apricot
本格的な受験対策期間に入って、今日で一ヶ月。
俺は大学合格の為に、必死で知識を頭に叩き込んでいた。
本来は苦手な理数科目だけど、此処で頑張れば物心ついた時からの大切な夢に一歩近づく。
そう思えば、普段なら投げ出したくなる数学の参考書とも真面目に向き合えるというものだ。
スマホが着信を告げる。
どうせ太宰だろう。彼奴は既に入試を終えて暇だから、俺への嫌がらせのためにこうしてしょっちゅうLINEを送ってくる。
ちらっと確認してみたら、『数学とか躓いてない?私が教えてあげようか?』という内容だ。
今まさに数学で苦しい思いをしているタイミングで送信してくるのは、手の込んだ嫌がらせか何かか、不幸な事故なのか。何方にしろ、迷惑千万なお話である。
『要らねえよ馬鹿、ほっといてくれ』と返信してまた参考書と向き合う。色彩のない文字の森は、見ているだけで迷い込みそうだ。
太宰に訊けば確かに捗るかもしれないが、彼奴の此れ迄の嫌がらせといじめの数々を思い出すと教えを乞う気も見事に失せる。
文面では幾らでも親身な幼馴染を気取れるところがまた恐ろしいところで、此方もついうっかり「頼ろうかな」なんて思いかねない。
「中也」
「姐さん」
俺の保護者の尾崎紅葉(通称姐さん)が部屋の扉から顔を覗かせた。
「頑張るのは良いことだが、少し休んではどうかえ?」
「いえ……俺、本当に不安なので……。此の前の模試で漸くA判定になったばかりだし」
「だったら尚更休憩は大切じゃな。本番の為にも、体調管理は必要なことじゃよ、中也」
「でも……」
「お主はもう十分に頑張っておる。少し休んだところで試験結果は変わりはせんよ」
着物の袖で口元を隠して微笑む姿は、流石は元芸者といったところだ。
「それに、お主に客人が着ておる」
「客人?」
「ああ。中也に如何しても会いたいとそれは熱烈なご所望での。そこ迄害になるようなことでもあるまい」
「姐さんが、そこまで仰るなら……」
俺は渋々参考書を閉じ、客を待たせてあるという階下へ向かった。
「やっほー中也、会いたかったよ」
「姐さん、矢張り帰って良いですか?」
客人というのは太宰だった。
害にしかならない。
「たまには息抜きも必要なことじゃ。存分に話すと良い」
「姐さん……」
俺の落胆をスルーした姐さんは、華麗な足取りで部屋を退いてしまう。
「……」
「中也如何したのそんなに嫌そうな顔して。私が折角会いに来てあげたのに」
「帰って呉れ。俺は手前に構ってる時間なんてない」
「でも中也、何だか顔色が悪いよ?勉強のし過ぎじゃない?ちょっと荒れてるし」
「五月蝿えな。ンなことわかっとるわ」
確かに徹夜続きで肌は荒れてるし、ろくに食事も摂っていない。髪もボサボサだ。
「丁度お昼の時間だから、姐さんに頼んでご飯作って貰ったんだ。あ、私は全く台所には入っていないから、そこら辺は安心してね」
「わざわざ姐さんに作らせたのか」
「だって中也、私が作ったら文句言うじゃない。私、流石に自分が料理下手なのは知っているよ」
「…………」
「大切な中也にゲテモノ食べさせる訳ないでしょ。ちゃんと姐さん特製の美味しいご飯だよ、ささ、座って座って」
確かに目の前のダイニングテーブルに並ぶオムライスは美味しそうだし、俺が好きなデミグラスソースになっている。
「ね、中也が前に食べたいって云ってた駅前のケーキ屋さんでデザートも買ってきたから。一緒に食べよう?」
こてん、と小首を傾げる太宰は悔しいが男前だ。流石ノリで高校のミスターコンを制覇しただけある。
「……仕方無えな」
彼は心底嬉しそうに笑った。
「美味しいねえ、中也」
「ああ」
オムライスは確かに姐さんが作った物だった。
食事の時間すら惜しくてカロリーメイトだけで済ましてきた体に染みる。
「姐さん、心配してたよ。中也の生活リズムが乱れてるって」
「何で其れを手前が知ってるんだ?」
「今朝遣ること無くてブラブラしてたら、偶然姐さんに遭遇してね。中也の様子を訊いたら、そう云われたんだ」
「今朝?」
「姐さん、今日こそは君に何かまともなものを食べさせるって買い物に出ていたらしいのだよ。其れで、私が居れば中也も大人しく食べるだろうってことに」
「……」
