事件編【File1~10】
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おはなし箱内全共通のお名前変換「夢語ノ森」では基本、おはなしの中で主人公の娘っこの性格や年齢を書き綴っていく形にしていますが、特別設定がある場合もございます。
そういったおはなしでは説明頁の設置や特記事項がありますので、ご参考までにどうぞ。
当森メインの夢創作を楽しめますよう、先ずは是非、井宿さんにお名前を教えていって下さいませ
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朝起きたら―――…
猫になっていました…
**§**
ニャー…ニャー…。
どんなに声を出しても、鳴き声しか漏れていかない。
言葉が喋れない事はとてももどかしい。
華音は、その事を今まさに実感していた。
「迷い込んだのか?」
「飼い猫…でしょうか?」
「お前どっからきたんじゃ」
「何だこの猫、すっげぇ毛並み良くね…?」
「…魏…あんた、まさか売ろうとか思ってないわよね…?」
「えっ、いやぁ、さすがにそんな可哀相な事出来るわけないだろ~?ははは…」
「…考えとったんやな」
「…考えてたわね」
何の特別な事もない週末。
どういうわけか、朝起きたら猫の姿になってしまっていて…。
こんな姿のまま家に居るわけにもいかず…とはいえ、他に行く宛てもない。
とりあえず、バイトの曜日という事もあって朱雀探偵事務所まで来てみたものの。
この姿でも見つけて貰えたのは有り難かったが、何だかあまり穏やかではない話の流れになり始めて、慌てて開いていたガラス戸の間を潜り事務所の中へと逃げ込む。
普段よりも低い位置での視界が広がる中、辺りを見回しながら歩いていくと、漸く彼の姿を見つけた。
足元まで近づいて彼の事を見上げる。
「だ?何処から迷い込んだのだ…何処かの家の子なのだ?」
ニャー…。
名を呼びたくても呼べない。
頭を撫でられた後、ふわりと抱き上げられる。
お願い…どうか…どうか、気付いて、芳幸さん…。
祈りも込めてじっと見つめていると、彼は少し驚いたように口を開いた。
「お前…華音の瞳と同じ色なのだね。毛並みも綺麗だし、人間だったらきっと美人なのだ?」
たとえ猫の姿であっても、その言葉は確かに自分に向けられているもので、恥ずかしくなって表情を隠すようにして、彼の手へ頭を摺り寄せる。
「おはようございます」
「おはよっ、魏、皆!…って、こんな所で集まってどうしたの?」
不意に事務所の外から響いてくる二つの声。
姿を直接確かめなくとも、唯と美朱だという事が分かった。
バイトが始まる時間まではまだ大分時間がある。
華音も30分前には着く様にしているが、彼女たちはこんなにも早く来ていたのか…。
美朱などは、魏に早く会いたい気持ちもあるのだろうが…。
唯もきっと彼女と一緒に来る為に、時間を合わせているのだろう。
「朝から来客があったから、ねぇ?」
「来客?」
花娟を先頭にして皆が事務所の中へと入ってくると同時に、自分へと注がれる視線。
居た堪れなくなって、芳幸の手元から身体をすり抜けさせて彼の足元の影に隠れる。
「わっ、猫だぁっ!可愛い…っていうよりも、綺麗な猫だねっ」
「何や、井宿んとこに居ったんか」
「井宿さん、すっかり気に入られてしまっているみたいですね」
「………」
ちらり、と、何か言いたげな視線を芳幸に向けられる。
ニャー…。
それには何を返せるでもなく、彼の視線から逃れるように、すぐ後方にある机の下へと身体を潜り込ませた。
――それから、小一時間ほどが経ち、事務所内には不穏な空気が流れ始めていた。
…それもそのはず。
いつもであれば、既に華音は事務所に来ている時間帯。
心配してくれているのだろう。
