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中編

「ねえ、萬燈先生」
「なんだ?」
「そっち行ってもいい?」
「そりゃ構わねえが。わざわざ聞くとは珍し……おい、なんのつもりだお前」
「んー? べっつにー?」
 萬燈の太ももに乗り上げた比鷺が、形のいい両耳にそっと手を伸ばし、大ぶりな眼鏡を引き抜いた。適当な返事をしながら、見事手に入れた戦利品をいそいそと腹部にあるポケットに仕舞いこむ。
「……割るなよ」
 言葉は咎めるように、されど緩く腰を抱かれた。甘やかされるのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。だけど、今日はそれが欲しいんじゃない。
「そっち次第だったりして」
 うそぶいてみれば、萬燈の眉が片方だけ上がった。同じ背丈の萬燈に見上げられることなど滅多になくて新鮮ではあるが、なにぶん相手は萬燈夜帳である。眼力のみならず圧がすごい。
「う、そんな目で見たって怖くないんだかんね。だって、いつもそっちがしたいようにばっかしてるじゃん。今日は俺のしたいよーにすんの! だから眼鏡は没収なんですー!」
「ほう? おかしなことを言う。俺はちゃんとお前の要望も聞いているし、反映もしていたつもりだったんだがな」
「や、それはまあそうなんだけど……リードされてばっかりってのもなんかやだってゆーか……ああもういいでしょ! ほら、目! つむって!」
 ぎゃんぎゃんと喚きながらも、自分の顔が熱くなるのが分かる。確かに萬燈はいつだって比鷺が本気で嫌がることをしない。「やだ」を言えば即座に止められるので拍子抜けしたこともあるぐらいだし、「待って」と頼めば、「いつまでだ?」と問いかけられることはあっても、先を無理強いすることもない。その甲斐あってか、本当に思っていることばかり素直に言うことになってしまっていて、それって逆になんか恥ずかしいのでは!? などと最近になって気付いた比鷺である。……駄目だ。あまり考えたり思い出していると、恥ずかしさで叫び出したくなってしまう。
「これでいいか?」
 掛けられた声に視線を落とすと、萬燈は比鷺の指示通り両眼を閉じていた。その完璧に閉じられた両の目蓋を見下ろし、比鷺は奇妙な充足感を覚える。あの萬燈夜帳が! こんなにも無防備に! 
「え、えっと、じゃあ、いきます……」
 締まらない宣言の後、比鷺は気になるパーツを順々に触っていく。分かっていたことだが、どこもかしこも整っている。誰にも手の届かない深淵を秘めた額は広く美しい。意志の強さを表す眉に、すっと通った鼻梁。頬の肉付きは薄いが、顎はしっかりとしていて力強さを感じさせる。そして唇は――人差し指を当てて考える。少し刺激が強いかもしれない。今さらかもしれないけれど。
「もう終いか?」
 くつくつと笑う声と共に、かすかな振動が指を揺らす。律儀に両眼をつむってはいるが、顔をぺたぺたと触るだけの比鷺に萬燈からの催促がきた。
「そ、そんな訳ないだろ! 俺ってばやれば出来るタイプなんですけど!」
「ああ、それはそうだな。お前はやれば出来る。おそらく自分で思う以上のことすらもやってのけるだろうな」
「う、ぐぐ……」
 至極当然とばかりに頷かれてしまっては、大見得をきった手前引くに引けない。なにか、どこか、萬燈が驚いて声も上げられないようなことを、してみせなければ! 焦る比鷺の視界に、閉じられたままの目蓋が入る。ここなら一泡吹かせることが出来るかもしれない。逸る気持ちをおさえて、頬に当てた手に力を込めて萬燈の顔を上向かせる。比鷺の様子が変わったことに気付いたのか、萬燈も黙って応じる。どくどくと心臓の鼓動が痛いぐらいだった。
 比鷺は、ちゅ、と控えめに過ぎる、それでも確かに濡れた音を立てて、左の目蓋にキスをする。薄い幕の下に眼球の存在を感じながら、出来るだけやさしく繰り返していると、睫毛の震えが伝わってきた。それに気を良くして、右の目蓋にも同じく数度のキスを落とす。比鷺は気付く由もなかったが、それらは萬燈から与えられてきたものと同じぐらい、相手への情愛に溢れた仕草だった。
「く、」
 比鷺の名を呼ぼうとしてか、口を開いた萬燈をさっきのように人差し指で封じる。
「駄目だってば、今日は俺の番」
 キスを止めて耳元で囁いてみれば、萬燈は深く長い溜息を吐いた。それが思ったよりも熱をはらんでいたことに、比鷺の息もまた熱くなっていくのがわかった。
 
