事件編【File1~10】
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おはなし箱内全共通のお名前変換「夢語ノ森」では基本、おはなしの中で主人公の娘っこの性格や年齢を書き綴っていく形にしていますが、特別設定がある場合もございます。
そういったおはなしでは説明頁の設置や特記事項がありますので、ご参考までにどうぞ。
当森メインの夢創作を楽しめますよう、先ずは是非、井宿さんにお名前を教えていって下さいませ
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それは―――…。
華音の元に届いた、一通の手紙から始まった。
カタン…。
「……?」
ある日の朝。
下駄箱に入れられていた赤い封筒のそれ。
「……っ!」
手紙を読んで、誰にも気付かれないように、鞄の奥底へと仕舞い込んだ。
これは、知られてはいけない…。
私の胸の内に秘めておかなければ―――…。
**§**
「…はい、申し訳ありませんが、そういう事で宜しくお願いします」
相手との電話を終えた愛羅が、ソファーに座る華音を振り返る。
「これで良いの?」
「うん、ありがとう、お姉ちゃん」
「また何かあったの?」
「何でもない…ただ少し、身体が疲れてるから、バイトはしばらくお休みしたいだけ」
ソファーから立ち上がり、廊下に繋がるリビングの扉の方へと向かう。
「来月には謝恩パーティーを控えているから、それまでに体調を整えておきなさいね?」
「…うん」
姉とは目を合わせずに足早にリビングを出て、自室へと急いだ。
自室に入ってからは、重い足取りで歩を進める。
途中、机の上に置いてあった日記帳に目が留まり、手に取る。
頁をめくらずとも、栞のように赤い封筒が挟まれていた箇所が、その存在を主張するかの如く開かれた。
華音は震える手で封筒から出してあった手紙を持ち上げる。
――恋人との関係を断ち切れ。
そうしなければ、来月に行われる芹沢グループの謝恩パーティー会場で
芹沢愛羅嬢の身に災いが降りかかる事になる。
俺の愛し君へ――
「…っ…」
何度見ても手紙の内容は変わるはずなどなく、手早く日記帳の頁へと戻した。
机から離れてベットへと身を沈める。
本当は体調に問題などない。
出来る事なら、体調を偽ってまで芳幸から離れる方法は取りたくなかった。
けれど、こうする事しか自分には出来なくて。
他にどうすれば良いのか分からなくて。
華音なりに必死に考えて出した答えだった。
自分の腕で顔を覆いながらくっと唇を噛み締める。
自分から芳幸に近づかなければ、事は何事もなく済むはず…。
その時は、そう思っていた。
**§**
それからは、特に何が起こるというわけでもなく、平穏な日々が過ぎること早二週間。
「…華音。最近、沢井さんと何かあったの?」
最近ではすっかり仲が打ち解ける事の出来た理枝と麻奈美の二人と昼食を取っている中、不意に麻奈美が話を切り出した。
「別に…何も…」
歯切れ悪く返答する華音に、ずいっと顔を近づけてきて理枝が言う。
「本当?…何でも話してって言うわけじゃないけどさ…。体調が悪いわけでもないみたいだけど、華音、最近何か沈んでない?沢井さんの話もあんまりしたがらないし」
「そうそう。心配してるんだよ、華音の事」
理枝の言葉に麻奈美も頷く。
こういう時、どうすれば良いのだろう、と華音は思う。
何処まで話して良いものなのか、良く分からない。
この二週間、あの手紙の事は華音自身の中だけに留めておく事は出来ていた。
華音の元に届いた手紙でパーティーの事に触れていた事から、パーティーが催されるその日までを様子見とすれば、手紙の件は終息に向かうものだと考えていた。
だが、本当にそうなのだろうか…。
父が主催する謝恩パーティーが二週間後に差し迫った今。
華音の心中は、大分違うものとなっていた。
手紙の最初に、恋人との関係を断ち切れ、とも書かれていたのだ。