いつまでも意思を伝える事から逃げているわけにはいかない。
何としてでも、今のこの姿が自分である事を伝えなければ…。
意を決して机の下から出て行こうとした時。
「確認の為に、彼女の家へ連絡を取ってみた方が良いだろうか…」
所長である賁絽から声が上がり、急いで今まで居た場所を離れて、机の上に昇り、賁絽の元まで辿り着く。
電話の受話器が賁絽の手によって持ち上げられていた為、本来は受話器が置かれるべきである部分のボタンを、手で押さえた。
ニャー。
「…そなた…」
家には、出てくる際に何とかして置手紙なるものを書き留めてきた。
故に、事務所から電話が入ってしまえば、逆に家族に心配をかけてしまう事となる。
「華音…なのだ?」
電話の横に身を置いていた身体を抱き上げられる。
ニャー。
鳴く事で返事をし、少しでも伝わるように…と、尻尾を振って芳幸の頬へと一度だけ顔を摺り寄せる。
「嘘…やろ」
「何がどうしたらそうなるわけっ?」
「…ち、井宿に怒られるとこだった…あぶねぇ…」
「魏…お前、さっきの話、結構本気だったのか…」
「でも、そう考えると、確かに納得出来る部分は多いです」
「綺麗な猫ちゃんだし」
「芳幸さんに懐いてる所とか…?」
芳幸から離れて床に身を降ろして座り、皆の言葉に応えるように一声鳴いた。
**§**
芳幸が気付いてくれたお蔭で、この姿は自分だという事を認識してもらう事は出来た。
仕事が本格的に始まると、皆の邪魔をしたくなくて、奥の和室がある部屋へと向かった。
ぐるりと見渡す景色は、視線の位置が違うだけで全く違うものへと変化する。
花娟ではないが、何をどうしたらこうなったのか…それは華音にも分からない。
だが、普通ではどう考えても体験できないような事を、何故か体験出来ている。
どうせならば、プラスに考えた方が多少なりとも気が楽な事に気がついて、あまり深くは考えない事にした。
きっと、その内に元にも戻るはず。
和室へ上がり、隅の方で身を丸める。
そうしている内に、いつの間にかウトウトしてしまっていたようで、ひんやりとした空気を感じて目が覚めた。
この時季、日が多くは入らないこの場所で休むには、いささか不適切だったようだ。
やむを得ず、暖を取る為に、再び事務所の方へと足を運ぶ。
出来れば、なるべく日向が良い。
南向きで誰の邪魔にもならない場所を選んで先程のように身を丸めた。
「寒いのだ?」
ニャー…。
掛けられた声に、少しだけ顔を上げて返事をする。
「おいで」
言葉と共に、芳幸の方へと抱き寄せられる身体。
仕事中にまで、彼の言葉に甘えるわけにはいかない、と、抵抗するように身を捩じらせるも、芳幸は離してくれない。
「猫の姿だから、邪魔にはならないのだ」
そうと言われた上に、芳幸が離してくれないとなると、これ以上抵抗する事は無駄なように感じられて、素直に身を預けたままにする。
「…何ていうか…」
「猫の姿なのに…」
「絵になるね」
そんな誰かの呟きを聞きながら、何処よりも温かく感じられる芳幸の腕の中で、華音はそっと目を閉じた。
次に目を開けた時は、芳幸の隣に居た。
皆で一つの輪になるように座って囲むテーブル上には、料理の数々。
「良く眠っていたのだ…慣れない姿は疲れるのだ?」
芳幸は本当に良く見て気付いてくれる。
言葉を紡げない今の華音にとっては特に、それがとても有り難く感じられた。
「…華音、あんたは何食べるの」
食事をする程お腹はあまり空いていなくて、いらないという意思を伝えようとした華音だったが、寿一の言葉が紡がれる方が早かった。
「食欲がなかったとしても、水分は摂っておくんだぞ」
…ニャー…。
力なく答えた華音の前に差し出される、スープが入ったカップ。
「温かいものの方が良いのだ?」
差し出されたスープを5口程口に含んで、一歩後方に下がる。
「…もう良いのだ?」
