風になりたい
アズール・アーシェングロットは窓から空を見上げた。
あまりの快晴に、思わず瞼を閉じる。
「今日も暑くなりそうだ」と思いながらテレビをつけると、案の定、本日の最高気温は36度。
「これはアイスが売れるな……」
呟いて、スマホを手に取る。本文に『今日も暑くなりますから、アイス関連の在庫をよく確認しておくこと。従業員にはどんなに忙しくても10分に一度は水分と塩分を補給するように指導してください。』と打ち込んで送信。宛先は、学生時代から両隣を固めてきた物騒で論外な双子だ。
ツイステッドワンダーランド全土に店舗を構えるモストロ・ラウンジに向けて、差し入れとして送ったスポーツドリンクと塩分補給タブレットを発注したのは一昨日。きっと今日には届くだろうから、是非それを活用してほしい。従業員が万が一熱中症で倒れるようなことがあってはならないと、アズールは考えている。
「アズール氏、おはよう」
部屋のドアが開く。
顔を覗かせたのはイデア・シュラウド。NRCを卒業してからもう10年になるが、ボードゲーム部の先輩であった彼との交流はまだまだ続いている。
こうして、同じ家に住むくらいには。
「体はどう?」
「問題ありません。仕事をセーブするようになってから、かなりマシになりました」
アズールは3年前に倒れた。
モストロ・ラウンジ本社の社長室で倒れていたのを発見したのはもちろんリーチ兄弟で、彼らは迅速にアズールを病院へと搬送し、全身の精密検査を予約した。
そして見つかったのは、人魚特有の病だった。
尾から腐り体がボロボロと崩れていくそれは、昔からたくさんの症例が報告されているのに未だに治療法が見つからない難病として恐れられてきたもの。
アズール達は海に一旦帰って当然必死に治療法を探し、数回脚の腐った部分を切断する手術をした。
しかしそれでも治らず、医者の「人魚の病だから、人間の姿でいた方が進行は少し遅れる」という言葉に従い、再び陸に上がったのだ。
そして双子はイデアを呼んだ。
彼は学生時代からシュラウド家の跡取り、異端の天才として世界に名を知られ、弟のオルトの機械の身体も完璧に管理していた。
そんな彼ならもしかしたら、と微かな可能性に縋ったのだ。
それに双子はラウンジを見ていなくてはならない。支配人が病に倒れた今、会社を守れるのは彼らしかいない。
イデアなら自宅に研究所を置いているから在宅ワークだし、アズールとも仲がいい。優秀だから、不測の事態にも対応出来るだろう。
ラウンジでの食事代を一生タダにすることと絶対に脅さないことを条件に、イデアは双子の懇願を受け入れ、アズールを素早く嘆きの島にある屋敷に転居させた。
家賃有りで双子が泊まる部屋も作り、専用の医療器具も運び込んだ。
それが2年前のこと。
アズール達は、今は嘆きの島のイデア所有の屋敷に住んでいる。
双子は朝早く夜が遅いので、基本的に朝はアズールとイデアとオルトの3人だけだ。
「はいアズール氏、今日のご飯」
「ありがとうございます。すみません、自力で取りに行けなくて」
「いいのいいの」
アズールは自分の脚を見た。
膝から下は、もうどこにも無い。
「あいつら、何時頃に出ていきましたか?」
「拙者が起きた時にはもういなかったでござるよ。だから5時にはもう出てたんじゃない?」
「そうですか。随分と早いんですね」
「なんか、「市場行く〜」ってフロイド氏が言ってましたぞ」
「仕入れですか。それなら納得だ」
「大企業のトップは大変ですなあ」
「あなただって大変でしょう。研究者としての仕事もあるし、シュラウド家の当主としての職務もあるんですから。この前また論文を発表したの、僕知ってるんですからね」
「お、バレましたか」
「あれだけ大々的に報道されてたら誰だって気づきます」
アズールはベーコンエッグを口に運んだ。美味しい。
目の前のイデアはデザートのヨーグルトを食べている。ザクロソースのかかったそれは、アズールも気に入っている一品だ。
「おはよう!」
ドアが開いた。
元気に入ってきたのはオルトだ。
「おはようございます」
「おはよう、アズール・アーシェングロットさん!」
