事件編【File1~10】
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おはなし箱内全共通のお名前変換「夢語ノ森」では基本、おはなしの中で主人公の娘っこの性格や年齢を書き綴っていく形にしていますが、特別設定がある場合もございます。
そういったおはなしでは説明頁の設置や特記事項がありますので、ご参考までにどうぞ。
当森メインの夢創作を楽しめますよう、先ずは是非、井宿さんにお名前を教えていって下さいませ
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「…長くてもあと二日もあれば、決着がつくのだ。それまでに体調を治して待っておいで」
華音の額に落とされるキス。
「まだ大分熱いのだ…」
手にしていた紙を鞄の上に置き、空いた芳幸の手が華音の頬へ添えられる。
普段よりも近い距離で交わる瞳に、胸の高鳴りは大きくなっていく。
つ…と、手は頬に添えられたまま、親指だけが唇をなぞった。
「…以前は、眠っている君に口付ける事しか出来なかったけど、今は―――…」
触れ合う、お互いの唇。
キスを何度か交わすことはあったが、彼の唇が自分のものよりも冷たく感じられるのは、これで二度目だった。
ひんやりと心地よい感触がすぐに離れていってしまった事が名残惜しくて、まだ近くにある彼のそれを追い求めて、今度は自分から唇を触れ合わせる。
「…華音?」
どうしてだろう…。
身体全体が熱いのに、口元への感触が一番心地良く感じられて…。
華音は、頬へ添えられている芳幸の手の指先を手にとり、自分の唇へと寄せた。
「華音…少し待つのだ」
言葉と共に、芳幸が身体を動かす気配がする。
頬からも完全に芳幸の手が離れてしまった事に寂しさを感じていると、程なくして顎に添えられる手。
「少しだけ口を開けてごらん」
彼の言うがままに行動に移すと、芳幸の唇を通して冷たいものが口の中に流れ込んでくる。
それを自然の流れで喉を鳴らして飲み込んだ。
芳幸とキスを交わした辺りから、靄がかかってすっきりしない頭で喉が渇いていたのだと理解する。
「もう少し飲むのだ?」
芳幸の声を何処か夢うつつで聞きながら、コクンと頷く。
身体の内に、少しずつ冷たさが吸収されていく心地よい感覚に、華音は身を委ねた。
**§**
(何をしているのだ…自分は…)
華音の身体から力が抜けて、全体重を自分に預けるように凭れ掛かって眠りに落ちた彼女を見やりながら、はぁ…と芳幸は短く溜め息を吐いた。
身体を起こす事で無理をさせてしまったのか…。
おそらく、華音自身は気付いていなかったに違いない。
途中から、華音の視線がぼんやりとしたものに変わっている事に気がつき、そんな中で華音が水分を欲しているのだと理解した後に取ってしまった己の行動。
言葉で促しつつ、華音自身で水分を取れるように手伝えばそれで良かったものを。
果たして口移しまでする必要性はあったのか。
あるないで言えば、なかっただろうと正直に思う。
発熱している状態にある中での、普段の華音では絶対にしないであろう積極的な行動を受けて、自制心が揺らいでしまった。
華音の身体的事情とは、これから先も付き合っていくものだというのに、こんな事で自制心が利かないようでは、己の身は持たない。
華音の身体をベットに戻した後、今一度息を吐く。
少しでも水分を摂取した事が良かったのか、芳幸が来た時よりも呼吸は穏やかになっている。
頬にかかった髪を耳の後ろへかけてやると、僅かに身じろぎはしたものの、今度は起きる様子はなかった。
「ゆっくりお休み、華音」
額へまた口付けを一つ落としてから芳幸は立ち上がる。
数分の刻も惜しい。
華音にも約束したように、こんな事は早く終わらせなければ。
手早く書類を鞄に納めて部屋の外へ向かった。
