紫陽花とオードパルファムと長い初恋
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今日の降水確率は70%だ。
僕は折り畳み傘をカバンに入れた。
「母さん、今日……」
「わかってるわよ。三者面談でしょ。ちゃんと時間までに行くわ」
「うん」
僕は彼女のセリフに頷いた。
そう、今日は三者面談。
僕の将来を決める話し合いだ。
「アズールくんは優秀です。学校が学校ですから断言は出来ませんが、無謀ではないでしょう」
「はい」
「本校からも、何人かここには行っています。教師一同、しっかりとサポートして参りますので」
当たり前だ。
僕は真面目で優秀だ。将来のことを見越して、しっかり勉学に励んできた。
生徒会や部活動にも取り組んで、成績は上々。
僕は第一志望校の欄に書いた「東京」の文字を睨んだ。
でも、どうしても気になるものがある。
僕は母と帰宅し、私服に着替えて外に出た。
隣家のチャイムを押して少し待つと、ドアが開いて中から女の子が顔を出す。
「アズール!」
きらきらした笑顔を浮かべるのは、幼馴染の毬花。
僕より三つ歳下の、初恋の相手だ。
今日は毬花の誕生日だ。
紫陽花が見頃を迎える時期に生まれたせいか、彼女はケーキよりも近所の和菓子屋の紫陽花を模したゼリーの方が好き。
かくれんぼは他の子相手なら絶対に捕まらないのに、僕には易々と見つかってしまう。
青色が好きで、僕の瞳の色をよく「いいなあ」と羨ましがる。
そういうところが特に可愛くて、ずっと好きだった。
でも僕らは三歳も歳の差がある。
彼女は今中学二年生で、僕は高校二年生。
これは本当に大きな差だ。僕と彼女は、学校では絶対に交わらない。
家が隣じゃなかったら、絶対に知り合わなかった。
僕は「東京」の文字を思い出した。
自分で書いたのに、後ろ髪を引かれるような思いをしているのはこの子のせいだ。
東京に行ったら、毬花と離れてしまう。
そのことだけが気がかりだった。
「隣の家の幼馴染」という枠組みが、壊れてしまう。
それは、僕らを繋ぐ糸が、切れてしまうということ。
毬花は可愛い。クラスメイトから「お前ん家の隣に住んでるあの子、可愛くね?」と言われたことがある。
可愛いに決まってるだろ、と僕は内心思う。
15年間一緒に生きてきて、可愛くなかった瞬間がないんだから。
「んでね、テスト満点取ったんだけどね」
「うん」
彼女の話に付き合いながら、山の近くにある公演を目指す。
結構な規模のそこは、この時期になると紫陽花が一斉に咲くのだ。
綺麗なのに誰も見にこないのは勿体ないからと、毬花はそこによく行く。
僕は紫陽花を愛でる彼女を見に行くんだけれども。
「おー今年も咲いてますな」
毬花は楽しげな声を上げる。
「楽しそうですね」
「楽しいよー。誕生日だし、アズールいるし」
その言葉に、僕は少し胸が痛む。
再来年から僕はいないと言ったら、君はどんな顔をするだろう。
「アズールがいるから楽しいよ」と素直に言う君の笑顔を、歪ませてしまうのかもしれない。
「今年のプレゼント、渡しますよ」
「お、なになに?」
くるりと振り返る髪の毛につけられた青いバレッタは、僕が贈ったものだ。
「ネックレスです」
「おお!なんかオトナなチョイスだね」
バッグから箱を取り出して渡す。
「開けていい?」
「どうぞ」
濃紺の箱を開けると、彼女の「わあ……」という弾んだ声。
選んだのはシンプルなシルバーチェーンのものだ。ペンダントトップのアズールブルーのスワロフスキーが決め手になった。
「かわいい」
ぽつりと呟かれたそれに、僕はほっと胸を撫で下ろす。
「後ろ向いてください。つけてあげますよ」
「はーい」
くすくす笑う彼女はくるりと背中を僕に向けた。
