在が加わった。
「…あなたは一条家の…――妹に余分な事を吹き込んでいないでしょうね?」
華音と向かい合う茉莉奈の姿を見た愛羅は、はっと息を呑んだが、すぐに視線を厳しいものへと変えた。
「それよりも…華音と同じ、社長の娘という立場でしかないあなたが、一体何処から噂を耳にしたのかしら」
ふぅと短い息を吐いた後で、華音へと視線を移してくる。
「ここから先はビジネスの話よ。あなたは席を外しなさい、華音」
「…どうしてっ。茉莉奈も聞いていい話なら私にだって聞く権利はあるでしょ!」
「茉莉奈さんには話を聞かせてもらわなければいけないからよ。…申し訳ないけれど、沢井さん。華音を連れて行って下さる?今の段階でこの子に話を聞かせる訳にはいきませんので」
「私は自分の意思で聞くのっ」
「…沢井さん、妹を護りたいと思って下さるのなら、協力して頂けますかしら?」
「華音、すまない…」
ソファーから断固として動くまいとしていた華音の身体を、芳幸に軽々と抱き上げられる。
「…い、や…離してっ、芳幸さん」
抗っても無駄だとは分かっていても、華音にも譲りたくない気持ちはある。
だが、そんな思いも空しく、華音は芳幸と共に和室のある部屋へと来てしまった。
芳幸は華音を畳の上に一度座らせ、そのまま肩を押されて二人で重なり合うように倒れ込んだ。
両の手首をほんの少し痛みを感じるくらいに芳幸の手によって強く縫いとめられる。
「…芳幸…さん…?」
「離さない。行かせない。理由を聞きたいのだ?」
「……っ…」
本当は分かっている。
姉の自分に対する接し方が明らかに異なっていた為に、余程の事情なのであろうとは華音とて理解しているのだ。
おそらく、身体的な面でも心配してくれているのだろうという事も。
それでも―――…。
「…いつも…護って貰っているだけは…嫌なんです…」
「分かっているつもりなのだよ」
手首を掴んでいた手の力が弱まり、薄っすらと赤みを帯びてしまったその部分をそっと撫でられる。
「手荒な真似が過ぎたのだ…」
「…大丈夫、です」
姉と同様に、芳幸もそれだけ華音の事を想ってくれているという事。
それが分かってしまえば、芳幸を押しのけてまで再び事務所の方へ戻ろうとは思えなかった。
「何が…起きようとしているんでしょうか…」
不安を隠せず、ぽつりと言葉を落とす華音から芳幸が離れていく。
芳幸に倣う様に華音もゆっくりと身体を起こした。
「何があろうとも…オイラたちの想いまでを引き裂く事は出来ないのだ。華音への想いだけは護り通してみせる」
「…芳幸さん…」
肩を抱き寄せられて、すぐ傍に存在する芳幸の肩へ頭を預ける。
お互いの想いを得るように、華音の右手と芳幸の左手が強く固く繋がった。
**§**
「…華音、話がある。こっちに来て座りなさい」
夕食後、父に促され、華音は食卓の席からリビングのソファーへと移動した。
カチャカチャ…。
母の食事の片づけを行う音を遮り、父の口が動く。
「もうお前にも隠せる事ではないから、混乱させる前に話しておこう。良く聞きなさい。…まずは、アルバイトはしばらく休むんだ」
「…え?」
「復帰できる目処は直ぐには立てられん。無期限でバイトは休みなさい。芳幸くんたちの所には愛羅から連絡を入れさせよう」
いきなりの父からの通告に、戸惑うばかりで反論すら出来ない。
話はまだ続くのだろうが、聞くのが何だか怖くて瞳を伏せた。
「さて、本題だ。芹沢グループ会社の支社で社員が騒動を起こしているんだが…。残念ながら一条家の娘さんが言っていた事は単なる噂ではなく、
事実そのものだ。警察も立ち入っている」