階下まで足を運ぶと、ちょうど華音の姉の愛羅と顔を合わせる。
「沢井さん、お帰り?」
「はい。疲れさせてしまったのか、また眠っているので…。事務所に戻って事の解決に励みます」
「…侯野さん…でしたかしら。その後、お怪我の具合はいかが?」
「彼は普段から体力と元気は有り余っているくらいなので。時々まだ痛みはあるみたいですが、案外ピンピンしてますのだ」
「そうですか…お大事に、とお伝え下さい。今回も本当に力を尽くして頂いて……――どうか宜しくお願い致します」
芳幸の返答を聞いた愛羅は、胸を撫で下ろし、芳幸に深く一礼をする。
そんな愛羅には、芳幸も会釈をして芹沢家を後にした。
事務所に戻ってきて早々に、寿一が開口一番に華音の様子を尋ねてきた。
「華音の具合はどうだ?」
「昨夜よりは熱が下がったようなのだが…まだ大分しんどそうだったのだ。食事もあまり摂れていないみたいだったし」
「…手紙の相手は奴やったんか?」
「あぁ。もうこうなったら、華音の為にも明日中にけりを付けるのだ」
翼にも言葉を返しつつ、コートを手荒く脱ぎ捨ててデスクに向き合う。
「マジやで、井宿」
「あぁ、マジだな」
さて、相手方にどう乗り込んだものか…と、思考を巡らせようとして、思い出した事柄を言葉にする。
「翼宿。愛羅さんが怪我の心配をしていたのだ。お大事に、と」
「あー…何でもっと上手いことやれへんのかったんやろか、自分…」
「パーティーの時は仕方がなかったのだ。相手がどう出てくるか分からなかったのだから」
「それにしても物騒なもの持ってたわよねぇ。お蔭であたしも被害に遭ったけど…」
「強行突破する為にあそこまでするとは…完全にしてやられた、あれは」
「上手い事会場からも逃げられたしな」
「…本当に立ち去ったのでしょうか、彼は」
素煇から上がった言葉に、皆が彼へと視線を注ぐ。
芳幸も、立ち上げたノート型パソコンの画面から顔を上げた。
「ずっと考えていたんです、彼が起こした一連の行動を…。会場が一ノ瀬財閥の管轄だったならまだしも、芹沢社長が手掛けているホテルの内の一つでパーティーは行われたんです。
芹沢グループの謝恩パーティーでしたからね。それなのに、停電させた上で彼は動きました。予め下調べでもしておかない限り、無理な事だと思うんです」
「まさか…」
寿一が呟いたのに対して、素煇は頷いた。
「僕と軫宿さん、それに会場内から彼を追ってきていた魏さんから逃れられたのはたぶん―――…」
「…余分な手間が省けそうなのだ」
素煇の言葉を聞きながら、パソコンを操作する。
欲している情報が載ったページをインターネット上で探し出してから、パソコンの画面を素煇に見せる。
「この中から客室を絞り込めそうなのだ?張宿」
「片手くらいには絞り込めると思います」
「十分過ぎるのだ。彼は華音に執着するあまりボロを出しすぎた。今度は絶対に逃がさない」
素煇の返事を聞いた芳幸は、勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
**§**
――ポーン――
とあるホテルの一室。
さすがは、芹沢グループの管轄内のホテルなだけあって、設備は色々と行き届いている。
滞在して一週間ほどは経ったか…。
お蔭で大分慣れ親しんできたその部屋に宿泊していた青年は、来客を知らせるインターフォンが鳴った事を不思議に思いながらも、外に繋がる扉まで歩み、ドアスコープを覗いた。
そこから見えたのは、自分よりもおそらくは年下であろう一人の少年。
頭上高く結い上げた髪が印象的だが、見覚えはなかった。
出る事に躊躇していると、再度インターフォンが鳴らされる。
まぁ、良い。
何かで時間に追われているという訳でもない。
どちらかと言えば、そろそろこの状況に退屈していた所だった。
少しでも暇つぶしになれば…青年は、そんな軽い気持ちで扉を開けた。