 
 * * *


「ん、おしまい。もう開けていいよ」
 萬燈の両の目蓋に好きなだけキスの雨を降らせて、比鷺は大満足だった。駄目だと制したあとは、身じろぎもせずされるがままに身を任せていた萬燈は、いったいどんな状態になっているだろう。
 ヤッバイ声で呼ばれちゃったりして! そのままがばーっ! とひっくり返されちゃったりして! でも今日は俺の番だから、「だめ、ここまでだよ」つっておしまいにしちゃうんだけど! わー! 俺ってば小悪魔の才能もあったりして~!? 
 やかましく騒ぐ脳内をそのままに、いつの間にか自分も閉じていた両眼を、ゆっくり開く。
「な、え、」
 瞬間、伸びてきた大きな手に引き寄せられて、抵抗する隙などまったくなかった。まずは囚われた手にひとつ。続いて額に。頬に。唇には、少し長く。萬燈が何事かを囁きながら口吻を落としていく。微妙に聞き慣れないその響きは、けれど萬燈の喉から発せられるだけで至上の旋律のごとく比鷺の身体に染みわたっていく。
 目を覆う片手に誘われるように目蓋を閉じると、比鷺自身が施したのと同じぐらいやさしくキスを送られた。何度目かで離れていく体温が恋しくて、思わず目を開ける。そんな比鷺を予期していたのだろう萬燈は、ふ、と微笑むと囚われたままの手の、今度は掌にキスを落とした。そして、濡れた感触にひくりと竦む比鷺を抱きしめて、袖をまくり腕にひとつ。次いで髪の毛ごとうなじを押さえて、首にもひとつキスをする。どれもただ触れるだけのキスなのに、比鷺の全身は快楽で震えだしそうなほどだった。
 気が付けば萬燈の膝の上にくたりと座り込んでいた比鷺は抱えなおされた上、しっかりと抱きしめられていた。はあ、と二人揃って深く息を吐くタイミングが揃ってしまい、比鷺は顔を赤らめる。
 ……もしかして、もしかしなくても、こ、このまま!? えっでもここ、ソファだし、いや待てベッドに運ばれる!? お姫さま抱っこかも!? うわ、しそうー! うわうわうわうわ、どうしよう!?
 ぎゅうと萬燈にしがみつきながら、比鷺の内心はパニックそのものだった。
 どうしよう、こんなはずじゃ、ていうかそもそも今日は俺の番だって言ったのに!
 断固抗議しなくてはならぬ、となけなしの勇気を奮い立たせようとしたちょうどそのとき、左耳の後ろ、ちょうど髪で隠れるあたりに、ちりっとした痛みが走った。
「いひゃ!」
 反射的に悲鳴を上げた比鷺の耳朶に、萬燈が直接吹きこむようにして囁きかける。前半は相変わらず聞き取れなかったけれど、後半はばっちりだった。内容への納得はともかくとして。
「“Überall sonst die Raserei” ……まあ、ちょっとした意趣返しってやつだ。気にするな」
「えっ気にする! なに!? なにしたの!? 痛かったんですけどー!」
 びゃあびゃあと喚く比鷺が面白いのか、萬燈はやけに上機嫌だ。
「なに、明日には消える程度だ。場所を考えても誰も気付きゃしねえ」
「ぎゃー! 嘘でしょー!」
「本当だ。鏡が二枚あれば自分でも確認出来るだろうな」
「そこマジレスいらないって! ていうか今日は俺の番だって言ったのにー!」
「だから攻守の順番は守ったろうが」
「野球じゃないんですけど!?」
「なんだ? 乱戦がお望みだったか?」
「そーいうことじゃないってば! あー、もうー……」
 今度はぐったりと萬燈に身を預け、比鷺がうなだれる。もう本当にこの男ときたら!
「ところであれは」
「え?」
「お前から、というのは新鮮でよかった。場所も含めてな」
「……場所? ソファ?」
「そっちの場所も悪かねえが……そうか、天然か」
 それはそれで今後が楽しみだ、と一人頷く萬燈の真意(意趣返しの内容含め)を比鷺が知るのは、しばらく経ってのことになる。
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