「出来ましたよ」
「ありがと。似合う?」
「ええ。とても」
そう言うと、毬花は照れたように笑った。
「あなたには、その色が一番似合います」
青色は、僕からの束縛の色だ。
僕の名前と瞳の色を、彼女に刻みつけていく。
でも、それに毬花は気づかない。
「大きくなりましたね」
彼女の頭に手を置く。
少し見上げるその視線に、焦がれるようになったのは何時だったか。
「そう?」
「ええ。昔は紫陽花の株の下に入り込めるほどでしたよ」
「かくれんぼで隠れてたとこだ」
「この時期限定ですがね。よく露に濡れて、お母様に叱られていた」
「言わないでよそれ」
ははは、と彼女の軽やかな笑い声。
僕らはいつの間にか、ここまで大きくなっていたんだな、とふと思う。
クズでノロマだった僕と、優しくて小さかった毬花。
それなのに僕は背が伸びて、声変わりをして、あの頃よりもずっと腹黒く、強かになって。
彼女も背が伸びて、体が優しい丸みを帯びて、それなのにあの頃の無垢さはそのままで。
そして、僕はこんなに可愛い子を置いていかなきゃいけない。
離れたくない。
ただそれだけだった。
毬花の黒髪と、青いバレッタが紫陽花に滲んだ。
白い肌に映える青、最近変えたという爽やかな柔軟剤の香り。
柔くて細い腕を引けば、それは一瞬だった。
「……アズール?」
「ごめんなさい」
仕出かしたことの重大さに気づいたのは、全てが終わった後だった。
女の子特有の柔らかさが、手にはっきりと残っている。
目の前の彼女は目を丸くしてこちらを見つめる。
ああ、きっとファーストキスだったんだろうな。
そう思った時の、背筋に残るほの暗い快感は、決してこの子には見せられない。
僕が贈る青色は、裏返せば真っ黒だった。
それからは、意識していつも通りに振舞った。
あんな形でキスをしたことが申し訳なかったのもあったし、彼女の「初めて」を自分にしてしまえたことに、少しでも喜びを覚えた己が怖かったからだ。
彼女がごくたまに「なんで」という顔をすると、お願い、聞かないで、と無言で訴えた。
毬花という子は本当にわかりやすいから、彼女が僕の側に堕ちてきたことはすぐにわかった。
そうだ、僕は男で、あの子は女。有り得ないけれど、僕には彼女を組み敷く力も、暴く力もある。きっと、そのことを初めて意識したのだろう。無意識に照れる毬花は、本当に可愛くて堪らなかった。
一年後は、受験勉強で忙しくなっていた。
「東京の大学を受ける」と伝えた時、毬花は静かに頷いて、「頑張って」と小さく伝えてきた。
ずっと一緒にいたから、僕がそばにいない、というのがよくわからないのだろう。
僕も同じだ。彼女がいない街で、一人で暮らすなんて。
お互い大学受験と高校受験だから、僕の部屋に集まって勉強をしている。
毬花は僕が通っている高校を志望しているらしい。今のところ安全圏らしいから、大丈夫だろう。
彼女は自分の分が一段落すると、僕の手元をじっと見てくる。
たまに解かせてみると、やはり四苦八苦してしまってこちらを泣きそうな顔で見るのがまた愛らしい。そんなに困らなくてもいいのに。
「わかんない……」
「まあそうでしょうね」
まだ中学三年生だ。国語で数問解ける問題があったのが寧ろ恐ろしい。
そして、僕達は見事第一志望校への合格を決めた。
毬花は僕の母校へ、僕は東京の最高学府へ。
僕の部屋でお土産の東京ばな奈を食べながら、彼女はぽつりと「アズールもとうとう東京行っちゃうんだね」と呟いた。
「ええ。……寂しいですか?」
「うん。……ずっと一緒だったんだもん。アズールがいない生活なんて想像できない」
随分と嬉しいことを言ってくれるものだ。
素直で大変よろしい。
「……僕も寂しいですよ」
その素直さに応えて、僕も正直な気持ちを吐露した。