「一ノ瀬…悠斗さん、ですよね?たまたまこのホテルに入っていく所をお見かけしたので…」
見上げて、確認するように問い掛けてくる少年に、青年は答える。
「あぁ。俺に何か用か?」
「一ノ瀬財閥のお孫さんは、とても頭がきれる方だと聞いたので確かめたくて…。本当ですか?」
「頭の回転が早いとかは周りからも良く言われるかもな。俺自身も、色々考える事は嫌いじゃない」
「やっぱり、そうなんですね!良ければ、僕と勝負して下さいませんか?」
「…は?勝負?」
ニコニコと、人懐こい笑顔を浮かべる少年。
訝しげに視線を投げかけても、笑みは崩さない。
まるで、青年が頷く事を待っているかのように。
何だか良く分からないが。
面白そうだとは思った。
青年は口の端を上げて答える。
「別に付き合ってやっても良いけど?何で勝負するんだ?」
「連想ゲーム、なんてどうでしょうか?」
ニコッ、と、変わらず微笑みながら少年は小首を傾げた。
**§**
「連想ゲーム?」
少年の口から出た単語に青年は首を傾げる。
何となくの想像はつくが、少年が求めるものがどんなものなのかは今一曖昧で、返答を待った。
「最初に一つだけお題を決めて、後は順番にお互いの問い掛けと答えでストーリーを創っていくんです。どうです?」
「…それ、何処で終わりなんだ?勝負って言ったよな?下手すりゃ延々と続くだろ」
「答えに詰まってしまって、問いただせなくなった方が負けです。僕を言い負かせる自信がありませんか?」
なるほど、な。
青年は納得して鼻を鳴らし笑った。
「お前、なかなか面白い奴だな。受けて立ってやるよ。そのお題とやらはお前に決めさせてやる。後悔しないようにな」
半分皮肉も込めて放った言葉に、少年は笑みを絶やすどころか、更に深い笑みにして素直に感謝の言葉まで述べてきた。
「ありがとうございます。では、そうですね…。恋をしていた少女に振られてしまった少年という設定で。少年はまず、どうしたと思いますか?」
まだ恋など知らなさそうな少年から上がったそのお題に驚いたものの、すぐに答えを出す。
「想いはそのままに、もう一度迫る機会を窺うってところだろ。その次の機会はいつ頃になるんだろうなぁ?」
「少女が想いを寄せていた人と想い叶い、付き合い始めた頃。見るに耐えなくてもう一度想いを告げようとしますが、相手の存在が邪魔でタイミングが掴めません。焦れた少年はどうするでしょう?」
「そうだなぁ…ありとあらゆる方法で少女を振り向かせようとするかもな?どんな方法があるやら」
何だか少し長引きそうだ。
年下のくせに、なかなか事細かに食い込んできやがる…。
青年は、少年に言葉を返しながら、少年を部屋の中に誘い入れようとドアから少しずつ離れた。
何も言わずとも行動の意味を理解したらしく、少年は青年に倣って部屋へと足を踏み入れてくる。
だがそれも、ドアが閉められるか閉められないかの微妙な位置で止め、ドアの端に背を預けるようにして佇む。
廊下越しで話し続けるよりはましか、などと思いながら、青年は再び少年の口が開くのを待った。
「少々手荒な真似をしてでも少年は必死になります。仕舞いには脅迫まがいな事まで。でも、これではさすがに少女に嫌われてしまうと気付きますが…少年は続けますか?それとも、もう諦めますか?」
「どんな事をしてでも振り向かせたいと思えば続けるよな」
「少女が心病んでも、ですか?」
少年から持ちかけた勝負事であるのに、ルールに反してきた事に気がつき、すぐさま声を上げる。
「おい、まだ俺の番だろ」
「答えて下さい。でないとそちらが負ける事になりますよ」
どう考えても理不尽な事を言われている。
だが、青年は有無を言わせない少年の口振りに、納得いかないながらも答えた。
「少年の存在が少女の心を占めてるのは確かじゃないか?それも一つの方法かもな…」
「それが本心ですか――みたいですけど、井宿さん」
ちちり?
