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連作:出られない部屋

 見間違いじゃない。比鷺は目の前のプレートをまじまじと見つめ、ゆっくりと声に出して読み上げる。
「はぐしないとでられないへや……」
 ハグ。つまりは抱擁。腕で抱きしめること。……抱きしめるといっても、この無機質な部屋にはたった二人しかいないのに!
「なるほど。今度はハグときたか」
 隣から聞こえる萬燈の呟きは、あまりにも自然体だ。その悠然とした態度が、比鷺にはまったくもって納得できなかった。出たらすぐ離すとの言葉通り、さっさと解放された手でもって、思わず服の裾を掴んでしまう。
「萬燈先生ってば、なんでそんなに落ち着いてるわけ……」
「焦ってねえ、こともねえんだがな」
 片方の眉を器用に顰め、萬燈が続ける。
「ハグ、な。それをしてこの部屋を出たとして、さっきみたいにまた、条件付きの部屋に繋がる可能性もあるのが頂けねえと思っちゃいるんだが」
「……が、なに?」
 萬燈があえて途中で区切ったことを察した比鷺が、なんとなく嫌な予感に苛まれながら促す。
「正直こいつは俺が経験したことのないエンターテインメントな気がしてならねえ。行けるところまで行ってみてえ。ってのがこの俺、萬燈夜帳の偽らざる本心ってやつだ」
「さいあくだー!」
「今更かもしれんが状況の説明をしておくとだな、俺も目を開けたらさっきの部屋にいた。お前が起きるまでに出来る範囲で確認したが、カメラだのマイクだのの仕込みはゼロ。まあ、どのみちお手上げってやつだな」
「うわーん!」
 よくもまあそんなに冷静に言ってのけてくれるものだ。泣き出したいし腹立たしい。乱れに乱れた気持ちのまま、勢いよく萬燈に詰め寄ろうとした比鷺の足がぐにゃりともつれる。
「おっ、と……」
『ピンポーン!』
 倒れ込んだ比鷺と抱きとめた萬燈が、思わず顔を見合わせる。場にそぐわない、それでいて聞き覚えのあるチャイムの音。どうやら今回はこれで合格になるらしい。
「なんっだよ! ハグがこんなんでいいなら、さっきの握手も手繋ぎカウントしろよな!」
「確かに、判定基準が一定じゃねえのはフェアじゃねえな」
「ほんとだよ! ……わあ!?」
「どうした? 九条比鷺」
「い、いや、顔、顔ちか!」
「さっきからずっとこうだが」
「そうかもだけど!」
 そうかもしれないけれど、改めて意識すると顔の距離が近すぎる。しかも相手は萬燈夜帳である。品よくまとまりつつも精悍な顔立ちは、至近距離で見るといっそう迫力がある。
「も、もう平気だから離して!」
「おかしな奴だな」
 ふ、と口の端を緩めた萬燈が、比鷺から身を引く。このひとまさか自分の顔の威力を分かってない……? や、そんな訳ない、よな。熱くなった頬をぱちぱちと叩き、比鷺は思う。
「さて、次の部屋に行けるようだが。どうする?」
「どうするも何も、行けるところまで行きたいんでしょ?」
「そいつはあくまで俺の都合だ。九条比鷺、お前はどうしたい?」
 大ぶりな眼鏡の奥からこちらを見据える視線には、誠意がこもっている。比鷺の勘違いでなければ、気遣いの色も。
「いいよ。俺も一緒に行く。……ここに一人でいたってどうしようもないだろうし、だったら萬燈先生と行くほうがいい」
「そうか」
「うん」


 扉をくぐったその先に、【キスしないと出られない部屋】と書かれたプレートを見つけるまで、比鷺は頑張るつもりだった。つもりはあったのだ!
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