「あなたとこの部屋でこうして会うのも、勉強を教えるのも、もしかしたら最後かもしれないと思うと、」
その先は飲み込んだ。
胸が苦しくて死にそうになるんです。なんて、きっと彼女は驚いてしまう。
「ねえ、制服、もう届いているんでしょう?」
「え、あ、うん」
「着てきてくださいよ。僕、このままだとあなたの高校の制服姿を見られないんですから」
その代わりに、あの日のやり直しをすることにした。
「いいよ。ちょっと待ってて」
素直に立ち上がった彼女を見送った後、僕は壁に掛けた制服を手に取った。
コンコンコン、とドアをノックする音がした。
「どうぞ」
「おじゃましまーす……って」
「何です?」
「アズールも着たの?」
「ええ。折角ですから」
僕も、高校の制服を着た。
金のラインが入った黒いブレザーとスラックスに、白と黒のストライプのネクタイ。
女子はカラーリングはそのまま一緒のセーラー服だけれど、並ぶとやはり質感が違う。
「やっぱり新品は生地がぱりっとしてますね」
「ね。三年間着るとこんなになるんだ」
「あなたは相変わらずリボンは上手く結べないんですね」
「うっ。だって、結び方違うんだもん」
「仕方が無いですねえ。僕の幼馴染だということは知れ渡っているんですから、ちゃんとしてくださいね」
彼女が中学校に入る時と同じことを言いながら、セーラー服のリボンを結び直した。
「僕とあなたが同じタイミングで同じ学校の制服を着たの、実は初めてなんですよ」
「そういえばそうだね。なんか新鮮」
「そうですね。三歳差とは案外大きいものです」
本当に、大きな差だった。
歳上な分、彼女の世界を僕で埋め尽くすこともできた訳だけれども。
それでも、同じ学校に居られない、「幼馴染」という立ち位置でい続けなくてはいけない、大人でいなくてはいけない、というのは僕にとっては苦痛だった。
「私が一年早く生まれてたら、もっと違ってたのかもね」
「それか僕が二ヶ月遅く生まれるか、ですね。まあでも……」
新品の制服に包まれた細い肩を、なるべく優しく掴む。
こつん、と額を合わせると、黒い睫毛がハッとしたように伏せられた。
「今だけは、一緒ですから」
自分の声に滲む甘さは、もうどうしようも無い。
「ねえ」
「ん?」
「抱き締めていいですか」
「……いいよ」
サラリと口から出た欲望に、彼女は頷いてくれた。
ガラス細工のような身体を壊さないように、そっと腕を回す。
こっそりつけられたあの日のネックレスを見つけて、胸が震えた。
「やっとだ……」
きっといつもなら空気に混じるような僕の独り言は、きっと彼女にも届いただろう。
「ねえ」
「はい?」
「あの時、なんで……」
「当ててみてください」
腕を緩めた。
至近距離で彼女を見つめる。
「僕が今何を考えているのか、当ててみてください。小さい頃みたいに」
あの頃のように、あの頃よりも近い距離で。
「えっと……」
さあ、当ててみて。
僕の爛れてぐちゃぐちゃになった、この感情の名前を。
「……私のことが………好き?」
「正解」
「それがあの時の行動の答えです」と笑う。
ごめんなさい。今なら、あんな幼稚なキスはしません。
「ねえ」
「ん?」
「しますよ」
「なにを」と訊かれる前に、僕より少し小さな唇を覆う。
問いの答えは、後頭部に添えられた手で告げた。
あの時とは違う。
もっとダイレクトで、熱を伝えて、心音が伝わって、少し離してくすりと笑って、また口付けた。
やっとだ。やっと、ここまでこれた。
年の差を縮めた振りをして、ようやく。
「毬花」
どろどろに溶けてしまっているけれど、彼女の名を呼んだ。
「はい……?」
「愛してる」
彼女はたっぷり5秒は固まった。
顔に一気に熱が集まる。
やっと言えた。
僕はどこかほっとして、それでも少し不安だった。