少年が変な名前のようなものを呼ぶと同時に、廊下から三人の男が現れる。
その中の一人を見て、青年は驚きに目を見張った。
「お前っ。…くそっ、ガキ、俺を嵌めたのか…っ!」
「疑いもなく勝負事に乗ってきてくれたので、助かりました。頭がきれる一ノ瀬財閥の孫も大した事ないですね」
ちっ、と舌打ちを残して逃げようとしたが、背中から三人がかりで床に抑え込まれる。
「三人がかりなんて卑怯だろ!離せよ…!」
「回りくどい手を使ってまで華音を追い詰めたお前が何を言っているのだ」
両腕を押さえられていた力が離れたかと思いきや、ぐいっと身体を反転させられて仰向けにさせられる。
一番顔を見たくない男が、青年を跨ぐ様な態勢で床に膝を付き、見下ろしていた。
「俺の女に手を出すとは良い度胸だな」
「…お前、あいつより大分年上だろ?高校生の俺らから見たら、十分おじさんなんだよ。下手したらロリコンじゃね?」
青年の言葉に、双方の瞳がすっと細められた。
「そうだな…。何度となく生きるか死ぬかの瀬戸際も経験して歳を重ねてきたんだ。そんな俺よりもぬくぬくと育ってきた若僧のお前に、華音への歪んだ思いを語る資格などない」
「……っ!?」
生きるか死ぬか…?
こいつ、どんだけ危ない橋を渡る人生送ってきたんだ…っ!?
想像できる範囲内で考えられる可能性を思い浮かべ、青年は己のその考えに背筋が凍りつく思いがした。
**§**
何を想像したのか…。
決して脅しでも何でもない芳幸のその言葉に、彼は息を呑んで口を噤んでしまった。
芳幸はその様子を見やりながら、静かに最終通告を言い渡した。
「分かったなら、金輪際華音には近づかないと約束して貰おうか」
コクコク…と、必死に首だけを縦に動かす彼。
「…最後に一つだけ聞いておくのだ。パーティーの時に負った翼宿の腕の怪我…愛羅嬢に証言して貰えば、こちらとしては警察沙汰にも出来るのだが。どうするのだ」
相変わらず、だが今度は首を横に振って言葉なく答えが返ってくる。
「華音が味わっている苦しみに比べたら、まだこんなの生ぬるいくらいなのだ。口があるのだから、ちゃんと言葉にしたらどうなのだ?」
「……かっ…勘弁して下さいっ…!」
悲鳴にも近いような言葉を聞き、芳幸は彼から離れて立ち上がる。
「仕方ない…今回の件はオイラたちの中だけで留めておくのだ」
芳幸の獲物を射るような視線から解放されて安堵したのか、彼はそのまま気を失った。
「散々人を振り回しておいて、意気地がないのだ」
肩を竦めながら仲間の元まで歩むと、複雑な表情を浮かべた魏と翼の視線が芳幸に向けられる。
「…いや、キレた井宿ほど恐いもんはないって…」
「そいつ、絶対勘違いしとるで。さすがにちぃと気の毒やわ」
「まぁ、その分、華音さんに手を出してくる事は二度とないでしょう」
芳幸たち四人は、一度振り向き様に青年へと視線を向けてから、部屋を出た。
こうして、ホテルの部屋の扉が重々しく閉まるのと同時に、今回の事件は無事に幕が下ろされたのだった。
**§**
事が解決したという報告を芳幸から聞いてから、華音の気持ちの面でも落ち着きを見せて、二日ほどかけて体調は無事に快復した。
今ではすっかり、日常の一部として馴染んでしまった週末のバイト。
華音は、出勤してすぐ、父親から預かってきたものを賁絽に差し出した。
「父から、今回の依頼のお代とお礼です。本当は、私が頂いているバイト代から出そうと思っていたんですが、親としてもお詫びも兼ねたお礼をしたいからと、一緒に預かって来ました」
「…華音の事は、正式な依頼にするつもりはなかったのだが…。それにこれは…」
お礼として用意された封筒を手にして賁絽が首を傾げる。
そんな賁絽の近くをちょうど通りがかった花娟は、封筒に書かれている英字を見て何かに気付いたように少し興奮気味に声を上げた。
