紫陽花とオードパルファムと長い初恋
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小さい頃から、彼は私を見つけるのが得意だった。
かくれんぼの時でも、お母さんに叱られた時でも、彼は絶対に真っ先に私を見つけてくれた。
「毬花は単純だから、考えてることなんてすぐわかるよ」と、口元にあるほくろをきゅっと上げて笑う。
どんなに悲しくても悔しくても、そのぷにっとした手を差し出されると、私は喜んで立ち上がったものだ。
「わたしだってアズールのかんがえてることわかるもんね」と、お決まりのセリフ付きで。
すると大体「へえ、じゃあ僕が今なに考えてるかわかる?」と面白そうに聞かれるから、「唐揚げ食べたい」とか「きょうのばんごはんのこと」とか答えて、「ハズレだよ」と大いに笑わせるのだ。
私とアズールは、そんな関係だった。
彼の方が三年先に生まれて、その隣の家に私が住んでいる。
親が会う度に私達も会って、その度に二人で一緒に遊ぶ。
かくれんぼが特にお気に入りで、二人きりなのに何故かずっとやっていた。
アズールはぽちゃぽちゃ太った体をしていて、それが原因でいじめられていた。
私より早く小学校にあがった彼は毎日泣いて帰ってきて、私に「もういやだ」と縋り付く。
私は当時まだ言葉も覚束無い幼児だったのに、一丁前にお姉さんの顔をして「だいじょうぶ?」とその銀髪を撫でていた。
そして、彼は変わった。
まず、痩せた。
誰に対しても敬語で話すようになった。
成績が目に見えて上がった。
いつの間にか学年で一番の優等生になった彼は、やっと小学校低学年の私を毎日自宅に招いて、一緒に勉強をした。
「3×4は?」
「えっと……13?」
「違いますよ。12です」
「あら?」
「あら?じゃないんですよ。3が4個あるんです。指使って数えてみなさい」
「1、2、3、4、5、6……ゆび足りない」
「貸してあげますから。ほら、12でしょう?」
「本当だ」
こんな感じで、毎日やっていた。
必然的に成績も上がって、私は学校の先生に「偉いねえ」と褒められることが増えた。
三歳の年の差は大きい。
私がやっと小学校を卒業すると同時に、アズールは高校に入った。
中学校のセーラー服のリボンが上手く結べなくて苦戦していたのを、新品のブレザーに身を包んだ彼に大いに笑われて、「仕方が無いですねえ」なんて言われて直された。
「あなたが僕の幼馴染だってことは知れ渡っているんですから、ちゃんとしてくださいね。僕の名前に傷がつきます」
「はあい」
そんなことで?と思っていると、頭をぽんと撫でられて「大丈夫。似合ってますよ」と微笑まれる。
ここ数年でぐっと背が伸びてかっこよくなった彼のそれに私は耐えられなくて、ぷいっと顔を背ける。
「おやおや、反抗期ですかねえ」なんて言って、全然気にされなかったけど。
中学校では、本当に私がアズールの幼馴染だということが広まっていた。
先輩方に半ば強制的に生徒会に入会させられ、「あのアーシェングロット先輩が、「僕が直々に仕込んだので、かなり優秀ですよ」って言ってたからさ〜」と仕事をどさっと任された。
いや仕込んだってそんな……と思いながら何とかこなして、任されて、こなしての繰り返し。
確かに、私はアズールに勉強を教えてもらうついでに彼の仕事を手伝っていた。
それでも書類をまとめたり、過去の議事録を整理したりとか、そういう雑用めいたことだ。
それでもこなせてしまうから、「え、マジでどんだけ仕込まれたの……」と若干引かれる始末。
だから仕込まれてないってば。
そして、事件は起きた。
私の14歳の誕生日の時だ。
6月10日、ちょうど紫陽花が満開になる時期。
アズールは毎年、何か青い小物をくれる。
雨上がりのその日、青い紫陽花の前で渡されたのは、青い石の入ったネックレスだった。
アズールブルーのスワロフスキー。
贈り主の名を冠すそれは、私の一番好きな色だ。
「あなたには、その色が一番似合います」
つけてくれた彼はそう笑う。
「……大きくなりましたね」
ぽん、と私の頭の上に手を置いて、アズールは呟いた。
「そう?」