「う、え……」
毬花はその小さな頭を僕の胸元に埋めた。庇護欲がそそられて困る。
「こっち向いてくださいよ」
「む、無理……恥ずかしい……」
「僕もですよ」
「でも、あの、これは……」
僕だって恥ずかしいんだ。
本来なら、こんなクサい台詞を吐くタイプじゃない。
「ねえ毬花、顔を上げてください」
「無理だって……!」
「じゃあ強制的に上げさせますからね」
「え、ちょっ……」
ぐいっと顎を上げて、なし崩しに唇を奪った。
「ねね、アズール」
「何です?」
白いタキシードのネクタイをちょいちょいと直される。
お返しに、僕も彼女のドレスを少し直した。
あの頃よりも、僕らは大人になった。
だからもう至近距離で見つめあっても照れないし、微笑めるくらいの余裕はある。
「私ってさ、アズールから勉強とか色々教わってきたじゃん」
「ええ。そうですね」
「つまり私は人生のほとんどをアズールから学んできたと言っても過言ではないじゃん」
「まあ大袈裟に言えばそうですね」
「でもさ、私からアズールになにか教えるってことは無かったんだよね」
「年下ですしね。なにか知識を教わるというのはありませんでしたね」
「でもね、私実は一個だけアズールに教えられることがあるの」
「おや、何です?」
珍しい。彼女から僕に教えることなんて。
「あのね、「愛してる」って頭に届くのに時間が掛かるんだよ」
「え?」
それ、もしかしなくてもあの時の。
やめてください、照れちゃうじゃないですか。
顔に熱が集まる。
「あなた、まさかあの時に」
「そ。あの時にね、発見したんだよ」
うふふ、と彼女は笑う。
「ね、アズール」
「うう……」
小悪魔の様な笑みを浮かべる彼女は、当然ながら大変可愛らしい。
毬花は、僕がこれから幸せにする花嫁の格好をして言った。
「愛してる」
その後、やっぱり僕も5秒固まって。
彼女に大笑いされながら、小さくキスを貰ったのだった。
僕は折り畳み傘をカバンに入れた。
「母さん、今日……」
「わかってるわよ。三者面談でしょ。ちゃんと時間までに行くわ」
「うん」
僕は彼女のセリフに頷いた。
そう、今日は三者面談。
僕の将来を決める話し合いだ。
「アズールくんは優秀です。学校が学校ですから断言は出来ませんが、無謀ではないでしょう」
「はい」
「本校からも、何人かここには行っています。教師一同、しっかりとサポートして参りますので」
当たり前だ。
僕は真面目で優秀だ。将来のことを見越して、しっかり勉学に励んできた。
生徒会や部活動にも取り組んで、成績は上々。
僕は第一志望校の欄に書いた「東京」の文字を睨んだ。
でも、どうしても気になるものがある。
僕は母と帰宅し、私服に着替えて外に出た。
隣家のチャイムを押して少し待つと、ドアが開いて中から女の子が顔を出す。
「アズール!」
きらきらした笑顔を浮かべるのは、幼馴染の毬花。
僕より三つ歳下の、初恋の相手だ。
今日は毬花の誕生日だ。
紫陽花が見頃を迎える時期に生まれたせいか、彼女はケーキよりも近所の和菓子屋の紫陽花を模したゼリーの方が好き。
かくれんぼは他の子相手なら絶対に捕まらないのに、僕には易々と見つかってしまう。
青色が好きで、僕の瞳の色をよく「いいなあ」と羨ましがる。
そういうところが特に可愛くて、ずっと好きだった。
でも僕らは三歳も歳の差がある。
彼女は今中学二年生で、僕は高校二年生。
これは本当に大きな差だ。僕と彼女は、学校では絶対に交わらない。
家が隣じゃなかったら、絶対に知り合わなかった。
僕は「東京」の文字を思い出した。
自分で書いたのに、後ろ髪を引かれるような思いをしているのはこの子のせいだ。
東京に行ったら、毬花と離れてしまう。
そのことだけが気がかりだった。
「隣の家の幼馴染」という枠組みが、壊れてしまう。