華音と芳幸にお互いへの想いがある限り、きっとその関係は続いていく事だろう。
そうともなれば、これは時間が限られた事ではない。
体調を理由に、自分の答えを貫き通せるものではないのかもしれない。
今までの自分の考えに不安を抱き始めていたところだった。
「……あの、ね…」
華音が辿り着いた答えでは、おそらく解決されない。
違う答えがあるのならば、それを見つけ出したい。
そう思い、華音は口を開いた。
「もしもの話なんだけど…」
言葉を選びながらゆっくりと話す華音を、理枝と麻奈美の二人は頷きながら待ってくれている。
「事実を知る事で、自分にも危険が及ぶかもしれないって分かっても…大切な人になら、隠さずに本当の事を話して貰いたいって思う…?」
「それって、自分にとっての大切な人も危険に巻き込まれるかもしれないって事だよね?だったら、余計に話して欲しいって思うな、私だったら」
「うん、私もそう思う。一人だったら出来ない事も二人でなら出来る事もあるかもしれないし」
華音の問いに、それが当然と言わんばかりに躊躇なく返ってきた答え。
驚きに瞬きを何度か繰り返した後で、微笑みを漏らす。
「…そっか…そうなんだね。うん、ありがとう」
「一部の男子が、憂いある姿も良いとか何とか言ってたけど…」
「やっぱり、笑顔が一番だよねぇ?」
「…え?ど、どういう事?ちゃんと把握しておかないと、芳幸さんに怒られちゃう…」
「華音…本っ当に、何ーにも気付いてなかったんだ?あんだけ騒いでたのに」
「男子が報われなさ過ぎて…さすがに少し同情するかも…」
「……?」
光が見えて、少し心が軽くなったように感じられる。
学校が終わったら…彼に会いに行こう、と心の内でそっと思いを寄せた。
**§**
学校を終えて探偵事務所に直行した足で入り口を潜ると、驚きの眼差しが華音に注がれる。
そんな中、華音は花娟がいる受付まで足を進めて頭を下げた。
「依頼をお願いします」
「…依頼?何よ、急に改まって…」
「バイトを休んでいた事と何か関係があるのだ?」
すかさず芳幸から掛けられたその言葉に、頭を下げたまま頷く。
とりあえず話を、と花娟に促されて、来客用のソファーへ腰掛けた。
「それで、どんなご用件かしら?」
花娟の依頼者として向けられる口調に、鞄から赤い封筒を取り出して机の上に差し出す。
「…中身を確認して良いのだ?」
「はい」
華音の返答を受け、封筒を開けて手紙に目を通した芳幸の眉が、ピクリと顰められる。
「華音、これをいつ何処で受け取ったのだ」
穏やかではない芳幸の声音に、傍に居た花娟や翼、素煇も彼の手元を覗き込んで彼と同様の反応を示していた。
「三週間くらい前…学校へ登校した時に、私の下駄箱に入っていました」
「差出人に心当たりはありますか?」
素煇の問い掛けには、首を横に振って答える。
「何か身辺で変わった事は?」
「……手紙が届く前に二度ほど…視線を感じる事はあったけど…それ以外は…」
「どうしてその時に言わなかったのだ」
「ご、ごめんなさ――」
頭上から降ってくる声に顔を上げると、強く…それでいて優しく抱きしめられた。
「気付いてあげられなくてすまなかったのだ。恐かったのだ?」
「…恐かったけど……言うに言えなくて…」
抱きしめてくれる温もりに遠慮がちにしがみ付く。
「話してくれたからには、愛羅さんの事も華音の事もオイラたちが護るのだ」
芳幸の言葉に、肩越しに他の皆も頷いてくれたのが見えて、目頭が熱くなる。
少しして華音の気持ちが落ち着くと、芳幸は華音から身体を離し口を開いた。
「華音のお父さんに、オイラたちを裏方としてパーティー会場へ入れるよう頼んで欲しいのだが…」
「…全員?」
「人手が多いに越した事はないから、出来れば全員」
「お願いしてみます」
華音は芳幸に頷いた後、そのまま言葉を続ける。
「…本当は…手紙の事、どうしたら良いのか分からなかった…。でも、私が思ってもみなかった答えを理枝と麻奈美の二人がくれて…勇気を出せたの」