今日も輝くような笑顔だ。
「オルト、いつものお願い」
「わかった。……スキャンを開始します」
事務的な機械音と共に、アズールの体の情報がオルトに読み込まれる。
「うん、いつも通りだね」
「ありがとうオルト」
イデアはアズールのためにオルトに搭載した医療モードを更にアップデートしたという。
スキャンのスピードも精度も格段に上昇し、患者への負担は今やほぼ無い。
「アズール・アーシェングロットさん、今日は何をするの?」
「今日は絵を描こうかと思いまして。オルトさんも如何です?」
「うん、一緒に描く。兄さんはお仕事?」
「そう。頑張って終わらせる」
「頑張ってね」
「あまり無理はなさらないでくださいね」
「うん、ありがとう。じゃあ行ってくる。何かあったらオルトが自動でこっちに飛んでくるから、安心しててね」
「はい。いってらっしゃい」
「いってらっしゃい!」
アズールはオルトに介助されながらベッドに戻った。
サイドテーブルからスケッチブックと鉛筆と消しゴムを取り出し、窓の外を見る。
嘆きの島の海と、崖に生えた木々、そしてどこまでも広がる空に、目が痛くなるほど白い入道雲。
結局この空を箒で飛べることはなかった。NRCの卒業試験も、飛行術だけはギリギリだった。
「ふふっ」
あの時は本当に楽しかった。50cmしか飛べなくて補習に引っかかったり恐ろしい程に暑い中をマラソンさせられたり、辛いことも多かったけれど。
オクタヴィネル寮長としての仕事も、モストロ・ラウンジの経営も、商談も、勉強も。
いじめられてひたすら蛸壺の中で過ごした不遇な幼少期とは比べ物にならない、素晴らしい時間だった。
双子と悪巧みをするのも、イデアとボードゲームで煽り合うのも、本当に、ひたすらに楽しかった。
自分は、素敵な青春を過ごせた。
あの時は、自分の脚が腐って、飛ぶことはおろか歩くことも、泳ぐことも出来なくなるなんて想像していなかった。
どこまでも、進んでいけると思っていた。
今はもう、字を書けるほど器用だった足はない。
どんなに硬い瓶の蓋でも開けられた手は、すっかり力が弱くなっている。
オルトは毎朝「いつも通り」というけれど、その「いつも」は、健康体のそれでは無いことも、知っている。
ほぼ全ての数値は狂って狂って、もう戻ることは無い。
今日明日の命だろう。
体が何かの準備を終えたのを、アズールは感じている。
その「何か」が、双子やシュラウド兄弟、そして両親を悲しませることも、解っている。
今はイデアが必死で作ってくれた麻薬スレスレの鎮痛剤のおかげで穏やかに過ごせているだけだ。
ベッドから動く体力は、おそらく体が最後の力を振り絞っているのだ。
「アズール・アーシェングロットさん、見て見て」
オルトが描き上がった絵を見せてきた。
そこには窓を見上げるアズールの姿が、見事なタッチで描かれている。
「凄いです。オルトさんは絵が上手ですね」
「ありがとう。アズール・アーシェングロットさんは?」
「僕ですか?」
スケッチブックをオルトの方に向けると、感嘆の声が上がった。
「凄い!すっごく上手!」
「ありがとうございます」
パチパチと最新の軽くて丈夫な素材で出来た手を叩く彼は、大変可愛らしい。
「兄さんにも見せていい?」
「ええ」
アズールは絵が上手かった。
闘病生活のお供にとイデアが軽く描き方を教えてもらい、そこからぐんぐん腕を上げたのだ。
「お昼だよー」
イデアが入ってきた。
「兄さん!」
オルトが飛んでいく。
「見て見て、アズール・アーシェングロットさん、また絵が上手くなってる!」
「わっ本当だ。アズール氏絵師になる?」
「ふふっ。考えておきます」
「じゃあ僕散歩してくるね!」とオルトは出ていき、イデアはテーブルに昼食を置く。
「今回は拙者特製たまごサンド〜」
「美味しそうですね」
「アズール氏達きてから拙者の料理の腕が上がったんでござるよ」
「双子に叩き込まれたからですね」
「ヒヒッ。そうでござるな」
彼は笑い、サンドイッチにかぶりついた。
アズールもそれに倣う。
そして他愛もない話をしているなかで、アズールは小さく言った。
「明日、海に行きたいです」