「ええ。昔は紫陽花の株の下に入り込めるほどでしたよ」
「かくれんぼで隠れてたとこだ」
「この時期限定ですがね。よく露に濡れて、お母様に叱られていた」
「言わないでよそれ」
昔の恥ずかしいエピソードをサラリと出す。本当にこういう所は腹黒い。
「今はもう、隠れられませんね」
「そうだね」
ふっと目元に影が落ちたアズールの顔を覗き込むと、そのブルー・ファイヤンスの瞳とかち合った。
「アズール?」
「…… 毬花」
視界がぼやけた。
高校に上がってからつけるようになった、品のいい香りのオードパルファム。
ふわりと顔にかかる、淡藤色の髪。
全ては一瞬だったけれど、唇に残るメンズ用リップクリームの潤いが、何をされたのかを明確に伝えてくる。
「……アズール?」
「………ごめんなさい」
彼は一言そう言った。
そのテノールの甘さを、私はそこで初めて知った。
私達の関係は、特に変わらなかった。
いや、変わろうとしていたのを、アズールも私が必死になって止めたのだ。
幼馴染という耳に優しい言葉から離れられなかったから。
努めていつも通りに振舞って、それでもあの日のオードパルファムの匂いと、髪の感触と、唇の熱は明確に私の意識を変えた。
あのテノールから滲み出た甘さは、とても「幼馴染」に向けるものじゃないことを、私はもうわかる年齢になっていた。
何であんなことをしたの、と問いたくても、彼がその瞳に「聞くな」という明確な意思を乗せてくる。
それでも、差し出される手に自分のそれを預けた時や、転びそうになって受け止められた時なんかに、私達が男と女で、もう大人に近いからだになっていることを知る。
17歳と14歳。まだ、子どもだと思っていた。
でも、彼のその広い肩も、喉仏も、大きな手も、大人の男の人と何ら違いはない。
私は身長が伸びなくなった。その代わりに胸元がふわふわしてきて、月に一回腹痛と出血がある。
いつの間にか、ここまで来ていたのだ。
今まで無自覚に奥底で殺してきた、それでもいつの間にか育っていた感情を、無視できないところまで。
尊くて儚いなにかを失った代わりに、どうしようもない熱と、苦しくて甘ったるい胸の痛みの名前を知った。
「恋」と世間で呼ばれるそれは、私達の脆い関係に土足で上がり込んで、全てをぐちゃぐちゃに引っ掻き回していった。
私は15歳になった。
アズールは18歳になった。
お互い「受験」という恐ろしい怪物の足音に耳を澄ませて、ひたすら頭に知識を詰め込んでいる。
私はアズールと同じ高校を、アズールは国の最高学府を目指していた。
「アズールここわかんない」
「そこにあるノート左から2冊目の15ページ目」
「了解」
恋とか愛とかはちょっと置いといて、とにかく今は勉強だ。
「はい休憩」
「あー……疲れた……」
「僕もです……。糖分を補給しましょう」
「わーい糖分だー……」
ぐったりだ。
控えめに頭を撫でられて顔を上げると、目の前に置かれたショートケーキと紅茶が目に入る。
「頑張っていますからね。駅前で奮発しました」
「神様仏様アズール様……」
「ふふふ。もっと崇めてくれていいんですよ」
「アーメン……」
「それはキリスト教です」
アズールは自分の分のミルクレープを食べた。
「アズールはコーヒーなの?」
「はい」
「飲めなかったのに」
「それは昔の話でしょう」
むっと唇をとがらす顔が可愛い。
そういやこの人イケメンやな……と呟くと、「何です?」とアズールがこちらを見る。
「何でも?」
「へえ?」
私もショートケーキを口に入れた。
「は、うっま!なにこれ!」
「だから奮発したと言ったでしょう。高かったんですからねそれ」
時が流れるのはあっという間だ。
げっそりしながら入試を終え、合格発表をみて跳ね上がって、アズールの所にすっ飛んでいって。
彼は東京に出て受験して、無事合格を決めて戻ってきた。
お互いの勝利を祝ったあとに出てくるのは、「アズールの上京」という事実。
色々あったけど、とうとう彼は遠くに行くのだ。
東京は本当に遠い。だって、ここは街灯がちょっとしかない田舎だ。
夜は真っ暗、その分星は綺麗だけど、それ以外は何も無い。
あのネオンぎらぎらの街にいるアズールが想像できない。あまりにも遠すぎて。