「本当にあの二人には、助けられてばかりなのだ。良い友達を持ったのだね」
そう言って自分の事のように喜びを微笑みに表す芳幸を見て、華音からも笑みが零れた。
**§**
「フロアースタンバイOK」
[ロビーもスタンバイOKよ]
[エントランス付近スタンバイOKです]
無線で飛び交う会話に、芳幸は気を引き締める。
事情の詳細は伏せながらも、華音の父親に、裏方としてパーティー会場へ出入りする事を了承して貰い、迎えた謝恩パーティー当日。
芳幸自身は、華音に手紙を送ってきた相手に顔を知られている可能性が十分に考えられる為、華音と愛羅の事は魏と翼に任せ、フロアースタッフに紛れてフロアー全体の様子を窺っていた。
「――…芹沢グループが日々発展出来ているのも、各々の力が我が社の原動力となり、充分に働いているからこそです。今年も皆様への日頃の感謝を込めまして、我が社自慢の数々の料理で皆様をもてなしたいと思っております。
歓談を混じえながら、最後までお楽しみ下さい」
華音の父親である、芹沢グループ社長の挨拶が終わると、一斉に立食と歓談が始まった。
華音の事を考えると、事を出来る事ならば公にしたくなかった事もあり、芳幸たちだけで動く形となったが、相手の出方次第でどう事が転ぶかは分からない。
勿論、あの手紙が悪戯だという可能性も考えられなくはないが…。
内容が穏やかではなかっただけに、悪戯の線は芳幸たちの中では既に消えているに等しい。
(…あの青年…)
招待客の人波の中、ふと、その人波に逆らうように歩く一人の青年の姿が目に留まる。
芳幸は、その人物をさり気なく目で追った。
彼は室内の壁に沿って歩いていき、会場の外へと繋がる扉の前まで行くと一度会場内を振り返ってから、扉の向こうへ消えていった。
青年が振り返った時にちらと見えた、胸ポケットに入っていたチーフの色合いが芳幸の頭の中で引っかかる。
(深紅…赤……赤?)
そういえば、華音の手元に届いた手紙の封筒も赤色だった。
偶然、か?
「…気になる青年が一人、会場から出て行ったのだ」
無線に向かって言葉を紡ぐ。
ほんの少しの間の後に、返答があった。
[――あたしと星宿様で行くわ]
「グレーのスーツに深紅色のチーフ」
[了解]
会話に一区切りがつくと、芳幸は華音がいる近辺まで移動する。
その直後だった。
突如、一部の非常灯だけを残して会場内が暗転する。
「何だ!?」
「きゃーっ、停電…っ?」
瞬く間に会場は喧騒に包まれた。
暗がりの中、非常灯の灯を頼りに、己の中の距離感覚だけで華音たちの所へと更に足を進めた。
「フロアー停電発生。他の状況は?」
[ロビー、エントランス共に異常はない]
[柳宿さんたちの方はどうですか?]
素煇の言葉に返答はない。
「…柳宿?星宿様?」
ザァ…という機械音が響いた後で聞こえてきた声。
[…井宿、すまぬ、してやられた。あの青年で間違いない。おそらくそちらへ再び向かった事だろう]
[……気を…つけなさいっ…相手はスタンガン…所持してるわっ…]
「……っ!」
只ならぬ状況へ一変した事に、小さく舌打ちをする。
[華音は大事ない]
[愛羅さんも今んとこ無――]
翼の言葉の途中で、フ…と、芳幸たちがいる場所から一番近い非常灯が一瞬遮られたかと思えば、次の瞬間にはガシャーンと陶器か何かが壊れたような音が響いた。
「…だから言っただろ?人の忠告を無視した華音嬢が悪いんだ」
会場内のざわめきが大きくなっていく中で、芳幸の耳にもその男の声は届いた。
すぐ傍で息を呑む音も聞こえてくる。
それによって上手い具合に華音たちに歩み寄れた事を理解し、無線越しではなく口を開く。
「魏」
「…井宿か。俺の後ろに華音がいるから後は任せる。俺は相手を追う」
「気をつけるのだ」
「分かってるって。――軫宿、張宿。俺も今からフロアーを離れる。エントランス付近、注意しててくれ」
[了解]
[了解です]
魏が動きを見せた事で、華音が身を置く位置を割り出すことが出来た。