それは、僕らを繋ぐ糸が、切れてしまうということ。
毬花は可愛い。クラスメイトから「お前ん家の隣に住んでるあの子、可愛くね?」と言われたことがある。
可愛いに決まってるだろ、と僕は内心思う。
15年間一緒に生きてきて、可愛くなかった瞬間がないんだから。
「んでね、テスト満点取ったんだけどね」
「うん」
彼女の話に付き合いながら、山の近くにある公演を目指す。
結構な規模のそこは、この時期になると紫陽花が一斉に咲くのだ。
綺麗なのに誰も見にこないのは勿体ないからと、毬花はそこによく行く。
僕は紫陽花を愛でる彼女を見に行くんだけれども。
「おー今年も咲いてますな」
毬花は楽しげな声を上げる。
「楽しそうですね」
「楽しいよー。誕生日だし、アズールいるし」
その言葉に、僕は少し胸が痛む。
再来年から僕はいないと言ったら、君はどんな顔をするだろう。
「アズールがいるから楽しいよ」と素直に言う君の笑顔を、歪ませてしまうのかもしれない。
「今年のプレゼント、渡しますよ」
「お、なになに?」
くるりと振り返る髪の毛につけられた青いバレッタは、僕が贈ったものだ。
「ネックレスです」
「おお!なんかオトナなチョイスだね」
バッグから箱を取り出して渡す。
「開けていい?」
「どうぞ」
濃紺の箱を開けると、彼女の「わあ……」という弾んだ声。
選んだのはシンプルなシルバーチェーンのものだ。ペンダントトップのアズールブルーのスワロフスキーが決め手になった。
「かわいい」
ぽつりと呟かれたそれに、僕はほっと胸を撫で下ろす。
「後ろ向いてください。つけてあげますよ」
「はーい」
くすくす笑う彼女はくるりと背中を僕に向けた。
「出来ましたよ」
「ありがと。似合う?」
「ええ。とても」
そう言うと、毬花は照れたように笑った。
「あなたには、その色が一番似合います」
青色は、僕からの束縛の色だ。
僕の名前と瞳の色を、彼女に刻みつけていく。
でも、それに毬花は気づかない。
「大きくなりましたね」
彼女の頭に手を置く。
少し見上げるその視線に、焦がれるようになったのは何時だったか。
「そう?」
「ええ。昔は紫陽花の株の下に入り込めるほどでしたよ」
「かくれんぼで隠れてたとこだ」
「この時期限定ですがね。よく露に濡れて、お母様に叱られていた」
「言わないでよそれ」
ははは、と彼女の軽やかな笑い声。
僕らはいつの間にか、ここまで大きくなっていたんだな、とふと思う。
クズでノロマだった僕と、優しくて小さかった毬花。
それなのに僕は背が伸びて、声変わりをして、あの頃よりもずっと腹黒く、強かになって。
彼女も背が伸びて、体が優しい丸みを帯びて、それなのにあの頃の無垢さはそのままで。
そして、僕はこんなに可愛い子を置いていかなきゃいけない。
離れたくない。
ただそれだけだった。
毬花の黒髪と、青いバレッタが紫陽花に滲んだ。
白い肌に映える青、最近変えたという爽やかな柔軟剤の香り。
柔くて細い腕を引けば、それは一瞬だった。
「……アズール?」
「ごめんなさい」
仕出かしたことの重大さに気づいたのは、全てが終わった後だった。
女の子特有の柔らかさが、手にはっきりと残っている。
目の前の彼女は目を丸くしてこちらを見つめる。
ああ、きっとファーストキスだったんだろうな。
そう思った時の、背筋に残るほの暗い快感は、決してこの子には見せられない。
僕が贈る青色は、裏返せば真っ黒だった。
それからは、意識していつも通りに振舞った。
あんな形でキスをしたことが申し訳なかったのもあったし、彼女の「初めて」を自分にしてしまえたことに、少しでも喜びを覚えた己が怖かったからだ。
彼女がごくたまに「なんで」という顔をすると、お願い、聞かないで、と無言で訴えた。
