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短編

 萬燈は隣に座る比鷺の髪を、撫でてみたくなった。それはもう、ものすごく。少し長めで、少しぼさついている比鷺の髪は、それでいて撫で心地がいい。その感触を思い出し、途端に恋しくなってしまったのだ。
 初稿から念校までの手直しが、同業者に比べかなり少ない自負のある萬燈であっても、数年に一度は集中力を全投入せねばならないときがある。各種様々の締切に次ぐ締切が押し寄せていた、このひと月近くのように。
 そんな修羅場を乗り越え、何の予定もないある冬の初めの日のことだった。世間一般での認識のされかたはともかく、萬燈夜帳も人間である。ひと月近くも接触がなければ、思いの限り恋人に触れたくなるときだってある。
 萬燈はマグカップを置いて比鷺の肩に手を回し、まずは軽く抱きしめることにした。相手は幾分歳下ではあるけれど自分の恋人であるからして、これぐらいのことは無言で行っても構わないだろう。「お前の髪を撫でてもいいか?」などと改まって聞かれて、あたふたと目を泳がせるかもしれない比鷺を見たいときはそうするのだし。
 さあ、では存分に撫でさせてもらおうか。と、思ったところで、腕の中にいる比鷺の身体が妙に強ばっていることに気付いた。目を閉じ、かすかに染めた頬を上向きにして、何かを待っているような――
 なるほど、愛らしい。胸中で頷きながらも、とにかく当初の目的を果たすべく、萬燈は比鷺の髪に手を伸ばす。上から下へ、整えるようにして幾度か撫でる。途中ひょこんと跳ねる手応えも楽しみながら、無心で撫で続けていると比鷺の表情が若干むくれてきた。どうやらそろそろ頃合いのようだ。
「どうかしたか?」
「ねえ、まだ?」
 手を止めた萬燈が素知らぬ素振りで問いかけるのと同じタイミングで、比鷺が声を上げる。
「まだって何がだ?」
「何って、……え、あれ」
 萬燈の問い返しに、比鷺が慌てた様子で目を開ける。
「目ぇ、つぶっちゃったじゃん!?」
 悲痛といってもいい叫び声と共に、比鷺が跳ね退こうとする。萬燈は逃がさず確保したまま、小首を傾げてみせた。
「期待させたか?」
「してない!」
「本当か?」
 反射的な噛みつきを軽くいなし、すっと距離を詰めてやると比鷺が顔を逸らす。相変わらず日に当たることが少ない白い肌の中でも、とりわけ色の出やすい眦が朱に染まり、比鷺の羞恥が見てとれた。
「……ちょ、っとだけ」
「ふむ。今日はやけに素直だな」
「だって、ゆっくり会えるの、久しぶり、だったし……」
「そうだったな」
「って、なんでこの流れで立ち上がっちゃう訳!? 俺置いてドコ行く気だよ!」
 ぎゃんぎゃんと喚く比鷺の髪をゆるく梳いて、萬燈が事もなげに言い放つ。
「食料の買い出しに行ってくる」
「な、なんで今……?」
「明日からしばらく外に出ねえからだな」
「ど、どして……?」
「お前はどうしてだと思う?」
「えっと、わ、わかんな……」
「まあいい。今度は勘違いじゃねえから、大人しく待ってろ。……逃げるなよ?」
「ひゃ、ひゃい……」
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