芳幸の言葉には何も答えぬまま、彼の背中の後ろ側へと回り、身を潜ませた。
芳幸の言うとおり、全く馴染みのない姿は、身体的にも精神的にも何かしらの負担はかかるようで。
休息を求めて、華音はまた、目を閉じる―――…。
――何度目を覚ましても、視界に変化はなく、瞳に映る自分の手足も本来の自分の姿のものではない。
眠った事で身体の調子は随分良くなった。
今、自分が身を置く状況を確かめようと周囲に視線を彷徨わせる。
そうしていて、ふと、彼の姿がない事に気がついた。
「…井宿は今、魏と一緒に出ているよ。もうそろそろ戻ってくる頃であろう」
華音の様子を見ていたのか、賁絽が答えてくれて、礼を言えない変わりに頭を深く擡げさせる。
そんな華音の頭を撫でる温もりが一つ。
「さっきはあまり元気なさそうだったが、大分良くなったか?」
やはり寿一には気づかれてしまっていた。
おそらく寿一だけではない。
芳幸にも見抜かれていた事だろう。
ニャァ。
尻尾を振りながら声を上げる事で、大丈夫である事を伝える。
それは無事に伝わったようで、寿一は微笑んでくれた。
「それにしても、井宿も華音だって事が良く分かったわよね。これも愛の力の為せるわざかしら」
至近距離で綺麗な顔立ちの花娟に食い入るように見つめられ、恥ずかしさに顔を俯かせる。
「こいつ照れとるで。やっぱしこういうとこは華音やな」
いつもながら翼にまでからかわれるように言葉を投げかけられて、ついには二人に背を向けた。
「井宿さんに見つかったら、また怒られますよ」
「程ほどの所でやめといてやれ」
「――ねぇ、華音ちゃん?あたしに抱っこされるのはやっぱ嫌かなぁ…毛の肌触り良さそうだから抱っこしたいの」
切り出すタイミングを見計らっていたのか、こちらを見やりながら美朱がおずおずとそう申し出てくる。
一瞬思考を巡らせたが、美朱の足元へ歩み寄った。
気持ちは少々複雑ではあった。
猫の姿とは言えども、中身は勿論華音なのだ…同年代の女の子に抱かれるというのには、多少なりとも途惑いを覚える。
芳幸とは、恋人同士としてのそれなりのスキンシップもあるが故に、特に抵抗はなかったが。
「…ふふー。思ったとおりつやつやだねっ。華音ちゃんの髪みたい。すべすべしてて気持ち良い」
実際に抱かれてみると、意外に何の事はないものだった。
時折、美朱の髪が顔に当たり、くすぐったさに小さく身を竦める。
隣からは唯も手を伸ばしてきて、そっと頭を撫でられた。
「華音、俺も俺も~」
「翼宿は駄目なのだ。あと、魏も絶対に」
冗談なのか本気なのか、上手く判断できない彼の発言を制する声。
事務所の入り口で佇む芳幸の隣で、魏がギクリと肩を震わせていた。
「…俺、直接言ってないよな?何でバレてんだ…」
「君の考える事くらい分かるのだ」
「華音ちゃん、ありがとう」
一頻り触れ終えた後で、美朱に抱かれていた身体を降ろされる。
日が落ち始める時間帯という事もあってか、触れ合っていた温もりが失われ、冷たい床に足を付けると同時に肌寒さを感じた。
芳幸たちが戻ってきた事で、外の空気も一緒に連れてきたのか…。
立て続けにくしゃみが二回も出てしまった。
「大丈夫なのだ?」
寄り添える温もりが欲しくて、芳幸の足元へ擦り寄る。
「オイラ、身体が冷えてるかもしれないのだ…」
口ではそう言いつつも、手早く華音の身体を抱き上げてくれた。
**§**
結局、日が暮れても猫の姿から戻れる様子は一向に見られず。
芳幸が機転を利かせ、芹沢家に連絡を入れた上で、一晩芳幸のマンションにお邪魔する事になった。
「朝から何も食べていないのでは…パン粥くらいなら食べられそうなのだ?」
昼間よりは何かしらお腹にも入るかもしれない。
一度鳴いてから、芳幸の後をついていく。
芳幸はキッチンに入るや否や、手際よく食事の準備を始めた。
キッチン周りには、調味料から器具、一通りのものは揃えられている。