「ちょっと待って…“フラン・ルッセ”って確か…人気があってなかなか予約が取れない事で有名な、あのホテルレストランじゃない!ここも芹沢グループの系列だったの…知らなかったわ」
「事務所の方たち全員分と、唯と美朱ちゃんの分までは招待券があるんですが…唯の彼の分まではちょっと用意できませんでした。すみません」
「…そんなの気にしないでよ。あたしと美朱は何にもしてないわけだし、招待があるだけでも有難いのに…哲也さんの事まで気を遣って貰って悪いくらいだよ」
「駄目だよ、唯ちゃん!せっかくの好意は有難く受け取らないと…!ご馳走、ごっちそう~♪」
「…華音。このホテルレストラン、バイキングの食べ放題形式よね?美朱まで招待したら、お父さんの会社に大打撃がある事は間違いなしだと思うけど…」
「…ちゃんと父に確認は取って来ました。時間制限もあるので、大丈夫なはず…です」
「良いよ…俺が責任持って、行く前に美朱には前もって食わせてく。それもどのくらい効果があるか分かんねぇけどな」
聞こえてきた魏の声に振り向くと、翼と芳幸に宥められている魏の姿があった。
良かれと思ってした事が、反対に気を遣わせる事となってしまっただろうか。
「先週のパーティーの話を魏から聞いたらしいけど、仕事の一環だったとはいえ、美朱は残念そうにしてたわねぇ。こういう機会もそうそうあるもんじゃないし、嬉しいと思うわよ、美朱は。特に食事の事だから、これ以上の喜びはないでしょうよ」
気持ちが何処かしらに反映されていたのか、それを汲み取ったように花娟から言葉が紡がれる。
視線を賁絽と花娟の方に戻すと、夢見るような表情で頬を赤らめる花娟がいた。
「なーんて、実はあたしもぉ、仕事でパーティーに参加したのはちょーっと惜しいと思ってたのよね。せっかくだからお洒落して楽しみたいじゃない。パーティーじゃないけど、こんなご褒美があるなら、頑張った甲斐があったって事かしら~♪」
るんるん、と、心底楽しそうに思考を巡らせている花娟を見て、華音はほっと安堵の溜め息を漏らした。
**§**
「…私までご一緒してしまって本当に良かったんですか?」
平日の夜。
華音は芳幸たちと共に、レストランに居た。
自分も含めた10人で、様々な料理を取り揃えてある一つのテーブルを囲う中、隣に座る芳幸が笑顔で答える。
「普段、ゆっくりデートも出来ないから、華音の粧かし込んだ姿が見たかったのだ。それこそ、パーティーの時はそんな余裕などなかったから」
いつもの如く、熱が集まる顔を俯かせる。
「…井宿って、ほんと華音には甘いよな…」
「華音、井宿をあんまし怒らせん方がええで。男絡みでは特にな」
魏と翼の言葉の後に、くすくすという小さな笑い声が聞こえて、顔はなるべく俯かせたままで視線だけをそちらに向けると、素煇が華音とは反対側の芳幸の隣で笑っているのが見えた。
「でもあれは、あちらの口が少々悪かったのですから、誰でも怒りますよ」
「おじさん…やもんなぁ」
「おまけにロリコン呼ばわりされちゃあな…」
「何、井宿、そんな事言われたわけ?」
「せや、めっちゃキレとったわ」
「相手は井宿の言葉に固まってたよな、可哀相なくらいに」
「たぶん、どっかの組のもんやと思われとるで、こいつ」
「……芳幸さん…何を言ったんですか…?」
事がどう解決されたのか、詳しい事はおろか、何も聞いてはいない。
知りたい、というわけでもないが、思わず問い掛けてしまった。
「別にオイラは嘘は言わなかったのだよ?あっちが勝手に物騒な想像をしただけなのだ」
答えながら、芳幸は満面の笑みを浮かべていた。
…その時の事を思い出して、何かしらの感情が蘇ってでもいるのか。
華音にも分かる、100パーセントの笑顔には見えないそれ。