「…茉莉奈さんが華音に会いに来た時点では、まだ本社でも一部のみの人間しか知らない極秘事項だったのよ」
「……!」
隣に座る愛羅からもそう言葉が付け足される。
週末から三日が経った今日。
そのたったの三日という時間で、極秘事項であった事が華音にも知らされるまでになった。
騒動、警察の立ち入り、極秘事項。
日々を送る上ではあまり馴染みのない言葉たちは、華音の頭にくっきりと鮮明に刻まれる。
「また困った事に、事の発端である社員が行方を晦ましているんだよ。騒動に白黒もついていない状況ではあるが…警察の働きで、おそらく真相は数日内に明るみに出るだろう。マスコミも…黙ってはいないだろうな。
事実にない事まで騒ぎ立てる可能性もある。…華音。お前にはしばらくの間気苦労かけるかもしれんが、辛抱してくれ。状況が状況なだけに芳幸くんたちに迷惑をかけるわけにもいかない。彼らも商売をしているからな。分かってくれるな?華音」
「……はい」
父が言う事は正論だ。
故に頷くより他なかった。
「…部屋に戻っても良い…?気持ちの整理したい…」
瞳を伏せたままに立ち上がる。
父も姉も引き止める事はしなかった。
リビングを後にして自室へ戻った華音は、勉強机の前に座った。
机の引き出しから日記帳を取り出し、ぱらぱらと頁を捲る。
日常の事や華音の気持ちが綴られた日記帳。
日記の内容を読み返すでもなく、無心に頁だけを捲り続けた。
最近書いた頁まで辿り着いて、“携帯”と綴られた単語に引かれるように机の上に在る携帯電話へ視線を移す。
日記の頁を開いたまま、携帯電話を手に収める。
折りたたみ式のそれを開き、ボタンに指を滑らせた。
電話帳から“沢井芳幸”の名を選んで通話ボタンを押すが、すぐさま電源ボタンに指を伸ばし、呼び出しが始まってしまう前に携帯の動作を中止させる。
――状況が状況なだけに芳幸くんたちに迷惑をかけるわけにもいかない。彼らも商売をしているからな。分かってくれるな?華音。――
父の言葉が思い出されて、日記帳の上に携帯電話を置く。
机に肘をついて手の甲に額をあてがい、ふぅと短い息を吐いた。
日記帳と携帯電話とを見下ろしながら、華音は自分の心に問う。
――私は誰?
――芹沢グループ社長の娘、“芹沢華音”。
重みのある名。
家の名を振り翳す事は苦手だった。
それに加えて弱い存在である自分さえも嫌で、人と深く関係を築く事を避けていた。
――そう。
何も難しい事ではないではないか。
芳幸たちに会う前のその時の自分に戻ればいい。
自分自身を見つめ続けるだけの自分に戻れば。
不必要に周囲を巻き込む事はないのだから。
携帯電話を元在った場所へ戻し、日記を閉じる。
その日記帳もまた引き出しの中へと手早く仕舞い込んだ。
部屋に置いてある鏡台の前に立って、一人自分の名を紡ぐ。
「…私は…芹沢華音、よ」
私は今日から、令嬢という名の仮面を被る―――…。
**§**
キキッ―――…。
朱雀探偵事務所前から少し距離を取った道路脇に、一台の黒塗りの車が停まった。
「華音お嬢様、お足元にお気をつけ下さい」
芳幸とそう歳の変わらぬ男性が、車の運転席から華音が座る後部座席側のドア側に回り、丁寧な対応を取る。
「ありがとうございます」
男性に礼の言葉を投げかけながら、華音は一つ一つの仕草に気を配り車から降りた。
「申し訳ございませんが、華音お嬢様。用件は手短にお願い致します」
「はい、すぐに戻ります」
マスコミ関係が本格的に動いてしまう前に、と、父から事務所宛に手紙と伝言を託され、学校帰りに足を運ぶ事となった探偵事務所。