小奇麗に整理整頓してあるそれらからは、彼の普段の生活の一部が窺えるようだった。
物珍しげに視線を彷徨わせていたせいか、芳幸が口を開く。
「意外…なのだ?これでもオイラ、一通りの家事はちゃんとこなせるのだよ。だから――」
言いながら芳幸は身を屈め、彼が手にしていたものを口にそっと押し込まれる。
口内に甘酸っぱい味が広がっていった。
「華音が床に臥せる事があっても、オイラならいくらでも融通は利くのだ」
人の事を言えたものではないが…何時の話をしているのだろう。
決して冗談などではなく、本気なのであろうが…。
これでは心臓が幾つあっても足りない。
この猫の姿でも、顔は赤らんでいるのか…。
知る術はなく、芳幸に背を向けた。
くすくす、と小さく笑い声が聞こえて来る。
普段と変わらない、他愛無いやり取り。
華音自身でも信じられない状況に置かれているというのに、理解し、普段どおりに接してくれている事がとても嬉しかった。
高鳴っていた鼓動が治まってから、芳幸の足に顔を摺り寄せる。
「普段も…本当は我慢しているのだ?」
芳幸が不意に漏らした言葉に、真意が見出せずに首を傾げた。
ふ…と、彼の口元が綻んだかと思えば、次の瞬間には華音の身体は、芳幸の肩の上に在った。
あまりにもの高さに身が竦んで、必死に彼の肩にしがみ付く。
「せっかくなのだから、猫になっている時にしか出来ないような事をしとくのだ?…あぁ、でも、頼むから鍋の中にだけは落ちないで欲しいのだ」
芳幸は器用に右手で鍋の中のものをかき混ぜながら、左手で華音の首元を撫でてくる。
…ミャァ…
思っていた以上に甘えた声が出てしまった。
――猫になっている時にしか出来ないような事…芳幸の言葉を頭の中で反芻させて、華音は彼の首元へ身を寄せた。
**§**
食事を済ませた後、芳幸が入浴をしに行ってしまい、慣れない空間に一人きり。
華音はベランダと部屋とを隔てているカーテンに近づく。
カーテンを少し捲って露になったガラスに映る姿は、勿論猫の自分。
もしも。
もし、このまま元に戻れなかったとしたら…。
物事を悪い方へ考えてしまい、頭〔かぶり〕を振る。
――パタッ……パタ…パタ―――…。
外側からガラス窓を叩く雫に気がついて、窓の外をじっと見つめた。
ザアァァ―――…と次第に音の勢いを増して降り注ぐ雫たち。
肌寒いはずだ。
冬の雨の日はいっそう寒い。
――っくしゅ……っくしゅ…。
「…華音?」
窓越しに、鼻をすする華音の姿と首元にタオルをかけた芳幸の姿が重なる。
声を聞いて窓から離れた華音は、差し伸べようとされていた手に自ら縋りつく。
ふんわりと石鹸の香りと伝わる温もり。
心地よさに目を瞑った。
「そろそろ休むのだ?」
…ニャー…
芳幸へ答えた華音の声が暗闇に響いた。
部屋を寝室へと移動して、ベットの中に芳幸と入ったものの…。
華音は壁際にくっつき、芳幸に背を向けていた。
「…華音。それでは寒くないのだ?こっちにおいで」
ちら…と、少しだけ振り返ると、芳幸が身体のすぐ傍を指差しているのが暗闇の中でも分かった。
――っくしゅ。
「夕方からくしゃみばかりして…風邪を引いてしまうのだ」
確かに壁は冷たくて寒い事は事実。
おまけにくしゃみまで出てしまっては、この状態を続けるわけにもいかず。
観念して、芳幸の傍に身を収める。
「オイラも華音が居るのと居ないのとでは大分違うのだ」
腕の中に身体を囲われて、抱き込まれた。
華音としても、やはりこの方が暖かい。
頭を撫でてくれる芳幸の手の温もりを感じながら目を閉じる。
今日の中で最も長い眠りの世界へ、華音の意識は落ちていった。
**§**
チチチ…。
遠くの方から聞こえて来る鳥のさえずりで、目が覚める。
ゆっくりと瞼を持ち上げるに伴って、華音の瞳に映り込むのは、人の肌色。