姐さんが買い物に出たことすら気づかなかった。
普段なら、玄関の音には直ぐに反応するのに。
「夢の為に頑張るのは解るけれど、体は大事にしてね。私も既読すらつかなくて心配していたのだよ」
「手前のLINEは下らねえことばっかじゃねえか」
「好きっていうのが?下らないの?」
「どうせ俺をからかってるだけだろ。何年間一緒に居ると思ってんだ、そんくらい分かるぞ、俺」
「そっかあ……」
太宰が少し悲しげな顔をする。何でだ。
「私は、何時だって本気なのになあ」
「嘘つくのも大概にしとけ青鯖」
「酷っ、蛞蝓の癖に」
「誰が蛞蝓だと?」
「……………………なんでもない」
しゅんとした太宰はまるで子犬のようだ。面の良さが本当に憎い。
俺が悪いことした気分になる。
「食べ終わったし、ケーキ出してくる」
太宰は席を立って冷蔵庫に向かう。
「結構奮発したのだよ」
「おう」
駅前のケーキ屋というと、彼処だろうか。あの、フルーツが沢山載ったタルトが並んでいた店。
「じゃーん、如何中也?綺麗でしょ?」
「お、」
俺は息を飲んだ。
其れは、苺をふんだんに使ったフルーツがタルト。透明な水飴でコーティングされてキラキラと輝き、薔薇のように並べられた赤を引き立たせる。
「すげえな……」
ショーウィンドウ越しにチラチラ見ていた時から素敵だと思ってはいたが、こうして目の前に出されるともうレベルが違う。まるで夢のようだ。
「可愛いなあ…」
太宰がほうっと呟く。一瞬耳が熱くなるけど、ケーキのことだと気づいて落ち着けた。
「写真撮って良いか?」
「幾らでも撮っていいよ。後で私にも送って」
「おう!」
俺はスマホで角度を変え加工を変えて撮りまくり、太宰は機嫌良さそうに皿を用意している。
「もう良いぞ」
「じゃあ切るね。何等分が良い?」
「六等分」
「了解。任せて」
太宰は器用に切り分けると、皿に盛って俺の前へ置いた。
「あと此れは紅茶ね。新しく出来たお店で買ってみたのだけど、口に合うかな?」
「おお」
「なら良かった」
本当に至れり尽くせりだ。如何したというのだろう。
ケーキと紅茶を美味しく頂いた後は、珍しく悪態をつかない太宰と適当に会話をしていた。
暇を持て余した太宰の「長編を片っ端から制覇していくプロジェクト」の話、さっきの紅茶を買った新しい店の話、最近現れるようになったという野良猫の話。
とても穏やかで静かで、隣にいるのがあの太宰だとは思えない。
蓬髪、恐ろしく整った顔立ち、すらっと高い背、ぐるぐる巻きの包帯は何時もと同じなのに、何処か優しげだ。
労わってくれているのだろうか。
「ねえ中也」
「ん?」
太宰はす、と此方を見る。
鳶色の瞳が向けられると、何だか気恥ずかしくなってしまうのは、此奴の顔が良いからか。
「あまり、無理はしないでね」
少し小さめの声だ。
「君が本気でお花屋さんになりたいのは、知ってる。小さい頃からずっと君は花が好きだった」
「おう」
「今頑張らなきゃいけないのも解ってる。私、此れでも応援しているのだよ。中也」
「おう……」
太宰が応援してるのか。俺を。
おちょくられて、からかわれてるだけじゃなかったのか。
「でも、あまり無理はしないで。君は頑張りすぎると体を壊してしまうことがあるから」
「解ってるよ」
「もし、勉強で難しいところがあれば相談に乗るよ。幾らでも教える。君に倒れられるのは、どんな理由であれ私は嫌だ」
太宰は「嫌だ」のところを強めに発音した。
「ねえ中也、受験が終わってからでいいから、私のことも真剣に考えてくれないかな」
「手前のこと?」
「うん。何時も軽く云ってるけれど、私は本気で君が好きだよ。勿論、恋愛的な意味で」
「れんあい、」
「今は勉強頑張って。合格して、落ち着いてからでいい。それ迄は、この話は一旦忘れてもいいから」
「…………おう」
「じゃあ、私はそろそろ帰るね。じゃあね、中也」
「ああ……じゃあな」
太宰は最後に照れた様な笑みを残して去っていった。
「何なんだよ……彼奴」
好きだというのは、俺をからかうためじゃなかったのか。
本当なのか。
いつの間にか頬が熱を持っていることに気づいて、俺は慌てて顔を洗いに行った。
奥から姐さんの「青春じゃのお」と呟く声がする。