目まぐるしく過ぎていく数日の間にも、芹沢グループ管轄内で起こった事は既に新聞や雑誌では記事として取り上げられ始めていた。
背筋を伸ばし、臆することなく前を見据える。
誰からの視線を受けても恥じぬ立ち居振る舞いを。
それが芹沢家の令嬢としての在り方。
父からの教えを自分に戒め、事務所へ向かう。
中まで足を進めた華音に向けて所々から上がる声には構わず、受付に居る花娟の前で歩みを止めた。
「外に父の秘書を待たせていますので、用件だけで失礼します。父から手紙を預かって来ました」
花娟が手紙を受け取った事を見届けて、唇に言葉を乗せる。
「芹沢社長の娘である私、芹沢華音は、こちらの事務所・皆様とは一切の関与はありません。万が一マスコミ関係が来ても、知らぬ存ぜぬで押し通してくれて構わないと、父からの伝言です」
一歩下がり、深く一礼をする。
「…華音…」
口を開きかけた花娟に背を向ける。
これ以上、此の場所に留まる必要はない。
芳幸には一度も視線を向けずに事務所を早々に出ようとしたが、二つの影が華音を阻むように事務所の出入り口に現れた。
「華音…!」
「華音ちゃん!良かった会えて…!此処なら会えるかと思って、土曜日から心配で学校帰りに寄ってたんだよっ」
「――本郷さんも夕城さんも、私とは何の関係もありません」
「…華音ちゃん?」
「そこを通して下さる?」
唯と美朱を押しのけて外へ出ようとした華音の腕を美朱が咄嗟に掴んだ。
「華音ちゃんがこんな事までする必要はないでしょ?」
「…離して下さらない?」
「行かせておやり、美朱。彼女にも立場というものがあるのだ」
「星、宿…でも…!」
「オイラたちが出来る事は何もないのだ。下手に介入すれば華音が傷つく事になる。美朱もそれは望まないだろう?」
「…っ…」
賁絽と芳幸の言葉に華音から離れていく手。
「華音…っ」
「…本郷さん。私には名前を親しく呼んで貰える資格はないわ」
通り過ぎ様に名を呼んでくれた彼女にはそうとだけ言葉を返した。
車に向かう華音を二人が追いかけてくる。
「…今ならまだ記者も華音お嬢様の事までは嗅ぎ回ってはおりませんので、数分程であればお話をされても問題はないかと…。今後は本当に当分の間は少しでも接触する事が難しくなってきますよ」
車の傍で待機していた父の秘書をしている彼が、戻ってきた華音の事を迎え入れる。
「大丈夫です」
華音の返事を聞いた秘書の男性は、車に乗り込む華音の様子を見届けてから彼自身も運転席へと座った。
「どうか私の前ではあまり気を張らずに居て下さい。華音お嬢様のお話は社長からもよく伺っておりますので、私にとっては社長のご令嬢であるあなたの事も社長や愛羅お嬢様と同じくらいに大切なのです」
芹沢グループ会社の本社にて秘書の職に就くこの男性は、事が収まるまではと、父に頼まれて仕事の一環として華音の身辺警護にあたってくれる事となったらしい。
彼には信頼を置いていると、父が話してくれたのも良く分かる。
言動からは人間味が感じられ、まだほんの数回しか顔を合わせていない華音でも、心強く感じられる程の存在に思える。
「…こんな事までして頂いてすみません…」
「社長のお役に立てる事であれば、喜んで全力を尽くします。良からぬ事の最中〔さなか〕ではありますが、華音お嬢様にお会い出来た事が私としても嬉しいのです」
バックミラー越しににこりと微笑む秘書の彼。
「……芳幸さん…」
優しい眼差しで自分に笑顔を向けてくれるその姿は、芳幸を思い出させて華音の口から小さく名が零れる。
それに気付いていたのか気付いていなかったのかは華音には分からなかったが、彼は相変わらず笑顔を絶やさずに口を開いた。