「とうとうアズールも東京行っちゃうんだね」
「ええ。……寂しいですか?」
「うん」
私はアズールの自室で東京ばな奈を食べていた。
美味しい。
「ずっと一緒だったんだもん。アズールがいない生活なんて想像できない」
照れたって仕方が無いから、素直に言う。
だって事実だ。私とアズールは生まれた時からずっと一緒だった。生まれた順番は違うけど。
それが、私の隣からいなくなる。
あの日から、あの紫陽花は見に行っていない。
もしかしたら、一緒に見る機会はあれが最後だったのかも。
そう思うととても勿体なく感じる。
あの日の柔らかさはまだ覚えているのに、ずっと遠い昔のことのようだ。
この部屋から香るオードパルファムは変わっていないのに、あの時とは違うように感じる。
「……僕も寂しいですよ」
アズールがぽつりと言った。
「あなたとこの部屋でこうして会うのも、勉強を教えるのも、もしかしたら最後かもしれないと思うと、」
その先は、飲み込まれて消えていった。
「ねえ、制服、もう届いているんでしょう?」
「え、あ、うん」
「着てきてくださいよ。僕、このままだとあなたの高校の制服姿を見られないんですから」
彼はいたずらっ子のような笑顔をうかべる。
「いいよ。ちょっと待ってて」
私は素直に立ち上がって、自室に戻った。
一回袖を通しただけの制服を着て、再びアズールの部屋のドアを叩く。
「どうぞ」
「おじゃましまーす……って」
「何です?」
「アズールも着たの?」
「ええ。折角ですから」
なんと、アズールも高校の制服を着ていた。
金のラインが入った黒いブレザーとスラックスに、白と黒のストライプのネクタイ。
女子はカラーリングはそのまま一緒のセーラー服なんだけど、並ぶと全然質感が違う。
「やっぱり新品は生地がぱりっとしてますね」
「ね。三年間着るとこんなになるんだ」
「あなたは相変わらずリボンは上手く結べないんですね」
「うっ。だって、結び方違うんだもん」
「仕方が無いですねえ」
アズールはやっぱり「僕の幼馴染だということは知れ渡っているんですから、ちゃんとしてくださいね」と言いながら結び直してくれる。
「僕とあなたが同じタイミングで同じ学校の制服を着たの、実は初めてなんですよ」
「そういえばそうだね。なんか新鮮」
「そうですね。三歳差とは案外大きいものです」
そっか、初めてなんだ。
こうして見ると、本当にアズールの先輩感が凄いというか、なんというか。
「私が一年早く生まれてたら、もっと違ってたのかもね」
「それか僕が二ヶ月遅く生まれるか、ですね。まあでも……」
肩を優しく掴まれる。
こつん、と額が合わさって、銀色の睫毛が見えた。
「今だけは、一緒ですから」
柔らかく響くテノールに、どうしようもない甘さが滲む。
「ねえ」
「ん?」
「抱き締めていいですか」
「……いいよ」
その甘さに引きずられるように許可を出すと、ふわり、と長い腕が背中に回った。
頭を肩口にずらす。
あの日のオードパルファムと同じ香り。
違うのは、伝わる心音。
「やっとだ……」
いつもは掻き消えてしまうような声が、はっきり聞こえる。
今なら、聞けるだろうか。
「ねえ」
「はい?」
「あの時、なんで……」
「当ててみてください」
彼は腕を緩めた。
至近距離で私を見つめる。
「僕が今何を考えているのか、当ててみてください。小さい頃みたいに」
「えっと……」
解ってる。
私は、もうあの頃の私じゃない。
「……私のことが………好き?」
「正解」
「それがあの時の行動の答えです」と彼は笑う。
その笑みが、今まで見たことがないくらい優しい。
「ねえ」
「ん?」
「しますよ」
「なにを」と訊く前に、ふわりと唇が重なる。
キスですよ、と後頭部に添えられた手が告げた。
あの時とは違う。
香りやリップクリームの名残りでしか認識出来ないようなものじゃない。
もっとダイレクトで、熱を伝えて、心音が伝わって、少し離してくすりと笑って、また口付ける。
「毬花」
どろどろに溶けた声が、私の名を呼ぶ。
「はい……?」
「愛してる」
私はたっぷり5秒固まった。
顔に一気に熱が集まる。
今、この人なんて言った?