俺は大学合格の為に、必死で知識を頭に叩き込んでいた。
本来は苦手な理数科目だけど、此処で頑張れば物心ついた時からの大切な夢に一歩近づく。
そう思えば、普段なら投げ出したくなる数学の参考書とも真面目に向き合えるというものだ。
スマホが着信を告げる。
どうせ太宰だろう。彼奴は既に入試を終えて暇だから、俺への嫌がらせのためにこうしてしょっちゅうLINEを送ってくる。
ちらっと確認してみたら、『数学とか躓いてない?私が教えてあげようか?』という内容だ。
今まさに数学で苦しい思いをしているタイミングで送信してくるのは、手の込んだ嫌がらせか何かか、不幸な事故なのか。何方にしろ、迷惑千万なお話である。
『要らねえよ馬鹿、ほっといてくれ』と返信してまた参考書と向き合う。色彩のない文字の森は、見ているだけで迷い込みそうだ。
太宰に訊けば確かに捗るかもしれないが、彼奴の此れ迄の嫌がらせといじめの数々を思い出すと教えを乞う気も見事に失せる。
文面では幾らでも親身な幼馴染を気取れるところがまた恐ろしいところで、此方もついうっかり「頼ろうかな」なんて思いかねない。
「中也」
「姐さん」
俺の保護者の尾崎紅葉(通称姐さん)が部屋の扉から顔を覗かせた。
「頑張るのは良いことだが、少し休んではどうかえ?」
「いえ……俺、本当に不安なので……。此の前の模試で漸くA判定になったばかりだし」
「だったら尚更休憩は大切じゃな。本番の為にも、体調管理は必要なことじゃよ、中也」
「でも……」
「お主はもう十分に頑張っておる。少し休んだところで試験結果は変わりはせんよ」
着物の袖で口元を隠して微笑む姿は、流石は元芸者といったところだ。
「それに、お主に客人が着ておる」
「客人?」
「ああ。中也に如何しても会いたいとそれは熱烈なご所望での。そこ迄害になるようなことでもあるまい」
「姐さんが、そこまで仰るなら……」
俺は渋々参考書を閉じ、客を待たせてあるという階下へ向かった。
「やっほー中也、会いたかったよ」
「姐さん、矢張り帰って良いですか?」
客人というのは太宰だった。
害にしかならない。
「たまには息抜きも必要なことじゃ。存分に話すと良い」
「姐さん……」
俺の落胆をスルーした姐さんは、華麗な足取りで部屋を退いてしまう。
「……」
「中也如何したのそんなに嫌そうな顔して。私が折角会いに来てあげたのに」
「帰って呉れ。俺は手前に構ってる時間なんてない」
「でも中也、何だか顔色が悪いよ?勉強のし過ぎじゃない?ちょっと荒れてるし」
「五月蝿えな。ンなことわかっとるわ」
確かに徹夜続きで肌は荒れてるし、ろくに食事も摂っていない。髪もボサボサだ。
「丁度お昼の時間だから、姐さんに頼んでご飯作って貰ったんだ。あ、私は全く台所には入っていないから、そこら辺は安心してね」
「わざわざ姐さんに作らせたのか」
「だって中也、私が作ったら文句言うじゃない。私、流石に自分が料理下手なのは知っているよ」
「…………」
「大切な中也にゲテモノ食べさせる訳ないでしょ。ちゃんと姐さん特製の美味しいご飯だよ、ささ、座って座って」
確かに目の前のダイニングテーブルに並ぶオムライスは美味しそうだし、俺が好きなデミグラスソースになっている。
「ね、中也が前に食べたいって云ってた駅前のケーキ屋さんでデザートも買ってきたから。一緒に食べよう?」
こてん、と小首を傾げる太宰は悔しいが男前だ。流石ノリで高校のミスターコンを制覇しただけある。
「……仕方無えな」
彼は心底嬉しそうに笑った。
「美味しいねえ、中也」
「ああ」
オムライスは確かに姐さんが作った物だった。
食事の時間すら惜しくてカロリーメイトだけで済ましてきた体に染みる。
「姐さん、心配してたよ。中也の生活リズムが乱れてるって」
「何で其れを手前が知ってるんだ?」
「今朝遣ること無くてブラブラしてたら、偶然姐さんに遭遇してね。中也の様子を訊いたら、そう云われたんだ」
「今朝?」
「姐さん、今日こそは君に何かまともなものを食べさせるって買い物に出ていたらしいのだよ。其れで、私が居れば中也も大人しく食べるだろうってことに」
「……」
姐さんが買い物に出たことすら気づかなかった。
普段なら、玄関の音には直ぐに反応するのに。