「では、ご友人にはお怪我をさせないよう十分な配慮をした上で、ご自宅までお送り致します」
彼から紡がれた言葉にハッとして、窓の外をちらと横目で窺う。
「華音ちゃんっ。少しの間離れたって…っ…井宿も唯もあたしたち皆っ、仲間で華音ちゃんの味方に変わりはないから!」
その美朱の言葉は…。
ガラス越しにでもはっきりと華音の耳まで届いた。
**§**
――本日未明、芹沢グループ会社支店に勤める社員、29歳の男が覚せい剤取締法違反で逮捕されました。容疑者の男は、10日程前より行方を晦ましていましたが…――
リビングに置かれているテレビのブラウン管から流れてくる情報に、華音は食事をする手を止めた。
手に持っていた箸を置き、手を合わせる。
「ごちそうさま」
「…ごちそうさまって…ほんの数口しか食べていないじゃないの」
「…食欲ない…」
「果物を切ってあげるから少し待っていなさい。まだ秘書の寺島さんが来るまで時間はあるでしょう?」
「…ん…」
母親の有無を言わせない口調に、せめて気持ちが滅入ってしまいそうな情報源を消してしまおうとリモコンを操作する。
これから一日が始まろうとしている時間なのにも関わらず、テレビの画面が消えた事で芹沢家のリビングはよりいっそう暗い影を落とす。
昼間は陽の光を取り込むはずの南側の窓は、全てカーテンで覆われていた。
食卓の席を離れてリビングの片隅まで足を運び、カーテンを僅かに捲る。
陽の明るさの中に、玄関前で十人ほどの人影が蠢いているのが見える。
大きな機材やカメラを携えている人や、筆記用具を両手に会話をしている人。
そして、どの者たちにも当てはまる事柄と言えば、様子を窺うようにこの芹沢の家に好機の視線を向ける事を忘れない事だろうか。
「華音、やめなさい。ああいう人たちは何かしらの記事に出来る機会を窺っているのよ。お父さんからも顔は見られないように言われているでしょう」
「…どうして…お父さんやお姉ちゃんまで標的になるの?本社は全く関係ない事なのに…」
カーテンを戻し、食卓ではなくテレビ前のソファーに身を沈め、やり切れない思いでクッションを胸に抱き込む。
「芹沢グループの管轄内で起こった事だから、関係ないとは言い切れないわね…。名が知れているというのは、ビジネスとしては成功していても、こういう事が起こってしまうと厄介なものね。ここまで大事になる事は今回が初めてだけれど…」
コトン…と、ソファー前のテーブルに三種類のフルーツが乗ったお皿が置かれる。
「…学校から帰ってきたら…ピアノ弾こうかな…」
マスカットを一粒手に取り、その綺麗な黄緑色の実を眺めながら呟く。
「華音も…無理をしなくても良いのよ?」
そう言って、華音の隣に腰掛けて来た母に頭を抱き寄せられた。
「…お母…さん?」
「苦しいのはお父さんやお姉ちゃんだからって…無理をしていない?」
「………」
母の言う通り、心の何処かで辛いのは自分ではないと、言い聞かせている部分もあるかもしれない。
だが、そうでもしなければ、弱い部分が全面的に出てしまいそうで怖い。
家族にも余計な心配をかけてしまいたくないと、そう思うが故に、自分ばかりが弱音を吐いてもいられない。
「沢井さんだったら…こういう時どんな風に寄り添ってくれるのかしらね」
「…きっとお母さんと同じ事をしてくれたと思う。……芳幸さんに…会いたい…」
「そうね。大好きな人と離れる事は…とても辛い事ね…」
本音を漏らした華音を、母は幼かった頃のように、力いっぱい優しく抱きしめてくれた。
**§**
バーーン…!