「わかった。双子にも伝えとく」
イデアは真剣な顔で頷いた。
そこからの行動は早かった。
双子は爆速で帰宅し、その間にイデアはアズールとオルトの支度を整えた。
そしてアズールは後腐れの無いようにと事前に作成していたラウンジや自身の遺産に関する書類を双子に渡して就寝。
翌日、日が昇る前に起きてイデアに服を着替えさせてもらい、双子とオルトと揃って出発。
着いたのは、故郷の海辺だった。
波の間から、両親が顔を出している。昨日のうちに双子が電報を打ち、魔法で飛ばしていたのだ。
若くして死を迎える自慢の息子の姿を見て、母が唇を噛み締める。
アズールは導かれるようにして変身を解いた。腐り、切断し、そこから更に腐った脚はもう見る影もない。白くなり、異臭を放っている。
イデアは水着になり、アズールを抱き上げて波打ち際へ進む。そこからは人魚に戻った双子が、アズールとイデアの手を引いて沖へ進む。オルトはそれについて飛ぶ。
両親と合流すると、アズールは二人を抱きしめた。
「先立つことになってしまって、ごめんなさい……」
「いいのよ……私達の子供に生まれてきてくれて、ありがとう。愛してるわ」
「頑張った……頑張ったな……。お前は自慢の息子だ」
そして、双子が抱きつく。
「ラウンジはあなた達に任せますよ。しっかりやってくださいね」
「承りました」
「アズパパとアズママのことも、しっかり見ておくからね」
「ありがとうございます」
「イデアさん」
「なあに?」
涙をこらえる。
「僕がここまで苦痛のない最期を迎えられるのは、あなたのおかげです。ありがとうございます」
「いいんだよ……」
「ボードゲーム、楽しかったです。あなたという先輩に出会えてよかった」
「僕もだよ」
イデアは笑った。彼が消えてしまうまでは泣かないと決めていた。
「オルトさん」
「アズール・アーシェングロットさん……」
オルトは海の上を低く飛ぶ。
「オルトさんも、本当にありがとうございました。絵を描くの、楽しかったですね」
「うん!」
オルトは頷いた。涙の機能は無いけれど、とても悲しかった。
「本当に、お世話になりました」
アズールはからりと一つ笑って、その名と同じ色に身を沈めた。
母親が泣き崩れる。フロイドはジェイドに抱き着いてその肩に頭を埋めた。ジェイドも片割れを撫でながら涙を零す。
ぽこぽこと浮かんできた泡が消えた時、とうとうイデアは顔を覆った。
人魚には魂がない。
だから、死んだらそれでおしまいだ。泡になって消えて、それで終わり。何も残らない。
それでも、イデアは祈った。
アズールに、魂が宿ることを。
あの勝気で美しい人魚に、不滅のものが与えられるように。
願わくば、また会えるように。
一年がたった。
イデアは、スケッチブックを開いた。
中には弱めの筆圧で描かれた絵がたくさんあり、隅には「Azul Ashengrotto」のサインが入っている。
今は亡き、後輩の名だ。
海、花、オルトやイデア、双子を描いたそれらを見つめ、溜息を着く。
側のベッドには、まだ彼の体温が残っているようだった。海の爽やかさと柔らかい柔軟剤の混ざった香りが、微かにする。
儚い終わり方だった。その名に沈む前の彼のあの笑みが、イデアの脳裏を過ぎる。
あの後、アズールが残していたリストに添って遺産や遺物の処理が行われた。
イデアに渡されたのは、家賃や治療費と思われるそれなりの額の金銭と、「廃棄パーツの高額な売り方」と題されたファイル、持っていたボードゲーム一式、そしてこのスケッチブックだった。
「ほんと、絵が上手いなあ……」
繊細で柔らかな線は、普段の彼の印象とは正反対だ。
これには、彼の本来の性格が現れているのだろう。
「ね、アズール氏」
300年の寿命を終えずに死んだ魂を持たぬ人魚姫は、その美しい心根のおかげで風の精となったという。
「君も、風になれた?」
白いカーテンが揺れる。
おしまいの場所に繋がる海に、濃い影を作る崖に生えた緑。
青く高く澄んだ、飛べなかった空。
目が痛い程に白い大きな入道雲。
まだまだ終わりそうにない夏を、風が一瞬通り過ぎた。
あまりの快晴に、思わず瞼を閉じる。