「翼宿、動けるのだ?」
「……大丈夫や…ちと掠っただけじゃ…動くには問題あらへん。愛羅さんもいけますやろか」
「え、えぇ…あなたのお蔭で私は大丈夫です」
「事をこれ以上大きくしない為にも、今の内に一旦会場から出るのだ」
芳幸の声に、翼と愛羅らしき人影もまた動きを見せる。
「華音」
翼たちが動き出した事を確認して彼女の名を呼ぶと、必死にこちら側へと伸ばされようとしている手の影が見えて、芳幸はそれをしっかりと掴む。
芳幸の手に収まったその手は、微かに震えていた。
**§**
万が一、華音の体調が優れなくなった場合にすぐさま使えるように…と、父が配慮し、予め用意されていたパーティー会場からも近い一室。
停電の最中、芳幸の判断で会場から引き上げてきた華音たちだったが、それは正解だったようだ。
翼自身は大した事はないと言っていたが、明るい場所へと移動した瞬間に分かるほど、彼の怪我は軽傷とは言い難いものだった。
愛羅が黙々と翼の腕に出来た傷へ手当てを施す。
その横顔は何処となく怒っている様にも見えた。
姉に直接の被害はなかったものの、翼が怪我を負ってしまった以上、被害が出た事に変わりはない。
「…――分かったのだ。フロアーの状況は?」
この部屋に入ってきてから、芳幸に促されて椅子に腰掛けている華音だが、自分の頭上で響いている芳幸の無線越しに受け答える声を何処か他人事の様に聞いていた。
――人の忠告を無視した華音嬢が悪いんだ――
暗闇とざわめきの中で響いたその声が、頭から離れない。
やはり自分の胸の内に留めておけば良かったのか。
だが、そうしていてもいずれはきっと限界がきていた。
芳幸を想う心ごと無くしてしまわない限り、彼との関係を断ち切る事などできないのだから…。
「了解。魏、頼みづらい事なのだが…華音のご両親に華音と愛羅さんがこっちの部屋に居る事を伝えられそうなのだ?愛羅さんはもうしばらくしたら戻れると思うのだ――あぁ、頼むのだ」
芳幸の言葉が途切れた事に気がつき、ゆっくりと顔を上げる。
「…華音?」
驚きに見開かれた芳幸の瞳が華音を捉える。
頬に流れ落ちていく涙はそのままで、華音は答えを求めて問う。
「…どうすれば…良いの?どうすれば、誰も傷つかないで居られるかな…。離れなくちゃいけないのに…芳幸さんと離れたくないの」
「必ず終わらせるのだ…こんな事は一刻も早く。出来る限り傍にいるから、少しの間だけ辛抱してくれるのだ?」
芳幸の指が華音の涙を拭った。
その時だった。
不意に慌しい足音がこの部屋に近づいて来るのが聞こえてきて、扉が開けられる。
「――華音!愛羅!」
「…お父…さん」
「…芳幸君!何があったんだ、一体…停電した事と何か関係があるのか?会場の花器も派手に割れていたが…」
つかつかと華音たちの方へ歩み寄ってくる父に、芳幸が頭を下げる。
「申し訳ありません、パーティーを混乱させる事となりました。…本当に申し訳ありません」
「いや、芳幸君たちが裏方で参加したいと話を貰った時から何かあるのだろうとは思っていたが、余分な詮索はせずに承諾してしまった私にも責任はある。
むしろ、芳幸君たちが居たから、会場も然程の混乱もなく事が穏便に済んだと思っていたんだが……怪我人が出ているのか」
芳幸から翼へと移される父の視線。
顔を顰めた父を見て、華音は椅子から立ち上がり口を開いた。
「芳幸さんたちは何も悪くない…私が悪いの…ごめんなさい……ごめんなさい…」
「愛羅から最近のお前の様子がおかしいとは聞いていたが…華音に関係ある事なのか」
「華音、これ以上隠しているのは無理なのだ。オイラが話すから…それで良いのだね?」
姿勢を直した身体を華音の方に僅かに振り返らせて、そう確認してくる芳幸には頷くしかなかった。
**§**
事は解決に向かわないまま、不安ばかりを残して謝恩パーティーは終えた。
その僅か二日後、華音の元に再び赤い封筒が届いた。
登校した朝、下駄箱にその存在がある事を知った華音は、ローファーを上履きに履き替える事はせず、鞄と共に封筒を胸に抱いて踵を返した。