リビングの北側に位置する防音の壁が完備されている部屋で、派手な不協和音が響き渡る。
(違う…違うっ…)
テンポが速く荒々しい曲を選択しても、心が満たされず気持ちも落ち着かない。
それどころか、心はもっともっと…と速いテンポを望む。
すると、今度は曲の雰囲気が壊れてしまい、自分の理想に辿り着かない。
曲を選びなおしてはグランドピアノの鍵盤を叩きつけ…もうそんな事を三度は繰り返した。
自分のレパートリーとなっている曲の中から演奏していて、こんなにももどかしい気持ちを抱くのは初めてだった。
感情が昂ぶる事で息も上がり始め、華音は深呼吸をする。
呼吸を落ち着かせるに伴い、幾分か気持ちも和らいだ心に浮かぶのは華音の想い人。
「…乙女の祈り…」
初めてピアノ演奏を聴いて貰った時に、彼を想って弾いた曲が思い出されて鍵盤上に指を配置する。
曲を奏でていくにつれて蘇る芳幸と過ごしてきた日々と募る想い。
「…芳幸さん…」
名前と共に涙が零れた。
曲の最後まで弾ききる事が出来なくて腕を下ろす。
自ら芳幸から離れようと決めた事はあった。
だが、それ以上に華音の意思に反してあの探偵事務所へ立ち入る事が出来なくなるのがここまで辛いものだとは思ってもみなかった。
週末のバイトの時間が自分にとってどれ程大切なものであるか、それを今、実感する。
ピアノの前で、震えだす肩を自分で抱いてしばらくの間泣き続けていた。
**§**
事の真相が明るみになってからは、マスコミ関係もここぞとばかりに他社と競い合うかの如く、とにかく新たな情報を求めているようだった。
何処からでも情報を得たいマスコミは、事件を起こした支社は勿論の事、父と姉が働く本社、そして自宅である芹沢家に留まらず、華音が通う高校にもその手を伸ばしていた。
「このままでは、他の生徒たちにも影響が出かねない。芹沢華音さん…君には申し訳ないが、自宅待機をしてもらう。土日を挟んで最低でも三日…長引くようならば、それ以上だ」
「はい」
「ご両親には、私から連絡を入れておこう。今日もこの後の授業は休んで帰りなさい。連絡を入れるのはお父様の方で良いかね?」
「はい。お手数をおかけしますが、お願いします」
「支度をして待っていなさい」
「…失礼します」
昼休みに入って呼ばれた校長室。
一礼をして部屋を後にした華音は、息を吐き出した。
これで良かったと言えば良かったのかもしれない。
華音としてもこれ以上の迷惑をかける事は避けたいと思っていた矢先の学校側からの通告だった。
「華音…」
教室に戻った華音を、理枝と麻奈美の二人が迎える。
二人の表情に影が差しているようにも見えるのは、ここ数日の華音の接し方にも関係している事だろう。
「迷惑をかけてごめんなさい。私、しばらく自宅待機になったので…。今日もこれで帰ります」
言いながら、自分の席で手早く通学鞄へと荷物を詰め込む。
「自宅待機!?」
「…どのくらいなの?」
麻奈美からの問い掛けには答えずに席から離れる。
「華音っ…」
「答えてよ!」
唇を噛み締めて、口を開くことはせずに教室から去り、廊下を足早に進んで保健室を目指した。
保健室で待機してからは、10分ほどで秘書の寺島が迎えに来てくれた。
「裏門に車を着けてありますので、速やかに参りましょう」
岡田雅代に挨拶をし、彼に言われるがままに足を進める。
「まずいですね。裏門にも記者が集まり始めている…。華音お嬢様は、なるべく顔を伏せて御車に乗る事だけをお考え下さい。良いですか?何を聞かれてもお声を出してはなりませんよ。少しの間、ご辛抱下さい」
彼の言葉に首を振り頷く。