「愛してる」って言った?
「う、え……」
あまりにも恥ずかしくて、アズールの胸元に顔を埋める。
「こっち向いてくださいよ」
「む、無理……恥ずかしい……」
「僕もですよ」
「でも、あの、これは……」
いや、あの、本当に無理。
だってそんな、「愛してる」だなんて。
そんな台詞、現実で聞くとは思わなかったから。
「ねえ毬花、顔を上げてください」
「無理だって……!」
「じゃあ強制的に上げさせますからね」
「え、ちょっ……」
ぐいっと顎を上げられ、また唇を奪われる。
熱で蕩けた頭の片隅で、「顎クイ」という言葉が過ぎった。
「ねね、アズール」
「何です?」
白いタキシードのネクタイをちょいちょいと直す。
彼も私のドレスを少し直した。
あの頃よりも、私たちは大人になった。
だからもう至近距離で見つめあっても照れないし、微笑めるくらいの余裕はある。
「私ってさ、アズールから勉強とか色々教わってきたじゃん」
「ええ。そうですね」
「つまり私は人生のほとんどをアズールから学んできたと言っても過言ではないじゃん」
「まあ大袈裟に言えばそうですね」
「でもさ、私からアズールになにか教えるってことは無かったんだよね」
「年下ですしね。なにか知識を教わるというのはありませんでしたね」
「でもね、私実は一個だけアズールに教えられることがあるの」
「おや、何です?」
アズールは楽しそうに笑う。
「あのね、「愛してる」って頭に届くのに時間が掛かるんだよ」
「え?」
彼はきょとんとしたあと、ぶわっと顔を赤く染めた。
「あなた、まさかあの時に」
「そ。あの時にね、発見したんだよ」
うふふ、と私は笑う。
「ね、アズール」
「うう……」
照れる彼はいくつになっても可愛い。
今まで私がずっとその顔させられてきたんだから、今日くらいは逆転してもいいでしょ?
私は、世界一幸せな花嫁の格好をして言った。
「愛してる」
かくれんぼの時でも、お母さんに叱られた時でも、彼は絶対に真っ先に私を見つけてくれた。
「毬花は単純だから、考えてることなんてすぐわかるよ」と、口元にあるほくろをきゅっと上げて笑う。
どんなに悲しくても悔しくても、そのぷにっとした手を差し出されると、私は喜んで立ち上がったものだ。
「わたしだってアズールのかんがえてることわかるもんね」と、お決まりのセリフ付きで。
すると大体「へえ、じゃあ僕が今なに考えてるかわかる?」と面白そうに聞かれるから、「唐揚げ食べたい」とか「きょうのばんごはんのこと」とか答えて、「ハズレだよ」と大いに笑わせるのだ。
私とアズールは、そんな関係だった。
彼の方が三年先に生まれて、その隣の家に私が住んでいる。
親が会う度に私達も会って、その度に二人で一緒に遊ぶ。
かくれんぼが特にお気に入りで、二人きりなのに何故かずっとやっていた。
アズールはぽちゃぽちゃ太った体をしていて、それが原因でいじめられていた。
私より早く小学校にあがった彼は毎日泣いて帰ってきて、私に「もういやだ」と縋り付く。
私は当時まだ言葉も覚束無い幼児だったのに、一丁前にお姉さんの顔をして「だいじょうぶ?」とその銀髪を撫でていた。
そして、彼は変わった。
まず、痩せた。
誰に対しても敬語で話すようになった。
成績が目に見えて上がった。
いつの間にか学年で一番の優等生になった彼は、やっと小学校低学年の私を毎日自宅に招いて、一緒に勉強をした。
「3×4は?」
「えっと……13?」
「違いますよ。12です」
「あら?」
「あら?じゃないんですよ。3が4個あるんです。指使って数えてみなさい」
「1、2、3、4、5、6……ゆび足りない」
「貸してあげますから。ほら、12でしょう?」
「本当だ」
こんな感じで、毎日やっていた。
必然的に成績も上がって、私は学校の先生に「偉いねえ」と褒められることが増えた。
三歳の年の差は大きい。
私がやっと小学校を卒業すると同時に、アズールは高校に入った。
中学校のセーラー服のリボンが上手く結べなくて苦戦していたのを、新品のブレザーに身を包んだ彼に大いに笑われて、「仕方が無いですねえ」なんて言われて直された。
