事件編【File1~10】
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――関東地方の一部地域では、大雨の影響で増水した川の氾濫による被害が出ているもようです――
また、だ。
朱雀探偵事務所内のワンスペースに申し訳程度に置かれている、小型のテレビ。
そこから流れる情報を、微動だにせずに食い入るように見つめている芳幸の姿に、華音の心がチクリと痛む。
天候が変化しやすく、それに関連するニュースも多いこの時季。
彼の心に影が差す時季でもあるのだと、知った。
「…お先に失礼します」
いつもの挨拶。
何ら変わりはないバイト終わりのはずなのに、何かが違う。
事務所内に漂う、何処かぴりぴりとした空気を、華音は感じ取っていた。
「華音」
名を呼ばれ、足を止めて振り返れば、困惑に揺れているかのような瞳が華音を射抜く。
「……気をつけて…帰るのだよ」
一瞬、躊躇した後、そうとだけ紡がれる言葉を聞いたのはこれで何度目かになる。
本当は、違う何かを言い掛けようとしたのではないか。
そう思いはするものの、自分からは聞ける勇気もなく、その場でお辞儀をして事務所を後にする。
事務所を出てからは、知らず知らずのうちに詰めていた息をふぅと吐き出す。
あの中で何も知らないのはきっと華音だけ。
それが分かってしまうからこそ、何も出来ない自分に不安が募る。
――私が彼に出来る事は何―――…?
いつも自分を支えてくれる彼に、華音にも出来る事は何があるだろう―――…
華音が朱雀探偵事務所に初めて訪れた日から、もう半年が過ぎた。
長かったようにも短かったようにも感じられたこの半年。
その中で、華音の芳幸への想いも、少しずつ変化を遂げながら育ってきた。
こればかりは誰に聞くでもなく、自分なりの答えを出さなければいけない事だと、そう思う。
何かしらの答えを見つけるまでは、華音から芳幸に近づく事は躊躇われて、自然と二人の距離は開いていった。
**§**
普段からも、芳幸と二人きりで居られる時間には限りがある。
事務所の定休日の時は華音には学校があるし、学校が休みである週末は事務所でのバイトがあり、芳幸も勿論仕事だ。
お互いに時間が取れるとすれば祝日だが、こうやって改めて考えてみると、二人で時間を合わせて出掛けたり会ったりするという事はほとんどないに等しい。
時々、芳幸が事務所から華音の自宅まで送ってくれるその時間が、唯一の二人きりの時間とも言える。
華音の身体の事もあるが故に、そういった付き合い方に華音自身も特には疑問も不満も抱いてこなかった。
今までもそんな感じで、二人の時間というものは少なかった事に加えて、今回は芳幸の事も相まって、芳幸とは、週末に事務所で顔を合わせるだけだ。
その上に、今は会話さえも両手で数える分があるかないかといったこの状況。
気持ちまではすれ違ってはいないだろうが、複雑な想いが入り混じっている事は確かだ。
――だからなのか。
華音が必要以上に芳幸と関わる事を遠慮している、という事にも彼は気付いていたのだろう。
「…華音…」
学校へ通う日が続いていた平日。
週の真ん中にもあたる水曜日だった。
下校となる時間、理枝と麻奈美の二人と一緒に校門を出ようとしていた所で、何かに気付いたように理恵が華音の肩を叩く。
気持ちが沈んでいた為に、俯き加減で歩いていた顔を上げた。
「…芳幸…さん」
校門の壁にもたれかかるようにして、彼の姿があった。
久し振りに近い距離で視線が交わる。
「華音、少し話をしたいのだが」
華音は、咄嗟に理恵と麻奈美の背中に身を隠してしまった。
まだ華音としての心の準備は十分に整っていない。
「そのままで良いから聞いて欲しい」
視線だけを芳幸の方に向けると、真剣な瞳が華音を捉えた。
「華音の事を不安にさせているのは、自分の弱さだ。でも、今、俺の中に在るのは絶対に忘れたくない痛みでもあるんだ。分かってくれとは言わない。