「今日も暑くなりそうだ」と思いながらテレビをつけると、案の定、本日の最高気温は36度。
「これはアイスが売れるな……」
呟いて、スマホを手に取る。本文に『今日も暑くなりますから、アイス関連の在庫をよく確認しておくこと。従業員にはどんなに忙しくても10分に一度は水分と塩分を補給するように指導してください。』と打ち込んで送信。宛先は、学生時代から両隣を固めてきた物騒で論外な双子だ。
ツイステッドワンダーランド全土に店舗を構えるモストロ・ラウンジに向けて、差し入れとして送ったスポーツドリンクと塩分補給タブレットを発注したのは一昨日。きっと今日には届くだろうから、是非それを活用してほしい。従業員が万が一熱中症で倒れるようなことがあってはならないと、アズールは考えている。
「アズール氏、おはよう」
部屋のドアが開く。
顔を覗かせたのはイデア・シュラウド。NRCを卒業してからもう10年になるが、ボードゲーム部の先輩であった彼との交流はまだまだ続いている。
こうして、同じ家に住むくらいには。
「体はどう?」
「問題ありません。仕事をセーブするようになってから、かなりマシになりました」
アズールは3年前に倒れた。
モストロ・ラウンジ本社の社長室で倒れていたのを発見したのはもちろんリーチ兄弟で、彼らは迅速にアズールを病院へと搬送し、全身の精密検査を予約した。
そして見つかったのは、人魚特有の病だった。
尾から腐り体がボロボロと崩れていくそれは、昔からたくさんの症例が報告されているのに未だに治療法が見つからない難病として恐れられてきたもの。
アズール達は海に一旦帰って当然必死に治療法を探し、数回脚の腐った部分を切断する手術をした。
しかしそれでも治らず、医者の「人魚の病だから、人間の姿でいた方が進行は少し遅れる」という言葉に従い、再び陸に上がったのだ。
そして双子はイデアを呼んだ。
彼は学生時代からシュラウド家の跡取り、異端の天才として世界に名を知られ、弟のオルトの機械の身体も完璧に管理していた。
そんな彼ならもしかしたら、と微かな可能性に縋ったのだ。
それに双子はラウンジを見ていなくてはならない。支配人が病に倒れた今、会社を守れるのは彼らしかいない。
イデアなら自宅に研究所を置いているから在宅ワークだし、アズールとも仲がいい。優秀だから、不測の事態にも対応出来るだろう。
ラウンジでの食事代を一生タダにすることと絶対に脅さないことを条件に、イデアは双子の懇願を受け入れ、アズールを素早く嘆きの島にある屋敷に転居させた。
家賃有りで双子が泊まる部屋も作り、専用の医療器具も運び込んだ。
それが2年前のこと。
アズール達は、今は嘆きの島のイデア所有の屋敷に住んでいる。
双子は朝早く夜が遅いので、基本的に朝はアズールとイデアとオルトの3人だけだ。
「はいアズール氏、今日のご飯」
「ありがとうございます。すみません、自力で取りに行けなくて」
「いいのいいの」
アズールは自分の脚を見た。
膝から下は、もうどこにも無い。
「あいつら、何時頃に出ていきましたか?」
「拙者が起きた時にはもういなかったでござるよ。だから5時にはもう出てたんじゃない?」
「そうですか。随分と早いんですね」
「なんか、「市場行く〜」ってフロイド氏が言ってましたぞ」
「仕入れですか。それなら納得だ」
「大企業のトップは大変ですなあ」
「あなただって大変でしょう。研究者としての仕事もあるし、シュラウド家の当主としての職務もあるんですから。この前また論文を発表したの、僕知ってるんですからね」
「お、バレましたか」
「あれだけ大々的に報道されてたら誰だって気づきます」
アズールはベーコンエッグを口に運んだ。美味しい。
目の前のイデアはデザートのヨーグルトを食べている。ザクロソースのかかったそれは、アズールも気に入っている一品だ。
「おはよう!」
ドアが開いた。
元気に入ってきたのはオルトだ。
「おはようございます」
「おはよう、アズール・アーシェングロットさん!」
今日も輝くような笑顔だ。
「オルト、いつものお願い」
「わかった。……スキャンを開始します」