ときめきとは違う意味で、ドキドキと胸が高鳴った。
「…華音お嬢様」
不意にその名を呼ばれて、高鳴ったままの胸を手で抑えながら声のした方に視線を移す。
「水城さん…」
そこには、華音も良く見知っているこのホテルの支配人の姿があった。
人当たりのよい笑顔を浮かべた彼は、華音の傍まで歩み寄ると、その身をしゃがませる。
「去年いらして下さったので、今年はお会いになれないと思っていましたが…お元気そうな姿を拝見できて嬉しい限りです」
支配人の彼は父の古くからの友人という事もあり、このホテルのレストランには二年に一度家族で足を運んでいたりする。
その為、小さい頃から華音と姉の愛羅の事も知ってくれていて、親しみ深い間柄と言える。
「今日は随分賑やかですね」
「…バイト先でお世話になってる方…」
「芳幸くん、とは、どなたですか?」
「えっ?な、何で知って…――父が話したんですか…」
「えぇ、それは嬉しそうに話してくれましたよ」
名前まで出されてしまっては、はぐらかす事は出来ない…観念して、華音は隣に居る芳幸を手で示す。
「彼です。…芳幸さん、この方、このホテルの支配人で、父の友人なの」
芳幸の事を真っ直ぐには見れず、やや視線を逸らして言葉を紡いだ。
「水城と言います。華音お嬢様の事は良く存じておりますよ。聞きたい事があれば何時でもどうぞ」
「沢井です。心強いお言葉をありがとうございます」
「…この辺で良しとしませんか…?」
どうも恥ずかしくて居た堪れない。
必死の思いでそう提案した。
「華音お嬢様がそう言うのであれば、そうしましょう」
華音の言葉に頷きながら、彼――水城は立ち上がる。
「今日もピアノを弾かれていきますか?」
すぐには華音から離れずにいた水城から上がったその言葉に、華音は心を弾ませる。
教養を身につける為、何か一つは習い事を…という両親の教えで、幼い頃から、華音はピアノを、愛羅は華音と同じくピアノに加えて華道も習ってきた。
父親が社長という立場もある事から、色々な場面で愛羅と共に自己紹介としてそれらを披露する事も少なくはなかった。
このレストランでも、人前で演奏する場として支配人の水城の厚意もあって、足を運んだ際には毎回、弾かせて貰っている。
ピアノを弾く事はずっと好きだった。
「…でも、今日は…」
「私が、華音お嬢様のピアノを聴きたいのです。私は華音お嬢様が弾くピアノの大ファンですから」
ニコっと、水城に微笑まれてそう言われてしまっては、悪い気はしない。
「ほんの数分の間だけ…席を外します。…何か聴きたい曲はありますか?」
芳幸たちに一言断りを入れて椅子から立ち上がり、水城に尋ねる。
「そうですね…ここでは必ず弾いて下さる、ショパンの革命はやっぱり外せませんね」
「…じゃあ、それともう一曲…二曲弾かせて貰います…」
ちら…と、少しだけ芳幸の方へ視線を向けた後、食事をするテーブルから離れた。
**§**
「…すごい…」
水城と名乗る支配人の希望に応えるようにして始まった、華音のピアノ演奏。
華音が最初の音を奏でた瞬間、食事の手を止めた美朱の口から、ただ一言、言葉が零れ落ちた。
それ程、華音の演奏は惹き込まれるものだった。
「…驚きますでしょう?普段、彼女が持つ雰囲気からはかけ離れていて」
「そう…ですね」
芳幸の隣に一つだけ空く席の後方、彼から紡がれた言葉の通りだと、芳幸は頷いた。
「華音お嬢様は、情熱的で力強い曲を好んで良く御弾きになっています。華音お嬢様にとってのピアノ演奏とは、唯一、一心に全力を注ぐ事が出来るものだそうですよ」
なるほど、と思った。
彼女自身、身体が弱いという事で、全力でぶつかっていけるものは限られてしまう事だろう。
自分の理想を曲調に追い求め、無理なく全力を注げるピアノに心を託しているといった所だろうか。