裏門に近づいていくほど、大きくなってくるざわめき感。
車までの距離はさほどなさそうに見えても、そこまでは人の数もそれなりに存在していた。
門を潜ると同時に、一斉に声が飛び交う。
「芹沢グループ社長のご令嬢ですよね?」
「お父様から何か聞いてない?」
「逮捕が一人だけじゃなくて多数にも及びそうっていう噂もあるけど、どうなのかな?本当?」
「お嬢様はお疲れでいらっしゃいます。質問には受け答え出来ません」
一対多数。
その状況でも、寺島の声はよく通る。
それでも記者の勢いは留まる事を知らず…。
寺島が身を挺して護ってくれる中、どうにか車内へ身を運ぶ事が出来た。
彼の運転により、慎重に車が発進される。
「大丈夫でしたか?」
「はい、ありがとうございます」
車内の会話が少なくても、その空気は決して苦痛なものではない。
どちらかといえば、ほっと一息つける空間だった。
「……芳幸…さん……」
鞄を胸に抱きながら、その名前を小さく小さく紡いでみる。
芳幸に会って彼の笑顔が見たい。
けれど、芳幸に大きな迷惑事を降りかからせてしまうわけにはいかない。
ずっと心の中で繰り返している葛藤。
どちらの思いが勝るとも劣らない…感情の戦いは果てしなく感じる程に続く。
「…寺島さん。少し眠っても良いですか?」
「もちろん構いませんよ。少し遠回りをしましょうか?」
「…寺島さんにお任せします…」
考える事にも疲労を感じる。
意識さえも切り離したくて、座席のシートに身を沈めて目を閉じた。
**§**
「…そうか。華音はそろそろ限界か…」
「表情が日に日に曇っていっているように見受けられます。身体的にも大分負担がかかっているのではないかと」
「――一つ、頼まれ事をしてくれるか」
「はい、何なりと」
芹沢グループ本社の社長室で、部屋の主よりも歳の若い男が頷き、頭を垂れた。
**§**
彼女が欠けた日々は今週で三週間に達する。
「…華音、大丈夫かしら」
「体調を崩してないといいんだが…」
「井宿んとこにも一度も連絡ないんか」
「…華音は令嬢として振舞う事を自分で選択したのだ。何かのきっかけがない限り、自らはその姿勢を崩さないと思うのだ…」
「……華音ちゃんが一番苦手な事じゃない。こんなのおかしいよ」
雑巾を手に握り締める美朱の口から言葉が零れ落ちる。
俯く姿が微かに震えているように見えるのは、様々な感情からくるものなのか…。
「…このままじゃ華音ちゃんの心が壊れちゃう…何か良い方法ない、のかな…」
「マスコミの目を他に向けられれば一番いいんですが…でも、よっぽど大きな事柄でないと…」
「マスコミは飛びつかねぇよな」
「我々で事件を起こすわけにもいかないからな…」
彼女を取り巻いている状況の流れを変えたくとも、いささか事が大きすぎるが故に手を出そうにも出せない。
そんな現状を歯痒く感じているのは芳幸だけではない。
打開策があるのならばそれを見つけたいと望むのは此処に居る全員だ。
とはいえ、簡単に答えを導き出せるものでもなく、自然と皆の口が噤まれた時だった。
不意に事務所の電話が鳴る。
賁絽が電話を受け、二言三言言葉が交わされた後に芳幸へと差し出される子機。
「…お前にと。華音の父親からだ」
電話の相手が告げられ、緊張気味に子機を受け取った。
「――はい、御電話代わりました」
『仕事中にすまない。…芳幸くんたちの事務所の方はどうだね。困った事にはなっていないか?』
「…お心遣いありがとうございます。こちらは貴殿の早急な対応のお陰で何事も無く済んでいます」
『それなら良いんだ。芳幸くん…実はな、華音には内密で話したい事がある。今日この後、時間を取れるか?』