事務的な機械音と共に、アズールの体の情報がオルトに読み込まれる。
「うん、いつも通りだね」
「ありがとうオルト」
イデアはアズールのためにオルトに搭載した医療モードを更にアップデートしたという。
スキャンのスピードも精度も格段に上昇し、患者への負担は今やほぼ無い。
「アズール・アーシェングロットさん、今日は何をするの?」
「今日は絵を描こうかと思いまして。オルトさんも如何です?」
「うん、一緒に描く。兄さんはお仕事?」
「そう。頑張って終わらせる」
「頑張ってね」
「あまり無理はなさらないでくださいね」
「うん、ありがとう。じゃあ行ってくる。何かあったらオルトが自動でこっちに飛んでくるから、安心しててね」
「はい。いってらっしゃい」
「いってらっしゃい!」
アズールはオルトに介助されながらベッドに戻った。
サイドテーブルからスケッチブックと鉛筆と消しゴムを取り出し、窓の外を見る。
嘆きの島の海と、崖に生えた木々、そしてどこまでも広がる空に、目が痛くなるほど白い入道雲。
結局この空を箒で飛べることはなかった。NRCの卒業試験も、飛行術だけはギリギリだった。
「ふふっ」
あの時は本当に楽しかった。50cmしか飛べなくて補習に引っかかったり恐ろしい程に暑い中をマラソンさせられたり、辛いことも多かったけれど。
オクタヴィネル寮長としての仕事も、モストロ・ラウンジの経営も、商談も、勉強も。
いじめられてひたすら蛸壺の中で過ごした不遇な幼少期とは比べ物にならない、素晴らしい時間だった。
双子と悪巧みをするのも、イデアとボードゲームで煽り合うのも、本当に、ひたすらに楽しかった。
自分は、素敵な青春を過ごせた。
あの時は、自分の脚が腐って、飛ぶことはおろか歩くことも、泳ぐことも出来なくなるなんて想像していなかった。
どこまでも、進んでいけると思っていた。
今はもう、字を書けるほど器用だった足はない。
どんなに硬い瓶の蓋でも開けられた手は、すっかり力が弱くなっている。
オルトは毎朝「いつも通り」というけれど、その「いつも」は、健康体のそれでは無いことも、知っている。
ほぼ全ての数値は狂って狂って、もう戻ることは無い。
今日明日の命だろう。
体が何かの準備を終えたのを、アズールは感じている。
その「何か」が、双子やシュラウド兄弟、そして両親を悲しませることも、解っている。
今はイデアが必死で作ってくれた麻薬スレスレの鎮痛剤のおかげで穏やかに過ごせているだけだ。
ベッドから動く体力は、おそらく体が最後の力を振り絞っているのだ。
「アズール・アーシェングロットさん、見て見て」
オルトが描き上がった絵を見せてきた。
そこには窓を見上げるアズールの姿が、見事なタッチで描かれている。
「凄いです。オルトさんは絵が上手ですね」
「ありがとう。アズール・アーシェングロットさんは?」
「僕ですか?」
スケッチブックをオルトの方に向けると、感嘆の声が上がった。
「凄い!すっごく上手!」
「ありがとうございます」
パチパチと最新の軽くて丈夫な素材で出来た手を叩く彼は、大変可愛らしい。
「兄さんにも見せていい?」
「ええ」
アズールは絵が上手かった。
闘病生活のお供にとイデアが軽く描き方を教えてもらい、そこからぐんぐん腕を上げたのだ。
「お昼だよー」
イデアが入ってきた。
「兄さん!」
オルトが飛んでいく。
「見て見て、アズール・アーシェングロットさん、また絵が上手くなってる!」
「わっ本当だ。アズール氏絵師になる?」
「ふふっ。考えておきます」
「じゃあ僕散歩してくるね!」とオルトは出ていき、イデアはテーブルに昼食を置く。
「今回は拙者特製たまごサンド〜」
「美味しそうですね」
「アズール氏達きてから拙者の料理の腕が上がったんでござるよ」
「双子に叩き込まれたからですね」
「ヒヒッ。そうでござるな」
彼は笑い、サンドイッチにかぶりついた。
アズールもそれに倣う。
そして他愛もない話をしているなかで、アズールは小さく言った。
「明日、海に行きたいです」
「わかった。双子にも伝えとく」
イデアは真剣な顔で頷いた。