「あなたが僕の幼馴染だってことは知れ渡っているんですから、ちゃんとしてくださいね。僕の名前に傷がつきます」
「はあい」
そんなことで?と思っていると、頭をぽんと撫でられて「大丈夫。似合ってますよ」と微笑まれる。
ここ数年でぐっと背が伸びてかっこよくなった彼のそれに私は耐えられなくて、ぷいっと顔を背ける。
「おやおや、反抗期ですかねえ」なんて言って、全然気にされなかったけど。
中学校では、本当に私がアズールの幼馴染だということが広まっていた。
先輩方に半ば強制的に生徒会に入会させられ、「あのアーシェングロット先輩が、「僕が直々に仕込んだので、かなり優秀ですよ」って言ってたからさ〜」と仕事をどさっと任された。
いや仕込んだってそんな……と思いながら何とかこなして、任されて、こなしての繰り返し。
確かに、私はアズールに勉強を教えてもらうついでに彼の仕事を手伝っていた。
それでも書類をまとめたり、過去の議事録を整理したりとか、そういう雑用めいたことだ。
それでもこなせてしまうから、「え、マジでどんだけ仕込まれたの……」と若干引かれる始末。
だから仕込まれてないってば。
そして、事件は起きた。
私の14歳の誕生日の時だ。
6月10日、ちょうど紫陽花が満開になる時期。
アズールは毎年、何か青い小物をくれる。
雨上がりのその日、青い紫陽花の前で渡されたのは、青い石の入ったネックレスだった。
アズールブルーのスワロフスキー。
贈り主の名を冠すそれは、私の一番好きな色だ。
「あなたには、その色が一番似合います」
つけてくれた彼はそう笑う。
「……大きくなりましたね」
ぽん、と私の頭の上に手を置いて、アズールは呟いた。
「そう?」
「ええ。昔は紫陽花の株の下に入り込めるほどでしたよ」
「かくれんぼで隠れてたとこだ」
「この時期限定ですがね。よく露に濡れて、お母様に叱られていた」
「言わないでよそれ」
昔の恥ずかしいエピソードをサラリと出す。本当にこういう所は腹黒い。
「今はもう、隠れられませんね」
「そうだね」
ふっと目元に影が落ちたアズールの顔を覗き込むと、そのブルー・ファイヤンスの瞳とかち合った。
「アズール?」
「…… 毬花」
視界がぼやけた。
高校に上がってからつけるようになった、品のいい香りのオードパルファム。
ふわりと顔にかかる、淡藤色の髪。
全ては一瞬だったけれど、唇に残るメンズ用リップクリームの潤いが、何をされたのかを明確に伝えてくる。
「……アズール?」
「………ごめんなさい」
彼は一言そう言った。
そのテノールの甘さを、私はそこで初めて知った。
私達の関係は、特に変わらなかった。
いや、変わろうとしていたのを、アズールも私が必死になって止めたのだ。
幼馴染という耳に優しい言葉から離れられなかったから。
努めていつも通りに振舞って、それでもあの日のオードパルファムの匂いと、髪の感触と、唇の熱は明確に私の意識を変えた。
あのテノールから滲み出た甘さは、とても「幼馴染」に向けるものじゃないことを、私はもうわかる年齢になっていた。
何であんなことをしたの、と問いたくても、彼がその瞳に「聞くな」という明確な意思を乗せてくる。
それでも、差し出される手に自分のそれを預けた時や、転びそうになって受け止められた時なんかに、私達が男と女で、もう大人に近いからだになっていることを知る。
17歳と14歳。まだ、子どもだと思っていた。
でも、彼のその広い肩も、喉仏も、大きな手も、大人の男の人と何ら違いはない。
私は身長が伸びなくなった。その代わりに胸元がふわふわしてきて、月に一回腹痛と出血がある。
いつの間にか、ここまで来ていたのだ。
今まで無自覚に奥底で殺してきた、それでもいつの間にか育っていた感情を、無視できないところまで。
尊くて儚いなにかを失った代わりに、どうしようもない熱と、苦しくて甘ったるい胸の痛みの名前を知った。
「恋」と世間で呼ばれるそれは、私達の脆い関係に土足で上がり込んで、全てをぐちゃぐちゃに引っ掻き回していった。