毬花という子は本当にわかりやすいから、彼女が僕の側に堕ちてきたことはすぐにわかった。
そうだ、僕は男で、あの子は女。有り得ないけれど、僕には彼女を組み敷く力も、暴く力もある。きっと、そのことを初めて意識したのだろう。無意識に照れる毬花は、本当に可愛くて堪らなかった。
一年後は、受験勉強で忙しくなっていた。
「東京の大学を受ける」と伝えた時、毬花は静かに頷いて、「頑張って」と小さく伝えてきた。
ずっと一緒にいたから、僕がそばにいない、というのがよくわからないのだろう。
僕も同じだ。彼女がいない街で、一人で暮らすなんて。
お互い大学受験と高校受験だから、僕の部屋に集まって勉強をしている。
毬花は僕が通っている高校を志望しているらしい。今のところ安全圏らしいから、大丈夫だろう。
彼女は自分の分が一段落すると、僕の手元をじっと見てくる。
たまに解かせてみると、やはり四苦八苦してしまってこちらを泣きそうな顔で見るのがまた愛らしい。そんなに困らなくてもいいのに。
「わかんない……」
「まあそうでしょうね」
まだ中学三年生だ。国語で数問解ける問題があったのが寧ろ恐ろしい。
そして、僕達は見事第一志望校への合格を決めた。
毬花は僕の母校へ、僕は東京の最高学府へ。
僕の部屋でお土産の東京ばな奈を食べながら、彼女はぽつりと「アズールもとうとう東京行っちゃうんだね」と呟いた。
「ええ。……寂しいですか?」
「うん。……ずっと一緒だったんだもん。アズールがいない生活なんて想像できない」
随分と嬉しいことを言ってくれるものだ。
素直で大変よろしい。
「……僕も寂しいですよ」
その素直さに応えて、僕も正直な気持ちを吐露した。
「あなたとこの部屋でこうして会うのも、勉強を教えるのも、もしかしたら最後かもしれないと思うと、」
その先は飲み込んだ。
胸が苦しくて死にそうになるんです。なんて、きっと彼女は驚いてしまう。
「ねえ、制服、もう届いているんでしょう?」
「え、あ、うん」
「着てきてくださいよ。僕、このままだとあなたの高校の制服姿を見られないんですから」
その代わりに、あの日のやり直しをすることにした。
「いいよ。ちょっと待ってて」
素直に立ち上がった彼女を見送った後、僕は壁に掛けた制服を手に取った。
コンコンコン、とドアをノックする音がした。
「どうぞ」
「おじゃましまーす……って」
「何です?」
「アズールも着たの?」
「ええ。折角ですから」
僕も、高校の制服を着た。
金のラインが入った黒いブレザーとスラックスに、白と黒のストライプのネクタイ。
女子はカラーリングはそのまま一緒のセーラー服だけれど、並ぶとやはり質感が違う。
「やっぱり新品は生地がぱりっとしてますね」
「ね。三年間着るとこんなになるんだ」
「あなたは相変わらずリボンは上手く結べないんですね」
「うっ。だって、結び方違うんだもん」
「仕方が無いですねえ。僕の幼馴染だということは知れ渡っているんですから、ちゃんとしてくださいね」
彼女が中学校に入る時と同じことを言いながら、セーラー服のリボンを結び直した。
「僕とあなたが同じタイミングで同じ学校の制服を着たの、実は初めてなんですよ」
「そういえばそうだね。なんか新鮮」
「そうですね。三歳差とは案外大きいものです」
本当に、大きな差だった。
歳上な分、彼女の世界を僕で埋め尽くすこともできた訳だけれども。
それでも、同じ学校に居られない、「幼馴染」という立ち位置でい続けなくてはいけない、大人でいなくてはいけない、というのは僕にとっては苦痛だった。
「私が一年早く生まれてたら、もっと違ってたのかもね」
「それか僕が二ヶ月遅く生まれるか、ですね。まあでも……」
新品の制服に包まれた細い肩を、なるべく優しく掴む。
