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中編

 覡として舞奏を奉じていた日々から、幾ばくかの月日が過ぎた。あまりにも鮮烈なあの頃の記憶が失われることなど、きっとこの先一生ないだろうという確信はある。けれど、どこにも残らなかったものもある。残したかったのか、と思うとそうでもない気がするけれど、残らなかったことが何故か惜しまれるような。そんなあやふやな感覚に比鷺は時折苛まれる。それは例えばネットという海原で、とある男の名前を目にしたときなんかに。
 実際のところ、あの男――萬燈夜帳の名を見かけるのは日常といっても過言ではないほど、よくあることだった。天才小説家にして天才作曲家。稀代のエンターテイナー。小説やアルバムの新作発表、映画化やドラマ化に受賞の報、それに類するインタビューを始めとした記事の数々。衆は違えど同じ覡という立場であったときも、そうでなくなった現在も、あの男は何ひとつ変わらず萬燈夜帳で在り続けている。
 比鷺と萬燈の生きる時間が交差したのは、ただ一瞬のことで、きっと向こうはもう自分のことなんて覚えていないに違いない。……そう、思っていたのだ。何の疑いもなく。


「おーおー、相変わらずご活躍のよーうで!」
 その日、比鷺が何気なく開いたのは、萬燈が原作の映画「金糸雀」配信開始に際してのインタビュー記事だった。以前、三言と遠流にやけに熱心に誘われため、珍しくも映画館に出向いてまで観た(そしてうっかり感動の涙を流しもした)比鷺にとって少々特別な作品である。つい、気になってしまうのも仕方がないというものだ。
 セルに先駆けての配信にあたり云々と当たり障りのない話題から、監督や俳優へのコメントなど多岐に渡る内容に、こりゃあファンは大喜びだろうな、などと思いながら読み進めていた比鷺の手が止まった。
「〝俺にとっても印象深い〟……〝一番の気に入りと言ってもいい〟………へえ……」
 思わず文面を声に出して読んでしまう。ふうん、そうなんだ。あれが、ねえ。ふうん……。よく知らないけどもっと人気なのとか、有名なのとか、賞とってるのとか、いくらでもあるだろうに。よく知らないけど。よく知らないけど! 
 ところが比鷺は、萬燈自身についてなら知っていることがある。より正確にいうならば忘れようとしたって忘れられる訳がないことばかりがある。掛けられた言葉も、向けられた視線も、気後れするぐらい真っ直ぐで、力強くて、嘘のないものばかりだった。付け足すならば、あんな風に自分に接する大人が存在すること自体も、比鷺には随分な衝撃だった。
 そう、萬燈夜帳は嘘のない男だ。その萬燈が言うのだから、きっとこの発言にも嘘はないに違いない。元より萬燈の著作の一ページすら読んだことがなく、映画だって三人で出掛けたあの一度きり。あれがなければこの記事だって、きっとわざわざ目を通すこともなかっただろう。だって、比鷺と萬燈はもう遠い存在だ。それがどうしてこんなに気にかかるのか。比鷺には分からない。だけど、初めて、読んでみたいと思った。あの、萬燈夜帳が一番気に入っている作品とやらを。『金糸雀』という名の本を。


 ゲームに関する以外で、紙の本を手に取ったのはいつ以来だろう。比鷺は表紙に書かれた『金糸雀』の三文字をそうっと撫でてみる。勢いこんで手に入れたはいいものの、いざ目の前にするとどうにも腰が引けてしまうのも事実だった。とはいえ芽生えてしまった好奇心を殺すことは出来ない。よし、と深呼吸をして本を開く。開いてすぐの灰色は、どこか暖かい印象で、包み込まれような気さえした。疲れたのならここで休めばいい、また立ち上がれるようになるまで、と。寄り添ってくれるような。
「かつての、君に……?」
 献辞、というやつだろうか。比鷺は小首を傾げながら呟いた。なるほど、紙の本らしいエモいギミックだ。そして萬燈夜帳らしい、とも思う。なんせ観囃子たちを己の主人と言って憚らなかった男なのだ、これぐらいのことは平気な顔をして言ってのけるに違いなかった。いや、これは書いてあることなんだけれど。なーんて!


 妙に浮ついた気持ちで読み始めた比鷺の手は、けれど結局、一度も止まることなく最後までページを繰り続けることになった。話の内容を知っているからではなく、ただただ引き込まれていたのだ。映画も良かった。それは本当だ。うっかり泣いてしまったぐらいによかった。
 だけど、萬燈の書いた、萬燈の手による純粋な『金糸雀』は、よりいっそう比鷺の胸に訴えかけるものがあった。なんとなれば泣くことすら出来なかった。そんな場合じゃなかった。目に入るすべての文字から立ち上がる世界に、のめりこむだけで必死だった。
 主人公を取りまく、彼にとってのままならない日常に、比鷺には重なる日々がある。愛されたがりで、臆病で、それでも少しずつ前へと進まんとする主人公に、あの頃の自分が見え隠れする。それらは、気のせいだろうか。思いついた罪深いと言ってさえいい感傷に、比鷺は慌てて首を振る。気のせい、なのだろう。そうに決まっている。
 書き手は、つまり萬燈は、『金糸雀』を清々しく幸せに終わる青春小説として筆を置いている。ひとにとっては些細なことであっても迷い、苦しみがちな主人公に向けられた、慈愛の心さえ感じさせるような筆致は、誰が読んでも文句なしに感動を呼び起こすだろう。だからどこか自分に似通って見えた主人公に感情移入しているだけで、だからきっと、本当はそんなことある訳なくて。比鷺の言い訳がましい脳裏に献辞が思い浮かぶ。
〝――かつての君に。〟
 もしかしたら、もしかして、もしかするんじゃないだろうか。でも、そうじゃないかもしれない。そうじゃない可能性のほうがよほど高い。けれど、叫び出したいぐらいに心に響くものがあった。これまで一度として連絡を取ったことがない萬燈に、読んだと伝えてみようと思ってしまうぐらいには。