私は15歳になった。
アズールは18歳になった。
お互い「受験」という恐ろしい怪物の足音に耳を澄ませて、ひたすら頭に知識を詰め込んでいる。
私はアズールと同じ高校を、アズールは国の最高学府を目指していた。
「アズールここわかんない」
「そこにあるノート左から2冊目の15ページ目」
「了解」
恋とか愛とかはちょっと置いといて、とにかく今は勉強だ。
「はい休憩」
「あー……疲れた……」
「僕もです……。糖分を補給しましょう」
「わーい糖分だー……」
ぐったりだ。
控えめに頭を撫でられて顔を上げると、目の前に置かれたショートケーキと紅茶が目に入る。
「頑張っていますからね。駅前で奮発しました」
「神様仏様アズール様……」
「ふふふ。もっと崇めてくれていいんですよ」
「アーメン……」
「それはキリスト教です」
アズールは自分の分のミルクレープを食べた。
「アズールはコーヒーなの?」
「はい」
「飲めなかったのに」
「それは昔の話でしょう」
むっと唇をとがらす顔が可愛い。
そういやこの人イケメンやな……と呟くと、「何です?」とアズールがこちらを見る。
「何でも?」
「へえ?」
私もショートケーキを口に入れた。
「は、うっま!なにこれ!」
「だから奮発したと言ったでしょう。高かったんですからねそれ」
時が流れるのはあっという間だ。
げっそりしながら入試を終え、合格発表をみて跳ね上がって、アズールの所にすっ飛んでいって。
彼は東京に出て受験して、無事合格を決めて戻ってきた。
お互いの勝利を祝ったあとに出てくるのは、「アズールの上京」という事実。
色々あったけど、とうとう彼は遠くに行くのだ。
東京は本当に遠い。だって、ここは街灯がちょっとしかない田舎だ。
夜は真っ暗、その分星は綺麗だけど、それ以外は何も無い。
あのネオンぎらぎらの街にいるアズールが想像できない。あまりにも遠すぎて。
「とうとうアズールも東京行っちゃうんだね」
「ええ。……寂しいですか?」
「うん」
私はアズールの自室で東京ばな奈を食べていた。
美味しい。
「ずっと一緒だったんだもん。アズールがいない生活なんて想像できない」
照れたって仕方が無いから、素直に言う。
だって事実だ。私とアズールは生まれた時からずっと一緒だった。生まれた順番は違うけど。
それが、私の隣からいなくなる。
あの日から、あの紫陽花は見に行っていない。
もしかしたら、一緒に見る機会はあれが最後だったのかも。
そう思うととても勿体なく感じる。
あの日の柔らかさはまだ覚えているのに、ずっと遠い昔のことのようだ。
この部屋から香るオードパルファムは変わっていないのに、あの時とは違うように感じる。
「……僕も寂しいですよ」
アズールがぽつりと言った。
「あなたとこの部屋でこうして会うのも、勉強を教えるのも、もしかしたら最後かもしれないと思うと、」
その先は、飲み込まれて消えていった。
「ねえ、制服、もう届いているんでしょう?」
「え、あ、うん」
「着てきてくださいよ。僕、このままだとあなたの高校の制服姿を見られないんですから」
彼はいたずらっ子のような笑顔をうかべる。
「いいよ。ちょっと待ってて」
私は素直に立ち上がって、自室に戻った。
一回袖を通しただけの制服を着て、再びアズールの部屋のドアを叩く。
「どうぞ」
「おじゃましまーす……って」
「何です?」
「アズールも着たの?」
「ええ。折角ですから」
なんと、アズールも高校の制服を着ていた。
金のラインが入った黒いブレザーとスラックスに、白と黒のストライプのネクタイ。
女子はカラーリングはそのまま一緒のセーラー服なんだけど、並ぶと全然質感が違う。
「やっぱり新品は生地がぱりっとしてますね」
「ね。三年間着るとこんなになるんだ」
「あなたは相変わらずリボンは上手く結べないんですね」
「うっ。だって、結び方違うんだもん」
「仕方が無いですねえ」
アズールはやっぱり「僕の幼馴染だということは知れ渡っているんですから、ちゃんとしてくださいね」と言いながら結び直してくれる。