いつもの朝とは全く異なる目覚めに、華音はぱちくりと瞬きを一度した。
だが、昨日、自分の身に起こった事をすぐに思い出して、まだ眠気の残る感覚に身を委ねようとした。
たかが一日…されど一日。
その時間の中でも、ある程度の癖は身についてしまったようで。
無意識の内に、昨日までの感覚で額を目の前の温もりに寄せる。
「…芳幸さん…」
自分の口から自然と漏れた言葉にはっとする。
むくりと身体を起こす。
「…ん……華音…?」
彼の腕の中から華音が抜け出た事により、遅れて目を覚ました彼と目が合った。
それは、とても馴染み深い視界に広がる一コマで…。
「…戻ったのだ…?」
「――~っ!」
そして、彼の言葉が何よりもの決定打だった。
それからの行動は、自分ながらにとても素早いものだったと思う。
猫の姿で自分がしてきた数々の行動が思い出されて、とてつもなく恥ずかしくなり、後方へ退く。
とはいえ、元の姿に戻った今では昨夜の時ほど壁までの距離はなく、彼から大した距離は取れなかったが…。
「華音、別に逃げる事はないのだ?おいで?」
ここに、と、昨夜のように芳幸の傍を指して華音を誘〔いざな〕おうとする。
ふるふると首を横に振った。
まさに、穴があったら入りたいくらいの心境であるのに、素直に応じられるはずなどない。
「猫の時はとても甘え上手で、いつも以上にそれはそれは可愛くて堪らなかったのに。ちょっとつまらないのだ」
ベットに肘を突いた片腕に頭を乗せて、華音の様子を見つめている芳幸。
その仕草がカッコイイなどと思っていた事は、当然、華音だけの秘密。
「…いつからっ……そんなに意地悪になったんですかっ…」
「本心なのだよ?」
「…口元が…笑ってます…」
「それは、一日ぶりに華音の声が聞けたからなのだ」
「……っ」
反射的に自分の手で口元を抑える。
「だ。せっかく元に戻ったのだから、駄目なのだ」
ゆっくりと芳幸が身体を起こして華音に手を伸ばしてくる。
頭が混乱し、どう接して良いのか分からなくなって、何よりも先に思わず手が出てしまった。
バチン、という鈍い音が、静かに漂っていた朝の空気を揺らした。
**§**
「…芳幸、華音に何したのよ…」
芳幸のマンションの部屋の玄関。
花娟が芳幸の顔を見て言葉を漏らすのを、華音は奥の部屋の入り口から顔を覗かせつつ聞いていた。
「…オイラ、何もしていないのだ…」
「……電話の声がやけに沈んでたのは、その頬を引っ叩かれたのが原因ってわけね」
ちら…と、花娟の視線が華音に注がれ、おずおずと二人の方まで歩み寄る。
「確かにその格好じゃあ外を歩けないわね。とりあえずこれ、服。あと靴も」
「仕事前にすまないのだ、花娟。助かるのだ」
「ご迷惑をおかけしてすみません…」
元の姿へ戻れたまでは良かったのだが、服装が就寝時のワンピース姿のままだった為に、芳幸が花娟に連絡を取ってくれて花娟のものを貸して貰う事になった。
「…芳幸さんも、本当にごめんなさい。頭が混乱して…咄嗟に手が出ちゃって…」
彼の服の裾を控えめに掴み、小さく謝罪の言葉を紡ぐ。
「いきなり触れようとしたオイラも悪かったのだ。もう気にしていないから、着替えてくるのだ」
気にしていない、と言葉では言いつつも、芳幸は華音の方を見る事なく、素っ気ない態度で寝室がある方へと歩んでいく。
喧嘩…なのだろうか、これは。
何故、手を出してしまったのだろう。
いくら恥ずかしさから逃れる為だったとはいえ、行き過ぎた行動を取ってしまった。
ひどく後悔の念が押し寄せてくる。
「あたしもちょっとお邪魔するわよ。ほら華音、とにかく着替えが出来る部屋に案内しなさい」
芳幸の姿が消えた方向を見つめたまま、動こうとしない華音の肩を花娟にそっと押される。
華音は、気持ちと一緒の重い足を動かして、玄関からすぐの場所に位置するキッチンと繋がっている部屋へ移動した。