「夢の為に頑張るのは解るけれど、体は大事にしてね。私も既読すらつかなくて心配していたのだよ」
「手前のLINEは下らねえことばっかじゃねえか」
「好きっていうのが?下らないの?」
「どうせ俺をからかってるだけだろ。何年間一緒に居ると思ってんだ、そんくらい分かるぞ、俺」
「そっかあ……」
太宰が少し悲しげな顔をする。何でだ。
「私は、何時だって本気なのになあ」
「嘘つくのも大概にしとけ青鯖」
「酷っ、蛞蝓の癖に」
「誰が蛞蝓だと?」
「……………………なんでもない」
しゅんとした太宰はまるで子犬のようだ。面の良さが本当に憎い。
俺が悪いことした気分になる。
「食べ終わったし、ケーキ出してくる」
太宰は席を立って冷蔵庫に向かう。
「結構奮発したのだよ」
「おう」
駅前のケーキ屋というと、彼処だろうか。あの、フルーツが沢山載ったタルトが並んでいた店。
「じゃーん、如何中也?綺麗でしょ?」
「お、」
俺は息を飲んだ。
其れは、苺をふんだんに使ったフルーツがタルト。透明な水飴でコーティングされてキラキラと輝き、薔薇のように並べられた赤を引き立たせる。
「すげえな……」
ショーウィンドウ越しにチラチラ見ていた時から素敵だと思ってはいたが、こうして目の前に出されるともうレベルが違う。まるで夢のようだ。
「可愛いなあ…」
太宰がほうっと呟く。一瞬耳が熱くなるけど、ケーキのことだと気づいて落ち着けた。
「写真撮って良いか?」
「幾らでも撮っていいよ。後で私にも送って」
「おう!」
俺はスマホで角度を変え加工を変えて撮りまくり、太宰は機嫌良さそうに皿を用意している。
「もう良いぞ」
「じゃあ切るね。何等分が良い?」
「六等分」
「了解。任せて」
太宰は器用に切り分けると、皿に盛って俺の前へ置いた。
「あと此れは紅茶ね。新しく出来たお店で買ってみたのだけど、口に合うかな?」
「おお」
「なら良かった」
本当に至れり尽くせりだ。如何したというのだろう。
ケーキと紅茶を美味しく頂いた後は、珍しく悪態をつかない太宰と適当に会話をしていた。
暇を持て余した太宰の「長編を片っ端から制覇していくプロジェクト」の話、さっきの紅茶を買った新しい店の話、最近現れるようになったという野良猫の話。
とても穏やかで静かで、隣にいるのがあの太宰だとは思えない。
蓬髪、恐ろしく整った顔立ち、すらっと高い背、ぐるぐる巻きの包帯は何時もと同じなのに、何処か優しげだ。
労わってくれているのだろうか。
「ねえ中也」
「ん?」
太宰はす、と此方を見る。
鳶色の瞳が向けられると、何だか気恥ずかしくなってしまうのは、此奴の顔が良いからか。
「あまり、無理はしないでね」
少し小さめの声だ。
「君が本気でお花屋さんになりたいのは、知ってる。小さい頃からずっと君は花が好きだった」
「おう」
「今頑張らなきゃいけないのも解ってる。私、此れでも応援しているのだよ。中也」
「おう……」
太宰が応援してるのか。俺を。
おちょくられて、からかわれてるだけじゃなかったのか。
「でも、あまり無理はしないで。君は頑張りすぎると体を壊してしまうことがあるから」
「解ってるよ」
「もし、勉強で難しいところがあれば相談に乗るよ。幾らでも教える。君に倒れられるのは、どんな理由であれ私は嫌だ」
太宰は「嫌だ」のところを強めに発音した。
「ねえ中也、受験が終わってからでいいから、私のことも真剣に考えてくれないかな」
「手前のこと?」
「うん。何時も軽く云ってるけれど、私は本気で君が好きだよ。勿論、恋愛的な意味で」
「れんあい、」
「今は勉強頑張って。合格して、落ち着いてからでいい。それ迄は、この話は一旦忘れてもいいから」
「…………おう」
「じゃあ、私はそろそろ帰るね。じゃあね、中也」
「ああ……じゃあな」
太宰は最後に照れた様な笑みを残して去っていった。
「何なんだよ……彼奴」
好きだというのは、俺をからかうためじゃなかったのか。
本当なのか。
いつの間にか頬が熱を持っていることに気づいて、俺は慌てて顔を洗いに行った。
奥から姐さんの「青春じゃのお」と呟く声がする。
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