「僕とあなたが同じタイミングで同じ学校の制服を着たの、実は初めてなんですよ」
「そういえばそうだね。なんか新鮮」
「そうですね。三歳差とは案外大きいものです」
そっか、初めてなんだ。
こうして見ると、本当にアズールの先輩感が凄いというか、なんというか。
「私が一年早く生まれてたら、もっと違ってたのかもね」
「それか僕が二ヶ月遅く生まれるか、ですね。まあでも……」
肩を優しく掴まれる。
こつん、と額が合わさって、銀色の睫毛が見えた。
「今だけは、一緒ですから」
柔らかく響くテノールに、どうしようもない甘さが滲む。
「ねえ」
「ん?」
「抱き締めていいですか」
「……いいよ」
その甘さに引きずられるように許可を出すと、ふわり、と長い腕が背中に回った。
頭を肩口にずらす。
あの日のオードパルファムと同じ香り。
違うのは、伝わる心音。
「やっとだ……」
いつもは掻き消えてしまうような声が、はっきり聞こえる。
今なら、聞けるだろうか。
「ねえ」
「はい?」
「あの時、なんで……」
「当ててみてください」
彼は腕を緩めた。
至近距離で私を見つめる。
「僕が今何を考えているのか、当ててみてください。小さい頃みたいに」
「えっと……」
解ってる。
私は、もうあの頃の私じゃない。
「……私のことが………好き?」
「正解」
「それがあの時の行動の答えです」と彼は笑う。
その笑みが、今まで見たことがないくらい優しい。
「ねえ」
「ん?」
「しますよ」
「なにを」と訊く前に、ふわりと唇が重なる。
キスですよ、と後頭部に添えられた手が告げた。
あの時とは違う。
香りやリップクリームの名残りでしか認識出来ないようなものじゃない。
もっとダイレクトで、熱を伝えて、心音が伝わって、少し離してくすりと笑って、また口付ける。
「毬花」
どろどろに溶けた声が、私の名を呼ぶ。
「はい……?」
「愛してる」
私はたっぷり5秒固まった。
顔に一気に熱が集まる。
今、この人なんて言った?
「愛してる」って言った?
「う、え……」
あまりにも恥ずかしくて、アズールの胸元に顔を埋める。
「こっち向いてくださいよ」
「む、無理……恥ずかしい……」
「僕もですよ」
「でも、あの、これは……」
いや、あの、本当に無理。
だってそんな、「愛してる」だなんて。
そんな台詞、現実で聞くとは思わなかったから。
「ねえ毬花、顔を上げてください」
「無理だって……!」
「じゃあ強制的に上げさせますからね」
「え、ちょっ……」
ぐいっと顎を上げられ、また唇を奪われる。
熱で蕩けた頭の片隅で、「顎クイ」という言葉が過ぎった。
「ねね、アズール」
「何です?」
白いタキシードのネクタイをちょいちょいと直す。
彼も私のドレスを少し直した。
あの頃よりも、私たちは大人になった。
だからもう至近距離で見つめあっても照れないし、微笑めるくらいの余裕はある。
「私ってさ、アズールから勉強とか色々教わってきたじゃん」
「ええ。そうですね」
「つまり私は人生のほとんどをアズールから学んできたと言っても過言ではないじゃん」
「まあ大袈裟に言えばそうですね」
「でもさ、私からアズールになにか教えるってことは無かったんだよね」
「年下ですしね。なにか知識を教わるというのはありませんでしたね」
「でもね、私実は一個だけアズールに教えられることがあるの」
「おや、何です?」
アズールは楽しそうに笑う。
「あのね、「愛してる」って頭に届くのに時間が掛かるんだよ」
「え?」
彼はきょとんとしたあと、ぶわっと顔を赤く染めた。
「あなた、まさかあの時に」
「そ。あの時にね、発見したんだよ」
うふふ、と私は笑う。
「ね、アズール」
「うう……」
照れる彼はいくつになっても可愛い。
今まで私がずっとその顔させられてきたんだから、今日くらいは逆転してもいいでしょ?
私は、世界一幸せな花嫁の格好をして言った。
「愛してる」
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