「特に大きな仕事は入っていないので、大丈夫ですが」
『私の社まで来て貰えるか?私が下手には動かない方が良いだろうからな』
「分かりました。伺います」
『助かるよ。秘書を車で向かわせる。事務所の方ではなく念の為に何処かで待ち合わせよう。場所は――』
彼から提案される待ち合わせ場所を頭に入れ、先に相手の電話が切られた事を確認してから芳幸も電話を終える。
「…星宿様。二時間ほど出てきますのだ」
「分かった。時間が必要ならば多少遅くなっても構わない」
「何の話やったん?」
「…話があると。何かを決めたような…そんな様子だったのだ。おそらくは、今の状況から変えられるか…それとも全くの関わりを断たれるか、どちらかなのだ」
「…井宿」
心配げな視線を投げかけてくる美朱には微笑んでみせる。
「大丈夫、事を良い方向に運べるようにするのだ」
外出の身支度を整えた後に、芳幸は仲間たちに見送られて足早に事務所を後にした。
**§**
「沢井芳幸様ですか?」
落ち合う場所となった、事務所から程近いショッピングモールの地下駐車場に芳幸が到着した時には、既に秘書らしい男性の姿が在った。
彼の言葉に頷くと、後部座席側のドアを開けつつその者は頭を下げてくる。
「私は芹沢社長の秘書をしております、寺島と申します。どうぞ御乗り下さい」
寺島と名乗った彼に勧められるがままに乗車し、程なくして丁寧な運転にて車を走らせ始めてから彼は再び口を開いた。
「…華音お嬢様は今、自宅待機中の身でいらっしゃいます」
「…自宅待機?高校からも規制がかかっているのか…」
想像以上に事態は悪化していた事に、芳幸は動揺を隠せなかった。
同時に、彼女の父親に呼ばれた今この時が、重要な分岐点になるだろう事を確信する。
「華音お嬢様…あなたが今座ってらっしゃるその場所で、時折、まるで元気を出す為のお呪いのようにあなたの名前を口にしていましたよ」
――芳幸さん…
「…華音…」
自分の名を呼ぶ彼女の声が聞こえてくるようで、車内のシートの上で拳を握り締めた。
――それから数十分ほどで芹沢グループ会社の本社と思われるビルの地下へ到着し、秘書に案内された最上階の部屋。
社長室であるその部屋は、陽の光を多く取り込む窓が設えられたこじんまりとした部屋だった。
部屋の主とその秘書と芳幸。
たった三人だけが存在する閉ざされた空間で、芳幸は思わず目の前に座る人物の考えを探るようにして言葉を漏らした。
「……本気で…仰っていらっしゃいますか?」
部屋に通されるや否や、早々に切り出された内容が意外なものであったが故に、驚きを込めた視線で華音の父親を見つめる。
「…私も冗談でこんな大きな駆け引きは持ち出さない。勿論本気だよ」
真剣な眼差しで芳幸を捉えて頷く彼に、芳幸もまた、改めて表情を引き締める。
「…今回、支社で起きた騒動の一連は、とりあえずはこれ以上広がる事はなさそうだ。会社としては信頼を取り戻したりといった事情はまぁ色々あるが、それは皆で一丸となって真剣に取り組みさえすれば何とでもなる。
あとはマスコミだ。こちらがいくら真実を言ったところで、ありもしない裏を探ろうとしてくる。もうしばらくは面白おかしく騒ぐだろう。人の噂も七十五日とも言う…
世間の熱が冷めるのを待ってもいいが、華音が果たして何処まで耐えられるか。私にはそれが心配で仕方ないんだよ」
「……カモフラージュ、ですか」
「そういう事だ。新しい話題が上がればマスコミも喜んで飛びつくだろうからな。しかもそれが、今、騒ぎの渦中にある芹沢グループ会社社長のその娘に関する話題ともなれば、これ程の良い餌はないだろう?