昇降口に向かう生徒たちの波を一人逆らい、来た道を戻る。
途中、家に戻る道とは逸れてからは、自然と駆け足になった。
また迷惑がかかる、とか、考える余裕はなかった。
ただ彼に会いたい…その一心で華音の足は動く。
ふと気が付いた時には、目的の場所に辿り着いていた。
「華音…!?」
名を呼ぶ彼の胸に飛び込む。
いきなりの事に驚きながらも、芳幸は華音の事をしっかりと抱きとめてくれた。
何も言わずに、華音が落ち着くまでそのままで待ってくれる。
少しして、身体の震えも治まってから華音は芳幸から身体を離す。
それと同時に芳幸も身を屈めるように身体を動かし、鞄の横に落ちていた赤い封筒を拾い上げる。
華音を抱きしめている間、華音の足元に在ったそれが気にかかっていたようだ。
「……封は…まだ開けてない、の…。一人じゃ…見れなくて…」
「…華音が見るのだ?」
華音の方に全面的に差し出されるでもなく、芳幸からも華音からも同じくらいの位置で芳幸の手に収まる封筒を、ゆっくり手に取る。
ピリ…ピリ…と、事務所内に漂う沈黙の中に封の糊付けを剥がす音だけが妙に耳に響いた。
中の紙を開き、目を通す。
――俺の事、思い出してくれた?――
空白の部分が大半を占める中で、主張するように一つだけ記された文章。
すぐに手紙から視線を外した華音の手元から、芳幸が手紙を抜き取っていく。
「――…今までに一度でも華音と接触がある人物という事なのだ…?」
「……声……」
「…声?」
華音の口から漏れた短い単語を、鸚鵡返しに尋ねられる。
手紙の内容から思い当たった事があり、パーティーの時の事を思い出して言葉を落とす。
「…何処かで聞いた事があるような気がして…でも、はっきりとは思い出せない…」
「無理に思い出そうとしなくて良いのだ。この手紙の内容だけでも相手は大分搾り出せそうだから。手紙はこっちで預かっておいても良いのだ?」
「…お願いします」
手紙を手元に置いておいても不安になるばかりだろう。
そう考えて、芳幸に任せることにした。
華音は床から鞄を持ち上げて一歩下がる。
後先の事は何も考えずに学校から引き返してきてしまったが、まだ一日は始まったばかり。
芳幸にも仕事がある。
「お仕事の邪魔をしてすみませんでした」
「それは良いのだが…この後どうするのだ?」
「…家に帰ります。学校に行っても授業に身が入りそうもないし、今日はこのまま休みます」
事務所の他の人たちにも謝罪の言葉を向けてから、事務所を後にしようとした。
「待つのだ、華音」
ぐいっと手を引かれて歩みを止められる。
「買出しに行く用事があるから、ついでに家まで送っていくのだ」
「え…でも…」
「仕事もそう立て込んでいないから、送ってもらうと良い」
所長の賁絽からも声が上がり、芳幸に向き直る。
「…芳幸さんと一緒に居ても大丈夫でしょうか…」
「大丈夫なのだ。すぐに支度をしてくるから待っているのだ」
手紙の相手がどう行動してくるか分からない状況に心配をするものの、芳幸は意味ありげに微笑んで華音にそう答えた。
**§**
「あら、華音?それに、まぁ、沢井さんまで。もしかして華音を送って下さったの?」
家に着くと、母が玄関先まで出て来て華音と芳幸に交互に視線を向けてくる。
「今日は学校休もうと思って…」
「学校へ行く前に用事があって事務所に寄ってくれたのですが、少し気分が悪くなってしまったみたいで。大丈夫とは言われたものの、心配で送らせて頂きました」
当たり障りのない説明をしてくれて、とても有り難かった。
母も特に気にせず、芳幸の言葉に納得しているようだった。
「お仕事もあるのに、わざわざごめんなさいね」
「ありがとうございました、芳幸さん」
頭を下げて礼を言うと、微笑んでくれる芳幸。
「では、自分はこれで。ゆっくり休むのだよ」
芳幸の姿が見えなくなるまで見送ってから、玄関の扉を閉める。
「お昼は消化に良いものでも作る?お弁当は食べられないでしょう」