「…以前に一度、私の願いでもあったが為に、つい言ってしまった事があるんです。ピアニストを目指されてはどうかと。ですが、華音お嬢様は自身の事も音楽の世界の事も良く理解していました。
自分にはやり通すだけの精神力も体力もないから、と言われてしまいましてね」
彼はそう言って、何処か残念そうに微笑んでいた。
程なくして、演奏の音が止む。
そうして適度な間が取られてから、また違う曲が始まる。
「おや、華音お嬢様にしては珍しい選曲…乙女の祈り、ですか。これはあなたの為の一曲、なのでしょうね、きっと」
席から離れる前に、こちらへと僅かに視線を投げかけてきたのはそういう意味があったのか。
参ったな…と言わんばかりに微笑む。
芳幸は、彼女なりの懸命な想いに応える為、席から立ち上がった。
演奏が終わるのを待って、華音の近くまで歩みを進める。
「…芳幸さん?」
ピアノから離れた華音に手を差し伸べると、遠慮がちに重ねられる手。
その手ごと華音の身体を自分の方へと引き寄せ、彼女だけに聞こえるよう耳元で言葉を落とした。
「君の存在は凄いな…俺の心をこんなにも強く惹きつける」
すぐに身体を離して、そのまま彼女より少し前方に立つ形で席までの距離をエスコートする。
戻ってきた席では、支配人の水城が椅子を引いて待っていた。
「お疲れ様でした、華音お嬢様。いつにも増して素敵な演奏をありがとうございました」
華音は席に着くまでの間、始終俯いていた。
表情は見えなくとも、大体の想像はつくが故につい笑みが零れる。
「私は此処で一度席を外します。社長から一つサービスを、と承っておりますので、用意して参ります」
元よりその事もあって華音に声を掛けたのか、彼は速やかに離れていく。
いくら華音の事での詫びと礼とはいえ、華音の父には恐縮する思いだが、厚意を無下にしてしまう事も出来ない。
そこはあまり深く考えずにいる事としよう。
「ひあほふっごくじょーふなんはね」
「ピアノすっごく上手なんだね」
「唯…お前すげーな…」
「立場的にそれなりのレベルも求められるんでしょうけど。でも、美朱の食欲を止められるんだから、相当よ」
「ピアノを弾く事は好きなので、上達させる事を苦に感じた事はなかったです」
そう話す華音の表情は、柔らかなものだった。
「だから、一音一音に華音の心が込められているのだね」
芳幸の言葉に、華音ははにかんで笑う。
また一つ、華音の新たな一面を知った。
彼女の内には、一体どれ程のものが秘められているのか。
華音というその存在を、芳幸は眩しい思いで見つめた。
**§**
水城が一本のボトルを手にして戻ってくるなり、既にテーブルに用意されていたワイングラスへと中身を注いでいく。
「新作のノンアルコールのワインでございます。是非、お試し下さい。お口に合わなければ、他のものをご用意致しますので、何なりとお申し付け下さい」
一人ひとりの元へ丁寧に回り、最後に華音の所へ来た水城は、後方に控えていたウェイターが手にする盆から、既にワインが注がれているグラスを受け取ってテーブルへと置いた。
「あ、あの、私の分は…」
「演奏して頂いたお礼です。華音お嬢様もお試しになってみて下さい」
「…ありがとうございます」
「――では、私はこれにて失礼させて頂きます。御時間までごゆっくりどうぞ」
そう言って、彼は微笑を浮かべ、下がっていった。
水城が下がり、皆の食事がある程度落ち着いたタイミングで、華音は口を開く。
「芳幸さんにも皆さんにも、日頃から良くして貰っているのに、今回は特に個人的に助けて頂いて…。私には感謝の気持ちを伝える事しか出来ませんが、本当にありがとうございました」
「…ねぇ、華音ちゃん」
一度は下げた頭を上げて、華音の名を呼んだ彼女の方を見る。