「金糸雀、読みました……感動しました……いや、うーん…………」
 ああでもない、こうでもない。やっぱり送るなんて大それたことは止めるべき? でも、こんな機会はそうそう訪れない気もする。悩みに悩んで、悩み抜いて、比鷺からようやく出て来た言葉はあまりにも他愛ないひと言だった。

[金糸雀、すごくよかったです。]

 何の履歴もない萬燈との個人間チャットに、送ったそれが表示されてやっと、比鷺は自分が名乗っていなかったことに気付く。とんだ失敗だ。大をつけてもいい。うわあ俺ってば名乗るの忘れてんじゃん! いや登録されてるなら分かる!? でも消されてるかもじゃん!? だったら俺完全に不審者じゃん! あー! なんで送っちゃったわけ!? 俺のバカ! 今のナシ! やっぱナシ! 頼むから気付かないでー! 混乱する比鷺の願い空しく、数分後に既読のマークがついてしまった。ヒエッと思わず悲鳴を上げて、そのまま画面を凝視していると、なんと萬燈から返信が送られてきた。その内容に比鷺は絶句する。

[久しいな、九条比鷺]
[お前に響いたなら何よりだ]
[ちょうど帰宅したところなんだが]
[お前さえ良ければ少し話したい]

[え]
[はい]

 反射的な承諾の直後、着信音がスマホから流れる。急展開の状況に戦く比鷺の手が、少しもたつきながら、通話の開始をタップして、おそるおそる耳元に当てる。

『いい夜だな、九条比鷺』
「こ、こんばんは。萬燈先生」
『こうして話すのは何年振りになる?』
「え、どうだろ。いや、ていうか通話が初めてじゃない?」
『それもそうか』
「……あのさ、」

 ――あれって、俺なの? 
 唐突に脳裏に浮かんだ問いを、比鷺は聞いてみたくて堪らなくなった。ここ数年、時折比鷺を苛んでいたあやふやな感覚が、『金糸雀』を巡るこの数日で、感情ごと閾値を越えてしまったのかもしれなかった。『金糸雀』の主人公も、彼に贈られた世界からの祝福も、あの献辞も、一番気に入りだというコメントも、すべては萬燈夜帳から九条比鷺へと向けた、いつ届くともしれないメッセージだったのではないか。それを確かめたいと思ってしまったのだ。
 もちろん全部勘違いで、この通話を切る頃には死にたくなるほどの羞恥と共に、ベッドに逃げ帰ることになるかもしれない、けれど。いま、聞かなくてはきっともう二度と。
 比鷺は持てるだけの勇気を振り絞ろうとスマホを強く握った。緊張でひゅうと荒くなる呼吸音が聞こえたのか、萬燈が幾分気遣わしげな声で問いかけてくる。何故だろうか。萬燈は自分の踏み出そうとしている一歩を待っているような気がした。

『どうかしたか?』
「……ひとつだけ、聞いていい?」
『おう』
「……俺、なの?」
『ああ、お前だ』

 要領を得ないはずの問いは、しかし萬燈に一切の他意なく伝わった。

『お前だ。俺の目を惹いた、俺を敗北せしめた、そんなお前をこそ、他ならぬこの俺によって書き上げたいという衝動に駆らせた。九条比鷺。『金糸雀』は俺の読者すべてにむけて開かれた作品だが、いつかお前に届けばいいと祈りを込めた作品でもある』

 耳元で囁かれる言葉は、電子信号で再構築された紛いものなのに、どうしたって萬燈の声にしか聞こえない。頬にあてられたスマートフォンすら、萬燈の手だと錯覚してしまいそうになる。実際にはそんなこと、過去にだって一度も、起こったことなんてないくせに。
 どうか、そうでありますように。どうか、そうじゃありませんように。心の中の二人の比鷺の、知らぬ間に同時に願っていた相反する想いが、もろともに砕け散った音がした。そう、だった。本当に俺だった。でも、どうして。

「ど、して」
『理由はもう言った』
「でも」
『でも、と言われてもな』
 萬燈が少し笑った気配がする。
『俺は書いた。お前は読んだ。伝わったものがすべてだ』
「だって、でも、じゃあ、」
 だって『金糸雀』から伝わってきたのは、伝わってきたのは……。
『言っただろう。伝わったものがすべて、だと』






























 数年後、比鷺が萬燈の書斎に初めて入った日のことだ。整然と並ぶ本棚に差してある『金糸雀』に吸い寄せられるように、比鷺は手を伸ばした。見慣れた表紙を開き、しかし違和感を覚えることになる。
「これ、黄色……カナリアの色?」
 遊び紙が、自分の持っているものとは違う。裏表紙から遡り奥付を確認すると初版一刷。自分の手元にある版や刷を細かく覚えているわけではないけれど、遊び紙が灰色だったことは明確に覚えている。何故なら、包まれるようなその色に安堵したことも、大事な思い出だからだ。
「ああ、気付いたか。この色で〝お前に〟ってんじゃ限定が過ぎるだろう?」
 冗談めかした声で、本気を隠さない顔で、萬燈が言う。だから気付いてしまった。忘れたわけではなかったけれど、接続されていなかった二つが結びついてしまった。覡として在ったあの頃の自分を象徴していた色は、というと。
 一体いつから、何をどこまで仕込んでいたのだ、この男は!
「う、うそでしょ……」
「生憎と本当だ。お前が知ることすべてがな」
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