華音に向かって差し出される母の両手の上に、学校で食べるはずだったお弁当箱を出す。
「ごめんなさい…食欲ないから…お昼はいらない…」
心配そうに自分を見つめてくる母の横を通り過ぎて、二階へ続く階段を上る。
思い通りにいかない身体を恨めしく思う時も少なくはないというのに。
こういう時ばかりは、華音の心を表すかの如く身体は本当に正直な程で…。
夜の時間帯へと移りゆくにつれて、華音の体温は上昇していった。
「――38度2分…高いわね」
夕食を運びつつ、様子を見に来てくれた母から小さく放たれた言葉が、華音の耳にも届く。
「今から病院に行く?」
「…薬で…様子見る…」
「それなら、水分だけでも取りなさい」
「…ん」
病院へ行く為には多少なりとも気力がいる。
出来る事ならば少しでも気力を削ぐ事は避けたくて、母に返した言葉。
母も華音の対応には慣れているもので、華音の意思に沿える範囲で優先してくれる。
故に、母の言う事には素直に従った。
身体を起こして、汁物と果物を少量ずつ口にした後に薬を服用し、再び横になった華音の額に冷却シートが貼られる。
「氷枕は後で持ってくるから。水は常に枕元に置いておくから、飲める時に飲みなさいね」
「はい」
母が華音から離れていき、やがて部屋の扉が閉まる音がした。
ふぅ…と息を吐くと、ベットに身体も沈みこんでいく。
部屋に夜の帳が下りるのと同じ様に、華音の意識もまた暗闇の中へ閉ざされていった。
**§**
38度を越えていた熱は一晩で少しだけ下がり、37度台に落ち着きはしたが、それでもまだ下がりきってはいなかった。
相変わらず身体を支配する熱さに、目が覚めては眠って…それを何度繰り返した頃だったか。
「華音…」
頬に触れてくる冷たい感触に、重たい瞼を開ける。
「…芳幸…さん…?」
「起こしてしまったのだ?」
聞こえてきた声に、首を横に振って否定の意を示す。
「手…冷たくて…気持ち良いの…」
熱を少しでも冷ましてくれるその手に、気分が和らいだ気がした。
「華音に確かめて貰いたい事があるのだが…出来るのだ?」
「ん…」
ゆっくりと起こした華音の身体を支える為に、寄り添わせてくれる芳幸の身体。
傍に居てくれているのに、心細くなって芳幸に頭を凭れ掛けさせる。
「少しだけ…甘えても良い?」
「少しでなくても、幾らでも構わないのだ」
「…ありがとう…」
芳幸から返ってきた言葉が嬉しくて、素直に礼を言って微笑む。
芳幸が華音の身体を支えていない方の手で、彼の傍にある鞄の中から取り出した一枚の紙を、華音の見やすい位置に差し出してくる。
「この名前に覚えは?」
芳幸が指し示す紙面の上部、顔写真が載っている横に記された名前を見て、ハッとした。
「…一ノ瀬…悠斗…って…一ノ瀬財閥の…。思い出した…あの声はこの人の…」
一ノ瀬財閥の孫にあたる、華音と同じ年齢の彼――一ノ瀬 悠斗。
一年程前に、彼との間で縁談話が持ち上がった事があった。
お互いの会社勢力向上を図る為にも是非…と、あちら側からの婚約の申し出に、父の事もあるからと、気が進まないながらも彼とは一度だけ顔を合わせた。
結果的には、彼にはあまり良い印象は持てず、父から断って貰う形で、縁談の話は流れる事となったのだが…。
「やはりそうなのだ。これでやっと顔と名前が一致した」
「どうして…分かったの?」
昨日の今日で、手紙の差出人であろう彼の事を突き止める事が出来たのを不思議に思い、顔を少し上げて芳幸を見上げる。
思っていたよりも、彼との距離が近かった事に胸が高鳴った。
華音の視線を受けた芳幸は微笑み、言葉を紡ぐ。
「愛羅さんに、華音と関わりを持った事のある人を教えて貰ったのだ。関わりを持った時の背景と二通目の手紙の内容とを照らし合わせながら、絞りに絞って彼に辿り着いたのだ」
「相手を突き止める…自信が…あったの?二通目の手紙が…届いた時点で…」
昨日の彼の笑みには、そういう意味があったのだと華音は此の時になって理解した。