「あたしも唯も、今回、華音ちゃんに何があったのかは分かんないけど…。ここに居るみんなね、あたしと魏が幸せになる事を心から願ってくれてるの。勿論、唯も。でも、あたしだって、皆に幸せでいて欲しいって思ってるんだよ。
皆に負けないくらい、井宿にも幸せになって欲しいってそう思うから。井宿の事を幸せに出来るのは、きっと華音ちゃんだって、あたしはそう思うよ。二人が幸せになれるなら、力になりたいって、皆も思ってるんじゃないかな」
なんて子なのだろう、と、思った。
一条茉莉奈…彼女との事で、果たして自分が彼の傍に居ても良いものか、と戸惑った事もあった。
だが、その答えを、華音自身でもなく、芳幸でもなく、夕城美朱という彼女がくれた。
「それでね、華音ちゃん、お願いがあるんだけど…」
「う、うん」
「あのね…」
美朱の視線が、華音から別のものへと移される。
「そのノンアルコールのワイン、いらなければちょーだいっ」
「………え?ワ、ワイン…?」
話の流れとは全く関係のない所に話が行き着いて、たっぷりと間を取ってしまった。
「…美朱。良い事言っても全部台無しじゃない」
がっくりと、花娟が項垂れる。
花娟と華音…そして当の本人の美朱以外は、皆、顔に苦笑を張り付かせていた。
「だってぇ、華音ちゃん、途中からあんまり手をつけてなかったみたいだったし、このワイン美味しいからずっと気になってたんだもん」
期待の眼差しを華音のワイングラスへ注ぎ続ける美朱に、それを差し出す。
「もう水分も入れられる余裕がなくて…良ければ、どうぞ?」
「ほんとにいいのっ!?じゃあ遠慮なくいっただきまーす♪」
グラスに三分の一程残っていた綺麗な赤色の液体は、一瞬にして美朱の口の中へと吸い込まれていった。
「んーっ、美味しかった!」
心底幸せそうな美朱の表情に、口元が綻ぶ。
「…華音?」
「……ごめっ…なさっ…楽しすぎて…堪えきれなっ…」
込み上げてくる可笑しさを、腹部と口元に宛がった手で必死に押さえ込んだ。
仕舞いには、目尻に浮かんできた涙を指で拭う。
芳幸、素煇、寿一、賁絽、花娟、翼、魏。
そして、美朱と唯。
彼、彼女たちの前では、苦しい事も悲しい事も、瞬く間に温かいものや楽しいものへと変わっていく。
それこそ、悩んでいる暇などない程に。
華音が知らなかった世界は、どんどん広がり続ける。
「華音。あんたはねぇ…芳幸と一緒に、芳幸の隣で笑ってればいいのよ。それで十分」
可笑しさが収束しても、笑みは零れていく。
自分は今、どんな風に笑っているのだろう。
きっと、華音自身も知らない笑顔が在る。
そう感じた。
◇あとがき◇
すみません、性懲りもなくまた音楽ネタを盛り込んでしまいました…。
管理人、リアルでは音楽大好き人間なので、ついついネタにしてしまうのですよ←
バイオリンもお嬢様っぽい習い事ですが、弦楽器関係は、交響詩「愛紡ぎ」で散々書いたので、今回は無難にピアノで落ち着きました。
そんな場面が出てくる最後は、おまけ話的な感じになりました。
「朱雀探偵事務所へようこそ!」シリーズでは、主人公をお嬢様設定にしていますが、主人公自身が何より特別扱いされる事を苦手としていますし、口調もそこまでいかにも!という感じにはしていないので、
少し、っぽい雰囲気が欲しくなって、経営先の支配人なる人も登場させてみました。
要するに、せっかくなので誰かに“お嬢様”って呼ばせたかったんです、はい。
そんなこんなで、事件編の一作品目は、とりあえず事件らしい(?)お話になりましたが。
この後は、日常的なお話がいくつか続きそうです。
時間軸的には、ちゃんと順序だててお話を進めていく予定です。
最終的に何処までで区切りをつけるか…難しい所ではありますが、引き続き、頑張ります!
―管理人*響夜月 華音―