芳幸君としても、その方が堂々と華音を護る事が出来るだろう。…勿論、無理強いはしない。君にも容赦なく世間の目が向くのは明らかだ」
――“棚からぼたもち”。
芳幸にとっては、そんなことわざが正しく当てはまるほどに願ってもない提案だった。
華音を荒波から救う手立てがあるというならば、それに乗らない手はない。
「私の事は構いません。彼女の盾になれるのならばいくらでもなります。私としては本望です」
「…本当に引き受けてくれるか…?」
「はい。喜んでお引き受けします」
意思を確認するように問うてくる彼に力強く頷いて答えると、彼はほっと安堵する表情を見せた。
それには、芳幸は微苦笑を浮かべて言葉を紡ぐ。
「それにしても…。華音の為とはいえ、愛羅嬢もそうですが、あなた様も相当の無茶振りをなさる。さすがにこれは彼女も怒ると思いますが?」
どうやら、彼も芳幸と同様の考えに到っていたようで、彼からも苦笑が返ってきた。
「…そうだな。おそらく私ではなく君の所へ行く事だろう。…すまないが、怒られてやってくれるか?」
「承知致しました」
「――本当に…。良い縁があったものだな。有難い事だ。君になら安心して娘を任せられるよ。ありがとう、芳幸君」
それまでは疲労が見え隠れしていた顔には、喜びに満ちた笑みが広がっていく。
漸く光が差し込み始めたような気がする。
流れを変える“きっかけ”は、この瞬間に相整った。
後は芳幸が華音を引き上げれば良いだけ―――…。
**§**
新たな週に変わり、何となく予測していた通りに自宅待機延長が下された最中。
出来る事なら取り込みたくない情報とはいえども、やはり最低限の事は知っておかなければならない。
リビングで温かいスープを手にしながらテレビ画面を追っていた華音だったが、ある瞬間を境にテレビから流れる映像に釘付けになった。
『芹沢社長!支社で起きた事件について、詳しいお話をお願いします!』
『…隣に座る方は社員の方ですか?もしや謝罪会見…!?』
『静まりたまえ。今日は発表しておきたい事があって彼を連れてきた。彼は我が社の社員でも何でもない。私の娘…次女の婚約者だ』
『…婚約者!?』
『…おい、良いネタになるぞ、これは!』
ざわざわ…ブラウン管の向こう側で瞬く間にざわめきが起こる。
ガチャンッ、と、華音もテレビ越しの騒音に劣らずスープカップを音を立ててテーブルに置き、居ても立ってもいられずにソファーから腰を上げる。
「…どういう…事?どうして彼が会見の席にいるのっ?お母さん…っ!」
「…い、いいえ。私は何も話を聞いていないわ…」
「…お姉ちゃんっ」
「私も…。今日、記者会見をする事は聞いていたけれど、事件の事を改めて話すものだとばかり…」
ブラウン管越しに見る父の姿は、今までにも何度か見てきている為に特に問題はない。
だが、父の隣に身を置く彼――芳幸の姿は在る筈のないであろう光景で…。
どうしてそんな事になっているのか…状況が掴めず、メディアの情報に耳を傾けるしかなかった。
『ご令嬢との交際はいつから?』
『知り合ったきっかけは?』
『ご婚約…という事は、いずれは芹沢グループを継がれるんですか?』
『心境をお聞かせ下さいっ』
『彼に関する情報は一切公表しない。芹沢グループを継ぐ人間でもない。以上だ』
『おいおい、そりゃないだろ』
『後の時間は、皆さんが気にされている事件の事を私がお話しましょう』
父の言葉が合図となったように、ブラウン管の中で芳幸が静かに立ち上がった。
『私がご令嬢の婚約者である事は紛れもない真実ですので、以後、お見知りおきを』
静寂が漂う中で、見る者を圧倒させる笑みを残し、芳幸の姿はブラウン管から消えた。
彼が去った会見場では、父の話が淡々と始まる。
「…華音」
「……っ…」
とりあえず座りなさい、と、言う様に、愛羅に肩に手を添えられ、再びソファーに座り直す。
「…お姉ちゃん、仕事…明日はお休みって言ってたよね?」
「えぇ、そうだけど…」
「私を事務所に連れてって欲しいの」
話を聞かなければ…。
自宅待機中の身であるとはいえ、こればかりは大人しくしていられるはずがない。
たとえ学校側に見つかろうとも構わない。
今すぐにでも話を聞きたいと逸る気持ちをどうにか抑え、事務所の定休日が明けるのをじっと待った。
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茉莉奈さん出してしまいました…
何気に主人公の父親、芹沢社長と芳幸のやり取りをするシーンがお気に入りだったりします。
まだ後半が残っているので、今回は簡単な反省会だけで。