…だから、せめて、俺の気持ちが落ち着くまで少し待っていてくれないだろうか。華音への想いが変わる事はないと、それだけは約束出来るから」
華音から視線が外され、芳幸は背を向ける。
だが、すぐに少しだけ顔を振り返らせて、再び言葉を紡いだ。
「バイトの時に言う事ではないと思ったのだ。だから、此処で華音を待っていた。――…華音の事、頼むのだ」
最後に一度、理枝と麻奈美に視線を向けた後、離れていく背中。
「…びっくり…した。何か雰囲気が違ったから…」
「華音、追いかけなくて良いの?行っちゃうよ、沢井さん」
「……駄目なの…」
芳幸の背中が映る視界が揺らぐ。
「…今の私のままじゃ、まだ駄目なのっ……こんなに不安に揺れたままじゃ…芳幸さんを追いかける事なんて出来ないからっ」
「華音…」
零れ落ちる涙が足元の地面を濡らしていく。
想いは通じ合っているはずなのに…。
手が差し伸べられない。
想いばかりが溢れ出して、何も出来ずに立ち止まっている今がもどかしく、苦しい。
でも、芳幸の苦しみはきっとこんなものではない。
「…華音は凄いね」
「うん、えらいよ。自分とも沢井さんともちゃんと向き合ってて…感心する」
理枝と麻奈美の温もりを感じながら、もうその姿は見えなくなってしまった方向を、華音はしばらくの間見つめていた。
**§**
そしてまた、足早に訪れる週末。
普段とは異なる空気に、気を張っていないと言えば嘘になる。
バイトの最中に急な立ちくらみを感じて、その場で動きを止めた。
幸い、すぐに治まり、再び動かそうとしていた華音の手は制せられる。
「少し休んだらどうだ、華音」
「休みません」
寿一の手を僅かな力で振り解く。
「華音」
「嫌ですっ…少しでも芳幸さんの傍に居たいんです!」
自分で上げた声にはっとした。
休もうと思えば休む事だって出来たバイト。
華音がしばらく休むと決めても、誰も咎めなかったに違いない。
それでも自然と此処に足が向いた理由…それはどうしてなのか、漸く自分でも気付いた。
「だから、バイトを休まずに来ていたのだ?」
寿一と入れ替わるように華音の前に立った芳幸を見上げる。
立ちくらみの直後に、いつもよりも大きめな声を出したせいか、少しだけ弾んだ息を整えてから口を開く。
「人より身体が弱くても…どれだけ心配や迷惑をかけても、私は居なくなりません。芳幸さんの私への想いを信じて、私は傍に居ます。命が続く限り、芳幸さんの傍に居続けるっ。芳幸さんから私という存在を簡単には失わせたりしないから…っ」
背伸びをして、以前つらそうにしていた事があった芳幸の左目元へ手を触れる。
「…あの時も、とても嬉しかったんだ」
そ…と、華音の右手首に芳幸の手が重ねられる。
そのまま目が閉じられて、しばらくしてからまた開かれる瞳。
「何も知らないはずの華音が、オイラの心を感じ取ってくれた事。支えているつもりが、いつの間にかオイラの方が華音の想いに支えられていた」
芳幸のもう片方の手が、今度は華音の目元をなぞるようにして添えられた。
「あの後…オイラが水曜日に華音に会いに行った後、泣いていたのだ?」
「…どうして…」
「翌日、麻奈美ちゃんが此処に来たのだ」
『私たちよりもずっと、沢井さんの方が華音の事を分かっているとは思います。でも、これだけは言わせて下さい。華音の涙を見たのは昨日が初めてでしたけど、あれはきっと華音自身の涙じゃなかった。誰かを想っての涙だって、そう感じました』
「――泣いているのに泣いてない…とても強かな涙だった、と、そう言っていたのだ」
「麻奈美がそんな事を…」
自分が涙を流していた姿はそんな風に映っていたのかと、思考を巡らせる様に目を伏せる。
「…私。芳幸さんが学校まで来てくれた時…不安に気持ちが揺れるばかりで、離れていく背中を追いかける資格はないって思ってた。でも、今は違う…」
芳幸の目元に置いていた手を下方へとずらし、両腕を首元に回す。
「半年っていう月日が経っても、出来る事は何も変わってないけど、私が傍に居るっていう事はこうして伝えられるから。それが私にも出来る事かなって…そう思うから…」