「あたしは後ろを向いてるから、ささっと着替えちゃいなさいな」
花娟から服が入っているのであろう紙袋を受け取り、言われるとおりに着替えを済ませる。
「終わった?」
「はい」
華音の返事を聞いた花娟は、こちらを振り返り歩み寄ってくる。
「良く似合ってるわね。自分の服とはいえ、さすがあたしの見立て♪」
満足そうに微笑みながら、華音が袖を通したセーターの襟元を直す花娟。
否、直すというよりは、少し肩口部分を落とすようにして露出度を上げられたと言った方が正しいかもしれない。
「…良い仲直りのし方教えてあげましょうか。華音だって芳幸とこのままの状態で仕事に向かうのは嫌よね?」
そう言って、華音の耳元に口元を近づけた花娟から紡がれた言葉は―――…。
**§**
芳幸は寝室で自身の着替えを済ませた後、華音の着替えもそろそろ終えた頃だろうと考えて、キッチンへと足を運んだ。
「…芳幸さん…」
掛けられた声にそちらを振り返る。
それと同時に芳幸の頬が、彼女の手の温もりに包まれる。
「…華音?」
花娟の服に身を包んでいる為か、普段の華音の雰囲気とは大分違う。
心なしか潤んでいるように思える瞳が芳幸を見上げていた。
「痛かったですよね。ごめんなさい…」
芳幸の頬の赤みを帯びる部分に寄せられる華音の唇。
…花娟の入れ知恵か。
すっと、華音の両手を己の手で包み込んで頬から外す。
「君をあれ以上傷つけないように、と離れていたのに…。これでは逆効果だ」
「芳幸さん?」
「華音、触れる事を許すのだ」
華音の手は己の手の中に収めたまま。
華音に口付けを落とした。
いつもよりも長い時間唇を触れ合わせながら、芳幸は華音の手から離した両手を腰に回し、彼女の身体を引き寄せる。
「…猫の姿も良かったのだが…やはりこのままの姿の方が良いのだね」
僅かに唇を離してから言葉を紡いで、再び…だが、今度は少し触れ合うだけの口付けを送る。
華音の手が遠慮がちに芳幸の服を握った。
「花娟。わざわざ小道具を使ったのだ?」
「あら、バレたぁ?」
リビングの隅、花娟が手元で目薬をちらつかせているのが見えた。
花娟がいる事を一瞬でも忘れていたのか、芳幸と花娟の会話を聞いた華音は、顔を隠すようにして芳幸に額を押し当ててくる。
そんな華音の身体を肩ごと抱き込んだ。
「これでは寒くないのだ…?華音」
意図してこういう服を花娟が選んできたのかは知らないが、露出度合いが多くはないだろうか。
華音が昨日の夕方から、時々くしゃみをしていた事もあり、芳幸としては気にかかって仕方がない。
「大丈夫です」
華音からはそう返答があったものの、マンションを出る前に己の荷物にカーディガンを一枚忍ばせておこうと、考えを巡らせる芳幸だった。
その後、各々が出勤してきた探偵事務所には、しばらくの間、顔を真っ赤に染め上げ続ける華音と、その傍らで頬にまだ多少の赤みを残しながらも爽やかに微笑む芳幸の姿があったらしい。
――何とも言えない光景だったけどォ、面白かったわよっ。
…というのは、花娟、こと、柳宿の後日談である。
◇あとがき◇
井宿さんとのいちゃつき度…これ、激甘になるんですかね…。
自分で書いておきながら砂吐きたいくらいでした(笑)
井宿さん…現代でもそつなく1人暮らし出来ていそうじゃないですか?
何せ、自称流浪の旅人ですし。
一通りの事をきっちりとマメにこなしそうだな…という管理人の勝手なイメージも込めた、後半のシーンでした。
柳宿、こと、花娟も絡ませやすいので、最後の方でちゃっかり登場させました。
主人公と井宿さんの二人だけだとどうも最後まで間が持たなくて…。
柳宿さんに仲裁役をして頂いたわけであります。
猫化…ありがちなネタかもしれませんが、これもまた書いていて楽しかったですっ。
今回からしばらくは単発ネタが続きます。
―管理人*響夜月 華音―