そこからの行動は早かった。
双子は爆速で帰宅し、その間にイデアはアズールとオルトの支度を整えた。
そしてアズールは後腐れの無いようにと事前に作成していたラウンジや自身の遺産に関する書類を双子に渡して就寝。
翌日、日が昇る前に起きてイデアに服を着替えさせてもらい、双子とオルトと揃って出発。
着いたのは、故郷の海辺だった。
波の間から、両親が顔を出している。昨日のうちに双子が電報を打ち、魔法で飛ばしていたのだ。
若くして死を迎える自慢の息子の姿を見て、母が唇を噛み締める。
アズールは導かれるようにして変身を解いた。腐り、切断し、そこから更に腐った脚はもう見る影もない。白くなり、異臭を放っている。
イデアは水着になり、アズールを抱き上げて波打ち際へ進む。そこからは人魚に戻った双子が、アズールとイデアの手を引いて沖へ進む。オルトはそれについて飛ぶ。
両親と合流すると、アズールは二人を抱きしめた。
「先立つことになってしまって、ごめんなさい……」
「いいのよ……私達の子供に生まれてきてくれて、ありがとう。愛してるわ」
「頑張った……頑張ったな……。お前は自慢の息子だ」
そして、双子が抱きつく。
「ラウンジはあなた達に任せますよ。しっかりやってくださいね」
「承りました」
「アズパパとアズママのことも、しっかり見ておくからね」
「ありがとうございます」
「イデアさん」
「なあに?」
涙をこらえる。
「僕がここまで苦痛のない最期を迎えられるのは、あなたのおかげです。ありがとうございます」
「いいんだよ……」
「ボードゲーム、楽しかったです。あなたという先輩に出会えてよかった」
「僕もだよ」
イデアは笑った。彼が消えてしまうまでは泣かないと決めていた。
「オルトさん」
「アズール・アーシェングロットさん……」
オルトは海の上を低く飛ぶ。
「オルトさんも、本当にありがとうございました。絵を描くの、楽しかったですね」
「うん!」
オルトは頷いた。涙の機能は無いけれど、とても悲しかった。
「本当に、お世話になりました」
アズールはからりと一つ笑って、その名と同じ色に身を沈めた。
母親が泣き崩れる。フロイドはジェイドに抱き着いてその肩に頭を埋めた。ジェイドも片割れを撫でながら涙を零す。
ぽこぽこと浮かんできた泡が消えた時、とうとうイデアは顔を覆った。
人魚には魂がない。
だから、死んだらそれでおしまいだ。泡になって消えて、それで終わり。何も残らない。
それでも、イデアは祈った。
アズールに、魂が宿ることを。
あの勝気で美しい人魚に、不滅のものが与えられるように。
願わくば、また会えるように。
一年がたった。
イデアは、スケッチブックを開いた。
中には弱めの筆圧で描かれた絵がたくさんあり、隅には「Azul Ashengrotto」のサインが入っている。
今は亡き、後輩の名だ。
海、花、オルトやイデア、双子を描いたそれらを見つめ、溜息を着く。
側のベッドには、まだ彼の体温が残っているようだった。海の爽やかさと柔らかい柔軟剤の混ざった香りが、微かにする。
儚い終わり方だった。その名に沈む前の彼のあの笑みが、イデアの脳裏を過ぎる。
あの後、アズールが残していたリストに添って遺産や遺物の処理が行われた。
イデアに渡されたのは、家賃や治療費と思われるそれなりの額の金銭と、「廃棄パーツの高額な売り方」と題されたファイル、持っていたボードゲーム一式、そしてこのスケッチブックだった。
「ほんと、絵が上手いなあ……」
繊細で柔らかな線は、普段の彼の印象とは正反対だ。
これには、彼の本来の性格が現れているのだろう。
「ね、アズール氏」
300年の寿命を終えずに死んだ魂を持たぬ人魚姫は、その美しい心根のおかげで風の精となったという。
「君も、風になれた?」
白いカーテンが揺れる。
おしまいの場所に繋がる海に、濃い影を作る崖に生えた緑。
青く高く澄んだ、飛べなかった空。
目が痛い程に白い大きな入道雲。
まだまだ終わりそうにない夏を、風が一瞬通り過ぎた。
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