「あぁ。居るのだ…華音は確かに此処に居てくれる」
抱きしめられる…というよりかは、しがみ付くように華音の身体に触れてくる腕。
「やれやれ、ね」
芳幸の肩越しに、花娟が肩を竦めながらそう呟く姿が見えた。
**§**
「いらっしゃいませ」
カラン…とベルの音を立てるガラス戸を引いて、花が立ち並ぶ店内へと足を踏み入れる。
「…勿忘草の花束を作って貰えますか?」
「贈り物ですか?他のお花も添えてアレンジメントなども如何でしょう?」
「いえ、華やかじゃなくて良いんです。デスクにも飾れるような、シンプルで小さめなものをお願いします」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
本来なら、バイトに向かっているこの時間。
朝一番で事務所に連絡を入れて、いつもより10分程遅めに行く旨を伝えた。
それも、芳幸に自分が出来る事を一つでも多く為すため。
店員がいそいそと動く様子が見られる間、華音は店内を眺める。
色とりどりの大小様々な花たち。
それらは、華音を温かく迎え入れてくれているようで、ほっとできる空間を作り出していた。
芳幸も、華音が想いを込める花を受け取って何かを感じてくれるだろうか。
「こんな感じで如何ですか?」
目の前に差し出される、両掌があれば十分に持てるほどの、綺麗な球状に纏め上げられた花束。
さすが仕事のプロだ。
華音が思い描いていたものよりも、ほとんど理想どおりの仕上がりに頷いて微笑む。
「ありがとうございます。とても素敵です」
「あなたと大切な方の思い出深い日になると良いですね」
店員と会話を交わしながら一通りのやり取りを済ませた後で、花束を受け取る。
丁寧に見送ってくれる店員に会釈をし、花屋を後にした。
急く足で事務所までの道を辿った為もあってか、予定よりも数分早目に着く事が叶った。
「遅くなってすみません」
「まだバイトが始まる時間ではないのだから、そう気に病まずとも良い」
今朝の電話を取ってくれた賁絽へ挨拶をしてから、芳幸の元へ歩み寄る。
「芳幸さん、勿忘草の花言葉って知っていますか?」
「確か“私を忘れないで”とかいう意味があるのだ…?」
「はい。芳幸さんが、芳幸さんの中に在る、忘れたくない記憶に思いを寄せる時、私の想いと一緒にこの花を届けます」
「…オイラだけじゃなくて、オイラの心に存在する人たちにも、花を贈ってくれるのか」
華音の気持ちすべてを伝えるには、言葉が足りないか…とも不安だったが、そこは芳幸だ。
ちゃんと余す事無く汲み取ってくれた事に、有難く思いながら頷く。
「受け取って…くれますか…?」
「勿論受け取るのだ。ありがとうなのだ」
華音の手から芳幸の手に渡る勿忘草。
華音は芳幸から離れ、事務所の奥へ向かう。
「君は時々…大人びた考えをするから驚く」
小さく呟かれた言葉が、華音に向けられたものだと分かっても、振り返らずに足を進め続けた。
芳幸のデスクの片隅で、勿忘草が咲き誇るようになってからは…。
勿忘草を見つめる芳幸の姿はあっても、ニュースの画面に視線が注がれる事はなくなった。
「華音。学校が夏休みに入ったらデートでもするのだ?」
「デート…行きたい場所があります…」
「…だ?」
耳元で願いを口にした華音へ、疑問だと言わんばかりに降ってくる視線。
「初デートがそんな場所で良いのだ?」
「はい」
華音の返事を聞いた芳幸は、ふわりと微笑んだ。
――芳幸さんのマンションに行きたいです。
華音の大好きな笑顔が、また芳幸に戻ってきた。
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一応、これは梅雨の時季のお話のつもりです。
最初は台風の時季の秋口にしようかとも思ったのですが、それだと勿忘草の時季ではなくなってしまうので、六月頃の設定になりました(笑)
とりあえずこれで無事に、芳幸の病み期は明けました。
次話は、最後の方で話にも上がっているデート話ネタ、でしょうかね♪