こつん、と額を合わせると、黒い睫毛がハッとしたように伏せられた。
「今だけは、一緒ですから」
自分の声に滲む甘さは、もうどうしようも無い。
「ねえ」
「ん?」
「抱き締めていいですか」
「……いいよ」
サラリと口から出た欲望に、彼女は頷いてくれた。
ガラス細工のような身体を壊さないように、そっと腕を回す。
こっそりつけられたあの日のネックレスを見つけて、胸が震えた。
「やっとだ……」
きっといつもなら空気に混じるような僕の独り言は、きっと彼女にも届いただろう。
「ねえ」
「はい?」
「あの時、なんで……」
「当ててみてください」
腕を緩めた。
至近距離で彼女を見つめる。
「僕が今何を考えているのか、当ててみてください。小さい頃みたいに」
あの頃のように、あの頃よりも近い距離で。
「えっと……」
さあ、当ててみて。
僕の爛れてぐちゃぐちゃになった、この感情の名前を。
「……私のことが………好き?」
「正解」
「それがあの時の行動の答えです」と笑う。
ごめんなさい。今なら、あんな幼稚なキスはしません。
「ねえ」
「ん?」
「しますよ」
「なにを」と訊かれる前に、僕より少し小さな唇を覆う。
問いの答えは、後頭部に添えられた手で告げた。
あの時とは違う。
もっとダイレクトで、熱を伝えて、心音が伝わって、少し離してくすりと笑って、また口付けた。
やっとだ。やっと、ここまでこれた。
年の差を縮めた振りをして、ようやく。
「毬花」
どろどろに溶けてしまっているけれど、彼女の名を呼んだ。
「はい……?」
「愛してる」
彼女はたっぷり5秒は固まった。
顔に一気に熱が集まる。
やっと言えた。
僕はどこかほっとして、それでも少し不安だった。
「う、え……」
毬花はその小さな頭を僕の胸元に埋めた。庇護欲がそそられて困る。
「こっち向いてくださいよ」
「む、無理……恥ずかしい……」
「僕もですよ」
「でも、あの、これは……」
僕だって恥ずかしいんだ。
本来なら、こんなクサい台詞を吐くタイプじゃない。
「ねえ毬花、顔を上げてください」
「無理だって……!」
「じゃあ強制的に上げさせますからね」
「え、ちょっ……」
ぐいっと顎を上げて、なし崩しに唇を奪った。
「ねね、アズール」
「何です?」
白いタキシードのネクタイをちょいちょいと直される。
お返しに、僕も彼女のドレスを少し直した。
あの頃よりも、僕らは大人になった。
だからもう至近距離で見つめあっても照れないし、微笑めるくらいの余裕はある。
「私ってさ、アズールから勉強とか色々教わってきたじゃん」
「ええ。そうですね」
「つまり私は人生のほとんどをアズールから学んできたと言っても過言ではないじゃん」
「まあ大袈裟に言えばそうですね」
「でもさ、私からアズールになにか教えるってことは無かったんだよね」
「年下ですしね。なにか知識を教わるというのはありませんでしたね」
「でもね、私実は一個だけアズールに教えられることがあるの」
「おや、何です?」
珍しい。彼女から僕に教えることなんて。
「あのね、「愛してる」って頭に届くのに時間が掛かるんだよ」
「え?」
それ、もしかしなくてもあの時の。
やめてください、照れちゃうじゃないですか。
顔に熱が集まる。
「あなた、まさかあの時に」
「そ。あの時にね、発見したんだよ」
うふふ、と彼女は笑う。
「ね、アズール」
「うう……」
小悪魔の様な笑みを浮かべる彼女は、当然ながら大変可愛らしい。
毬花は、僕がこれから幸せにする花嫁の格好をして言った。
「愛してる」
その後、やっぱり僕も5秒固まって。
彼女に大笑いされながら、小さくキスを貰ったのだった。
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